
主に、明治維新以降の日本資本主義の発展過程とその構造的矛盾の分析に重点が置かれていて、明治維新期のブルジョア革命としての不徹底により、日本帝国主義によって、国内抑圧と中国侵略とを必然化させたのだとしました。これにより、専制的天皇制と地主的土地所有の廃止などを要求するブルジョア民主主義革命の遂行を日本革命の第一義の課題だとしています。
この考え方は、1932年(昭和7)5月から翌年8月にかけて、野呂が編集人として、岩波書店から刊行され、マルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)に受け継がれました。
以下に、『日本資本主義発達史』緒言の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
1907年(明治40)に小学校へ入学しましたが、運動会でのけががもとで破傷風に罹り、2年生の時に右足を膝下から切断しています。1920年(大正9)に私立北海中学校を優秀な成績で卒業、上京して慶応義塾大学経済学部予科へ入学しましたが、肺結核にかかり、一時療養を余儀なくされました。
その後、野坂参三の指導のもとにマルクス主義を研究、1922年(大正11)に慶応の学生による三田社会問題研究会の結成に参加し、翌年には日本学生連合会の東京連合会委員長となります。1925年(大正14)に小樽軍事教練事件に関わって検挙され、翌年にも学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して、10ヶ月の禁固刑を受けましたが、病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務しました。
日本と世界の政治・経済の現状分析および日本資本主義発達史研究に従事し、猪俣津南雄などの日本資本主義論に厳しい批判を行いますが、1929年(昭和4)の四・一六事件で1ヶ月ほど拘束されます。同年にプロレタリア科学研究所創立にも参加、翌年には日本共産党に入党し、『日本資本主義発達史』を刊行しました。
1932年(昭和7)にマルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり、「講座派」を指導したものの、産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれています。地下活動に入り、1933年(昭和8)以後、共産党中央委員会責任者として活動していましたが、スパイの手引きで検挙され、1934年(昭和9年)2月19日に品川警察署での拷問により病状が悪化して、数え年33歳の若さで亡くなりました。
政府当局による検閲・発行禁止がしばしば行なわれ、第4回配本は発禁処分を受け、第5回配本以降も検閲当局による削除・改訂を余儀なくされましたが、一応完結しています。その内容を巡って、雑誌『労農』による、向坂逸郎、櫛田民蔵、猪俣津南雄ら(労農派)は、当時の国家権力を「帝国主義的ブルジョアの政治権力」と規定して論陣を張り、それに対し、『日本資本主義発達史講座』に依るメンバーは“講座派”と呼ばれ、資本家地主のブロック権力論に立ち、両者は、戦前の日本資本主義の現状認識をめぐって激しい論争(日本資本主義論争)を繰り広げました。
これは、当時の社会科学研究者に大きな影響を与え、日本資本主義の現状分析が深化したとされ、太平洋戦争後の学術研究にも影響を与えています。