
1929年(昭和4)に早稲田大学文学部国文科を卒業、帰郷して僧侶となったものの、文学への志を断ちがたく作品を書き続け、1932年(昭和7)に『鮎』 が永井龍男に認められて上京し、作家生活に入りました。1933年(昭和8)に『鶴』を「三田文学」に発表、1935年(昭10)には、第一創作集『鮎』を刊行、太田綾子と結婚して東京市中野区文園町に住むようになります。
1934年(昭和9)に、『海面』、『甲羅類』、『象形文字』、『贅肉』などを発表して人気作家となりました。1938年(昭和13)に漢口攻略戦の「ペン部隊」役員に選ばれ、中国へ赴き、1942年(昭和17)には、海軍報道班員としてラバウルへ赴きましたが、ソロモン群島で砲火を浴びて負傷、しかし、『海戦』で第2回中央公論賞を受賞しています。
空襲が激しくなると、1944年(昭和19)に栃木県烏山町の妻の実家に疎開しました。太平洋戦争後は、作風の領域や奥行を拡大し、1947年(昭和22)に『厭(いや)がらせの年齢』を発表、1953年(昭和28)には、『蛇と鳩』で野間文芸賞を受賞しています。
また、1950年代には同人誌『文学者』を主宰、瀬戸内寂聴や吉村昭、津村節子、富島健夫、中村八朗たちを育成しました。1956年(昭和31)に日本文芸家協会理事長となり、1959年(昭和34)に『顔』で毎日芸術賞を受賞、『一路』(1962~66年)で読売文学賞を受賞、1965年(昭和40)には日本芸術院会員ともなります。
1966年(昭和41)に日本文芸家協会会長に就任(~1972年)、1977年(昭和52)には、文化勲章を受章しました。文壇の発展のみならず、文学者のための社会保険制度の創設など社会的な面でも尽力したものの、2005年(平成17)4月20日に、東京都武蔵野市の自宅で、肺炎のため100歳で亡くなりました。