ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:読売文学賞

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 今日は、平成時代の2005年(平成17)に、小説家丹羽文雄の亡くなった日です。
 丹羽文雄(にわ ふみお)は、明治時代後期の1904年(明治37)11月22日に、四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺住職だった父・丹羽教開、母・こうの次男として生まれました。三重県立富田中学校を経て、1923年(大正12)に、第一早稲田高等学院に入学、1926年(大正15)に早稲田大学文学部国文科へ進み、尾崎一雄の紹介で火野葦平らが発行していた同人誌「街」に『秋』を発表します。
 1929年(昭和4)に早稲田大学文学部国文科を卒業、帰郷して僧侶となったものの、文学への志を断ちがたく作品を書き続け、1932年(昭和7)に『鮎』 が永井龍男に認められて上京し、作家生活に入りました。1933年(昭和8)に『鶴』を「三田文学」に発表、1935年(昭10)には、第一創作集『鮎』を刊行、太田綾子と結婚して東京市中野区文園町に住むようになります。
 1934年(昭和9)に、『海面』、『甲羅類』、『象形文字』、『贅肉』などを発表して人気作家となりました。1938年(昭和13)に漢口攻略戦の「ペン部隊」役員に選ばれ、中国へ赴き、1942年(昭和17)には、海軍報道班員としてラバウルへ赴きましたが、ソロモン群島で砲火を浴びて負傷、しかし、『海戦』で第2回中央公論賞を受賞しています。
 空襲が激しくなると、1944年(昭和19)に栃木県烏山町の妻の実家に疎開しました。太平洋戦争後は、作風の領域や奥行を拡大し、1947年(昭和22)に『厭(いや)がらせの年齢』を発表、1953年(昭和28)には、『蛇と鳩』で野間文芸賞を受賞しています。
 また、1950年代には同人誌『文学者』を主宰、瀬戸内寂聴や吉村昭、津村節子、富島健夫、中村八朗たちを育成しました。1956年(昭和31)に日本文芸家協会理事長となり、1959年(昭和34)に『顔』で毎日芸術賞を受賞、『一路』(1962~66年)で読売文学賞を受賞、1965年(昭和40)には日本芸術院会員ともなります。
 1966年(昭和41)に日本文芸家協会会長に就任(~1972年)、1977年(昭和52)には、文化勲章を受章しました。文壇の発展のみならず、文学者のための社会保険制度の創設など社会的な面でも尽力したものの、2005年(平成17)4月20日に、東京都武蔵野市の自宅で、肺炎のため100歳で亡くなりました。

〇丹羽文雄の主要な著作

・『鮎(あゆ)』(1932年)
・『海戦』(1942年)第2回中央公論賞受賞
・『青麦』(1953年)
・『蛇と鳩』(1953年)野間文芸賞受賞
・『菩提樹(ぼだいじゅ)』(1955~56年)
・『顔』(1959年)毎日芸術賞受賞
・『有情(うじょう)』(1962年)
・『一路』(1962~66年)読売文学賞受賞
・『親鸞(しんらん)』(1965~69年)
・『無慚無愧(むざんむき)』(1970年)
・『蓮如(れんにょ)』(1971~81年)野間文芸賞受賞

☆丹羽文雄関係略年表

・1904年(明治37)11月22日 四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺住職だった父・丹羽教開、母・こうの次男として生まれる
・1911年(明治44) 四日市第二尋常小学校へ入学する
・1918年(大正7) 三重県立富田中学校へ入学する
・1923年(大正12) 第一早稲田高等学院に入学する
・1926年(大正15) 早稲田大学文学部国文科へ進学、同人誌「街」に『秋』を発表する
・1929年(昭和4) 早稲田大学文学部国文科を卒業、帰郷して僧侶となる
・1932年(昭和7) 『鮎』 が永井龍男に認められて上京し、作家生活に入る
・1933年(昭和8) 『鶴』を「三田文学」に発表する
・1935年(昭10) 第一創作集『鮎』を刊行、太田綾子と結婚して東京市中野区文園町に住む
・1938年(昭和13) 漢口攻略戦の「ペン部隊」役員に選ばれ、中国へ赴く
・1942年(昭和17) 海軍報道班員としてラバウルへ赴く、ソロモン群島で砲火を浴びて負傷、『海戦』で第2回中央公論賞を受賞する
・1944年(昭和19) 栃木県烏山町の妻の実家に疎開する
・1947年(昭和22) 『厭(いや)がらせの年齢』を発表する
・1953年(昭和28) 『蛇と鳩』で野間文芸賞を受賞する
・1956年(昭和31) 日本文芸家協会理事長となる
・1959年(昭和34) 『顔』で毎日芸術賞を受賞する
・1965年(昭和40) 日本芸術院会員となる
・1966年(昭和41) 日本文芸家協会会長に就任する
・1972年(昭和47) 日本文芸家協会会長を辞任する
・1977年(昭和52) 文化勲章を受章する
・2005年(平成17)4月20日 東京都武蔵野市の自宅で、肺炎のため100歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1546年(天文15)河越城の戦いで北条氏康が河越城包囲の上杉方を夜襲し勝利する(新暦5月19日)詳細
1651年(慶安4)江戸幕府三代将軍徳川家光の命日(新暦6月8日)詳細
1947年(昭和22)飯田大火で4,010戸が焼失する詳細
1978年(昭和53)小説家橋本英吉の命日詳細
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、詩人・俳人木下夕爾が生まれた日です。
 木下夕爾(きのした ゆうじ)は、広島県深安郡上岩成村(現在の福山市御幸町)で、小地主で精米所と雑貨店を営む父・木下常一の次男として生まれましたが、本名は優二と書きました。1920年(大正9)の6歳の時、父を亡くし、1927年(昭和2)に広島県立府中中学校へ入学、13歳の時に、堀口大学の詩誌「若草」に投稿して特選を取っています。
 1933年(昭和8)に上京して第一早稲田高等学院文科へ入学、堀口大学に大いなる影響を受けました。しかし、養父の結核発病に伴い家業を継ぐために、2年で中退して、1935年(昭和10)に愛知高等薬学校(現在の名古屋市立大学)に入学しなおします。
 1938年(昭和13)に卒業後、帰郷して薬局を営み、その傍ら詩作に励んで、1939年(昭和14)に処女詩集『田舎の食卓』を刊行、翌年には第6回文芸汎論詩集賞を受賞、続けて、同年に詩集『生れた家』も刊行しました。太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に詩集『昔の歌』を刊行しましたが、一方で俳誌「春燈」の創刊号に句作を発表、主宰者の久保田万太郎の激賞を受け主要同人となります。
 1949年(昭和24)に雑誌「木靴」を創刊、1956年(昭和31)に句集『南風妙』を刊行、1958年(昭和33)には詩集『笛を吹くひと』を刊行するなど創作活動を続けました。1959年(昭和34)に広島県詩人協会会長となり、句集『遠雷』も刊行、1961年(昭和36)には、広島春燈会を結成して句誌「春雷」を主宰すめなど、詩作、句作の両分野で活躍します。
 また、備後地方の各学校、市町村などの校歌や団体歌を数多く作ったものの、1965年(昭和40)8月4日に、福山市御幸町の自宅において、50歳で亡くなりました。尚、没後の1966年(昭和41)に、『定本・木下夕爾詩集』が刊行され、翌年に第18回読売文学賞を受賞しています。

<代表的な句>
・「家々や 菜の花いろの 灯をともし」(遠雷)
・「つくねんと 木馬よ春の 星ともり」(遠雷)
・「遠雷や はづして光る 耳かざり」
・「しその葉に 秋風にほひ そめにけり」
・「にせものと きまりし壺の 夜長かな」
・「入日いま 大きく赤し 山つつじ」

〇木下夕爾の主要な著作

・処女詩集『田舎の食卓』(1939年)第6回文芸汎論詩集賞受賞
・詩集『生れた家』(1940年)
・詩集『昔の歌』(1946年)
・詩集『晩夏』(1949年)
・『児童詩集』(1955年)
・句集『南風妙』(1956年)
・詩集『笛を吹くひと』(1958年)
・句集『遠雷』(1959年)
・『定本・木下夕爾詩集』(1966年)第18回読売文学賞受賞

☆木下夕爾関係略年表

・1914年(大正3)10月27日 広島県福山市御幸町で木下常一の次男として生まれる
・1920年(大正9) 6歳の時に父を亡くす
・1927年(昭和2) 広島県立府中中学校へ入学する
- - 堀口大学の詩誌「若草」に投稿して特選となる
・1932年(昭和7) 広島県立府中中学校を卒業する
・1933年(昭和8) 第一早稲田高等学院文科へ入学する
- - 堀口大学に大いなる影響を受ける
・1935年(昭和10) 第一早稲田高等学院を中退、愛知高等薬学校(現名古屋市立大学)に入学する
・1938年(昭和13) 名古屋薬学専門学校(現名古屋市立大学)を卒業、帰郷して薬局を営む
・1939年(昭和14)10月 処女詩集『田舎の食卓』を刊行する
・1940年(昭和15) 『田舎の食卓』で、第6回文芸汎論詩集賞を受賞する
・1946年(昭和21) 俳誌「春燈」の創刊号に句作を発表、主宰者の久保田万太郎の激賞を受け主要同人となる
・1949年(昭和24)3月 雑誌「木靴」を創刊する
・1956年(昭和31) 句集『南風妙』を刊行する
・1958年(昭和33) 詩集『笛を吹くひと』を刊行する
・1959年(昭和34) 広島県詩人協会会長となり、句集『遠雷』を刊行する
・1961年(昭和36)1月 広島春燈会を結成、句誌「春雷」を主宰する
・1962年(昭和37)6月17日 福山市沼隈町中山南上横倉の福泉坊境内に、自筆の「入日いま 大きく赤し 山つつじ」の句碑が建てられる 
・1965年(昭和40)8月4日 福山市御幸町の自宅において、50歳で亡くなる
・1966年(昭和41)8月7日 福山市御幸町上岩成の生家近くに、桑田三舟揮毫の「家々や 菜の花いろの 灯をともし」の句碑が建てられる
・1966年(昭和41)11月20日 『定本・木下夕爾詩集』が刊行される
・1967年(昭和42)2月 『定本・木下夕爾詩集』が第18回読売文学賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細


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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、大正から昭和時代に活躍した詩人金子光晴の亡くなった日です。
 金子 光晴(かねこ みつはる)は、1895年(明治28)12月25日に、愛知県海東郡越治村(現在の津島市下切町)の酒商だった父・大鹿和吉、母・里やうの三男として生まれましたが、本名は安和(やすかず)と言いました。1897年(明治30)に、父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現在の中区錦三丁目)に転居、土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となります。
 養父の転勤により、京都、東京と移り住み、暁星中学校を経て、1914年(大正3)に早稲田大学高等予科文科に入学しました。しかし、翌年中退し、その後、東京美術学校、慶應義塾と入退学を繰り返します。
 1915年(大正4)に、肺尖カタルを患い、詩作を始め、翌年に石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)、同年養父の荘太郎が死去したため、遺産を手にして放蕩生活を続けました。残った金で、1919年(大正8)から2年間、ヨーロッパへ留学、帰国後の1923年(大正12)に、フランスの象徴派や高踏派の影響を消化した華麗な作風の詩集『こがね虫』を刊行して、詩壇に登場します。
 しかし、同年9月の関東大震災で家を失い、各地を放浪したものの、東京へ戻って、1924年(大正13)に森三千代と室生犀星の仲人により結婚しました。1928年(昭和3)に妻とともに日本を脱出し、5年間の放浪を経て帰国、1937年(昭和12)に日本の現実を風刺し、戦争を痛烈に否定した詩集『鮫』を出して注目されます。
 1940年(昭和15)に、紀行文『マレー蘭印紀行』を刊行、戦時中は、抵抗の詩をひそかに書き続けました。太平洋戦争後、書き溜めたものを詩集『落下傘』、『蛾』(ともに1948年)、『鬼の児の唄』(1949年)として刊行、耳目を集めます。
 1954年(昭和29)に詩集『人間の悲劇』で第5回読売文学賞、1965年(昭和49)に詩集『IL(イル)』で第3回歴程賞、1971年(昭和46)に小説『風流尸解記』で第22回芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞しました。その一方で、ボードレール「悪の華」やランボオ、アラゴンの詩集などを翻訳しましたが、1975年(昭和50)6月30日に、東京都武蔵野市の自宅で、気管支喘息による急性心不全により79歳で亡くなっています。

〇金子光晴の主要な著作

・処女詩集『赤土(あかつち)の家』(1919年)
・詩集『こがね虫』(1923年)
・詩集『水の流浪』(1926年)
・詩集『鮫(さめ)』(1937年)
・紀行文『マレー蘭印紀行』(1940年)
・詩集『落下傘』(1948年)
・詩集『蛾(が)』(1948年)
・詩集『女たちへのエレジー』(1949年)
・詩集『鬼の児の唄(うた)』(1949年)
・翻訳『ランボオ詩集』アルチュール・ランボー作(1951年)
・翻訳『アラゴン詩集』ルイ・アラゴン作(1951年)
・詩集『人間の悲劇』(1953年)読売文学賞受賞
・詩集『水勢』(1956年)
・詩集『IL(イル)』(1965年)第3回歴程賞受賞
・自伝小説『どくろ杯』(1971年)
・小説『風流尸解記』(1971年)第22回芸術選奨文部大臣賞受賞

☆金子光晴関係略年表

・1895年(明治28)12月25日 愛知県海東郡越治村(現:津島市下切町)の酒商だった父・大鹿和吉、母・里やうの三男として生まれる
・1897年(明治30) 父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現:中区錦三丁目)に転居する。土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる
・1900年(明治33) 養父が京都出張所主任となったため、京都市上京区に転居する
・1902年(明治35)4月 銅駝尋常高等小学校尋常科に入学する
・1906年(明治39) 養父の東京本店転任にともない、一家は銀座の祖父宅に転居、泰明尋常高等小学校(現:中央区立泰明小学校)高等科に入学する
・1907年(明治40)6月 牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現・新宿区立津久戸小学校に転校する
・1908年(明治41)4月、暁星中学校に入学する
・1914年(大正3)4月 早稲田大学高等予科文科に入学する
・1915年(大正4)2月 早稲田大学を中退する
・1915年(大正4)4月 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学する
・1915年(大正4)8月 東京美術学校を退学する
・1915年(大正4)9月 慶應義塾大学文学部予科に入学する
・1916年(大正5)6月 慶應義塾大学を中退する
・1916年(大正5)7月 石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)する
・1916年(大正5)10月 養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける
・1917年(大正6)  牛込区赤城元町に転居、中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)する
・1918年(大正7)12月 養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ
・1919年(大正8)1月 金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行する
・1920年(大正9)12月 ロンドンで帰国の船に乗る
・1921年(大正10)1月 ヨーロッパ旅行から帰国、同人誌『人間』等に詩を発表する
・1922年(大正11) 詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる
・1923年(大正12)9月 関東大震災に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる
・1924年(大正13)1月 東京に戻る
・1924年(大正13)7月 森三千代と室生犀星の仲人により結婚する
・1925年(大正14)3月 長男・乾が誕生する
・1926年(大正15)3月 夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす
・1927年(昭和2) 国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヶ月ほど滞在、横光利一とも合流して交流を深める
・1928年(昭和3) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる
・1928年(昭和3)9月 アジア・ヨーロッパの旅に出発する
・1929年(昭和4) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る
・1930年(昭和5)1月 パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ
・1931年(昭和6) パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる
・1932年(昭和7) 4ヶ月ほどマレー半島を旅行する
・1935年(昭和10)9月 『文藝』に「鮫」を発表する
・1937年(昭和12)12月 三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出に対する認識を深くする
・1938年(昭和13)11月中旬 中国より帰国する
・1940年(昭和15)10月 『マレー蘭印紀行』(山雅房)を刊行する
・1943年(昭和18)12月 『マライの健ちゃん』(中村書店)を刊行する
・1946年(昭和21)3月、疎開先より吉祥寺に戻る、『コスモス』の同人となる
・1948年(昭和23) 詩集『落下傘』(日本未来派発行所)、詩集『蛾』(北斗書院)を刊行する
・1949年(昭和24) 三千代が関節リウマチに罹り、闘病生活を送る
・1950年(昭和25)6月 『かえれ湖』(文林社)を刊行する
・1951年(昭和26)6月 詩集『アラゴン詩集』訳(創元社)を刊行する
・1952年(昭和27)12月 詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行する
・1954年(昭和29)1月 『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する
・1956年(昭和31)5月 詩集『水勢』(東京創元社)を刊行する
・1957年(昭和32)8月、自伝『詩人』(平凡社)を刊行する
・1959年(昭和34) 『日本人について』(春秋社)、『日本の芸術について』(春秋社)を刊行する
・1960年(昭和35)7月 書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』の刊行が始まる
・1962年(昭和37)7月 『屁のような歌』(思潮社)を刊行する
・1964年(昭和39) 同人雑誌『あいなめ』に参加し、中心的存在となる 
・1965年(昭和49) 詩集『IL』(勁草書房)、『絶望の精神史』(光文社)を刊行する
・1967年(昭和42)  『日本人の悲劇』(富士書院)、詩集『若葉のうた』(勁草書房)、『定本金子光晴詩集』(筑摩書房)、『ランボオ詩集』(角川書店)を刊行する
・1968年(昭和43) 評論・随筆集『残酷と非情』(川島書店)、詩集『愛情69』(筑摩書房)、『作詩法入門』(久保書店)を刊行する
・1969年(昭和44)5月 軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヶ月ほど河北病院に入院する
・1971年(昭和46) 詩集『桜桃梅李』(虎見書房)、『どくろ杯』(中央公論社)、『新雑事秘辛』(濤書房)、『人非人伝』(大光社)、『風流尸解記』(青娥書房)を刊行する
・1972年(昭和47) 3月 『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1975年(昭和50) 6月30日 武蔵野市吉祥寺本町の自宅で、気管支喘息による急性心不全により79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事夏越祓(なごしのはらえ)」の日です詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定する(集団疎開の日)詳細
1978年(昭和53)小説家・中国文学者柴田錬三郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、俳人石田波郷の亡くなった日です。
 石田波郷(いしだ はきょう)は、大正時代の1913年(大正2)3月18日に、愛媛県温泉郡垣生村(現在の松山市)で、自作兼小作農だった父・石田惣五郎、母・ユウの次男として生まれましたが、本名は哲大(てつお)と言いました。垣生尋常高等小学校を経て、1925年(大正14)に県立松山中学校(現在の松山東高校)に入学し、俳句を始めます。
 1930年(昭和5)に卒業後、自宅で農業を手伝いながら、五十崎古郷に師事、「波郷」の号を与えられました。水原秋桜子を知り、1932年(昭和7)に上京して、翌年には『馬酔木』の最年少の同人となります。
 1934年(昭和9)に明治大学に入学、翌年には第1句集『石田波郷句集』を刊行、清新な青春俳句として注目されました。1936年(昭和11)に大学を中退し、久保田万太郎を慕って句作に専念、翌年には、句誌「鶴」を創刊して主宰します。
 1939年(昭和14)に句集『鶴の眼』を刊行し、中村草田男、加藤楸邨と共に「人間探求派」と呼ばれました。1943年(昭和18)に句集『風切』を刊行しましたが、同年に召集を受け千葉佐倉連隊に入隊、華北に渡ったものの胸膜炎を病み、1945年(昭和20)に内地送還となります。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に「鶴」を復刊、また「現代俳句」を創刊したものの、1948年(昭和23)に病気再発し、以後病と闘って句作しました。1950年(昭和25)に闘病の記録ともいうべき句集『惜命』を刊行、1954年(昭和29)に『石田波郷全句集』で第6回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞、1959年(昭和34)から朝日新聞俳句欄の選者、1961年(昭和36)には俳人協会を設立と活躍します。
 1968年(昭和43)に句集『酒中花』で第19回芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞したものの、1969年(昭和44)11月21日に、東京の病院において、56歳で亡くなりました。尚、没後に妻あき子によって遺句集『酒中花以後』が編まれています。

<代表的な句>

・「秋の暮業火となりて秬は燃ゆ」
・「バスを待ち大路の春をうたがはず」(鶴の眼)
・「吹きおこる秋風鶴をあゆましむ」(鶴の眼)
・「初蝶や吾が三十の袖袂」(風切)
・「霜柱俳句は切字響きけり」(風切)
・「雁やのこるものみな美しき」(病鴈)
・「霜の墓抱起されしとき見たり」(惜命)
・「雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)」(惜命)
・「泉への道遅れゆく安けさよ」(春嵐)
・「今生は病む生なりき烏頭(とりかぶと)」(酒中花以後)

〇石田波郷の主要な著作

・句集『石田波郷句集』(1935年)
・句集『鶴の眼(め)』(1939年)
・句集『風切(かざきり)』(1943年)
・句集『病雁(びょうがん)』(1946年)
・句集『雨覆』(1948年)
・句集『惜命(しゃくみょう)』(1950年)
・随筆集『清瀬村』(1952年)
・句集『石田波郷全句集』(1954年)第6回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞
・句集『春嵐(はるあらし)』(1957年)
・句集『酒中花』(1968年)第19回芸術選奨文部大臣賞受賞
・句集『酒中花以後』(1970年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事

1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細


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