ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代中期の1964年(昭和39)に、詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の亡くなった日です。
 三木露風(みき ろふう)は、明治時代前期の1889年(明治22)6月23日に、兵庫県揖西郡龍野町(現在のたつの市上霞城)に、父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれましたが、本名は 操(みさお)と言いました。1895年(明治28)の5歳の時、父母が離婚し、祖父の家に引き取られ、小学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿、1905年(明治38年)に17歳で処女詩集『夏姫』を刊行します。
 同年に上京し、「車前草社」(尾上柴舟主宰)に参加、「新声」誌上に短歌を掲載、北原白秋・若山牧水・前田夕暮らと交わりました。1907年(明治40)に相馬御風らと早稲田詩社を結成、同年に早稲田大学高等予科文科に入学、諸誌に詩を発表、1909年(明治42)には、詩集『廃園』を刊行します。
 1910年(明治43)に慶應義塾大学文学部に転入学したものの、翌年退学、1912年(明治45)に「朱欒」特別号『勿忘草』を刊行し、詩壇の地位を確立しました。1918年(大正7)頃から、鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し、童謡の作詞を手掛け、翌年創刊した「こども雑誌」の選者となり、1921年(大正10)には、童謡集『真珠島』(童謡「赤とんぼ」等収載)を出版します。
 一方で、1920年(大正9)に函館トラピスト修道院に講師として赴任、1922年(大正11)には、受洗して霊名パウロ、妻はモニカとなりました。1924年(大正13)に修道院を辞して上京、池袋近郊の戸塚に住み、1926年(大正15)に随筆『修道院生活』、『トラピスト歌集』を刊行しています。
 1928年(昭和3)に北多摩郡三鷹村(現三鷹市)に定住、自伝『我が歩める道』を刊行しました。1958年(昭和33)に龍野市名誉市民に推され、1963年(昭和38)には、紫綬褒章を受章しましたが、1964年(昭和39)12月21日に交通事故に遭い重体となり、同月29日に脳内出血により、75歳で亡くなっています。

〇三木露風の主要な著作

・詩歌集『夏姫』(1905年)
・詩集『廃園』(1909年)
・詩集『寂しき曙(あけぼの)』(1910年)
・詩集『独歩詩集』(1912年)
・詩集『白き手の猟人(かりゅうど)』(1913年)
・『露風話』(1915年)
・詩集『幻の田園』(1915年)
・詩集『良心』(1915年)
・詩集『信仰の曙(あけぼの)』(1922年)
・詩集『神と人間』(1926年)
・童謡集『真珠島』(1921年)
・詩集『象徴詩集』(1922年)
・随筆『修道院生活』(1926年)
・歌集『トラピスト歌集』(1926年)
・宗教書『日本カトリック教史』(1929年)

☆三木露風関係略年表

・1889年(明治22)6月23日 兵庫県揖西郡龍野町8番屋敷(現在のたつの市上霞城)に、父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれる
・1893年(明治26)4月 町立龍野幼稚園に入園する
・1895年(明治28)2月 父母が離婚し、祖父の家に引き取られる
・1895年(明治28)6月 龍野尋常小学校入学、母が東京帝国大学(現在の東京大学)病院付属看護婦養成所に入所する
・1899年(明治32)4月 伊水高等小学校へ入学する
・1902年(明治35) 『少国民』4月1日号に「朝めし前」(散文)が掲載され、以後常連になる
・1903年(明治36)4月 県立龍野中学校首席で合格する
・1903年(明治36)11月 『文庫』にはじめて短歌2首が採られる
・1904年(明治37)11月 私立閑谷黌へ転校、寄宿舎に入舎、『文庫』掲載の詩「書写山」が河井酔茗の目にとまる
・1905年(明治38) 岡山の文芸誌『白虹』の同人となる
・1905年(明治38)7月 私立閑谷黌を退学、『夏姫』を刊行する
・1905年(明治38)8月 上京し、『車前草社』(尾上柴舟主宰)に参加、『新声』誌上に短歌を掲載。北原白秋・若山牧水・前田夕暮らと交わる
・1907年(明治40)2月 『芸苑』に「高麗琴」5編を発表する
・1907年(明治40)4月 相馬御風らと早稲田詩社を結成する
・1907年(明治40)9月 早稲田大学高等予科文科に入学、諸誌に詩を発表する
・1909年(明治42)9月 『廃園』刊行、祖父に献じる
・1910年(明治43)9月 慶應義塾大学文学部に転入学(翌年退学)、『寂しき曙』を刊行する
・1911年(明治44)1月 祖父・制が亡くなる
・1912年(明治45)1月 『朱欒』特別号『勿忘草』を刊行、詩壇の地位を確立する
・1913年(大正2)9月 『白き手の猟人』を刊行する
・1914年(大正3)1月 栗山なかと結婚。東京池袋に寓居する
・1914年(大正3)2月 季刊『未来』を発行する
・1915年(大正4)7月 『幻の田園』を刊行する
・1915年(大正4)9月 『露風詩話』を刊行する
・1915年(大正4)11月 『良心』を刊行する
・1918年(大正7)11月 雑司ヶ谷亀原に転居する
・1919年(大正8)7月 創刊した『こども雑誌』の選者となる
・1920年(大正9)5月 函館トラピスト修道院に講師として赴任する
・1921年(大正10)12月 童謡集『真珠島』を刊行する
・1922年(大正11) 受洗し、霊名パウロ、妻はモニカとなる
・1924年(大正13)6月 修道院を辞して上京、池袋近郊の戸塚に住む
・1926年(大正15)1月 『修道院生活』を刊行する
・1926年(大正15)6月 『トラピスト歌集』を刊行する
・1928年(昭和3)7月 北多摩郡三鷹村(現三鷹市)に定住する
・1928年(昭和3)8月 自伝『我が歩める道』を刊行する
・1940年(昭和15) 郷里池畔に「ふるさと」の詩碑が建立される
・1958年(昭和33)12月 龍野市名誉市民に推される
・1962年(昭和37)1月 母かたが亡くなる
・1963年(昭和38)11月 紫綬褒章を受章する
・1964年(昭和39)11月 「小説新潮」に詩「紅葉」を発表する
・1964年(昭和39)12月21日 交通事故に遭う
・1964年(昭和39)12月29日 交通事故による脳内出血のため亡くなる
・1965年(昭和40)1月 勲四等瑞宝章が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、小説家・文芸評論家・詩人中村真一郎の亡くなった日です。
 中村真一郎(なかむら しんいちろう)は、1918年(大正7)3月5日に、東京市日本橋区箱崎町(現在の東京都中央区)で生まれましたが、幼くして母を失い、幼少期は静岡県周智郡森町の母方の祖父母の家で育ちました。開成中学校時代に、終生の友となる福永武彦と知り合い、卒業後第一高等学校を経て、1938年(昭和13)に東京帝国大学仏文科へ入学します。
 在学中に同人誌「山の樹」に加わり、1941年(昭和16)に卒業後、卒業論文に選んだネルヴァルの翻訳『火の娘』を刊行しました。1942年(昭和17)に加藤周一、福永武彦らと文学グループ「マチネ・ポエティク」を組織、1947年(昭和22)加藤周一、福永武彦との共著で、『1946-文学的考察』を刊行します。
 同年にプルースト流の手法を駆使した長編小説『死の影の下(した)に』も刊行して注目され、戦後派作家としての位置を確立、「近代文学」の同人ともなりました。以下、『シオンの娘等』(1948年)、『愛神と死神と』(1950年)、『魂の夜の中を』(1951年)、『長い旅の終り』(1952年)と刊行し、長編5部作となります。
 その後は本格ロマンの創造に向い、『回転木馬』(1957年)、『空中庭園』(1963年)、『雲のゆき来』(1965年)などの小説を書きました。一方で、『王朝物語』(1957年)、『芥川龍之介の世界』(1968年)などの評論を著し、1971年(昭和46)には、評伝『頼山陽とその時代』で第22回芸術選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞します。
 その後も、1974年(昭和49)の評論『この百年の小説』で毎日出版文化賞、1978年(昭和53)の小説『夏』で第14回谷崎潤一郎賞、1985年(昭和60)の小説『冬』で第17回日本文学大賞、1989年(平成元)の評伝『蠣崎波響の生涯』で第27回藤村記念歴程賞・第41回読売文学賞(評論・伝記部門賞)を受賞するなどしました。1991年(平成3)に日本芸術院会員となり、1993年(平成5)には、日本近代文学館理事長にも就任します。
 1994年(平成6)に勲三等瑞宝章を受章、全国文学館協議会の初代会長となったものの、1997年(平成9)12月25日に、静岡県熱海市において、79歳で亡くなりました。

〇中村真一郎の主要な著作

・『1946-文学的考察』加藤周一、福永武彦との共著(1946年)
・小説『死の影の下に』(1946~47年)
・小説『シオンの娘等』(1948年)
・小説『愛神と死神と』(1950年)
・小説『魂の夜の中を』(1951年)
・小説『長い旅の終り』(1952年)
・小説『回転木馬』(1957年)
・評論『王朝物語』(1957年)
・小説『空中庭園』(1963年)
・小説『雲のゆき来』(1965年)
・評論『芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の世界』(1968年)
・小説『火の祭り』(1969年)
・評論『近代文学への疑問』(1970年)
・評伝『頼山陽とその時代』(1971年)第22回芸術選奨文部大臣賞(文学・評論部門)受賞
・評論『この百年の小説』(1974年)毎日出版文化賞受賞
・小説『四季』(1975年)
・小説『夏』(1978年)第14回谷崎潤一郎賞受賞
・小説『秋』(1981年)
・小説『冬』(1984年)第17回日本文学大賞受賞
・評論『蠣崎波響の生涯』(1989年)第41回読売文学賞(評論・伝記部門賞)・第27回藤村記念歴程賞受賞
・評論『眼の快楽』(1996年)

☆中村真一郎関係略年表

・1918年(大正7)3月5日 東京市日本橋区箱崎町(現在の東京都中央区)で生まれる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学仏文科へ入学する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学仏文科卒業、ネルヴァルの『火の娘』を翻訳して刊行する
・1942年(昭和17) 加藤周一、福永武彦らと文学グループ「マチネ・ポエティク」を組織する
・1946年(昭和21) 加藤周一、福永武彦との共著『1946-文学的考察』を書く
・1947年(昭和22) 長編小説『死の影の下(した)に』を刊行して注目され、戦後派作家としての位置を確立、「近代文学」の同人となる
・1957年(昭和32) 小説『回転木馬』、評論『王朝物語』を刊行する
・1963年(昭和38) 小説『空中庭園』を刊行する
・1965年(昭和40) 小説『雲のゆき来』を刊行する
・1968年(昭和43) 評論『芥川龍之介の世界』を刊行する
・1971年(昭和46) 評伝『頼山陽とその時代』で第22回芸術選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞する
・1974年(昭和49) 評論『この百年の小説』で毎日出版文化賞を受賞する
・1978年(昭和53) 『四季』四部作の『夏』で第14回谷崎潤一郎賞受賞する
・1985年(昭和60) 『四季』四部作の『冬』で第17回日本文学大賞を受賞する
・1989年(平成元) 評伝『蠣崎波響の生涯』で第27回藤村記念歴程賞を受賞する
・1990年(平成2) 評伝『蠣崎波響の生涯』で第41回読売文学賞(評論・伝記部門賞)を受賞する
・1991年(平成3) 日本芸術院会員となる
・1993年(平成5) 日本近代文学館理事長に就任する
・1994年(平成6) 勲三等瑞宝章を受章、全国文学館協議会の初代会長となる
・1997年(平成9)12月25日 静岡県熱海市において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1783年(天明3)俳人・画家与謝蕪村の命日(新暦1784年1月17日)詳細
1899年(明治32)小説家尾崎一雄の誕生日詳細
1988年(昭和63)小説家・評論家大岡昇平の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、小説家・詩人・評論家山田美妙の亡くなった日です。
 山田美妙(やまだ びみょう)は、1868年(慶応4年7月8日)に、江戸の神田柳町(現在の東京都千代田区)で、旧南部藩士山田吉雄の長男として生まれましたが、本名は武太郎と言いました。3歳の時、父が地方に赴任し、母よし、その養母海保ますと芝神明前(浜松町)に、桶屋を家業として住み、1874年(明治7)に私立烏森学校へ入学、この頃尾崎徳太郎(尾崎紅葉)と知り合います。
 1875年(明治8)に公立巴学校(後の港区立鞆絵小学校)に転校、1879年(明治12)には、東京府第二中学(1881年に府第一中と統合し東京府中学)へ入学、幼友達の紅葉と再会しました。1884年(明治17)に、大学予備門(現在の東京大学教養学部)へ入学。翌年には友人の尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成、雑誌「我楽多文庫」を編集・刊行、処女作『竪琴草紙』を発表します。
 1886年(明治19)に尾崎紅葉、丸岡九華との共著で、新体詩集『新体詞選』を刊行、翌年には、帝国大学進学を断念して文筆業に専念、読売新聞に『武蔵野』を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となりました。1888年(明治21)に短篇集『夏木立』を刊行、小説雑誌「都の花」(金港堂)を主宰、1889年(明治22)には、徳富蘇峰の「国民之友」誌で初めて小説を掲載した特別付録に、坪内逍遥と並んで『蝴蝶』を執筆します。
 1890年(明治23)に小説雑誌「都の花」(金港堂)を主宰を辞め、改進新聞社へ入社、1891~92年(明治24~25年)頃には、「国民新聞」紙上に小説、詩などを発表しました。1892年(明治25)に、日本初のアクセント付国語辞書『日本大辞書』を発行、1894年(明治27)頃に、浅草の茶店の女に子を産ませていたが籍は入れないなどの性行があり、作品の題材を実体験で得るためと称したことなどが、『万朝報』、『毎日新聞』などで指弾され、坪内逍遥も『早稲田文学』誌上で批判します。
 1895年(明治28年)に『阿千代』を発表し好評でしたが、同年に弟子の女流作家田澤稲舟と結婚、翌年に稲舟との合作『峯の残月』を「文芸倶楽部」に発表したものの、離婚後の稲舟の死をめぐる稲舟事件によって世間から排斥されました。1899年(明治32)にやまと新聞社に一時在籍、本郷から王子村に移り、王子義塾を開きましたが、1901年(明治34)には、脳充血で倒れ、以後禁酒します。
 その後、『比律賓独立戦話 あぎなるど』、『政治小説桃いろぎぬ』、『言文一致文例』、『新体詩歌作法』などを刊行、1907年(明治40)に『大辞典』の刊行に着手したものの、1910年(明治43)に耳下腺癌腫と診断され、同年10月24日に東京において、数え年43歳で亡くなりました。

〇山田美妙の主要な著作

・『花ぐるま』
・『竪琴草紙』(1885年)
・新体詩集『新体詞選』尾崎紅葉、丸岡九華との共著(1886年)
・『嘲戒小説天狗』(1886~87年)
・『武蔵野(むさしの)』(1887年)
・『蝴蝶(こちょう)』(1889年)
・『いちご姫』(1889~90年)
・詩論集『日本韻文論』(1890~91年)
・辞書『日本大辞書』(1892年)
・『阿千代』(1895年)
・『比律賓独立戦話 あぎなるど』(1902年)
・『政治小説桃いろぎぬ』(1902年)
・『言文一致文例』(1902年)
・『新体詩歌作法』(1902年)
・『平清盛』(1910年)
・『平重衡』

☆山田美妙関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年(慶応4年7月8日) 江戸の神田柳町(現在の東京都千代田区)で、旧南部藩士山田吉雄の長男として生まれる
・1870年(明治3年) 3歳の時、父が地方に赴任し、母よし、その養母海保ますと芝神明前(浜松町)に、桶屋を家業として住む
・1874年(明治7年) 私立烏森学校入学、この頃尾崎徳太郎(尾崎紅葉)と知り合う
・1875年(明治8年) 公立巴学校(後の港区立鞆絵小学校)に転校する
・1879年(明治12年) 東京府第二中学(1881年に府第一中と統合し東京府中学)へ入学、幼友達の紅葉と再会する
・1884年(明治17年) 大学予備門(現在の東京大学教養学部)へ入学する
・1885年(明治18年) 友人の尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成、雑誌「我楽多文庫」を編集・刊行、処女作『竪琴草紙』を発表する
・1886年(明治19年) 尾崎紅葉、丸岡九華との共著で、新体詩集『新体詞選』を刊行する
・1887年(明治20年) 帝国大学進学を断念して文筆業に専念、読売新聞に「武蔵野」を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となる
・1888年(明治21年) 短篇集『夏木立』を刊行、小説雑誌「都の花」(金港堂)を主宰する
・1889年(明治22年) 徳富蘇峰の「国民之友」誌で初めて小説を掲載した特別付録に、坪内逍遥と並んで、『蝴蝶』を執筆する
・1890年(明治23年) 小説雑誌「都の花」(金港堂)を主宰を辞め、改進新聞社へ入社する
・1891~92年(明治24~25年)頃 「国民新聞」紙上に小説、詩などを発表する
・1892年(明治25年) 日本初のアクセント付国語辞書『日本大辞書』を発行する
・1894年(明治27年)頃 浅草の茶店の女に子を産ませていたが籍は入れないなどの性行があり、作品の題材を実体験で得るためと称したことなどが、『万朝報』、『毎日新聞』などで指弾され、坪内逍遥も『早稲田文学』誌上で批判する
・1895年(明治28年) 『阿千代』を発表し好評となる
・1896年(明治29年) 田澤稲舟との合作『峯の残月』を「文芸倶楽部」に発表、稲舟の死をめぐる稲舟事件によって世間から排斥される
・1897年(明治30年) 『魔界天女』を「やまと琴」に連載する
・1899年(明治32年) やまと新聞社に一時在籍、本郷から王子村に移り、王子義塾を開く
・1901年(明治34年)9月 脳充血で倒れ、以後禁酒する
・1902年(明治35年) 『比律賓独立戦話 あぎなるど』、『政治小説桃いろぎぬ』、『言文一致文例』、『新体詩歌作法』を刊行する
・1907年(明治40年) 『大辞典』の刊行に着手する
・1909年(明治42年) 東京の本郷区上富士前町に移転する
・1910年(明治43年)6月 耳下腺癌腫と診断される
・1910年(明治43年)10月24日 東京において、数え年43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件詳細
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、小説家・詩人高見順の亡くなった日です。
 高見順(たかみ じゅん)は、明治時代後期の1907年(明治40)1月30日に、福井県坂井郡三国町(現在の坂井市三国町)で、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子(母は高間古代)として生まれましたが、本名は高間義雄と言いました。1908年(明治41)に母と共に上京し、1919年(大正8)に東京府立第一中学校へ入学して、白樺派などの文学に親しみます。
 1924年(大正13)に中学校を卒業後、第一高等学校文科甲類入学し、一高社会思想研究会に入会、翌年にはダダイスムの雑誌「廻転時代」を創刊、1926年(大正15)には、校友会文芸部委員に就任しました。1927年(昭和2)に第一高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部英文学科に入学、同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加します。
 翌年に左翼芸術同盟に参加し、機関紙「左翼芸術」に小説『秋から秋まで』を発表、東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した「大学左派」創刊にも参加しました。1929年(昭和4)に「大学左派」の後身「十月」や「時代文化」の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進み、翌年に東京帝国大学を卒業後、コロムビア・レコード会社へ入社します。
 1931年(昭和6)頃から日本プロレタリア作家同盟員として活動し、1933年(昭和8)には、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されたものの、「転向」を表明し、半年後に釈放され、雑誌「日暦」創刊に参加しました。1935年(昭和10)に饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を「日暦」に発表、第1回芥川賞候補となって作家としての地位を確立、翌年には『文芸時評』で文学界賞を受賞、「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加、コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に入ります。
 1939年(昭和14)、「文芸」に長編小説『如何なる星の下に』の連載を開始し、高い評価を受け、1941年(昭和16)に陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣され、1944年(昭和19)に中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席、1945年(昭和20)には日本文学報国会へも参加しました。太平洋戦争後は、久米正雄、川端康成、中山義秀らと出版社「鎌倉文庫」を創立、1946年(昭和21)には、そこから小説『今ひとたびの』を刊行します。
 1947年(昭和22)に池田克己らと「日本未来派」を創刊、詩作を再開、1958年(昭和33)には、日本ペンクラブ専務理事に就任しました。1959年(昭和34)に評論『昭和文学盛衰史』で毎日出版文化賞、1963年(昭和38)に長編小説『いやな感じ』で新潮社文学賞、1964年(昭和39)には、日本近代文学館設立運動により菊池寛賞、詩集『死の淵より』で野間文芸賞受章など数々の栄誉にも輝いています。
 しかし、翌年8月17日に、食道癌のため千葉県の放射線医学総合研究所病院において、58歳で亡くなり、文化功労者が追贈されました。

〇高見順の主要な著作

・短編小説『感傷』(1933年)
・長編小説『故旧忘れ得べき』(1935年)第1回芥川賞候補
・評論『描写のうしろに寝てゐられない』(1936年)
・長編小説『如何(いか)なる星の下(もと)に』(1939~40年)
・評論『文学非力説』(1941年)
・長編小説『わが胸の底のここには』(1946~47年)1957年続編を発表するが未完
・小説『今ひとたびの』(1946年)
・詩集『樹木派』(1950年)
・長編小説『胸より胸に』(1950~51年)
・長編小説『生命の樹(き)』(1956~58年)
・評論『昭和文学盛衰史』(1958年)毎日出版文化賞受賞
・長編小説『激流』1部(1959~63年)
・長編小説『激流』2部(1963年~未完)
・長編小説『いやな感じ』(1960~63年)新潮社文学賞受賞
・詩集『死の淵(ふち)より』(1964年)野間文芸賞受賞
・日記『高見順日記』正続16巻(1941~65年)

☆高見順関係略年表

・1907年(明治40)1月30日 福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)で、福井県知事阪本釤之助の非嫡出子(母は高間古代)として生まれる
・1908年(明治41) 母と共に上京する
・1919年(大正8) 東京府立第一中学校へ入学する
・1924年(大正13) 東京府立第一中学校を卒業、第一高等学校文科甲類入学し、一高社会思想研究会に入会する
・1925年(大正14) ダダイスムの雑誌「廻転時代」を創刊する
・1926年(大正15) 校友会文芸部委員に就任する
・1927年(昭和2) 第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部英文学科に入学、同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加する、
・1928年(昭和3) 左翼芸術同盟に参加し、機関紙「左翼芸術」に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した「大学左派」創刊にも参加する
・1929年(昭和4) 「大学左派」の後身「十月」や「時代文化」の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進む
・1930年(昭和5) 東京帝国大学を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務後、コロムビア・レコード会社へ入社する
・1931年(昭和6)頃 日本プロレタリア作家同盟員として活動する 
・1933年(昭和8) 治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放され、雑誌「日暦」創刊に参加する
・1935年(昭和10) 饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』を「日暦」に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立、水谷秋子と結婚する
・1936年(昭和11) 『文芸時評』で文学界賞を受章、「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加、コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に入る
・1938年(昭和13) 浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める
・1939年(昭和14) 「文芸」に長編小説『如何なる星の下に』の連載を開始し、高い評価を受ける
・1941年(昭和16) 陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣される
・1944年(昭和19) 中国大陸にも派遣され、南京における第3回大東亜文学者大会に出席する
・1945年(昭和20)6月 日本文学報国会参加する
・1945年(昭和20)9月 久米正雄、川端康成、中山義秀らと出版社「鎌倉文庫」を創立する
・1946年(昭和21)9月 「鎌倉文庫」から小説『今ひとたびの』を刊行する 
・1947年(昭和22)5月 池田克己らと「日本未来派」を創刊、詩作を再開する
・1950年(昭和25)6月 「婦人公論」に長編小説『胸より胸に』の連載を開始する
・1958年(昭和33)2月 日本ペンクラブ専務理事に就任する
・1959年(昭和34)9月 評論『昭和文学盛衰史』で毎日出版文化賞を受賞する
・1962年(昭和37)5月 伊藤整、小田切進らと日本近代文学館設立準備会を発足させる
・1963年(昭和38)10月 長編小説『いやな感じ』で新潮社文学賞を受賞する
・1964年(昭和39)3月 日本近代文学館設立運動により菊池寛賞を受章する
・1964年(昭和39)12月 詩集『死の淵より』で野間文芸賞を受章する
・1965年(昭和40)8月17日 食道癌のため千葉県の放射線医学総合研究所病院において、58歳で亡くなり、文化功労者が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日)詳細
1945年(昭和20)小説家島木健作の命日詳細
1949年(昭和24)国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる詳細
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、大正から昭和時代に活躍した詩人金子光晴の亡くなった日です。
 金子 光晴(かねこ みつはる)は、1895年(明治28)12月25日に、愛知県海東郡越治村(現在の津島市下切町)の酒商だった父・大鹿和吉、母・里やうの三男として生まれましたが、本名は安和(やすかず)と言いました。1897年(明治30)に、父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現在の中区錦三丁目)に転居、土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となります。
 養父の転勤により、京都、東京と移り住み、暁星中学校を経て、1914年(大正3)に早稲田大学高等予科文科に入学しました。しかし、翌年中退し、その後、東京美術学校、慶應義塾と入退学を繰り返します。
 1915年(大正4)に、肺尖カタルを患い、詩作を始め、翌年に石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)、同年養父の荘太郎が死去したため、遺産を手にして放蕩生活を続けました。残った金で、1919年(大正8)から2年間、ヨーロッパへ留学、帰国後の1923年(大正12)に、フランスの象徴派や高踏派の影響を消化した華麗な作風の詩集『こがね虫』を刊行して、詩壇に登場します。
 しかし、同年9月の関東大震災で家を失い、各地を放浪したものの、東京へ戻って、1924年(大正13)に森三千代と室生犀星の仲人により結婚しました。1928年(昭和3)に妻とともに日本を脱出し、5年間の放浪を経て帰国、1937年(昭和12)に日本の現実を風刺し、戦争を痛烈に否定した詩集『鮫』を出して注目されます。
 1940年(昭和15)に、紀行文『マレー蘭印紀行』を刊行、戦時中は、抵抗の詩をひそかに書き続けました。太平洋戦争後、書き溜めたものを詩集『落下傘』、『蛾』(ともに1948年)、『鬼の児の唄』(1949年)として刊行、耳目を集めます。
 1954年(昭和29)に詩集『人間の悲劇』で第5回読売文学賞、1965年(昭和49)に詩集『IL(イル)』で第3回歴程賞、1971年(昭和46)に小説『風流尸解記』で第22回芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞しました。その一方で、ボードレール「悪の華」やランボオ、アラゴンの詩集などを翻訳しましたが、1975年(昭和50)6月30日に、東京都武蔵野市の自宅で、気管支喘息による急性心不全により79歳で亡くなっています。

〇金子光晴の主要な著作

・処女詩集『赤土(あかつち)の家』(1919年)
・詩集『こがね虫』(1923年)
・詩集『水の流浪』(1926年)
・詩集『鮫(さめ)』(1937年)
・紀行文『マレー蘭印紀行』(1940年)
・詩集『落下傘』(1948年)
・詩集『蛾(が)』(1948年)
・詩集『女たちへのエレジー』(1949年)
・詩集『鬼の児の唄(うた)』(1949年)
・翻訳『ランボオ詩集』アルチュール・ランボー作(1951年)
・翻訳『アラゴン詩集』ルイ・アラゴン作(1951年)
・詩集『人間の悲劇』(1953年)読売文学賞受賞
・詩集『水勢』(1956年)
・詩集『IL(イル)』(1965年)第3回歴程賞受賞
・自伝小説『どくろ杯』(1971年)
・小説『風流尸解記』(1971年)第22回芸術選奨文部大臣賞受賞

☆金子光晴関係略年表

・1895年(明治28)12月25日 愛知県海東郡越治村(現:津島市下切町)の酒商だった父・大鹿和吉、母・里やうの三男として生まれる
・1897年(明治30) 父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現:中区錦三丁目)に転居する。土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる
・1900年(明治33) 養父が京都出張所主任となったため、京都市上京区に転居する
・1902年(明治35)4月 銅駝尋常高等小学校尋常科に入学する
・1906年(明治39) 養父の東京本店転任にともない、一家は銀座の祖父宅に転居、泰明尋常高等小学校(現:中央区立泰明小学校)高等科に入学する
・1907年(明治40)6月 牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現・新宿区立津久戸小学校に転校する
・1908年(明治41)4月、暁星中学校に入学する
・1914年(大正3)4月 早稲田大学高等予科文科に入学する
・1915年(大正4)2月 早稲田大学を中退する
・1915年(大正4)4月 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学する
・1915年(大正4)8月 東京美術学校を退学する
・1915年(大正4)9月 慶應義塾大学文学部予科に入学する
・1916年(大正5)6月 慶應義塾大学を中退する
・1916年(大正5)7月 石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)する
・1916年(大正5)10月 養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける
・1917年(大正6)  牛込区赤城元町に転居、中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)する
・1918年(大正7)12月 養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ
・1919年(大正8)1月 金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行する
・1920年(大正9)12月 ロンドンで帰国の船に乗る
・1921年(大正10)1月 ヨーロッパ旅行から帰国、同人誌『人間』等に詩を発表する
・1922年(大正11) 詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる
・1923年(大正12)9月 関東大震災に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる
・1924年(大正13)1月 東京に戻る
・1924年(大正13)7月 森三千代と室生犀星の仲人により結婚する
・1925年(大正14)3月 長男・乾が誕生する
・1926年(大正15)3月 夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす
・1927年(昭和2) 国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヶ月ほど滞在、横光利一とも合流して交流を深める
・1928年(昭和3) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる
・1928年(昭和3)9月 アジア・ヨーロッパの旅に出発する
・1929年(昭和4) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る
・1930年(昭和5)1月 パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ
・1931年(昭和6) パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる
・1932年(昭和7) 4ヶ月ほどマレー半島を旅行する
・1935年(昭和10)9月 『文藝』に「鮫」を発表する
・1937年(昭和12)12月 三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出に対する認識を深くする
・1938年(昭和13)11月中旬 中国より帰国する
・1940年(昭和15)10月 『マレー蘭印紀行』(山雅房)を刊行する
・1943年(昭和18)12月 『マライの健ちゃん』(中村書店)を刊行する
・1946年(昭和21)3月、疎開先より吉祥寺に戻る、『コスモス』の同人となる
・1948年(昭和23) 詩集『落下傘』(日本未来派発行所)、詩集『蛾』(北斗書院)を刊行する
・1949年(昭和24) 三千代が関節リウマチに罹り、闘病生活を送る
・1950年(昭和25)6月 『かえれ湖』(文林社)を刊行する
・1951年(昭和26)6月 詩集『アラゴン詩集』訳(創元社)を刊行する
・1952年(昭和27)12月 詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行する
・1954年(昭和29)1月 『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する
・1956年(昭和31)5月 詩集『水勢』(東京創元社)を刊行する
・1957年(昭和32)8月、自伝『詩人』(平凡社)を刊行する
・1959年(昭和34) 『日本人について』(春秋社)、『日本の芸術について』(春秋社)を刊行する
・1960年(昭和35)7月 書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』の刊行が始まる
・1962年(昭和37)7月 『屁のような歌』(思潮社)を刊行する
・1964年(昭和39) 同人雑誌『あいなめ』に参加し、中心的存在となる 
・1965年(昭和49) 詩集『IL』(勁草書房)、『絶望の精神史』(光文社)を刊行する
・1967年(昭和42)  『日本人の悲劇』(富士書院)、詩集『若葉のうた』(勁草書房)、『定本金子光晴詩集』(筑摩書房)、『ランボオ詩集』(角川書店)を刊行する
・1968年(昭和43) 評論・随筆集『残酷と非情』(川島書店)、詩集『愛情69』(筑摩書房)、『作詩法入門』(久保書店)を刊行する
・1969年(昭和44)5月 軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヶ月ほど河北病院に入院する
・1971年(昭和46) 詩集『桜桃梅李』(虎見書房)、『どくろ杯』(中央公論社)、『新雑事秘辛』(濤書房)、『人非人伝』(大光社)、『風流尸解記』(青娥書房)を刊行する
・1972年(昭和47) 3月 『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1975年(昭和50) 6月30日 武蔵野市吉祥寺本町の自宅で、気管支喘息による急性心不全により79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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