ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:詩人

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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、詩人・峠三吉が『原爆詩集』をガリ版刷りにより発行した日です。
 「原爆詩集」(げんばくししゅう)は、詩人・峠三吉が広島・長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人や全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧げらた詩集でした。出版社による発行が出来なかったために、広島において、自家版として、ガリ版刷り(500部)で発行されています。
 著者が、広島市内翠町の自宅で被爆後、体に刺さったガラス片や下痢、原爆症に悩まされながらも、知人を求めて焼け跡をさまよい、その克明なメモをもとに、この詩集をまとめたもので、広島市への原子爆弾投下を題材に戦争の皮肉さを訴えた作品で、ベルリン世界青年学生平和祭参加作品でもありました。翌1952年(昭和27)6月には、5篇が追加されたものが青木書店から刊行されています。
 序と24編の詩とあとがきで構成されていますが、特に、“ちちをかえせ ははをかえせ”で始まる『序』は名高く、『にんげんをかえせ』という題でも知られてきました。その後、2016年(平成28)7月15日に、岩波書店から文庫版して発行され、大江健三郎とアーサー・ビナードが解説を寄せています。

〇峠三吉(とうげ さんきち)とは?

 昭和時代に活躍した詩人です。大正時代の1917年(大正6)2月19日に、大阪府豊能郡(現在の豊中市)において、タイル製造などを手がける実業家の父・峠嘉一、母・ステの第5子(三男)として生まれましたが、まもなく父の故郷広島市に転居しました。
 1927年(昭和2)に母・ステを亡くしたものの、1930年(昭和5)には、広島県立広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始めます。1935年(昭和10)に広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社しましたが、肺結核と診断され、療養生活を送り、翌年には、病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿するようになりました。
 1937年(昭和12)に「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事。翌年には、「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の 灯の濤について 月をみず」の句が入選します。1942年(昭和17)に、キリスト教に入信し、大阪製図学校より通信授業を受けるようになりましたが、病気は一進一退であったものの、翌年には、「編隊機大落暉より 帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受けました。
 1944年(昭和19)に次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移りましたが、横浜空襲で「城南航器」が全焼し、翌年6月に、広島の翠町の三戸家に同居したものの、8月6日の広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)します。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加、広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、連盟委員長にも就任しました。
 1948年(昭和23)に「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となり、瀬戸内海文庫に入って雑誌「ひろしま」編集長ともなり、広島詩人協会の結成に参加、「地核」の編集を担当します。同年11月に国立広島療養所へ入院し、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明、1949年(昭和24)に新日本文学会に入会、また、「われらの詩の会」を結成し、代表となりました。
 1950年(昭和25)に新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推されたものの、再び、国立広島療養所へ入院することとなります。1951年(昭和26)に『原爆詩集』をガリ版刷りで出版、翌年には、「原子雲の下より」を編集しましたが、1952年(昭和27)に新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院しました。
 1953年(昭和28)に持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院、同年3月10日に、肺葉切除手術を受けたものの術中に病状が悪化、36歳の若さで亡くなっています。

☆「原爆詩集」の作品構成

・序
・八月六日
・死
・炎
・盲目
・仮繃帯所にて
・眼
・倉庫の記録
・としとったお母さん
・炎の季節
・ちいさい子
・墓標
・影
・友
・河のある風景
・朝
・微笑
・一九五〇年の八月六日
・夜
・巷にて
・ある婦人へ
・景観
・呼びかけ
・その日はいつか
・希い――「原爆の図」によせて――
・あとがき

☆「原爆詩集」(抜粋)

――一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧おしつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂さけ、橋は崩くずれ
満員電車はそのまま焦こげ
涯しない瓦礫がれきと燃えさしの堆積たいせきであった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿のうしょうを踏み
焼け焦こげた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏いかだへ這はいより折り重った河岸の群も
灼やけつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光かこうの中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠へいきしょうの床の糞尿ふんにょうのうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭いしゅうのよどんだなかで
金かなダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩がんかが
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!

(以下略)

   「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1187年(文治3)藤原俊成が『千載和歌集』(第七番目の勅撰和歌集)を後白河法皇に撰進する(新暦10月23日)詳細
1806年(文化3)浮世絵師喜多川歌麿の命日(新暦10月31日)詳細
1852年(嘉永5)囲碁名人・17世および19世本因坊秀栄の誕生日(新暦11月1日)詳細
1903年(明治36)京都市の堀川中立売~七条~祇園で日本初の乗合自動車(バス)が運行される(バスの日)詳細
1943年(昭和18)農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の命日詳細
1945年(昭和20)「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(勅令第542号)が公布・施行される(ポツダム命令)詳細
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 今日は、平成時代の2017年(平成29)に、詩人・評論家大岡信の亡くなった日です。
 大岡信(おおおか まこと)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)2月16日に、静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれました。静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)、旧制第一高等学校を経て、1950年(昭和25)に、東京大学文科に入学します。
 在学中に、日野啓三、佐野洋らと『現代文学』を創刊し、1953年(昭和28)に文学部国文科を卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属されました。1954年(昭和29)に、谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加、1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行します。
 1963年(昭和38)に読売新聞社を退職、翌年には、明治大学助教授となり、1969年(昭和44)には、評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞しました。1970年(昭和45)に明治大学教授に昇任、この頃から連句(連詩)をはじめ、1972年(昭和47)には、評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞、翌年には、『折々のうた』で菊池寛賞を受賞しました。1987年(昭和62)に明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任、1989年(平成元)には、日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞します。
 1990年(平成2)に『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1993年(平成5)には、『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞めました。1994年(平成6)に第51回恩賜賞・日本芸術院賞、1995年(平成7)に日本芸術院会員、1996年(平成8)に朝日賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞、1997年(平成9)には文化功労者となるなど、数々の栄誉に輝きます。
 さらに、2002年(平成14)に国際交流基金賞、2003年(平成15)に文化勲章、2004年(平成16)にフランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエ受章と続きました。2007年(平成19)に「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了、2009年(平成21)に静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館するなどしたものの、2017年(平成29)4月5日に、静岡県三島市において、呼吸不全のため86歳で亡くなっています。

〇大岡信の主要な著作

・詩集『記憶と現在』(1956年)
・評論『超現実と抒情(じょじょう)』(1965年)
・評論『蕩児(とうじ)の家系』(1969年)藤村記念歴程賞受賞
・評論『紀貫之』(1971年)読売文学賞受賞
・詩集『春 少女に』(1979年)無限賞受賞
・詩集『故郷の水へのメッセージ』(1989年)第7回現代詩花椿賞受賞
・評論『詩人・菅原道真』(1989年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・詩集『地上楽園の午後』(1993年)詩歌文学館賞受賞
・随筆『折々のうた』(1979~2007年)菊池寛賞受賞

☆大岡信関係略年表

・1931年(昭和6)2月16日 静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれる
・1943年(昭和18) 静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)に入学する
・1947年(昭和22) 沼津中学4年から旧制第一高等学校文科丙類に入学する
・1950年(昭和25) 東京大学文科に入学する
・1953年(昭和28) 東京大学卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属される
・1954年(昭和29) 谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加する
・1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行する
・1959年(昭和34) 「フォートリエ展」カタログ作成に協力する
・1962年(昭和37) 武満徹の管弦楽曲のために「環礁」を書き下ろす
・1963年(昭和38) 読売新聞社を退職する
・1965年(昭和40) 明治大学助教授となる
・1969年(昭和44) 評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞する
・1970年(昭和45) 明治大学教授となり、この頃から連句(連詩)をはじめる
・1972年(昭和47) 評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞する
・1979年(昭和54) 「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『折々のうた』で菊池寛賞を受賞する
・1987年(昭和62) 明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任する
・1989年(平成元) 日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞する
・1990年(平成2) 『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1993年(平成5) 『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞める
・1994年(平成6) 第51回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞する
・1995年(平成7) 日本芸術院会員となる
・1996年(平成8) 朝日賞を受賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞を受賞する
・1997年(平成9) 文化功労者となる
・2002年(平成14) ことばと文学による国際文化交流と相互理解に多大な貢献をしたとして、国際交流基金賞を受賞する
・2003年(平成15) 文化勲章を受章する
・2004年(平成16) フランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章する
・2007年(平成19) 「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了する
・2009年(平成21) 静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館する
・2017年(平成29)4月5日 静岡県三島市において、呼吸不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1880年(明治13)「集会条例」(明治13年太政官布告第12号)が公布される詳細
1939年(昭和14)「映画法」が公布され、脚本の事前検閲、外国映画の上映制限などが決まる詳細
1964年(昭和39)詩人・翻訳家三好達治の命日(達治忌)詳細
1984年(昭和59)染色工芸家芹沢銈介の命日詳細
1998年(平成10)明石海峡大橋が開通する詳細
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ishigakirin01
 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、詩人石垣りんが亡くなった日です。
 石垣りん(いしがき りん)は、大正時代の1920年(大正9)2月21日に、東京・赤坂において、薪炭商を営む父・石垣仁と母・すみの長女(第1子)として生まれました。仲之町尋常小学校を経て、1934年(昭和9)に、赤坂高等小学校を卒業、日本興業銀行に事務見習いとして就職します。
 『少女画報』、『女子文苑』などに投稿するようになり、1938年(昭和13)には、女性だけの同人詩誌『断層』を創刊しました。1940年(昭和15)に調査部へ異動となり、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下の空襲で自宅が全焼し、家族が離散します。
 1946年(昭和21)に、職場の機関誌『行友会誌』『行友ニュース』『組合時評』等に詩や文章を載せるようになり、1948年(昭和23)に同人詩誌『銀河系』に参加、1950年(昭和25)には、職員組合執行部常任委員(任期半年)となり、メーデーに初参加、同人詩誌『時間』に参加(1年足らずで退会)しました。1951年(昭和26)にアンソロジー『銀行員の詩集』に4篇収録され、翌年も同詩集に4篇が収録されます。
 1954年(昭和29)に、職員組合執行部常任委員(任期半年)となりましたが、1958年(昭和33)には、椎間板ヘルニアにて手術及び入院し、翌年やっと退院し、銀行の鎌倉腰越寮にて療養しながら、第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』を刊行しました。1965年(昭和40)に同人詩誌『歴程』に参加(1988年まで所属)、1968年(昭和43)には、第2詩集『表札など』(思潮社)を刊行し、翌年に日本現代詩人会第19回H氏賞を受賞します。
 1971年(昭和46)に行友会事務室へ異動、『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(思潮社)を刊行し、翌年に第12回田村俊子賞を受賞しました。1973年(昭和48)に第1散文集『ユーモアの鎖国』を刊行、1975年(昭和50)に日本興業銀行を定年退職、1979年(昭和54)には、第3詩集『略歴』を刊行し、第4回地球賞を受賞します。
 その後も、1980年(昭和55)に第2散文集『焔に手をかざして』、1984年(昭和59)に第4詩集『やさしい言葉』、1989年(平成元)に第3散文集『夜の太鼓』を刊行しました。1999年(平成11)には、1948年の作品「この世の中にある」が、NHK全国学校音楽コンクール課題曲の歌詞となり、2000年(平成12)には、絶版となっていた第1~第4詩集の再刊が始まります。
 社会と生活をみすえた詩風で注目されてきたものの、2004年(平成16)12月26日に、東京都杉並区の病院において、84歳で亡くなっています。

〇石垣りんの主要な著作

・第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(1959年)
・第2詩集『表札など』(1968年)日本現代詩人会第19回H氏賞受賞
・『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(1971年)第12回田村俊子賞受賞
・第1散文集『ユーモアの鎖国』(1973年)
・第3詩集『略歴』(1979年)第4回地球賞受賞
・第2散文集『焔に手をかざして』(1980年)
・第4詩集『やさしい言葉』(1984年)
・第3散文集『夜の太鼓』(1989年)
・第5詩集『レモンとねずみ』(2008年)遺稿集

☆石垣りん関係略年表

・1920年(大正9)2月21日 東京・赤坂において、薪炭商を営む父・石垣仁と母・すみの長女(第1子)として生まれる
・1922年(大正12)9月1日 関東大震災で、母・すみが落ちてきた梁を背に受けたことが原因で体調を崩す
・1924年(大正13) 母・すみが亡くなる
・1925年(大正14) 仲之町尋常小学校附属幼稚園へ入園する
・1926年(大正15) 仲之町尋常小学校へ入学する
・1932年(昭和7) 赤坂高等小学校へ入学する
・1934年(昭和9) 高等小学校を卒業、日本興業銀行に事務見習いとして就職、『少女画報』『女子文苑』などに投稿する
・1938年(昭和13) 文書課事務員になる、女性だけの同人詩誌『断層』を創刊する
・1940年(昭和15) 調査部へ異動となる
・1945年(昭和20) 空襲で自宅が全焼し、家族が離散する
・1946年(昭和21) 職場の機関誌『行友会誌』『行友ニュース』『組合時評』等に詩や文章を載せる
・1948年(昭和23) 同人詩誌『銀河系』に参加する
・1950年(昭和25) 職員組合執行部常任委員(任期半年)となり、メーデーに初参加、同人詩誌『時間』に参加(1年足らずで退会)する
・1951年(昭和26) アンソロジー『銀行員の詩集』に4篇収録される
・1952年(昭和27) アンソロジー『銀行員の詩集』に「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」など4篇収録される
・1954年(昭和29) 職員組合執行部常任委員(任期半年)となる
・1958年(昭和33) 椎間板ヘルニアにて手術及び入院。化膿してさらに3回手術を受け、療養に1年ほどを要する
・1959年(昭和34) 退院し、銀行の鎌倉腰越寮にて療養、第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(書肆ユリイカ)を刊行する
・1965年(昭和40) 同人詩誌『歴程』に参加(1988年まで所属)する
・1966年(昭和41) 経営研究部へ異動となる
・1968年(昭和43) 第2詩集『表札など』(思潮社)を刊行する
・1969年(昭和44) 『表札など』で、日本現代詩人会第19回H氏賞を受賞する
・1970年(昭和45) 大田区南雪谷のアパートに転居、一人暮らしを始める
・1971年(昭和46) 行友会事務室へ異動、『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(思潮社)を刊行する
・1972年(昭和47) 『現代詩文庫46 石垣りん詩集』で、第12回田村俊子賞を受賞する
・1973年(昭和48) 第1散文集『ユーモアの鎖国』(北洋社)を刊行する
・1975年(昭和50) 日本興業銀行を定年退職する
・1979年(昭和54) 第3詩集『略歴』(花神社)を刊行、第4回地球賞を受賞する
・1980年(昭和55) 第2散文集『焔に手をかざして』(筑摩書房)を刊行する
・1984年(昭和59) 第4詩集『やさしい言葉』(花神社)を刊行する
・1989年(平成元) 第3散文集『夜の太鼓』(筑摩書房)を刊行する
・1999年(平成11) 1948年の作品「この世の中にある」が、NHK全国学校音楽コンクール課題曲の歌詞となる
・2000年(平成12) 絶版となっていた第1〜第4詩集の再刊(童話や)が始まる
・2004年(平成16)12月26日 東京都杉並区の病院において、84歳で亡くなる
・2008年(平成20) 遺稿から未完詩を集めた第5詩集『レモンとねずみ』(童話屋)が刊行される
・2009年(平成21) 静岡県南伊豆町立図書館内に「石垣りん文学記念室」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1265年(文永2)藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進する(新暦1266年2月2日)詳細
1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
1887年(明治20)「保安条例」が公布・施行される詳細
1888年(明治21)小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日詳細
1960年(昭和35)哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日詳細
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irakoseihaku01
 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、詩人・医師伊良子清白の生まれた日です。
 伊良子清白(いらこ せいはく)は、鳥取県八頭郡曳田村(現在の鳥取市河原町曳田)で、医師であった父・伊良子政治、母・恒の長男として生まれましたが、名は暉造(てるぞう)と言いました。1歳にも満たない時に母・恒を亡くし、1885年(明治18)に父の転住により、三重県津市へ移り、津尋常中学校を経て、1894年(明治27)には、京都府立医学校に入学します。
 在学中、「少年文庫」にはじめて詩「あさの小蝶」を発表、河井酔茗、横瀬夜雨らと関西での詩歌革新運動に参加し「文庫派」の三羽烏と称されました。また、京都時代からの友人・与謝野鉄幹の「明星」初期の編集に参与しています。
 1899年(明治32)に卒業後、三重県で父の医院を手伝いましたが、翌年に上京して横浜海港検疫所検疫医員となる一方で、長篇詩「巖間の白百合」が文庫派の詞華集『詩美幽韻』の巻頭に掲載され、1901年(明治34)から発表作品の筆名を清白に改めました。1902年(明治35)に内国生命保険株式会社の診査医となり、東京国語学校本科獨逸語学科に入学したものの、翌年に中途退学します。
 1905年(明治38)に森本幾美と結婚し、青山に新居を構え、翌年には、高踏的詩風で幻想神秘の世界を表現した詩集『孔雀船』を左久良書房より刊行しました。しかし、詩壇に重きをなしたものの、『文庫』派解体後、詩作を絶って、医業に専念することとなります。
 1907年(明治40)に東京を離れてからは、島根県、大分県、台湾、京都府などを転々としたことから、"漂泊の詩人"とも呼ばれました。1922年(大正11)に三重県志摩郡鳥羽町小浜(現在の鳥羽市小浜町)に移って、開業してからは落ち着きます。
 晩年は、短歌を作って自適していましたが、1945年(昭和20)に戦火を避けるため三重県度会郡七保村打見(現在の度会郡大紀町打見)に疎開、翌年1月10日に疎開先において往診の途次、脳溢血で倒れ、69歳で亡くなりました。

〇伊良子清白関係略年表

・1877年(明治10)10月4日 鳥取県八頭郡曳田村(現在の鳥取市河原町曳田)で、医師であった父・伊良子政治、母・恒の長男として生まれる
・1878年(明治11) 母・恒が亡くなる
・1884年(明治17) 大岩村小学校に入学する
・1885年(明治18) 父の三重県津市への転住により、津市養成小学校に転校する
・1890年(明治23) 養成小学校高等科を卒業、津尋常中学校三年に編入する
・1893年(明治26) 津尋常中学校を卒業する
・1894年(明治27) 京都府立医学校に入学、「少年文庫」6月号にはじめて詩「あさの小蝶」を発表する
・1896年(明治29)10月 「文庫」(「少年文庫」が改題)に115行の長詩「うかれ魂」を発表、初めて「すずしろのや」の筆名を用いる
・1899年(明治32) 京都府立医学校を卒業、三重県で父の医院を手伝う
・1900年(明治33) 上京し、横浜海港検疫所検疫医員となる、6月、長篇詩「巖間の白百合」が文庫派の詞華集『詩美幽韻』の巻頭に載る
・1901年(明治34)8月 発表の作品の筆名を清白に改める
・1902年(明治35)4月 内国生命保険株式会社の診査医となる(逸8月)、9月、東京国語学校本科獨逸語学科に入学する
・1903年(明治36)10月 再び内国生命の診査医となる。12月、東京国語学校本科獨逸語学科を中途退学する
・1904年(明治37)1月 内国生命の診査医を辞し、帝国生命の診査医となる
・1905年(明治38)6月 森本幾美と結婚し、青山に新居を構える
・1906年(明治39)4月 帝国生命の診査医を辞め、5月に詩集『孔雀船』(左久良書房)刊行する
・1907年(明治40)6月 島根県検疫医となる
・1909年(明治42)4月 大分県警察部検疫医員となる
・1910年(明治43)5月 総督府臺中病院内科部に勤務する
・1912年(明治45)4月 臺中監獄医務所長となる
・1915年(大正4)7月 臺彎総督府防疫医となる
・1916年(大正5)11月 臺彎総督府鉄道部医務嘱託となる
・1918年(大正7)6月 京都市の川越精神病院に勤務する
・1919年(大正8)6月 妻・幾美が亡くなる
・1920年(大正9)4月 鵜飼壽と再婚する
・1921年(大正10)8月 三重県南牟婁郡で開業する
・1922年(大正11)9月 三重県志摩郡鳥羽町小浜(現在の鳥羽市小浜町)に転任して開業する
・1929年(昭和4)4月 『孔雀船』再刻本(梓書房)を刊行する
・1935年(昭和10)7月 父・政治が亡くなる
・1945年(昭和20) 戦火を避けるため三重県度会郡七保村打見(現在の度会郡大紀町打見)に疎開する
・1946年(昭和21)1月10日 疎開先の三重県度会郡において、69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1707年(宝永4)宝永地震が起き甚大な被害が出る(新暦10月28日)詳細
1872年(明治5)官営模範工場の富岡製糸場が操業を開始する(新暦11月4日)詳細
1876年(明治9)言語学者・国語学者・随筆家新村出の誕生日詳細
1945年(昭和20)GHQが「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-93)を出す詳細
1976年(昭和51)俳人・医師(医学博士)高野素十の命日詳細
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 今日は、大正時代の1917年(大正6)に、詩人峠三吉の生まれた日です。
 峠三吉(とうげ さんきち)は、大阪府豊能郡(現在の豊中市)において、タイル製造などを手がける実業家の父・峠嘉一、母・ステの第5子(三男)として生まれましたが、まもなく父の故郷広島市に転居しました。1927年(昭和2)に母・ステを亡くしたものの、1930年(昭和5)には、広島県立広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始めます。
 1935年(昭和10)に広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社しましたが、肺結核と診断され、療養生活を送り、翌年には、病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿するようになりました。1937年(昭和12)に「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事、翌年には、「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の 灯の濤について 月をみず」の句が入選します。
 1942年(昭和17)に、キリスト教に入信し、大阪製図学校より通信授業を受けるようになりましたが、病気は一進一退であったものの、翌年には、「編隊機 大落暉より 帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受けました。1944年(昭和19)に次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移りましたが、横浜空襲で「城南航器」が全焼し、翌年6月に、広島の翠町の三戸家に同居したものの、8月6日の広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)します。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加、広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、連盟委員長にも就任しました。1948年(昭和23)に「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となり、瀬戸内海文庫に入って雑誌「ひろしま」編集長ともなり、広島詩人協会の結成に参加、「地核」の編集を担当します。
 同年11月に国立広島療養所へ入院、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明、1949年(昭和24)に新日本文学会に入会、また、「われらの詩の会」を結成し、代表となりました。1950年(昭和25)に新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推されたものの、再び、国立広島療養所へ入院することとなります。1951年(昭和26)に『原爆詩集』をガリ版刷りで出版、翌年には、「原子雲の下より」を編集しましたが、1952年(昭和27)に新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院しました。
 1953年(昭和28)に持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院、同年3月10日に、肺葉切除手術を受けたものの術中に病状が悪化、36歳の若さで亡くなっています。
 以下に、峠三吉著『原爆詩集』の序と八月六日を抜粋して掲載しましたので、ご参照下さい。

☆峠三吉関係略年表

・1917年(大正6)2月19日 大阪府豊能郡(現在の豊中市)において、タイル製造などを手がける実業家の父・嘉一、母・ステの第5子(三男)として生まれる
・1923年(大正12) 広島市大手町尋常高等小学校へ入学する
・1925年(大正14)頃 文学を好むようになる
・1927年(昭和2) 母・ステが亡くなる
・1930年(昭和5) 広島県立広島商業学校(現 広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始める
・1935年(昭和10) 広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社するが、肺結核と診断され、療養生活を送る
・1936年(昭和11) 病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿、次兄・匡が亡くなる
・1937年(昭和12) 「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事する
・1938年(昭和13) 「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の灯の濤について月をみず」の句が入選する
・1941年(昭和16) 左部赤城子が急死、以後、短歌、童話に情熱を傾ける。短歌は「言霊」主宰の岡本明に師事する
・1942年(昭和17) 長姉嘉子の影響もあり、キリスト教の洗礼を受ける、大阪製図学校より通信授業を受ける
・1943年(昭和18) 病気は一進一退、「編隊機大落暉より帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受ける
・1944年(昭和19) 次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移る
・1945年(昭和20)4月 横浜空襲で「城南航器」が全焼する
・1945年(昭和20)6月 広島の翠町の三戸家に同居する
・1945年(昭和20)8月6日 広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)する
・1946年(昭和21) 広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加。広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、7月に連盟委員長に就任する
・1947年(昭和22)2月 広島県庁社会課に就職、憲法普及運動にたずさわる
・1947年(昭和22)7月 児童雑誌「銀の鈴」から童話「百足競争」の原稿料を受け取る。童話「ドッジボール」、小説「鏡占い」などを書く。
・1947年(昭和22)12月 原田和子と結婚する
・1948年(昭和23)1月 「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となる。県庁退職後、瀬戸内海 文庫に入り、雑誌「ひろしま」編集長となる(8月退社)。広島詩人協会の結成に参加、「地核」(6月創刊) の編集を担当する
・1948年(昭和23)11月 国立広島療養所へ入院、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明する
・1949年(昭和24)2月 新日本文学会に入会する
・1949年(昭和24)10月 「われらの詩の会」を結成し、代表となる
・1950年(昭和25)1月 新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推される
・1950年(昭和25)12月 国立広島療養所へ入院する
・1951年(昭和26) 『原爆詩集』をガリ版刷りで出版する
・1952年(昭和27) 「原子雲の下より」を編集する
・1952年(昭和27)3月 新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院する
・1953年(昭和28)2月 持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院する
・1953年(昭和28)3月10日 広島において36歳で亡くなる

〇峠三吉著『原爆詩集』(抜粋) 注:( )内はふり仮名です


ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧(お)しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂(さ)け、橋は崩(くず)れ
満員電車はそのまま焦(こ)げ
涯しない瓦礫(がれき)と燃えさしの堆積(たいせき)であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿(のうしょう)を踏み
焼け焦(こ)げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏(いかだ)へ這(は)いより折り重った河岸の群も
灼(や)けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光(かこう)の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠(へいきしょう)の床の糞尿(ふんにょう)のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭(いしゅう)のよどんだなかで
金(かな)ダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!

    「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(元暦2)屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利する(新暦3月22日)詳細
1837年(天保8)大塩平八郎の乱が起きる(新暦3月25日)詳細
1934年(昭和9)経済学者・社会運動家野呂栄太郎の命日詳細
1946年(昭和21)GHQより「刑事裁判権行使に関する覚書」 (SCAPIN-756) が出される詳細
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