「原爆詩集」(げんばくししゅう)は、詩人・峠三吉が広島・長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人や全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧げらた詩集でした。出版社による発行が出来なかったために、広島において、自家版として、ガリ版刷り(500部)で発行されています。
著者が、広島市内翠町の自宅で被爆後、体に刺さったガラス片や下痢、原爆症に悩まされながらも、知人を求めて焼け跡をさまよい、その克明なメモをもとに、この詩集をまとめたもので、広島市への原子爆弾投下を題材に戦争の皮肉さを訴えた作品で、ベルリン世界青年学生平和祭参加作品でもありました。翌1952年(昭和27)6月には、5篇が追加されたものが青木書店から刊行されています。
序と24編の詩とあとがきで構成されていますが、特に、“ちちをかえせ ははをかえせ”で始まる『序』は名高く、『にんげんをかえせ』という題でも知られてきました。その後、2016年(平成28)7月15日に、岩波書店から文庫版して発行され、大江健三郎とアーサー・ビナードが解説を寄せています。
著者が、広島市内翠町の自宅で被爆後、体に刺さったガラス片や下痢、原爆症に悩まされながらも、知人を求めて焼け跡をさまよい、その克明なメモをもとに、この詩集をまとめたもので、広島市への原子爆弾投下を題材に戦争の皮肉さを訴えた作品で、ベルリン世界青年学生平和祭参加作品でもありました。翌1952年(昭和27)6月には、5篇が追加されたものが青木書店から刊行されています。
序と24編の詩とあとがきで構成されていますが、特に、“ちちをかえせ ははをかえせ”で始まる『序』は名高く、『にんげんをかえせ』という題でも知られてきました。その後、2016年(平成28)7月15日に、岩波書店から文庫版して発行され、大江健三郎とアーサー・ビナードが解説を寄せています。
〇峠三吉(とうげ さんきち)とは?
昭和時代に活躍した詩人です。大正時代の1917年(大正6)2月19日に、大阪府豊能郡(現在の豊中市)において、タイル製造などを手がける実業家の父・峠嘉一、母・ステの第5子(三男)として生まれましたが、まもなく父の故郷広島市に転居しました。
1927年(昭和2)に母・ステを亡くしたものの、1930年(昭和5)には、広島県立広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始めます。1935年(昭和10)に広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社しましたが、肺結核と診断され、療養生活を送り、翌年には、病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿するようになりました。
1937年(昭和12)に「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事。翌年には、「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の 灯の濤について 月をみず」の句が入選します。1942年(昭和17)に、キリスト教に入信し、大阪製図学校より通信授業を受けるようになりましたが、病気は一進一退であったものの、翌年には、「編隊機大落暉より 帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受けました。
1944年(昭和19)に次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移りましたが、横浜空襲で「城南航器」が全焼し、翌年6月に、広島の翠町の三戸家に同居したものの、8月6日の広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)します。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加、広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、連盟委員長にも就任しました。
1948年(昭和23)に「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となり、瀬戸内海文庫に入って雑誌「ひろしま」編集長ともなり、広島詩人協会の結成に参加、「地核」の編集を担当します。同年11月に国立広島療養所へ入院し、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明、1949年(昭和24)に新日本文学会に入会、また、「われらの詩の会」を結成し、代表となりました。
1950年(昭和25)に新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推されたものの、再び、国立広島療養所へ入院することとなります。1951年(昭和26)に『原爆詩集』をガリ版刷りで出版、翌年には、「原子雲の下より」を編集しましたが、1952年(昭和27)に新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院しました。
1953年(昭和28)に持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院、同年3月10日に、肺葉切除手術を受けたものの術中に病状が悪化、36歳の若さで亡くなっています。
1927年(昭和2)に母・ステを亡くしたものの、1930年(昭和5)には、広島県立広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始めます。1935年(昭和10)に広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社しましたが、肺結核と診断され、療養生活を送り、翌年には、病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿するようになりました。
1937年(昭和12)に「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事。翌年には、「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の 灯の濤について 月をみず」の句が入選します。1942年(昭和17)に、キリスト教に入信し、大阪製図学校より通信授業を受けるようになりましたが、病気は一進一退であったものの、翌年には、「編隊機大落暉より 帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受けました。
1944年(昭和19)に次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移りましたが、横浜空襲で「城南航器」が全焼し、翌年6月に、広島の翠町の三戸家に同居したものの、8月6日の広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)します。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加、広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、連盟委員長にも就任しました。
1948年(昭和23)に「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となり、瀬戸内海文庫に入って雑誌「ひろしま」編集長ともなり、広島詩人協会の結成に参加、「地核」の編集を担当します。同年11月に国立広島療養所へ入院し、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明、1949年(昭和24)に新日本文学会に入会、また、「われらの詩の会」を結成し、代表となりました。
1950年(昭和25)に新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推されたものの、再び、国立広島療養所へ入院することとなります。1951年(昭和26)に『原爆詩集』をガリ版刷りで出版、翌年には、「原子雲の下より」を編集しましたが、1952年(昭和27)に新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院しました。
1953年(昭和28)に持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院、同年3月10日に、肺葉切除手術を受けたものの術中に病状が悪化、36歳の若さで亡くなっています。
☆「原爆詩集」の作品構成
・序
・八月六日
・死
・炎
・盲目
・仮繃帯所にて
・眼
・倉庫の記録
・としとったお母さん
・炎の季節
・ちいさい子
・墓標
・影
・友
・河のある風景
・朝
・微笑
・一九五〇年の八月六日
・夜
・巷にて
・ある婦人へ
・景観
・呼びかけ
・その日はいつか
・希い――「原爆の図」によせて――
・あとがき
☆「原爆詩集」(抜粋)
――一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
序
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
八月六日
あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧おしつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え
渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂さけ、橋は崩くずれ
満員電車はそのまま焦こげ
涯しない瓦礫がれきと燃えさしの堆積たいせきであった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿のうしょうを踏み
焼け焦こげた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列
石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏いかだへ這はいより折り重った河岸の群も
灼やけつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光かこうの中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり
兵器廠へいきしょうの床の糞尿ふんにょうのうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭いしゅうのよどんだなかで
金かなダライにとぶ蠅の羽音だけ
三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩がんかが
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!
(以下略)
「青空文庫」より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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