ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:詩人

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 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、野鳥研究家・歌人・詩人・天台宗僧侶中西悟堂が亡くなった日です。
 中西悟堂(なかにし ごどう)は、1895年(明治28)11月16日に、石川県金沢市長町において、生まれましたが、本名は富嗣(とみつぐ)と言いました。幼くして父母と別れ、天台宗の僧侶であった伯父中西悟玄に育てられます。
 1907年(明治40)に、東京府麻布区飯倉町の小暮小学校高等科卒業後、京橋区数寄屋橋の紙問屋に奉公し、1910年(明治43)には、火災保険会社の給仕となり、その給料で築地工手学校夜間部に入学しました。1911年(明治44)に、東京都下深大寺で得度し天台宗僧徒となり、悟堂と改名、翌年には、天台宗学林(後の大正大学)2年に入り、この前後から歌作を始めます。
 1913年(大正2)に、法王教を唱えた高田道見の認可僧堂瑞応寺で禅生活に入り、赤松月船と知り合い、翌年には、曹洞宗学林(後の駒澤大学)に通うようになりました。1915年(大正4)に、内藤鋠作の抒情詩社に入社、詩や小説を手がけ、1917年(大正6)に、曹洞宗学林を修了、1920年(大正9)には、島根県能義郡(現在の安来市)の長楽寺の住職となります。
 1921年(大正10)に、詩作も発表しはじめ、翌年には、島根県松江市の普門院の住職となり、第一詩集『東京市』を出版しました。1926年(大正15)に、千歳烏山(現在の東京都世田谷区烏山)に移り住み、詩壇と決別し本格的作家をめざし田園生活に入り、1929年(昭和4)には、杉並区井荻町の善福寺風致地区に移り、野鳥の他に昆虫や淡水魚などの生態観察に取り組みます。
 1934年(昭和9)に、柳田国男、北原白秋らをさそって、日本野鳥の会を設立し初代会長となり、1936年(昭和11)には、竹野家立、籾山徳太郎らと共に、鷹狩の保存・振興のため、日本放鷹倶楽部の設立に発起人として参加しました。1947年(昭和22)に、戦後も休止状態にあった日本野鳥の会を再開し、1957年(昭和32)に、『野鳥と生きて』で、第5回日本エッセイストクラブ賞を受賞、1961年(昭和36)には、紫綬褒章を受章します。
 1965年(昭和40)に、『定本野鳥記』で、第17回読売文学賞(研究翻訳賞)、1968年(昭和43)に『悟堂詩集』で、第14回日本歌人クラブ推薦歌集を受賞しました。1972年(昭和47)に、勲三等旭日中綬章を受章、1973年(昭和48)正月の宮中歌会始の召人となり、1977年(昭和52)には、文化功労者に選ばれています。
 1980年(昭和55)に法人化した日本野鳥の会の運営に強い不満を表明して会長を辞任しましたが、翌年には、名誉会長として復籍しました。自然保護運動に尽力してきたものの、1984年(昭和59)12月11日に、神奈川県横浜市港南区の病院において、転移性肝臓癌のため、88歳で亡くなっています。

<中西悟堂の主要な著作>

・第一詩集『東京市』(1922年)
・『虫・鳥と生活する』(1932年) 
・『山岳詩集』(1934年)
・『野鳥と生きて』(1957年)第5回日本エッセイストクラブ賞受賞
・『定本野鳥記』(1962~66年)第17回読売文学賞(研究翻訳賞)受賞
・『悟堂詩集』(1968年)第14回日本歌人クラブ推薦歌集受賞
・歌集『唱名』(1916年)
・歌集『安達太良』(1959年)
・詩集『花巡礼』(1924年)

〇中西悟堂関係略年表

・1895年(明治28)11月16日 石川県金沢市長町において、生まれる
・1900年(明治33) 5歳の時、東京府麻布区飯倉町の小暮小学校に入学する
・1907年(明治40) 高等科卒業後、京橋区数寄屋橋の紙問屋に奉公する
・1910年(明治43) 火災保険会社の給仕となり、その給料で築地工手学校夜間部に入学する
・1911年(明治44) 16歳の時、東京都下深大寺で得度し天台宗僧徒となり、悟堂と改名する
・1912年(明治45) 天台宗学林(後の大正大学)2年に入り、この前後から歌作を始める
・1913年(大正2) 法王教を唱えた高田道見の認可僧堂瑞応寺で禅生活に入り、赤松月船と知り合う
・1914年(大正3) 曹洞宗学林(後の駒澤大学)に通う
・1915年(大正4) 内藤鋠作の抒情詩社に入社、詩や小説を手がける
・1917年(大正6) 曹洞宗学林を修了する
・1920年(大正9) 島根県能義郡(現在の安来市)の長楽寺の住職となる
・1921年(大正10) 詩作も発表しはじめる
・1922年(大正11) 島根県松江市の普門院の住職となり、第一詩集『東京市』を出版する
・1926年(大正15) 千歳烏山(現在の東京都世田谷区烏山)に移り住み、詩壇と決別し本格的作家をめざし田園生活に入る
・1929年(昭和4) 杉並区井荻町の善福寺風致地区に移り、野鳥の他に昆虫や淡水魚などの生態観察に取り組む
・1934年(昭和9) 柳田国男、北原白秋らをさそって、日本野鳥の会を設立し初代会長となる
・1936年(昭和11) 竹野家立、籾山徳太郎らとともに、鷹狩の保存・振興のため、日本放鷹倶楽部の設立に発起人として参加する
・1944年(昭和19) 日本野鳥の会の会員数はおよそ1,800名となる
・1947年(昭和22) 戦後も休止状態にあった日本野鳥の会を再開する
・1957年(昭和32) 『野鳥と生きて』で、第5回日本エッセイストクラブ賞を受賞する
・1961年(昭和36) 紫綬褒章を受章する
・1965年(昭和40) 『定本野鳥記』で、第17回読売文学賞(研究翻訳賞)を受賞する
・1968年(昭和43) 『悟堂詩集』で、第14回日本歌人クラブ推薦歌集を受賞する
・1970年(昭和45) 「自然を返せ」という自然保護運動が起こったとき、若い人々とともにデモ行進の先頭を歩く
・1972年(昭和47) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1973年(昭和48) 正月の宮中歌会始の召人となる
・1977年(昭和52) 文化功労者となる
・1980年(昭和55) 法人化した日本野鳥の会の運営に強い不満を表明して会長を辞任する
・1981年(昭和56) 日本野鳥の会に名誉会長として復籍する
・1984年(昭和59)12月11日 神奈川県横浜市港南区の病院において、転移性肝臓癌のため、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1335年(建武2)箱根・竹ノ下の戦いが起き、南北朝動乱が始まる(新暦1336年1月24日)詳細
1645年(正保元)臨済宗の僧沢庵宗彭の命日で「沢庵忌」とされる(新暦1646年1月27日)詳細
1877年(明治10)薬学者(薬化学)近藤平三郎の誕生日詳細
1959年(昭和34)三井三池炭鉱で指名解雇を通告し、「三井三池争議」が始る詳細
1967年(昭和42)佐藤栄作首相が第57回国会の衆議院予算委員会において、「非核三原則」を表明する詳細
1986年(昭和61)歌人宮柊二の命日 詳細
1993年(平成5)日本で初めて、屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が世界遺産に登録される詳細
1997年(平成9)地球温暖化防止京都会議(COP3)が閉幕、温室効果ガスの削減目標を定めた「京都議定書」を採択する詳細
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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、詩人・文芸評論家・近代文学研究者伊藤信吉の生まれた日です。
 伊藤信吉(いとう しんきち)は、明治時代後期の1906年(明治39)11月30日に、群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現在の前橋市元総社町)において、農家だった父・伊藤実太郎、母・みねの長男として生まれました。高等小学校を卒業後、1923年(大正12)に、群馬県庁商工課に勤務するようになり、翌年には、萩原朔太郎を訪ね知遇を得ます。
 1928年(昭和3)に県庁を退職し上京し、草野心平の詩誌「学校」に参加しましたが、いったん帰郷し、翌年に再び上京し、プロレタリア詩人会に参加しました。1931年(昭和6)に、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)に加盟し、雑誌「ナップ」「プロレタリア詩」等に作品を発表したものの、翌年には、「治安維持法」違反容疑で検挙され、プロレタリア文学運動から退きます。
 1933年(昭和8)に第一詩集『故郷』を刊行、1936年(昭和11)に、最初の文芸評論『島崎藤村の文学』を刊行、都新聞宇都宮支局員となり移住し、1939年(昭和14)には、吉田健一らと「批評」を創刊しました。1941年(昭和16)に、都新聞を退社し、報知新聞社に勤務、1942年(昭和17)に、萩原朔太郎が死去すると、小学館版『萩原朔太郎全集』の編集を担当、報知新聞社を退社、財団法人交通協力会へ入社し、『陸輸新報』の編集に携わります。
 大平洋戦争後、1946年(昭和21)に、交通労働研究所を設立し『交通労働』の発行に携わり、1949年(昭和24)には、新日本文学会系の『新日本詩人』の第1号の編集にも関与しました。1964年(昭和39)に、萩原朔太郎研究会が発足すると会長となり、1967年(昭和42)には、日本現代詩人会の会長(~1969年)、中央大学文学部兼任講師(~1975年)となります。
 1974年(昭和49)に『ユートピア紀行』で、第2回平林たい子文学賞を受賞、1976年(昭和51)には、第二詩集『上州』を刊行しました。1977年(昭和52)に『萩原朔太郎』で、第28回読売文学賞(評論・伝記部門)、1978年(昭和53)に、『天下末年 伊藤信吉詩集』で、第9回多喜二・百合子賞、1980年(昭和55)には、『望郷蠻歌・風や天』で、第30回芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。
 その後も、1992年(平成4)に高橋元吉文化賞、1993年(平成5)に『上州おたくら 私の方言詩集』で、第2回丸山豊記念現代詩賞を受賞、1996年(平成8) 群馬県立土屋文明記念文学館の初代館長に就任しました。1997年(平成9)に『監獄裏の詩人たち』で、第48回読売文学賞(随筆・紀行部門)、1999年(平成11)に平成10年度日本芸術院賞、恩賜賞、2002年(平成14)には、『老世紀界隈で』で、第17回詩歌文学館賞(現代詩部門)を受賞しましたが、同年8月3日に、東京において、肺炎のため、95歳で亡くなっています。

<伊藤信吉の主要な著作>

・第一詩集『故郷(こきょう)』(1933年)
・評論集『島崎藤村(とうそん)の文学』(1936年)
・『現代詩の鑑賞』上下(1952年、1954年)
・『高村光太郎』(1958年)
・『ユートピア紀行』(1974年)第2回平林たい子文学賞受賞
・第二詩集『上州』(1976年)
・『天下末年 伊藤信吉詩集』(1977年)第9回多喜二・百合子賞受賞
・『萩原朔太郎』(1977年)第28回読売文学賞(評論・伝記部門)受賞
・『望郷蠻歌・風や天』(1979年)第30回芸術選奨文部大臣賞受賞
・『上州おたくら 私の方言詩集』(1993年)第2回丸山豊記念現代詩賞受賞
・『監獄裏の詩人たち』(1996年)第48回読売文学賞(随筆・紀行部門)受賞
・『老世紀界隈で』(2001年)第17回詩歌文学館賞(現代詩部門)受賞

〇伊藤信吉関係略年表

・1906年(明治39)11月30日 群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現在の前橋市元総社町)において、農家だった父・伊藤実太郎、母・みねの長男として生まれる
・1923年(大正12) 群馬県庁商工課に勤務する
・1924年(大正13) 萩原朔太郎を訪ね知遇を得る
・1928年(昭和3) 県庁を退職し上京し、草野心平の詩誌「学校」に参加する
・1929年(昭和4) 再び上京し、プロレタリア詩人会に参加する
・1931年(昭和6) 全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)に加盟し、雑誌「ナップ」「プロレタリア詩」等に作品を発表する
・1932年(昭和7) 「治安維持法」違反容疑で検挙され、プロレタリア文学運動から退く
・1933年(昭和8) 第一詩集『故郷』を刊行する
・1936年(昭和11) 最初の文芸評論『島崎藤村の文学』を刊行、都新聞宇都宮支局員となり移住する
・1939年(昭和14) 吉田健一らと「批評」を創刊する
・1941年(昭和16) 都新聞を退社し、報知新聞社に勤務する
・1942年(昭和17) 萩原朔太郎が死去すると、小学館版『萩原朔太郎全集』の編集を担当、報知新聞社を退社する
・1946年(昭和21) 交通労働研究所を設立し『交通労働』の発行に携わる
・1949年(昭和24) 新日本文学会系の『新日本詩人』の第1号の編集にも関与する
・1964年(昭和39) 萩原朔太郎研究会が発足すると会長となる
・1967年(昭和42) 日本現代詩人会の会長となり、中央大学文学部兼任講師となる
・1969年(昭和44) 日本現代詩人会の会長を辞める
・1973年(昭和48) 「小選挙区制に反対する詩人の会」を結成して代表となり、横浜市へ移住する
・1974年(昭和49) 『ユートピア紀行』で、第2回平林たい子文学賞を受賞する
・1975年(昭和50) 中央大学文学部兼任講師を辞める
・1976年(昭和51) 第二詩集『上州』を刊行する
・1977年(昭和52) 『萩原朔太郎』で、第28回読売文学賞(評論・伝記部門)を受賞する
・1978年(昭和53) 『天下末年 伊藤信吉詩集』で、第9回多喜二・百合子賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『望郷蠻歌・風や天』で、第30回芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1992年(平成4) 高橋元吉文化賞を受賞する
・1993年(平成5) 『上州おたくら 私の方言詩集』で、第2回丸山豊記念現代詩賞を受賞する
・1996年(平成8) 群馬県立土屋文明記念文学館の初代館長となる
・1997年(平成9) 『監獄裏の詩人たち』で、第48回読売文学賞(随筆・紀行部門)を受賞する
・1999年(平成11) 平成10年度日本芸術院賞、恩賜賞を受賞する
・2002年(平成14) 『老世紀界隈で』で、第17回詩歌文学館賞(現代詩部門)を受賞する
・2002年(平成14)8月3日 東京において、肺炎のため、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)公家・歌人藤原俊成の命日(新暦12月22日)詳細
1888年(明治21)日本とメキシコがアジア以外では初の対等条約となる「日墨修好通商条約」に調印する詳細
1908年(明治41)駐米大使高平小五郎と米国国務長官エルフ・ルートが交換覚書「高平・ルート協定」に調印する詳細
1938年(昭和13)御前会議において、「日支新関係調整方針」が決定される詳細
1945年(昭和20)「ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着する詳細
1947年(昭和22)「職業安定法」が公布(施行は同年12月1日)される詳細
1955年(昭和30)社会運動家・政治学者大山郁夫の命日詳細
1992年(平成4)安芸灘諸島連絡架橋(安芸灘とびしま海道)を構成する豊浜大橋<543m・3径間連続トラス橋>が開通する詳細

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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、詩人・童謡作家中村雨紅の生まれた日(戸籍上は2月6日)です。
 中村雨紅(なかむら うこう)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日>に、東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれましたが、本名は高井宮吉(たかい みやきち)と言いました。1909年(明治42)に上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進み、1911年(明治44)に卒業後、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学します。
 1916年(大正5)に東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤め、翌年には、南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となりました。1918年(大正7)に日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始めます。
 1919年(大正8)に童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載され、1923年(大正12)には、文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたものの、関東大震災のため、多くの楽譜が失われました。1924年(大正13)に日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、1926年(大正15)には、日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任しています。
 1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職し、1956年(昭和31)には、還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立されました。1965年(昭和40)に望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞、1970年(昭和45)には、雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立しています。
 1971年(昭和46)に神奈川県厚木市の県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院し、翌年5月8日に、神奈同病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなりました。1993年(平成5)に雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立され、2005年(平成17)から、JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用されています。

〇中村雨紅の主要な作品

<作詞>
・『夕焼小焼』作曲:草川信
・『ふる里と母と』作曲:山本正夫
・『お舟の三日月』作曲:山本正夫
・『こんこん小兎』作曲:山本正夫
・『早春』作曲:山本正夫
・『花吹雪』作曲:山本正夫
・『花の夕ぐれ』作曲:山本正夫
・『坊やのお家』作曲:山本正夫
・『赤いものなあに』作曲:山本正夫
・『かくれんぼ』作曲:林松木
・『父さん恋しろ』作曲:林松木
・『ギッコンバッタン』作曲:井上武士
・『紅緒のぽっくり』作曲:井上武士
・『秋空』作曲:石島正博
・『海が逃げたか』作曲:星出敏一
・『荻野音頭』作曲:細川潤一
・『カタツムリの遠足』作曲:吉田政治
・『こほろぎ』作曲:黒沢隆朝
・『子猫の小鈴』作曲:守安省
・『ねんねのお里』作曲:杉山長谷夫
・『ばあやのお里』作曲:寺内昭
・『星の子』作曲:黒沢孝三郎
・『みかんとお星さま』作曲:斎藤六三郎

<著書>
・『夕やけ小やけ 中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『抒情短篇集 若かりし日』(1975年)
・『中村雨紅 お伽童話 第1集 - 第3集』(1985年)
・『中村雨紅 青春譜』(1994年)

☆中村雨紅関係略年表

・1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日> 東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれる 
・1909年(明治42) 上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進む
・1911年(明治44) 恩方村報恩高等小学校を卒業し、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学する
・1916年(大正5) 東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤める
・1917年(大正6) 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる
・1918年(大正7) 日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始める
・1919年(大正8) 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載される
・1923年(大正12) 文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたが、関東大震災のため、多くの楽譜が失われ、おば中村家との養子縁組が解消し、漢学者本城間停の次女千代子と結婚する
・1924年(大正13) 日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、長男・喬(たかし)が誕生する
・1926年(大正15) 日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任する
・1927年(昭和2) 長女・緑(みどり)が誕生する
・1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職する
・1956年(昭和31) 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立される
・1965年(昭和40) 望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞する
・1970年(昭和45) 雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立する
・1971年(昭和46) 神奈川県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院する
・1972年(昭和47)5月8日 神奈川県厚木市の県立厚木病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなる
・1993年(平成5) 雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立される
・2005年(平成17) JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1868年(慶応4)新政府が「徳川慶喜追討令」を出す(新暦1月31日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
1996年(平成8)芸術家岡本太郎の命日詳細
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tsukamotokunio01
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、歌人・詩人・評論家・小説家塚本邦雄が生まれた日です。
 塚本邦雄(つかもと くにお)は、大正時代の1920年(大正9)8月7日に、滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)において、近江商人の家系に生まれました。1938年(昭和13)に神崎商業学校(現在の滋賀県立八日市高等学校)を卒業後、又一株式会社(現在の三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・塚本春雄の影響で作歌を始めます。
 1941年(昭和16)に呉海軍工廠に徴用され、1943年(昭和18)には、地元の短歌結社「木槿」に入会しました。大平洋戦争後は大阪に転居し、1947年(昭和22)には、奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事します。1948年(昭和23)に「青樫」の竹島慶子と結婚、山陽地方に転勤となり、1949年(昭和24)には、同人誌『メトード』を創刊しました。
 1951年(昭和26)に杉原一司の追悼として第1歌集『水葬物語』を刊行、1952年(昭和27)には、大阪へ転勤となり、大阪府中河内郡盾津町(現在の東大阪市南鴻池町)へ転居、創刊されたアドニス会の機関誌「ADONIS」に菱川紳名義で寄稿しています。1954年(昭和29)に結核に感染したことが判明、自宅療養に専念(~1956年)後、商社勤務を続け、1956年(昭和31)には、第2歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』を刊行しました。
 1958年(昭和33)に第3歌集『日本人靈歌』を刊行、翌年にこれにより、第3回現代歌人協会賞を受賞します。1985年(昭和60)に「玲瓏(短歌結社)」を設立して機関誌『玲瓏』を創刊、1987年(昭和62)に第15歌集『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞、1989年(平成元)には、第16歌集『不變律』で第23回迢空賞を受賞しました。
 1990年(平成2)に近畿大学文芸学部教授となり、紫綬褒章を受章、1992年(平成4)に第18歌集『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞、1993年(平成5)には、第19歌集『魔王』で第16回現代短歌大賞を受賞します。1997年(平成9)に勲四等旭日小綬章を受章しましたが、1998年(平成10)に妻・慶子が他界、2000年(平成12)には、自らの健康も損ねました。
 前衛短歌運動に影響を与えてきましたが、2005年(平成17)6月9日に、大阪府吹田市の病院において、呼吸不全のため84歳で亡くなっています。

<代表的な短歌>

・「国体につひに考へ及びたる時凍蝶(いててふ)ががばと起てり」(黄金律)
・「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ」(水葬物語)
・「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(日本人靈歌)
・「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(日本人靈歌)
・「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(感幻樂)

〇塚本邦雄の主要な著作

・第1歌集『水葬物語』(1951年)
・第2歌集『装飾楽句(カデンツア)』(1956年)
・第3歌集『日本人霊歌』(1958年)第3回現代歌人協会賞受賞
・第4歌集『水銀伝説』(1961年)
・第5歌集『緑色研究』(1965年)
・第6歌集『感幻楽』(1969年)
・第15歌集『詩歌變』(1987年)第2回詩歌文学館賞受賞
・第16歌集『不變律』(1989年)第23回迢空賞受賞
・第17歌集『波瀾(はらん)』(1989年)
・第18歌集『黄金律』(1992年)第3回斎藤茂吉短歌文学賞受賞
・第19歌集『魔王』(1993年)第16回現代短歌大賞受賞
・第24歌集『約翰伝偽書(ヨハネでんぎしょ)』(2001年)
・評論『定家百首』
・評論『夕暮の諧調』
・評論『定型幻視論』
・評論『茂吉秀歌』
・小説『紺青のわかれ』

☆塚本邦雄関係略年表

・1920年(大正9)8月7日 滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)において、近江商人の家系に生まれる
・1938年(昭和13) 神崎商業学校(現在の滋賀県立八日市高等学校)を卒業後、又一株式会社(現在の三菱商事RtMジャパン)に勤務する
・1941年(昭和16) 呉海軍工廠に徴用される
・1943年(昭和18) 地元の短歌結社「木槿」に入会する
・1947年(昭和22) 奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事する
・1948年(昭和23) 「青樫」の竹島慶子と結婚、山陽地方に転勤となる
・1949年(昭和24) 同人誌『メトード』を創刊する
・1951年(昭和26) 杉原一司の追悼として第1歌集『水葬物語』を刊行する
・1952年(昭和27) 大阪へ転勤となり、大阪府中河内郡盾津町(現在の東大阪市南鴻池町)へ転居、創刊されたアドニス会の機関誌「ADONIS」に菱川紳名義で寄稿する
・1954年(昭和29) 結核に感染したことが判明、自宅療養に専念(~1956年)する
・1956年(昭和31) 第2歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』を刊行する
・1958年(昭和33) 第3歌集『日本人靈歌』を刊行する
・1959年(昭和34) 第3歌集『日本人靈歌』で第3回現代歌人協会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 「玲瓏(短歌結社)」を設立して機関誌『玲瓏』を創刊する
・1987年(昭和62) 第15歌集『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞を受賞する
・1989年(平成元) 第16歌集『不變律』で第23回迢空賞を受賞する
・1990年(平成2)  近畿大学文芸学部教授となり、紫綬褒章を受章する
・1992年(平成4) 第18歌集『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞する
・1993年(平成5) 第19歌集『魔王』で第16回現代短歌大賞を受賞する
・1997年(平成9) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1998年(平成10) 妻・慶子が他界する
・2000年(平成12) 自らの健康を損ねる
・2005年(平成17)6月9日 大阪府吹田市の病院において、呼吸不全のため84歳で亡くなる
・2009年(平成21) 自宅にあった邦雄の蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている
・2020年(平成32) 短歌研究社により「塚本邦雄賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

479年(雄略天皇23)第21代の天皇とされる雄略天皇の命日(『日本書紀』による)詳細
1831年(天保2)戯作者十返舎一九の命日(新暦9月12日)詳細
1880年(明治13)新潟明治13年の大火で、死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸の被害を出す詳細
1936年(昭和11)広田弘毅内閣の五相会議において、「国策の基準」が決定される詳細
1945年(昭和20)豊川空襲があり、豊川海軍工廠空襲が爆撃されて、女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人が亡くなる詳細
1953年(昭和28)「スト規制法」が公布・施行され、電気・石炭事業のストが規制される詳細
1977年(昭和52)北海道の有珠山が32年ぶりに噴火する(有珠山1977年噴火)詳細
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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、小説家・詩人井上光晴の亡くなった日です。
 井上光晴(いのうえ みつはる)は、大正時代の1926年(大正15)5月15日に、福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれましたが、4歳の時に、母が家出し、7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着きました。12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働き、16歳の時に、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入ります。
 1945年(昭和20)に電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務しましたが、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加しました。1947年(昭和22)にガリ版詩集『むぎ』、翌年には、大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行、1949年(昭和24)には、日本共産党九州地方常任委員などを務めます。
 1950年(昭和25)に『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをしましたが、1953年(昭和28)に日本共産党を離党し、1955年(昭和30)に上京して、「週刊新潮」記者等となりました。1958年(昭和33)に吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念し、1960年(昭和35)に「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表、1963年(昭和38)には、原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立します。
 1969年(昭和44)に新日本文学会を退会し、1970年(昭和45)に季刊誌「辺境」を個人編集、1977年(昭和52)には、「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講し、以後九州や北海道はじめ、山形、群馬、新潟、長野など各地で開講して後進の育成に力を注ぎました。1979年(昭和54)に野間宏らと「使者」を創刊、1984年(昭和59)に「文学伝習所」を函館にも開設し、「函館文学」を刊行、1989年(平成元)には、文芸誌「兄弟」が創刊されます。1992年(平成4)5月30日に、東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなっています。

〇井上光晴の主要な著作

・『書かれざる一章』(1950年)
・『病める部分』(1951年)
・『双頭の鷲(わし)』(1952年)
・『長靴島』(1953年)
・長編小説『虚構のクレーン』(1960年)
・『地の群れ』(1963年) 
・『他国の死』(1965年)
・『赤い手毱(てまり)』(1966年)
・小説『黒い森林』(1967年)
・『心優しき叛逆者(はんぎゃくしゃ)たち』(1973年)
・時代小説『丸山蘭水楼の遊女たち』(1976年)
・『井上光晴詩集』(1976年)
・長編小説『憑(つ)かれた人』(1981年)
・『西海原子力発電所』(1986年)
・長編『地下水道』(1987年)
・作品集『サラダキャンプ、北へ』(1987年)
・『虫』(1988年)
・『暗い人』第1部・第2部・第3部(1988年・1989年・1991年)
・『輸送』(1989年)
・『十八歳の詩集』(1998年)

☆井上光晴関係略年表

・1926年(大正15)5月15日 福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれる
・1830年(昭和5) 4歳の時に、母が家出する
・1933年(昭和8) 7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着く
・1938年(昭和13) 12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働く
・1942年(昭和17) 16歳の時、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入る
・1945年(昭和20) 電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加する
・1947年(昭和22) ガリ版詩集『むぎ』を刊行する
・1948年(昭和23) 大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行する
・1949年(昭和24) 日本共産党九州地方常任委員などを務める
・1950年(昭和25) 『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをする
・1953年(昭和28) 日本共産党を離党する
・1955年(昭和30) 上京し、「週刊新潮」記者となる
・1958年(昭和33) 吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念する
・1960年(昭和35) 「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表する
・1963年(昭和38) 原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立する
・1969年(昭和44) 新日本文学会を退会する
・1970年(昭和45) 季刊誌「辺境」を個人編集する
・1977年(昭和52) 「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講する
・1979年(昭和54) 野間宏らと「使者」を創刊する
・1984年(昭和59) 「文学伝習所」を函館に開設し、「函館文学」を刊行する
・1989年(平成元) 文芸誌「兄弟」が創刊される
・1992年(平成4)5月30日 東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1908年(明治41)法学者・弁護士戒能通孝の誕生日詳細
1950年(昭和25)皇居前広場(人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)詳細
「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
生化学・医化学者古武弥四郎の命日詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
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