ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、詩人・童謡作家中村雨紅の生まれた日(戸籍上は2月6日)です。
 中村雨紅(なかむら うこう)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日>に、東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれましたが、本名は高井宮吉(たかい みやきち)と言いました。1909年(明治42)に上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進み、1911年(明治44)に卒業後、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学します。
 1916年(大正5)に東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤め、翌年には、南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となりました。1918年(大正7)に日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始めます。
 1919年(大正8)に童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載され、1923年(大正12)には、文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたものの、関東大震災のため、多くの楽譜が失われました。1924年(大正13)に日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、1926年(大正15)には、日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任しています。
 1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職し、1956年(昭和31)には、還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立されました。1965年(昭和40)に望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞、1970年(昭和45)には、雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立しています。
 1971年(昭和46)に神奈川県厚木市の県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院し、翌年5月8日に、神奈同病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなりました。1993年(平成5)に雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立され、2005年(平成17)から、JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用されています。

〇中村雨紅の主要な作品

<作詞>
・『夕焼小焼』作曲:草川信
・『ふる里と母と』作曲:山本正夫
・『お舟の三日月』作曲:山本正夫
・『こんこん小兎』作曲:山本正夫
・『早春』作曲:山本正夫
・『花吹雪』作曲:山本正夫
・『花の夕ぐれ』作曲:山本正夫
・『坊やのお家』作曲:山本正夫
・『赤いものなあに』作曲:山本正夫
・『かくれんぼ』作曲:林松木
・『父さん恋しろ』作曲:林松木
・『ギッコンバッタン』作曲:井上武士
・『紅緒のぽっくり』作曲:井上武士
・『秋空』作曲:石島正博
・『海が逃げたか』作曲:星出敏一
・『荻野音頭』作曲:細川潤一
・『カタツムリの遠足』作曲:吉田政治
・『こほろぎ』作曲:黒沢隆朝
・『子猫の小鈴』作曲:守安省
・『ねんねのお里』作曲:杉山長谷夫
・『ばあやのお里』作曲:寺内昭
・『星の子』作曲:黒沢孝三郎
・『みかんとお星さま』作曲:斎藤六三郎

<著書>
・『夕やけ小やけ 中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『抒情短篇集 若かりし日』(1975年)
・『中村雨紅 お伽童話 第1集 - 第3集』(1985年)
・『中村雨紅 青春譜』(1994年)

☆中村雨紅関係略年表

・1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日> 東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれる 
・1909年(明治42) 上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進む
・1911年(明治44) 恩方村報恩高等小学校を卒業し、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学する
・1916年(大正5) 東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤める
・1917年(大正6) 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる
・1918年(大正7) 日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始める
・1919年(大正8) 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載される
・1923年(大正12) 文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたが、関東大震災のため、多くの楽譜が失われ、おば中村家との養子縁組が解消し、漢学者本城間停の次女千代子と結婚する
・1924年(大正13) 日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、長男・喬(たかし)が誕生する
・1926年(大正15) 日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任する
・1927年(昭和2) 長女・緑(みどり)が誕生する
・1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職する
・1956年(昭和31) 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立される
・1965年(昭和40) 望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞する
・1970年(昭和45) 雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立する
・1971年(昭和46) 神奈川県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院する
・1972年(昭和47)5月8日 神奈川県厚木市の県立厚木病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなる
・1993年(平成5) 雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立される
・2005年(平成17) JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1868年(慶応4)新政府が「徳川慶喜追討令」を出す(新暦1月31日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
1996年(平成8)芸術家岡本太郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、歌人・詩人・評論家・小説家塚本邦雄が生まれた日です。
 塚本邦雄(つかもと くにお)は、大正時代の1920年(大正9)8月7日に、滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)において、近江商人の家系に生まれました。1938年(昭和13)に神崎商業学校(現在の滋賀県立八日市高等学校)を卒業後、又一株式会社(現在の三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・塚本春雄の影響で作歌を始めます。
 1941年(昭和16)に呉海軍工廠に徴用され、1943年(昭和18)には、地元の短歌結社「木槿」に入会しました。大平洋戦争後は大阪に転居し、1947年(昭和22)には、奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事します。1948年(昭和23)に「青樫」の竹島慶子と結婚、山陽地方に転勤となり、1949年(昭和24)には、同人誌『メトード』を創刊しました。
 1951年(昭和26)に杉原一司の追悼として第1歌集『水葬物語』を刊行、1952年(昭和27)には、大阪へ転勤となり、大阪府中河内郡盾津町(現在の東大阪市南鴻池町)へ転居、創刊されたアドニス会の機関誌「ADONIS」に菱川紳名義で寄稿しています。1954年(昭和29)に結核に感染したことが判明、自宅療養に専念(~1956年)後、商社勤務を続け、1956年(昭和31)には、第2歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』を刊行しました。
 1958年(昭和33)に第3歌集『日本人靈歌』を刊行、翌年にこれにより、第3回現代歌人協会賞を受賞します。1985年(昭和60)に「玲瓏(短歌結社)」を設立して機関誌『玲瓏』を創刊、1987年(昭和62)に第15歌集『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞、1989年(平成元)には、第16歌集『不變律』で第23回迢空賞を受賞しました。
 1990年(平成2)に近畿大学文芸学部教授となり、紫綬褒章を受章、1992年(平成4)に第18歌集『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞、1993年(平成5)には、第19歌集『魔王』で第16回現代短歌大賞を受賞します。1997年(平成9)に勲四等旭日小綬章を受章しましたが、1998年(平成10)に妻・慶子が他界、2000年(平成12)には、自らの健康も損ねました。
 前衛短歌運動に影響を与えてきましたが、2005年(平成17)6月9日に、大阪府吹田市の病院において、呼吸不全のため84歳で亡くなっています。

<代表的な短歌>

・「国体につひに考へ及びたる時凍蝶(いててふ)ががばと起てり」(黄金律)
・「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ」(水葬物語)
・「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(日本人靈歌)
・「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(日本人靈歌)
・「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(感幻樂)

〇塚本邦雄の主要な著作

・第1歌集『水葬物語』(1951年)
・第2歌集『装飾楽句(カデンツア)』(1956年)
・第3歌集『日本人霊歌』(1958年)第3回現代歌人協会賞受賞
・第4歌集『水銀伝説』(1961年)
・第5歌集『緑色研究』(1965年)
・第6歌集『感幻楽』(1969年)
・第15歌集『詩歌變』(1987年)第2回詩歌文学館賞受賞
・第16歌集『不變律』(1989年)第23回迢空賞受賞
・第17歌集『波瀾(はらん)』(1989年)
・第18歌集『黄金律』(1992年)第3回斎藤茂吉短歌文学賞受賞
・第19歌集『魔王』(1993年)第16回現代短歌大賞受賞
・第24歌集『約翰伝偽書(ヨハネでんぎしょ)』(2001年)
・評論『定家百首』
・評論『夕暮の諧調』
・評論『定型幻視論』
・評論『茂吉秀歌』
・小説『紺青のわかれ』

☆塚本邦雄関係略年表

・1920年(大正9)8月7日 滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)において、近江商人の家系に生まれる
・1938年(昭和13) 神崎商業学校(現在の滋賀県立八日市高等学校)を卒業後、又一株式会社(現在の三菱商事RtMジャパン)に勤務する
・1941年(昭和16) 呉海軍工廠に徴用される
・1943年(昭和18) 地元の短歌結社「木槿」に入会する
・1947年(昭和22) 奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事する
・1948年(昭和23) 「青樫」の竹島慶子と結婚、山陽地方に転勤となる
・1949年(昭和24) 同人誌『メトード』を創刊する
・1951年(昭和26) 杉原一司の追悼として第1歌集『水葬物語』を刊行する
・1952年(昭和27) 大阪へ転勤となり、大阪府中河内郡盾津町(現在の東大阪市南鴻池町)へ転居、創刊されたアドニス会の機関誌「ADONIS」に菱川紳名義で寄稿する
・1954年(昭和29) 結核に感染したことが判明、自宅療養に専念(~1956年)する
・1956年(昭和31) 第2歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』を刊行する
・1958年(昭和33) 第3歌集『日本人靈歌』を刊行する
・1959年(昭和34) 第3歌集『日本人靈歌』で第3回現代歌人協会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 「玲瓏(短歌結社)」を設立して機関誌『玲瓏』を創刊する
・1987年(昭和62) 第15歌集『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞を受賞する
・1989年(平成元) 第16歌集『不變律』で第23回迢空賞を受賞する
・1990年(平成2)  近畿大学文芸学部教授となり、紫綬褒章を受章する
・1992年(平成4) 第18歌集『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞する
・1993年(平成5) 第19歌集『魔王』で第16回現代短歌大賞を受賞する
・1997年(平成9) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1998年(平成10) 妻・慶子が他界する
・2000年(平成12) 自らの健康を損ねる
・2005年(平成17)6月9日 大阪府吹田市の病院において、呼吸不全のため84歳で亡くなる
・2009年(平成21) 自宅にあった邦雄の蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている
・2020年(平成32) 短歌研究社により「塚本邦雄賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

479年(雄略天皇23)第21代の天皇とされる雄略天皇の命日(『日本書紀』による)詳細
1831年(天保2)戯作者十返舎一九の命日(新暦9月12日)詳細
1880年(明治13)新潟明治13年の大火で、死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸の被害を出す詳細
1936年(昭和11)広田弘毅内閣の五相会議において、「国策の基準」が決定される詳細
1945年(昭和20)豊川空襲があり、豊川海軍工廠空襲が爆撃されて、女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人が亡くなる詳細
1953年(昭和28)「スト規制法」が公布・施行され、電気・石炭事業のストが規制される詳細
1977年(昭和52)北海道の有珠山が32年ぶりに噴火する(有珠山1977年噴火)詳細
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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、小説家・詩人井上光晴の亡くなった日です。
 井上光晴(いのうえ みつはる)は、大正時代の1926年(大正15)5月15日に、福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれましたが、4歳の時に、母が家出し、7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着きました。12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働き、16歳の時に、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入ります。
 1945年(昭和20)に電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務しましたが、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加しました。1947年(昭和22)にガリ版詩集『むぎ』、翌年には、大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行、1949年(昭和24)には、日本共産党九州地方常任委員などを務めます。
 1950年(昭和25)に『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをしましたが、1953年(昭和28)に日本共産党を離党し、1955年(昭和30)に上京して、「週刊新潮」記者等となりました。1958年(昭和33)に吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念し、1960年(昭和35)に「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表、1963年(昭和38)には、原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立します。
 1969年(昭和44)に新日本文学会を退会し、1970年(昭和45)に季刊誌「辺境」を個人編集、1977年(昭和52)には、「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講し、以後九州や北海道はじめ、山形、群馬、新潟、長野など各地で開講して後進の育成に力を注ぎました。1979年(昭和54)に野間宏らと「使者」を創刊、1984年(昭和59)に「文学伝習所」を函館にも開設し、「函館文学」を刊行、1989年(平成元)には、文芸誌「兄弟」が創刊されます。1992年(平成4)5月30日に、東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなっています。

〇井上光晴の主要な著作

・『書かれざる一章』(1950年)
・『病める部分』(1951年)
・『双頭の鷲(わし)』(1952年)
・『長靴島』(1953年)
・長編小説『虚構のクレーン』(1960年)
・『地の群れ』(1963年) 
・『他国の死』(1965年)
・『赤い手毱(てまり)』(1966年)
・小説『黒い森林』(1967年)
・『心優しき叛逆者(はんぎゃくしゃ)たち』(1973年)
・時代小説『丸山蘭水楼の遊女たち』(1976年)
・『井上光晴詩集』(1976年)
・長編小説『憑(つ)かれた人』(1981年)
・『西海原子力発電所』(1986年)
・長編『地下水道』(1987年)
・作品集『サラダキャンプ、北へ』(1987年)
・『虫』(1988年)
・『暗い人』第1部・第2部・第3部(1988年・1989年・1991年)
・『輸送』(1989年)
・『十八歳の詩集』(1998年)

☆井上光晴関係略年表

・1926年(大正15)5月15日 福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれる
・1830年(昭和5) 4歳の時に、母が家出する
・1933年(昭和8) 7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着く
・1938年(昭和13) 12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働く
・1942年(昭和17) 16歳の時、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入る
・1945年(昭和20) 電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加する
・1947年(昭和22) ガリ版詩集『むぎ』を刊行する
・1948年(昭和23) 大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行する
・1949年(昭和24) 日本共産党九州地方常任委員などを務める
・1950年(昭和25) 『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをする
・1953年(昭和28) 日本共産党を離党する
・1955年(昭和30) 上京し、「週刊新潮」記者となる
・1958年(昭和33) 吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念する
・1960年(昭和35) 「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表する
・1963年(昭和38) 原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立する
・1969年(昭和44) 新日本文学会を退会する
・1970年(昭和45) 季刊誌「辺境」を個人編集する
・1977年(昭和52) 「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講する
・1979年(昭和54) 野間宏らと「使者」を創刊する
・1984年(昭和59) 「文学伝習所」を函館に開設し、「函館文学」を刊行する
・1989年(平成元) 文芸誌「兄弟」が創刊される
・1992年(平成4)5月30日 東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1908年(明治41)法学者・弁護士戒能通孝の誕生日詳細
1950年(昭和25)皇居前広場(人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)詳細
「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
生化学・医化学者古武弥四郎の命日詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
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 今日は、明治時代中頃の1893年(明治26)に、洋画家・歌人・詩人・随筆家中川一政の生まれた日です。
 中川一政(なかがわ かずまさ)は、東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれましたが、1902年(明治35)に母・スワが亡くなりました。1903年(明治36)に東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居、1907年(明治40)には、本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学します。
 在学中の1908年(明治41)に『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録され、1910年(明治43)に『スバル』や『創作』に短歌が紹介され、1911年(明治44)には、『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載されました。1912年(明治45)に錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載され、1913年(大正2)には、中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表しています。
 1914年(大正3)に処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志すようになり、1915年(大正4)には、巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成しました。1916年(大正5)に同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表、1917年(大正6)から二科会展に連続して入賞し、1921年(大正10)には、詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞しています。
 1922年(大正11)に萬鉄五郎、岸田劉生らと春陽会設立に参加、1924年(大正13)に短歌雑誌『日光』の同人となり、1925年(大正14)には、訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居しました。1926年(大正15)に初の画集『中川一政畫集』を出版、1928年(昭和3)に東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当、1930年(昭和5)には、随筆『美術の眺め』を出版します。
 1931年(昭和6)に個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊、1933年(昭和8)に都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当、1937年(昭和12)には、小川芋銭、小杉放菴らと「墨人倶楽部」を結成しました。1938年(昭和13)に第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱され、1939年(昭和14)に初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡り、1940年(昭和15)には、藤田嗣治、小杉放菴、木村荘八らと邦画一如会を結成します。
 1948年(昭和23)に武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、1949年(昭和24)に神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構え、1953年(昭和28)には、初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪しました。1958年(昭和33)に訪中団団長として中国を訪問、1960年(昭和35)に全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納され、1961年(昭和36)には、宮中歌会始の召人となります。
 1964年(昭和39)に日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列、1965年(昭和40)には、ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察しました。1975年(昭和50)に『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となり、1982年(昭和57)には、日中文化交流協会代表団の顧問として訪中します。
 1984年(昭和59) 東京都名誉都民となり、1986年(昭和61)には、母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となりました。1989年(平成元)には、神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館しましたが、1991年(平成3)2月5日に、東京において、97歳で亡くなっています。

〇中川一政の主要な作品

<絵画>

・「酒倉」(1914年)巽(たつみ)画会展入選
・「監獄の横」(1917年)
・「板橋風景」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「静物」(1921年)二科会第8回展二科賞受賞
・「少年像」(1942年)
・「漁村凱風」(1960年)東宮御所蔵
・「福浦」(1965年)
・「箱根駒ケ岳(こまがたけ)」(1982年)

<著作>

・詩集『見なれざる人』(1921年)
・画文集『中川一政画集』(1926年)
・随筆『美術の眺め』(1930年)
・歌集『向ふ山』(1943年)
・随筆『うちには猛犬がいる』(1963年)
・『腹の虫』(1975年)

☆中川一政関係略年表

・1893年(明治26)2月14日 東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれる
・1902年(明治35) 母・スワ(享年33歳)が亡くなる
・1903年(明治36) 東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居する
・1907年(明治40) 本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学する
・1908年(明治41) 『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録される
・1910年(明治43) 『スバル』や『創作』に短歌が紹介される
・1911年(明治44) 『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載される
・1912年(明治45) 錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載される
・1913年(大正2) 中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表する
・1914年(大正3) 処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志す
・1915年(大正4) 巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成する
・1916年(大正5) 同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表する
・1917年(大正6) 二科会第4回展に「風景〔杉と茶畑〕」を出品し、入選、同人雑誌『観照』特別号として「中川一政詩集」が刊行される
・1918年(大正7) 二科会第5回展に「冬〔初冬〕」《夏》を出品し、入選する
・1919年(大正8) 二科会第6回展に「下板橋の川辺(冬)〔板橋風景〕」ほかを出品し入選する
・1920年(大正9) 初の個展(油彩)を開き、二科会第7回展に「自画像」ほかを出品し入選、千家元麿、宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊する
・1921年(大正10) 詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞する
・1922年(大正11) 小杉放庵、萬鉄五郎、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生らと春陽会設立に参加する
・1923年(大正12) 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚する
・1924年(大正13) 短歌雑誌『日光』の同人となる
・1925年(大正14) 訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居する
・1926年(大正15) 初の画集『中川一政畫集』を出版する
・1928年(昭和3) 東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当する
・1930年(昭和5) 随筆『美術の眺め』を出版する
・1931年(昭和6) 個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊する
・1933年(昭和8) 都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当する
・1937年(昭和12) 小川芋銭、小杉放菴、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと「墨人倶楽部」を結成する
・1938年(昭和13) 第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱される
・1939年(昭和14) 初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡る
・1940年(昭和15) 父・政朝が死去(享年79歳)、藤田嗣治、石井柏亭、鍋井克之、津田青楓、牧野虎雄、小杉放菴、石井鶴三、木村荘八らと邦画一如会を結成する
・1945年(昭和20) 疎開先の富山県高岡に約1か月滞在し、山形県酒田を経て宮城県黒川郡宮床村(現在の大和町宮床)で終戦を迎える
・1948年(昭和23) 武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、文芸雑誌『心』が創刊される
・1949年(昭和24) 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構える
・1953年(昭和28) 初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪、東京新聞夕刊文化欄に旅行記を41回にわたり連載する
・1957年(昭和32) 『鉄斎』を武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄とともに監修、出版する
・1958年(昭和33) 「光琳生誕三〇〇年記念展」が北京で開催され、訪中団団長として訪問、東京新聞夕刊文化欄に「中国遊記」を7回にわたり連載する
・1960年(昭和35) 全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納される
・1961年(昭和36) 宮中歌会始の召人となる
・1962年(昭和37) ミュンヘンのバイエルン独日協会の招きで渡欧、ミュンヘン市立美術館で「東洋美術の考え」を講演する
・1963年(昭和38) 「現代日本油絵展」が北京、上海で開催され、訪中洋画家団団長として訪問、随筆『うちには猛犬がゐる』を出版する
・1964年(昭和39) 日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列する
・1965年(昭和40) ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察、東京新聞夕刊文化欄に「私のソ連・欧州旅行」を8回にわたり連載する
・1967年(昭和42) 『中川一政画集』、随筆『遠くの顔』、『近くの顔』画文集、『中川一政書蹟』を出版、書展「中川一政書展」を開催する
・1975年(昭和50) 『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となる
・1982年(昭和57) 日中文化交流協会代表団の顧問として訪中する
・1984年(昭和59) 東京都名誉都民となる
・1986年(昭和61) 母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となる
・1989年(平成元) 神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館する
・1991年(平成3)2月5日 東京において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1896年(明治29)日本画家徳岡神泉の誕生日詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥が亡くなった日です。
 山村暮鳥(やまむら ぼちょう)は、明治時代前期の1884年(明治17)1月10日に、群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれましたが、本名は志村八九十(しむら はくじゅう)と言いました。1889年(明治22)に父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現前橋市)の木暮家に帰り、養子となって、木暮八九十となります。
 1895年(明治28)に、父が事業に失敗したため、堤ヶ岡尋常小学校高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学びました。1899年(明治32)に堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となり、翌年に前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通います。
 1902年(明治35)に聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任、翌年には、ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学しました。1905年(明治38)に北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣されましたが、1906年(明治39)には、満州より帰国、聖三一神学校に復学します。
 1908年(明治41)に卒業後、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任したものの、各地に転任し、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらいました。1910年(明治43)に自由詩社同人となり、1913年(大正2)には、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版します。
 1917年(大正6)に随筆集『小さな穀倉より』を刊行、1918年(大正7)には、水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を刊行しました。1919年(大正8)に結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職、1920年(大正9)に福島県平町に移りましたが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を刊行、1921年(大正10)には、童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』、詩選集『穀粒』を刊行します。
 1922年(大正11)に「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』、童謡童話集『万物の世界』、童話『葦舟の児』、童話『少年行』、童話『お菓子の城』を刊行しました。1923年(大正12)には、ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を刊行したものの、翌年12月8日に、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなっています。
 尚、没後の1925年(大正14)に詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』が刊行され、1926年(大正15)には、雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』が刊行されました。

〇山村暮鳥の主要な著作

・詩集『三人の処女』(1913年)
・詩集『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915年)
・詩集『風は草木にささやいた』(1918年)
・童話集『ちるちる・みちる』(1920年)
・詩集『梢(こずえ)の巣にて』(1921年)
・童話『鉄の靴』(1923年)
・詩集『雲』(1925年)
・遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926年)

☆山村暮鳥関係略年表

・1884年(明治17)1月10日 群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれる
・1889年(明治22) 父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現在の前橋市)の木暮家に帰る。暮鳥は養子という形で引き取られ、木暮八九十となる
・1890年(明治23) 元総社尋常小学校に入学する
・1891年(明治24) 祖父が死去したため、穂高村の志村家に帰り、堤ヶ丘尋常小学校に転入する
・1895年(明治28) 父が事業に失敗したため、高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学ぶ
・1899年(明治32) 堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となる
・1901年(明治34) 前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通う
・1902年(明治35) 聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任する
・1903年(明治36) ミス・ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学する
・1904年(明治37) 「白百合」に木暮流星の筆名で短歌を発表し、キーツの詩を愛読する
・1905年(明治38) 北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣される
・1906年(明治39) 満州より帰国、聖三一神学校に復学する
・1907年(明治40) 雑誌「南北」を創刊し、3号まで発刊、短歌から詩へ移る
・1908年(明治41) 聖三一神学校卒業、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任する
・1909年(明治42) 秋田県湯沢町日本聖公会湯沢講義所に転任、ついで仙台日本聖公会に転任、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう
・1910年(明治43) 東京諸聖徒教会に転籍、自由詩社同人となる
・1911年(明治44) 水戸聖公会に転任、常陸太田講義所に転任する
・1912年(明治45) 福島県平町新田町講義所に転任、詩集の刊行を計画し島崎藤村の序を得るが、刊行を断念する
・1913年(大正2) 教父土田三秀の長女冨士と結婚、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版する
・1914年(大正3) にんぎょ詩社の機関誌「卓上噴水」が創刊される
・1916年(大正5) 暮鳥を編集人、室生犀星を発行人とする雑誌「LE PRISM」を創刊、雑誌「感情」に準同人として加わる
・1917年(大正6) 畑を借りて、野菜などを作り始め、随筆集『小さな穀倉より』を白日社から刊行する
・1918年(大正7) 水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』を新潮社から、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を白日社から刊行する
・1919年(大正8) 結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職する
・1920年(大正9) 福島県平町に移るが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を洛陽堂から刊行する
・1921年(大正10) 童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』を叢文閣から、詩選集『穀粒』を降文館から刊行する
・1922年(大正11) 「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』を聖書文学会から、童謡童話集『万物の世界』を真珠書房から、童話『葦舟の児』を文翫堂から、童話『少年行』を創文社から、童話『お菓子の城』を文星閣から刊行する
・1923年(大正12) ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を内外出版から刊行する
・1924年(大正13)12月8日 茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなる
・1925年(大正14) 詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』がイデア書院から刊行、茨城文芸社主宰暮鳥一周年追悼会が催される
・1926年(大正15) 雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』、紅玉堂より刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
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