ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:評論家

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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の亡くなった日です。
 内田魯庵(うちだ ろあん)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月5日)に、江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれましたが、本名は貢(みつぎ)、別号は不知庵(ふちあん)と言いました。立教学校、東京専門学校、大学予備門 (のちの第一高等学校) などで英語を学んだものの、いずれも中退しています。
 遠縁の翻訳家井上勤の仕事を手伝って語学力を身につけ、1888年(明治21)に、評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場しました。『国民新聞』、『国民之友』にも寄稿して、文芸評論家として活躍します。
 一方で、1889年(明治22)に処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載、1892年(明治25年)には、体系的文学論『文学一斑』を刊行すると共に、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてもデビューしました。1894年(明治27)に三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行、1898年(明治31)には、社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、また、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表します。
 1901年(明治34)に丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集、『ブリタニカ百科事典』の輸入販売に尽力しました。1902年(明治35)に短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博し、1905年(明治38)にトルストイ『復活』、翌年には『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を翻訳出版します。
 その後、1910年(明治43)に起きた大逆事件に対する静かなる抵抗として、翌年にワイルド「悲劇・革命婦人」を朝日新聞に連載し、1913年(大正2)には、トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行いました。晩年は文壇から離れ、読書家・趣味人として生き、1921年(大正10)に随筆集『貘(ばく)の舌』、1922年(大正11)に随筆集『バクダン』、1925年(大正14)には、文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行しています。
 進歩的立場での文明批評や読書文化普及で世に知られましたが、1929年(昭和4年)6月29日に、東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなりました。

〇内田魯庵の主要な著作

・評論『山田美妙大人の小説』(1888年)
・体系的文学論『文学一斑』(1892年)
・社会小説『くれの廿八日』(1898年)
・短編小説集『社会百面相』(1902年)
・随筆集『貘(ばく)の舌』(1921年)
・随筆集『バクダン』(1922年)
・文壇回想録『思ひ出す人々』(1925年)

☆内田魯庵関係略年表

・1868年(慶応4年閏4月5日) 江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれる 
・1887年(明治20年) 東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退する
・1888年(明治21年) 評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場する
・1889年(明治22年) 処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載する
・1890年(明治23年) 春頃、森林太郎(森鴎外)の家を訪ねる
・1892年(明治25年) 体系的文学論『文学一斑』を刊行、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビューする
・1894年(明治27年) 三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行する
・1898年(明治31年) 社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表する
・1901年(明治34年) 丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集する
・1902年(明治35年) 短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博す
・1905年(明治38年) トルストイ『復活』を翻訳する
・1906年(明治39年) トルストイの翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を出版する
・1911年(明治44年) 大逆事件に対する静かなる抵抗としてワイルド『悲劇・革命婦人』を朝日新聞に連載する
・1913年(大正2年) トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行う
・1921年(大正10年) 随筆集『貘(ばく)の舌』を刊行する
・1922年(大正11年) 随筆集『バクダン』を刊行する
・1925年(大正14年) 文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行する
・1929年(昭和4年)6月29日 東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1868年(慶応4)明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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 今日は、平成時代の2017年(平成29)に、詩人・評論家大岡信の亡くなった日です。
 大岡信(おおおか まこと)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)2月16日に、静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれました。静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)、旧制第一高等学校を経て、1950年(昭和25)に、東京大学文科に入学します。
 在学中に、日野啓三、佐野洋らと『現代文学』を創刊し、1953年(昭和28)に文学部国文科を卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属されました。1954年(昭和29)に、谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加、1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行します。
 1963年(昭和38)に読売新聞社を退職、翌年には、明治大学助教授となり、1969年(昭和44)には、評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞しました。1970年(昭和45)に明治大学教授に昇任、この頃から連句(連詩)をはじめ、1972年(昭和47)には、評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞、翌年には、『折々のうた』で菊池寛賞を受賞しました。1987年(昭和62)に明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任、1989年(平成元)には、日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞します。
 1990年(平成2)に『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1993年(平成5)には、『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞めました。1994年(平成6)に第51回恩賜賞・日本芸術院賞、1995年(平成7)に日本芸術院会員、1996年(平成8)に朝日賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞、1997年(平成9)には文化功労者となるなど、数々の栄誉に輝きます。
 さらに、2002年(平成14)に国際交流基金賞、2003年(平成15)に文化勲章、2004年(平成16)にフランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエ受章と続きました。2007年(平成19)に「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了、2009年(平成21)に静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館するなどしたものの、2017年(平成29)4月5日に、静岡県三島市において、呼吸不全のため86歳で亡くなっています。

〇大岡信の主要な著作

・詩集『記憶と現在』(1956年)
・評論『超現実と抒情(じょじょう)』(1965年)
・評論『蕩児(とうじ)の家系』(1969年)藤村記念歴程賞受賞
・評論『紀貫之』(1971年)読売文学賞受賞
・詩集『春 少女に』(1979年)無限賞受賞
・詩集『故郷の水へのメッセージ』(1989年)第7回現代詩花椿賞受賞
・評論『詩人・菅原道真』(1989年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・詩集『地上楽園の午後』(1993年)詩歌文学館賞受賞
・随筆『折々のうた』(1979~2007年)菊池寛賞受賞

☆大岡信関係略年表

・1931年(昭和6)2月16日 静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれる
・1943年(昭和18) 静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)に入学する
・1947年(昭和22) 沼津中学4年から旧制第一高等学校文科丙類に入学する
・1950年(昭和25) 東京大学文科に入学する
・1953年(昭和28) 東京大学卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属される
・1954年(昭和29) 谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加する
・1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行する
・1959年(昭和34) 「フォートリエ展」カタログ作成に協力する
・1962年(昭和37) 武満徹の管弦楽曲のために「環礁」を書き下ろす
・1963年(昭和38) 読売新聞社を退職する
・1965年(昭和40) 明治大学助教授となる
・1969年(昭和44) 評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞する
・1970年(昭和45) 明治大学教授となり、この頃から連句(連詩)をはじめる
・1972年(昭和47) 評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞する
・1979年(昭和54) 「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『折々のうた』で菊池寛賞を受賞する
・1987年(昭和62) 明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任する
・1989年(平成元) 日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞する
・1990年(平成2) 『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1993年(平成5) 『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞める
・1994年(平成6) 第51回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞する
・1995年(平成7) 日本芸術院会員となる
・1996年(平成8) 朝日賞を受賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞を受賞する
・1997年(平成9) 文化功労者となる
・2002年(平成14) ことばと文学による国際文化交流と相互理解に多大な貢献をしたとして、国際交流基金賞を受賞する
・2003年(平成15) 文化勲章を受章する
・2004年(平成16) フランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章する
・2007年(平成19) 「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了する
・2009年(平成21) 静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館する
・2017年(平成29)4月5日 静岡県三島市において、呼吸不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1880年(明治13)「集会条例」(明治13年太政官布告第12号)が公布される詳細
1939年(昭和14)「映画法」が公布され、脚本の事前検閲、外国映画の上映制限などが決まる詳細
1964年(昭和39)詩人・翻訳家三好達治の命日(達治忌)詳細
1984年(昭和59)染色工芸家芹沢銈介の命日詳細
1998年(平成10)明石海峡大橋が開通する詳細
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 今日は、幕末明治維新期の慶応3年に、小説家・評論家斎藤緑雨の生まれた日ですが、新暦では1868年1月24日となります。
 斎藤緑雨(さいとう りょくう)は、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれましたが、本名は賢(まさる)と言いました。1876年(明治9)に、8歳の時一家で上京し、東京府中学を経て、明治法律学校(現在の明治大学)に進みましたが、弟たちのために中途で学業を断念し、文筆で立つことを決意します。
 1884年(明治17)に仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表しました。1885年(明治18年)に自由之燈に入社して記者となりましたが、翌年には退社し、今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表します。
 1889年(明治22)に東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューし、翌年には、大同新聞に入社し、『大夢』を連載しました。1891年(明治24)に小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められ、翌年には森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねるようになります。
 1894年(明治27)に両親を相次いで亡くしたものの、翌年には、「時論日報」という新聞の編輯主幹を任されました。1896年(明治29)に森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始めるようになります。
 1897年(明治30)に小説『あま蛙』を博文館から刊行、翌年には、万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水に知遇を得ました。1899年(明治32)に『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受けましたが、翌年には肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養することとなり、万朝報を辞めています。
 1901年(明治34)に東屋の女中頭だった金澤タケと結婚し、翌年に小唄『おもかげ草』を「明星」に発表しました。1903年(明治36)に小説『みだれ箱』を博文館から刊行、同年に東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなります。
 しかし、病状は悪化し、1904年(明治37年)4月13日に東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなり、翌日の「万朝報」に自身が口述筆記させた死亡広告「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段広告仕候也」が掲載されました。

〇斎藤緑雨の主要な著作

・小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』(1886年)
・戯作評論『小説八宗』(1889年)
・『初学小説心得』(1890年)
・小説『油地獄』(1891年)
・小説『かくれんぼ』(1891年)
・『新体詩見本』(1894年)
・小説『門三味線』(1895年)
・小説『あま蛙(がえる)』(1897年)
・随筆『おぼえ帳』(1897年)
・小説『あられ酒』(1898年)
・『眼前口頭』(1898~99年)
・小説『わすれ貝』(1900年)
・随筆集『青眼白頭』(1900年)
・小説『みだれ箱』(1903年)

☆斎藤緑雨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年1月24日(慶応3年12月30日) 伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれる
・1876年(明治9年) 8歳の時一家で上京する
・1884年(明治17年) 仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表する
・1885年(明治18年) 自由之燈に入社して記者となる
・1886年(明治19年) 今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表する
・1889年(明治22年) 東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューする
・1890年(明治23年) 大同新聞に入社し、『大夢』を連載する
・1891年(明治24年) 小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められる
・1892年(明治25年) 森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねる
・1894年(明治27年) 両親を相次いで亡くす
・1895年(明治28年)9月 「時論日報」という新聞の編輯主幹を任される
・1896年(明治29年) 森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始める
・1897年(明治30年)5月 小説『あま蛙(がえる)』を博文館から刊行する 
・1898年(明治31年) 万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水を知る
・1899年(明治32年) 『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受ける
・1900年(明治33年)10月23日 肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養する
・1900年(明治33年)11月 万朝報を辞める
・1901年(明治34年)4月13日 東屋の女中頭金澤タケを伴って、タケの実家のある神奈川県小田原に移り、タケと結婚する
・1902年(明治35年)3月 小唄『おもかげ草』を「明星」に発表する
・1903年(明治36年)5月 小説『みだれ箱』を博文館から刊行する
・1903年(明治36年)10月 東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓する
・1903年(明治36年)11月 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなる
・1904年(明治37年)4月13日 東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなる
・1904年(明治37年)4月14日 「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」と孤蝶に口述筆記させた死亡広告が「万朝報」に掲載される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、東洋史学者・評論家内藤湖南の生まれた日ですが、新暦では8月27日となります。
 内藤湖南(ないとう こなん)は、秋田県鹿角郡毛馬内町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれましたが、名は虎次郎と言いました。7歳で『二十四孝』と四書を習得し、13歳の時に『日本外史』を通読、さらに詩作を始めたとされます。
 1885年(明治18)に秋田師範高等科を卒業後、綴子(つづれこ)小学校の主席訓導となりましたが、約1年で辞めて、1887年(明治20)には上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事しました。その後、「大同新報」の記者、機関紙「日本人」の編集、「三河新聞」の編集と渡り歩き、1894年(明治27)には、大阪朝日新聞に入ります。
 さらに、「台湾日報」主筆や「万朝報」などの編集で名を馳せ、中国問題の論壇第一人者となりました。1907年(明治40)に狩野亨吉によって京都帝国大学に招かれ、文科大学史学科東洋史学講座講師となります。
 2年後の1909年(明治42)に教授に昇任し、翌年には、狩野亨吉総長の推薦により文学博士となりました。1926年(大正15)に京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となり、翌年には、京都帝国大学名誉教授となります。
 この間、数次にわたり、中国、朝鮮、満州、欧州を訪問、敦煌文書などを調査し、狩野直喜と共に、東洋史・支那学における京都学派を育てました。また、邪馬台国の所在地をめぐる論争では、畿内説を主張し、九州説を唱えた東京帝国大学の白鳥庫吉と激しい論争が展開されます。
 定年退官後は、京都府瓶原村(現在の木津川市)の恭仁(くに)山荘に隠棲し、読書著述の日々を過ごしました。その中で、1929年(昭和4)に東方文化学院京都研究所(現在の京大人文科学研究所)評議員となったり、国宝保存会委員などの要職を続けたものの、1934年(昭和9)6月26日に、数え年69歳で亡くなっています。

〇内藤湖南の主要な著作

・『支那史学史』
・『日本文化史研究』
・『中国近世史』
・『清朝史通論』
・『支那論』
・『中国絵画史』
・『燕山楚水(えんざんそすい)』

☆内藤湖南関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1866年(慶応2年7月18日) 秋田県鹿角郡毛馬内(けまない)町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれる
・1872年(明治5年) 7歳で『二十四孝』と四書を習得する
・1878年(明治11年) 13歳の時、『日本外史』を通読し、さらに詩作を始める
・1885年(明治18年) 秋田師範高等科を卒業後、小学校教育に従事する
・1887年(明治20年) 上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事する
・1894年(明治27年) 大阪朝日新聞に入る 
・1907年(明治40年) 京都帝国大学文科大学史学科東洋史学講座講師となる
・1909年(明治42年) 京都帝国大学教授に就任する
・1910年(明治43年) 狩野亨吉総長の推薦により文学博士となる
・1924年(大正13年)2月15日 従四位となる
・1924年(大正13年)2月23日  勲三等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となる
・1927年(昭和2年) 京都帝国大学名誉教授となる
・1929年(昭和4年) 東方文化学院京都研究所(現・京大人文科学研究所)評議員となる
・1934年(昭和9年)6月26日 数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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 今日は、昭和時代中期の1957年(昭和32)に、ジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家徳富蘇峰が亡くなった日です。
 徳富蘇峰(とくとみ そほう)は、江戸時代後期の1863年(文久3年1月25日)に、肥後国上益城郡津森村杉同(現在の熊本県上益城郡益城町)の母の実家で、代々惣庄屋兼代官(水俣)を勤めた豪農の父・徳富一敬と母・久子の長男として生まれましたが、名は猪一郎(いいちろう)と言いました。幼時は水俣に住んでいましたが、1870年(明治3)に父が熊本藩庁に勤務することになり、一家で熊本大江村に移住します。
 1871年(明治4)から兼坂諄次郎に漢学び始めたものの、1873年(明治6年)には、熊本洋学校に最年少で入学しますが、退学せざるを得なくなりました。1875年(明治8)に父の勧めで熊本洋学校に再入学したものの、熊本バンドに参加しまたもや退学となり、翌年上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学し、京都の同志社英学校に入学します。
 新島襄よりキリスト教の洗礼を受けたものの、1880年(明治13)には、同志社同盟休校に連座したことで新島校長の自鞭事件が生じ、卒業を目前にして仲間と共に自主退学しました。1881年(明治14)に帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加、翌年には、自宅を開放して自ら塾長となり、自由民権を旗印に「大江義塾」を開きます。
 1886年(明治19)に著書『将来之日本』が一躍ベストセラーとなり、大江義塾を閉じ一家をあげて上京、翌年には、友人と父の協力で民友社を創立し、雑誌『国民之友』を発刊、"蘇峰"と名乗るようになりました。1890年(明治23)に国民新聞社を創立、自ら社長兼主筆となり、平民主義を唱え、一躍ジャーナリズムのリーダーとなりましたが、日清戦争前後から対外膨張を主張するようになり、三国干渉を機に国家主義の立場を鮮明にし、従来の平民主義からの変節と非難されます。
 1896年(明治29)に海外事情を知るための世界旅行に出発、翌年帰国後、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任、1904年(明治37)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めました。1905年(明治38)の日露講和に関する日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって国民新聞社が襲撃を受けましたが、1911年(明治44)には桂太郎首相の推薦で勅撰貴族院議員となっています。
 この頃から、藩閥、特に桂太郎と密接に提携した言論活動を展開したものの、1913年(大正2)の大正政変では再び社屋が焼打ちにあい、以後は政界を離れ、評論活動に力を注ぐようになりました。1918年(大正7)から『近世日本国民史』の執筆を開始、1923年(大正12)にはその業績で、第13回帝国学士院賞恩賜賞を受賞します。
 1929年(昭和4)に経営不振から国民新聞社を退社を余儀なくされ、以後は大阪毎日新聞社の社賓となりました。1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1942年(昭和17)に大日本言論報国会会長、日本文学報国会会長に就任、翌年には文化勲章を受章しています。
 太平洋戦争後は、公職追放の指名を受け、熱海に引き籠り、1957年(昭和32)11月2日に、熱海の晩晴草堂に於いて、94歳で亡くなりました。尚、小説家の徳冨蘆花は弟です。

〇徳富蘇峰の主要な著作

・『第十九世紀日本ノ青年及其教育』(1885年)後に『新日本之青年』と解題して刊行
・『官民ノ調和ヲ論ズ』
・『将来之日本』(1886年)
・『日本国防論』(1889年)
・『吉田松陰』(1893年)
・『大日本膨脹論』(1894年)
・『時務一家言』(1913年)
・『大正の青年と帝国の前途』(1916年)
・『杜甫と弥耳敦』(1917年)
・『近世日本国民史』全100巻(1918~1952年)
・『頼山陽』(1926年)
・『中庸之道』(1928年)
・『赤穂義士観』(1929年)
・『我が母』(1931年)
・『勝海舟伝』(1932年)
・『蘇峰自伝』(1935年)
・『昭和国民読本』(1939年)
・『満州建国読本』(1940年)
・『勝利者の悲哀』(1952年)

☆徳富蘇峰関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1863年(文久3年1月25日) 肥後国上益城郡津森村杉同(現在の熊本県上益城郡益城町)で、豪農の父・徳富一敬と葉は・久子の長男として生まれる
・1870年(明治3年) 7歳の時、父が熊本藩庁に勤務することになり、一家は水俣を離れ熊本大江村に移住する
・1871年(明治4年) 兼坂諄次郎に学び始める
・1873年(明治6年) 10歳の時、熊本洋学校に最年少で入学するが、退学せざるを得なくなる
・1875年(明治8年) 12歳の時、父の勧めで再び熊本洋学校に入学したが、熊本バンドに参加しまたもや退学となる
・1876年(明治9年) 上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学し、同志社英学校に入学する
・1876年(明治9年)12月 新島襄よりキリスト教の洗礼を受ける
・1880年(明治13年) 17歳の時、同志社同盟休校に連座したことで新島校長の自鞭事件が生じ、卒業を目前にして仲間と共に自主退学する
・1881年(明治14年) 帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加する
・1882年(明治15年)3月 19歳の時、自宅を開放して自ら塾長となり、自由民権を旗印に「大江義塾」を開く
・1884年(明治17年) 倉園又三(飽託郡本庄村・現熊本市の熊本藩上級官吏)の息女静子と結婚する
・1885年(明治18年) 『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を自費出版する
・1886年(明治19年) 23歳の時、著書『将来之日本』が一躍ベストセラーとなり、大江義塾を閉じ一家をあげて上京する
・1887年(明治20年) 友人と父の協力で民友社を創立し、雑誌『国民之友』を発刊、"蘇峰"と名乗るようになる
・1890年(明治23年) 27歳の時、国民新聞社を創立、自ら社長兼主筆となり、平民主義を唱え、一躍ジャーナリズムのリーダーとなる
・1894~95年(明治27~28年) 日清戦争前後から対外膨張を主張するようになり、国家主義に転じる
・1896年(明治29年) 海外事情を知るための世界旅行に出発する
・1897年(明治30年) 帰国後、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任する
・1904年(明治37年) 日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努める
・1905年(明治38年)9月5日 日露講和に関する日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって国民新聞社が襲撃を受ける
・1911年(明治44年) 桂太郎首相の推薦で勅撰貴族院議員となる
・1913年(大正2年) 大正政変では再び社屋が焼打ちにあい、以後は政界を離れ、評論活動に力を注ぐ
・1915年(大正4年) 勲三等を受章する
・1918年(大正7年) 『近世日本国民史』の執筆を始める
・1923年(大正12年) 『近世日本国民史』で、第13回帝国学士院賞恩賜賞を受賞する
・1925年(大正14年) 国学士院会員となる
・1929年(昭和4年) 経営不振から国民新聞社を退社する
・1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる
・1942年(昭和17年) 大日本言論報国会会長、日本文学報国会会長を務める
・1943年(昭和18年) 文化勲章を受章する
・1945年(昭和20年) 公職追放の指名を受け、熱海に引き籠る
・1957年(昭和32年)11月2日 熱海の晩晴草堂に於いて、95歳で亡くなる
・1998年(平成10年) 山梨県山中湖村に山中湖文学の森・徳富蘇峰館が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1288年(正応元)第96代天皇とされる後醍醐天皇の誕生日(新暦11月26日)詳細
1714年(正徳4)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣・譜代大名柳沢吉保の命日(新暦12月8日)詳細
1942年(昭和17)詩人・歌人北原白秋の命日詳細
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