ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、評論家・女性運動家山川菊栄が亡くなった日です。
 山川菊栄(やまかわ きくえ)は、明治時代中頃の1890年(明治23)11月3日に、東京府麹町区番町において、父・森田龍之助、母・青山千世の二女として生まれました。東京府立第二高等女学校(現在の東京都立竹早高等学校)を経て、1912年(明治45)に、女子英学塾(現在の津田塾大学)を卒業し、英語辞書編集や翻訳などで生計を助けます。
 1914年(大正3)に、神近市子らの雑誌『番紅花』(さふらん)にカーペンターの翻訳を寄稿、1915年(大正4)には、堺利彦、幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会に神近市子の誘いで参加しました。1916年(大正5)に、平民講演会の散会後に拘束検挙され、一夜拘留、この会で山川均と知り合い、山川均編集の『新社会』へ寄稿し、その後、結婚します。
 1919年(大正8)に『女の立場から』を刊行、合衆国労働省婦人局の統計調査資料を入手開始し、1921年(大正10)には、山川均とともに、『社会主義研究』の主筆となり、日本初の社会主義を標榜する女性団体「赤瀾会」を堺真柄、九津美房子らの発起で結成、同年メーデーに初参加しました。1922年(大正11)に、ロシア飢饉救済運動を提唱し、七日会メンバーとともに募金活動など成果をあげ、『女性の叛逆』を刊行します。
 1923年(大正12)に、雑誌『種蒔く人』3月号の特集「無産婦人号ー国際婦人デー記念」を実質的に企画し、巻頭論文「プロレタリアと婦人問題」を執筆、1925年(大正14)には、日本労働組合評議会設立に際し、「婦人部テーゼ」を執筆しました。1928年(昭和3)に、『労農』婦人版の編集を1号から7号まで行い、山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』を刊行します。
 1936年(昭和11)に、鎌倉郡村岡村弥勒寺にて「湘南うづら園」を開業し、鶉の卵を販売して生計をたて、1937年(昭和12)には、第一次人民戦線事件で夫・山川均が検挙されました。1940年(昭和15)に『女は働いている』を刊行、1943年(昭和18)には、柳田国男の企画による女性叢書として、『武家の女性』(三国書房)と『わが住む村』を刊行します。
 大平洋戦争後の1946年(昭和21)に新歴史協会創立し、雑誌『新歴史』に水戸藩生瀬事件を執筆、1947年(昭和22)には、神近市子、平林たい子らとともに民主婦人協会(のちの民主婦人同盟)結成に参加、日本社会党に入党、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任、『明日の女性のために』(鱒書房)を刊行しました。1951年(昭和26)に、労働省を退職、渡英し、イギリス労働党を中心とした労働運動を調査研究、欧州視察ののちインド経由で帰国、1952年(昭和27)には、各地の労働組合会合で講演、日本社会党左派婦人部の準機関誌『婦人のこえ』発刊、主宰します。
 1954年(昭和29)に『平和と革命の国―イギリス』を刊行、1958年(昭和33)には、夫・山川均が亡くなりました。1959年(昭和34)に、建国10周年にあたる中華人民共和国を招聘訪問、1962年(昭和37)には、「婦人問題懇話会」(後の日本婦人問題懇話会)を設立します。
 1974年(昭和49)に『覚書 幕末の水戸藩』を刊行し、翌年に第2回大佛次郎賞を受賞、1977年(昭和52)にまは、『女性解放へ』を刊行しました。1978年(昭和53)に「日本婦人問題懇話会」代表となり、『二十世紀をあゆむ』を刊行、1979年(昭和54)には、『日本婦人運動小史』を刊行しましたが、1980年(昭和55)11月2日に、東京都において、脳梗塞により、90歳で亡くなっています。

<山川菊栄の主要な著作>

・『女の立場から』(1919年)
・『女性の叛逆』(1922年)
・山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』(1928年)
・『女は働いている』(1940年)
・『武家の女性』(1943年)
・『わが住む村』(1943年)
・『明日の女性のために』(1951年)
・『平和と革命の国―イギリス』(1954年)
・『おんな二代の記』(1963年)
・『覚書 幕末の水戸藩』(1974年)第2回大佛次郎賞受賞
・『女性解放へ』(1977年)
・『二十世紀をあゆむ』(1978年)
・『日本婦人運動小史』(1979年)

〇山川菊栄関係略年表

・1890年(明治23)11月3日 東京府麹町区番町において、父・森田龍之助、母・青山千世の二女として生まれる
・1902年(明治35) 東京府立第二高等女学校(現在の東京都立竹早高等学校)へ入学する
・1907年(明治40) 府立第二高等女学校を卒業、国語伝習所に通うかたわら、朝方、成美女学校での開催の勉強会、閨秀文学会を通じて馬場孤蝶に師事し、与謝野晶子、平塚らいてう達と知り合う
・1908年(明治41) 女子英学塾(現在の津田塾大学)へ入学する
・1912年(明治45) 女子英学塾(現在の津田塾大学)を卒業、英語辞書編集や翻訳などで生計を助ける。
・1914年(大正3) 神近市子らの雑誌『番紅花』(さふらん)にカーペンターの翻訳を寄稿する
・1915年(大正4) 堺利彦、幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会に神近市子の誘いで参加する
・1916年(大正5) 平民講演会の散会後に拘束検挙され、一夜拘留、この会で山川均と知り合い、山川均編集の『新社会』へ寄稿し、結婚する
・1917年(大正6) 肺結核を患いながら、長男振作を出産する
・1918年(大正7) 母性保護論争で平塚らいてうや伊藤野枝らに対して、社会主義の立場を明確にしながら『婦人公論』誌上で批判を開始し、論壇の地位を確立する
・1919年(大正8) 『女の立場から』(三田書房)を刊行、合衆国労働省婦人局の統計調査資料を入手開始する
・1921年(大正10) 山川均とともに、『社会主義研究』の主筆となり、日本初の社会主義を標榜する女性団体「赤瀾会」を堺真柄、九津美房子らの発起で結成、同年メーデーに初参加する
・1922年(大正11) ロシア飢饉救済運動を提唱し、七日会メンバーとともに募金活動など成果をあげ、『女性の叛逆』(三穂社)を刊行する
・1923年(大正12) 種蒔き社主催の第1回国際婦人デー記念講演会、神田青年会館で開催、40分ほどで中止解散となり、雑誌『種蒔く人』3月号の特集「無産婦人号ー国際婦人デー記念」を実質的に企画し、巻頭論文「プロレタリアと婦人問題」を執筆する
・1925年(大正14) 日本労働組合評議会設立に際し、「婦人部テーゼ」を執筆する
・1927年(昭和2) 社会主義者への偏見から自己名義で借家できず、母千世の名義で借家を転々とし、鎌倉稲村ケ崎に借地し、ようやく自宅を建築する
・1928年(昭和3) 『労農』婦人版の編集を1号から7号まで行い、山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』(白揚社)を刊行する
・1933年(昭和8) 夫や長男の看病の間、執筆活動にも支障があったが、各新聞雑誌への寄稿文をまとめた『女性五十講』(改造社)を発表、即日発行禁止処分となる
・1936年(昭和11) 稲村ケ崎自宅を貸家として、鎌倉郡村岡村弥勒寺にて「湘南うづら園」を開業し、鶉の卵を販売して生計をたてる
・1937年(昭和12) 第一次人民戦線事件で山川均が検挙される
・1938年(昭和13) 山川均が留置場で肺結核発病、「治安維持法」違反で起訴、巣鴨留置場に移送される
・1939年(昭和14) 山川均が2年の留置生活を経て、保釈され帰宅する
・1940年(昭和15) 『女は働いている』(育生社)を刊行する
・1943年(昭和18) 柳田国男の企画による女性叢書として、『武家の女性』(三国書房)と『わが住む村』(三国書房)を刊行する
・1945年(昭和20) 広島に疎開、敗戦を迎え、年末藤沢に帰宅する
・1946年(昭和21) 新歴史協会創立し、雑誌『新歴史』に水戸藩生瀬事件を執筆する
・1947年(昭和22) 神近市子、平林たい子らとともに民主婦人協会(のちの民主婦人同盟)結成に参加、日本社会党に入党、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任、『明日の女性のために』(鱒書房)を刊行する
・1951年(昭和26) 労働省を退職、渡英し、イギリス労働党を中心とした労働運動を調査研究、欧州視察ののちインド経由で帰国する
・1952年(昭和27) 各地の労働組合会合で講演、日本社会党左派婦人部の準機関誌『婦人のこえ』発刊、主宰する
・1954年(昭和29) 『平和と革命の国―イギリス』(慶友社)を刊行する
・1955年(昭和30) 神奈川県婦人図書館員研究会の第1回研究会で講演を行なう
・1958年(昭和33) 夫・山川均が亡くなる
・1959年(昭和34) 建国10周年にあたる中華人民共和国を招聘訪問する
・1962年(昭和37) 「婦人問題懇話会」(後の日本婦人問題懇話会)を設立する
・1963年(昭和38) 『おんな二代の記』(平凡社)を刊行する
・1967年(昭和42) 労働省婦人少年局廃止の動きに対する反対運動の先頭に立ち、陳情の発起人代表の一人となる
・1974年(昭和49) 『覚書 幕末の水戸藩』(岩波書店)を刊行する
・1975年(昭和50) 『覚書 幕末の水戸藩』で、第2回大佛次郎賞を受賞する
・1977年(昭和52) 『女性解放へ』(日本婦人会議出版部)を刊行する
・1978年(昭和53) 「日本婦人問題懇話会」代表となり、『二十世紀をあゆむ』(大和書房)を刊行する
・1979年(昭和54) 『日本婦人運動小史』(大和書房)を刊行する
・1980年(昭和55)11月2日 東京都において、脳梗塞により、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1288年(正応元)第96代天皇とされる後醍醐天皇の誕生日(新暦11月26日)詳細
1714年(正徳4)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣・譜代大名柳沢吉保の命日(新暦12月8日)詳細
1917年(大正6)中国に関する「石井・ランシング協定」が調印される詳細
1931年(昭和6)東京科学博物館の上野新館(現在の国立科学博物館日本館)が完成し、開館披露が行われる詳細
1940年(昭和15)「国民服令」が公布・施行され、男子の服装として国民服が定められる詳細
1942年(昭和17)詩人・歌人北原白秋の命日詳細
1948年(昭和23)女性として初めて、日本画家の上村松園が文化勲章を受章する詳細
1957年(昭和32)ジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家徳富蘇峰の命日詳細
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 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、小説家・評論家・随筆家橋本治の亡くなった日です。
 橋本治(はしもと おさむ)は、昭和時代中期の1948年(昭和23)3月25日に、東京都杉並区和泉の菓子店に生まれましたが、1951年(昭和26)の3歳の時に世田谷区に転居しました。杉並区立和泉中学校、都立豊多摩高校を経て、1967年(昭和42)に、東京大学文科Ⅲ類へ入学します。
 在学中の1968年(昭和43)に、東京大学駒場祭のポスターで「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打って注目され、イラストレーターとしての活動をスタートました。1970年(昭和45)に「週刊新潮」で「ぽるの日本史」の挿絵を1年間担当、1973年(昭和48)には、卒論『四世鶴屋南北の劇世界』を書いて、東京大学文学部国文学科を卒業し、イラストレーターとなります。
 1977年(昭和52)に、女子高生の風俗を超口語体で描いた『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作となり、文筆業に転じ、1987年(昭和62)には、『桃尻語訳 枕草子』がベストセラーとなりました。1990年(平成2)に『江戸にフランス革命を!』で第17回大佛次郎賞候補に選出されるも落選、1991年(平成3)には、米国で出版された現代日本文学のアンソロジー『Monkey brain sushi』に「愛の牡丹雪」の英訳が収録されています。
 1992年(平成4)に小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師を務め、1993年(平成5)には、雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始(~2005年)しました。1996年(平成8)にオウム真理教事件を題材にした『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞、2002年(平成14)には、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞を受賞しています。
 2004年(平成16)に文化論『上司は思いつきでものを言う』がベストセラーになり、2005年(平成17)に短編集『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞、2008年(平成20)には、『双調 平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受賞しました。2018年(平成30)に『草薙の剣』で第71回野間文芸賞を受賞しましたが、2019年(平成31)1月29日に、東京都新宿区の病院において、肺炎のために70歳で亡くなっています。

〇橋本治の主要な著作

・戯曲『義経伝説』(1991年)
・『桃尻娘』(1977年)第29回小説現代新人賞佳作
・『蓮(はす)と刀』(1982年)
・『その後の仁義なき桃尻娘』(1983年)
・『帰って来た桃尻娘』(1984年)
・『革命的半ズボン主義宣言』(1984年)
・『無花果少年(いちぢくボーイ)と瓜売小僧(うりうりぼうや)』(1985年)
・『完本チャンバラ時代劇講座』(1986年)
・『無花果少年と桃尻娘』(1988年)
・『雨の温州蜜柑姫(おみかんひめ)』(1990年)
・『'89』(1990年)
・『古事記』(1993年)
・シリーズ『貧乏は正しい!』(1994~1996年)
・『桃尻語訳枕草子』上中下(1987、1988、1995年)
・『宗教なんかこわくない!』(1996年)第9回新潮学芸賞受賞
・『絵本徒然草(つれづれぐさ)』上下(1990、1993年)
・『窯変(ようへん)源氏物語』全14巻(1991~1993年)
・『双調平家物語』全15巻(1998~2007年)
・『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(2002年)第1回小林秀雄賞受賞
・短編集『蝶のゆくえ』(2005年)第18回柴田錬三郎賞受賞
・『双調 平家物語』(2008年)第62回毎日出版文化賞受賞
・『草薙の剣』(2018年)第71回野間文芸賞受賞

☆橋本治関係略年表

・1948年(昭和23)3月25日 東京都杉並区の菓子店に生まれる
・1951年(昭和26) 3歳の時に世田谷区に転居する
・1954年(昭和29) 杉並区立新泉小学校へ入学する
・1960年(昭和35) 杉並区立新泉小学校を卒業し、杉並区立和泉中学校へ入学する
・1963年(昭和38) 杉並区立和泉中学校を卒業し、都立豊多摩高校に入学する
・1966年(昭和41) 都立豊多摩高校卒業後、予備校に通う
・1967年(昭和42) 東京大学文科Ⅲ類へ入学する
・1968年(昭和43) 大学2年次に、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った東京大学駒場祭のポスターで注目される
・1970年(昭和45) 「週刊新潮」で「ぽるの日本史」の挿絵を1年間担当する
・1973年(昭和48) 卒論『四世鶴屋南北の劇世界』を書いて、東京大学文学部国文学科を卒業し、イラストレーターとして活動する
・1977年(昭和52) 女子高生の風俗を超口語体で描いた『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作となり、文筆業に転じる
・1987年(昭和62) 『桃尻語訳 枕草子』がベストセラーとなる
・1990年(平成2) 『江戸にフランス革命を!』で第17回大佛次郎賞候補に選出されるも落選する
・1991年(平成3) 米国で出版された現代日本文学のアンソロジー『Monkey brain sushi』に「愛の牡丹雪」の英訳が収録される
・1992年(平成4) 小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師を務める
・1993年(平成5) 雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始(~2005年)する
・1995年(平成7) 雑誌「WIRED」の創刊2号(1995年3月号)で大友良英とトークセッションする
・1996年(平成8) オウム真理教事件を題材にした『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞を受賞する
・1999年(平成11) 東京・三軒茶屋シアタートラムで篠井英介の一人芝居『女賊』の作・演出を務める
・2002年(平成14) 『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞を受賞する
・2004年(平成16) 文化論『上司は思いつきでものを言う』がベストセラーになる
・2005年(平成17) 短編集『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞を受賞する
・2007年(平成19) 小林秀雄賞の選考委員となる(~2018年)
・2008年(平成20) 『双調 平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受賞する
・2009年(平成21) 「週刊新潮」2009年2月号に「巡礼」が一挙掲載される
・2013年(平成25) 東京都立西高等学校で「役に立たないことの大切さ」と題して講演会を行なう
・2018年(平成30) 『草薙の剣』で第71回野間文芸賞を受賞する
・2019年(平成31)1月29日 東京都新宿区の病院において、肺炎のために70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消を設置する(新暦2月26日)詳細
1879年(明治12)日本が国際電信連合(現在の国際電気通信連合)に加盟する詳細
1905年(明治38)週刊「平民新聞」第64号が赤字で発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となる詳細
1944年(昭和19)「中央公論」、「改造」の編集者が検挙され、横浜事件の一つ「中央公論・改造事件」の発端となる詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、評論家・児童文学作家古田足日の生まれた日です。
 古田足日(ふるた たるひ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)11月29日に、愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれました。1940年(昭和15)に川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学したものの、中学4年生の時に戦時下の学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働きます。
 旧制第一高等学校を受験しましたが不合格、翌年旧制松山高等学校も受験しましたが不合格となり、1945年(昭和20)に大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学しました。しかし、1948年(昭和23)に中退し、翌年に上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となります。
 1950年(昭和25)に代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらいました。1951年(昭和26)に早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知り、1953年(昭和28)には、早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚しています。
 1954年(昭和29)に小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊、1955年(昭和30)に日本児童文学者協会常任理事に就任、翌年には、日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務めました。1959年(昭和34)に第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞、1964年(昭和39)には、雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始します。
 1966年(昭和41)に『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞、1968年(昭和43)に『モグラ原っぱのなかまたち』、1970年(昭和45)には、『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行しました。1976年(昭和51)に山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)し、1978年(昭和53)には、『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行しています。
 1980年(昭和55)に『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行、翌年の第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となりました。1993年(平成5)に「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版、1994年(平成6)には、第17回巖谷小波文芸賞を受賞しています。
 1997年(平成9)に日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任、2004年(平成16)には、戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行しました。2008年(平成20)に「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務めましたが、2014年(平成26)6月8日に、東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなっています。

〇古田足日の主要な作品

・評論集『現代児童文学論―近代童話批判』(1959年)日本児童文学者協会新人賞受賞
・『ぬすまれた町』(1961年)
・『宿題ひきうけ株式会社』(1966年)日本児童文学者協会賞受賞
・『モグラ原っぱのなかまたち』(1968年)
・『ロボット・カミイ』(1970年)
・『大きい1年生と小さな2年生』(1970年)
・絵本『おしいれのぼうけん』(1974年)
・『ダンプえんちょうやっつけた』(1978年)
・『さくらんぼクラブにクロがきた』(1980年)第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書

☆古田足日関係略年表

・1927年(昭和2)11月29日 愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれる
・1931年(昭和6) 与謝野晶子夫妻が村を訪問する
・1940年(昭和15) 川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学する
・1943年(昭和18) 学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働き、旧制第一高等学校を受験しましたが不合格となる
・1944年(昭和19) 旧制松山高等学校を受験しましたが不合格となる
・1945年(昭和20) 大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学する
・1948年(昭和23) 大阪外専を中退する
・1949年(昭和24) 上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となる
・1950年(昭和25) 代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらう
・1951年(昭和26) 早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知る
・1953年(昭和28) 早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚する
・1954年(昭和29) 小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊する
・1955年(昭和30) 日本児童文学者協会常任理事に就任する
・1956年(昭和31) 日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務める
・1959年(昭和34) 第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞する
・1960年(昭和35) 東京都豊島区椎名町のアパートに転居する
・1964年(昭和39) 雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始する
・1966年(昭和41) 『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞する
・1967年(昭和42) 雑誌「幼児と保育」(小学館)6月号増刊に『ロボット・カミイ』の原型を発表する
・1968年(昭和43) 『モグラ原っぱのなかまたち』を刊行する
・1970年(昭和45) 『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行する
・1971年(昭和46) 紙芝居『ロボット・カミイ』シリーズ(全4巻)刊行開始(1971~1974年刊行)する
・1974年(昭和49) 『おしいれのぼうけん』刊行。
・1976年(昭和51) 山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)する
・1978年(昭和53) 『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行する
・1980年(昭和55) 『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行する
・1981年(昭和56) 『さくらんぼクラブにクロがきた』 が第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となる
・1993年(平成5) 「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版する
・1994年(平成6) 第17回巖谷小波文芸賞を受賞する
・1997年(平成9) 日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任する
・2002年(平成14) 『ひみつのやくそく』を刊行する
・2004年(平成16) 戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行する
・2008年(平成20) 「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務める
・2011年(平成23) 『現代児童文学を問い続けて』を刊行する
・2014年(平成26)6月8日 東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)新島襄らが京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設する詳細
1890年(明治23)「大日本帝国憲法」が施行される詳細
第1回帝国議会が開会する詳細
1910年(明治43)白瀬矗中尉ら第1回南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港する詳細
1928年(昭和3)文芸評論家・小説家尾崎秀樹の誕生日詳細
1973年(昭和48)大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す詳細
2002年(平成14)歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎の命日詳細
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tsukamotokunio01
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、歌人・詩人・評論家・小説家塚本邦雄が生まれた日です。
 塚本邦雄(つかもと くにお)は、大正時代の1920年(大正9)8月7日に、滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)において、近江商人の家系に生まれました。1938年(昭和13)に神崎商業学校(現在の滋賀県立八日市高等学校)を卒業後、又一株式会社(現在の三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・塚本春雄の影響で作歌を始めます。
 1941年(昭和16)に呉海軍工廠に徴用され、1943年(昭和18)には、地元の短歌結社「木槿」に入会しました。大平洋戦争後は大阪に転居し、1947年(昭和22)には、奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事します。1948年(昭和23)に「青樫」の竹島慶子と結婚、山陽地方に転勤となり、1949年(昭和24)には、同人誌『メトード』を創刊しました。
 1951年(昭和26)に杉原一司の追悼として第1歌集『水葬物語』を刊行、1952年(昭和27)には、大阪へ転勤となり、大阪府中河内郡盾津町(現在の東大阪市南鴻池町)へ転居、創刊されたアドニス会の機関誌「ADONIS」に菱川紳名義で寄稿しています。1954年(昭和29)に結核に感染したことが判明、自宅療養に専念(~1956年)後、商社勤務を続け、1956年(昭和31)には、第2歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』を刊行しました。
 1958年(昭和33)に第3歌集『日本人靈歌』を刊行、翌年にこれにより、第3回現代歌人協会賞を受賞します。1985年(昭和60)に「玲瓏(短歌結社)」を設立して機関誌『玲瓏』を創刊、1987年(昭和62)に第15歌集『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞、1989年(平成元)には、第16歌集『不變律』で第23回迢空賞を受賞しました。
 1990年(平成2)に近畿大学文芸学部教授となり、紫綬褒章を受章、1992年(平成4)に第18歌集『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞、1993年(平成5)には、第19歌集『魔王』で第16回現代短歌大賞を受賞します。1997年(平成9)に勲四等旭日小綬章を受章しましたが、1998年(平成10)に妻・慶子が他界、2000年(平成12)には、自らの健康も損ねました。
 前衛短歌運動に影響を与えてきましたが、2005年(平成17)6月9日に、大阪府吹田市の病院において、呼吸不全のため84歳で亡くなっています。

<代表的な短歌>

・「国体につひに考へ及びたる時凍蝶(いててふ)ががばと起てり」(黄金律)
・「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ」(水葬物語)
・「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(日本人靈歌)
・「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(日本人靈歌)
・「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(感幻樂)

〇塚本邦雄の主要な著作

・第1歌集『水葬物語』(1951年)
・第2歌集『装飾楽句(カデンツア)』(1956年)
・第3歌集『日本人霊歌』(1958年)第3回現代歌人協会賞受賞
・第4歌集『水銀伝説』(1961年)
・第5歌集『緑色研究』(1965年)
・第6歌集『感幻楽』(1969年)
・第15歌集『詩歌變』(1987年)第2回詩歌文学館賞受賞
・第16歌集『不變律』(1989年)第23回迢空賞受賞
・第17歌集『波瀾(はらん)』(1989年)
・第18歌集『黄金律』(1992年)第3回斎藤茂吉短歌文学賞受賞
・第19歌集『魔王』(1993年)第16回現代短歌大賞受賞
・第24歌集『約翰伝偽書(ヨハネでんぎしょ)』(2001年)
・評論『定家百首』
・評論『夕暮の諧調』
・評論『定型幻視論』
・評論『茂吉秀歌』
・小説『紺青のわかれ』

☆塚本邦雄関係略年表

・1920年(大正9)8月7日 滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)において、近江商人の家系に生まれる
・1938年(昭和13) 神崎商業学校(現在の滋賀県立八日市高等学校)を卒業後、又一株式会社(現在の三菱商事RtMジャパン)に勤務する
・1941年(昭和16) 呉海軍工廠に徴用される
・1943年(昭和18) 地元の短歌結社「木槿」に入会する
・1947年(昭和22) 奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事する
・1948年(昭和23) 「青樫」の竹島慶子と結婚、山陽地方に転勤となる
・1949年(昭和24) 同人誌『メトード』を創刊する
・1951年(昭和26) 杉原一司の追悼として第1歌集『水葬物語』を刊行する
・1952年(昭和27) 大阪へ転勤となり、大阪府中河内郡盾津町(現在の東大阪市南鴻池町)へ転居、創刊されたアドニス会の機関誌「ADONIS」に菱川紳名義で寄稿する
・1954年(昭和29) 結核に感染したことが判明、自宅療養に専念(~1956年)する
・1956年(昭和31) 第2歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』を刊行する
・1958年(昭和33) 第3歌集『日本人靈歌』を刊行する
・1959年(昭和34) 第3歌集『日本人靈歌』で第3回現代歌人協会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 「玲瓏(短歌結社)」を設立して機関誌『玲瓏』を創刊する
・1987年(昭和62) 第15歌集『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞を受賞する
・1989年(平成元) 第16歌集『不變律』で第23回迢空賞を受賞する
・1990年(平成2)  近畿大学文芸学部教授となり、紫綬褒章を受章する
・1992年(平成4) 第18歌集『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞する
・1993年(平成5) 第19歌集『魔王』で第16回現代短歌大賞を受賞する
・1997年(平成9) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1998年(平成10) 妻・慶子が他界する
・2000年(平成12) 自らの健康を損ねる
・2005年(平成17)6月9日 大阪府吹田市の病院において、呼吸不全のため84歳で亡くなる
・2009年(平成21) 自宅にあった邦雄の蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている
・2020年(平成32) 短歌研究社により「塚本邦雄賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

479年(雄略天皇23)第21代の天皇とされる雄略天皇の命日(『日本書紀』による)詳細
1831年(天保2)戯作者十返舎一九の命日(新暦9月12日)詳細
1880年(明治13)新潟明治13年の大火で、死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸の被害を出す詳細
1936年(昭和11)広田弘毅内閣の五相会議において、「国策の基準」が決定される詳細
1945年(昭和20)豊川空襲があり、豊川海軍工廠空襲が爆撃されて、女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人が亡くなる詳細
1953年(昭和28)「スト規制法」が公布・施行され、電気・石炭事業のストが規制される詳細
1977年(昭和52)北海道の有珠山が32年ぶりに噴火する(有珠山1977年噴火)詳細
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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、評論家・英文学者・平和運動家中野好夫が亡くなった日です。
 中野好夫(なかの よしお)は、明治時代後期の1903年(明治36)8月2日に、愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれましたが、翌年に父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居しました。旧制徳島県立徳島中学校、旧制第三高等学校を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
 1926年(大正15)に卒業後、千葉県成田町成田中学校の英語教師となりましたが、胸の疾患で入院して退職、1928年(昭和3)には、東京都郁文館中学に英語教師として再び就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をしました。1929年(昭和4)に東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務め、1931年(昭和6)にルーカスの『批評論』を翻訳刊行、1934年(昭和9)には、『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となります。
 1935年(昭和10)に東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となり、1940年(昭和15)に評伝『アラビアのロレンス』、1943年(昭和18)に『文学評論集』を刊行しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に『反省と出発』、1947年(昭和22)に『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行し、1948年(昭和23)には、東京大学文学部教授となります。
 1949年(昭和24)に「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、1950年(昭和25)には、日本英米文学会の会長(~1952年)となりました。1953年(昭和28)に東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤め、1954年(昭和29)には、渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ねます。
 1958年(昭和33)に東京女子大学講師を辞め、、1960年(昭和35)に沖縄資料センターを東京に設立、1961年(昭和36)には、『最後の沖縄県知事』を刊行し、1964年(昭和39)には、中央大学文学部教授(~1968年)となりました。1965年(昭和40)に『私の憲法勉強』を刊行、1967年(昭和42)には、日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞しています。
 1968年(昭和43)に『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行、1969年(昭和44)に『戦後資料沖縄』を編纂して刊行、1970年(昭和45)には、「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受けました。1971年(昭和46)に東京女子大学大学院講師となり、1974年(昭和49)には、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞しています。
 1978年(昭和53)に第14回琉球新報賞受賞を受賞、1983年(昭和58)には、「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞しました。その他に、憲法擁護や第五福竜丸の保存運動、原水禁運動の統一などに力を尽くしてきましたが、1985年(昭和60)2月20日に、東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなっています。

〇中野好夫の主要な著作

・翻訳『雨』サマセット・モーム作(1940年) 
・翻訳『ガリヴァ旅行記』ジョナサン・スウィフト作(1940年) 
・『文学試論集』全三冊(1942~52年)
・『エリザベス朝演劇講話』(1947年)
・翻訳『ベニスの商人』シェークスピア作(1948年)
・『人間の名において』(1954年)
・『ぼらのへそ』(1958年)
・評伝『アラビアのロレンス』(1963年)
・『シェイクスピアの面白さ』(1967年)第21回毎日出版文化賞受賞
・『スウィフト考』(1969年)
・『人間の死にかた』(1969年)
・『蘆花徳冨健次郎(ろかとくとみけんじろう)』全三部(1972~74年)第1回大仏次郎賞受賞
・翻訳『ローマ帝国滅亡史』ギボン作(1976~85年)未完

☆中野好夫関係略年表

・1903年(明治36)8月2日 愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれる
・1904年(明治37) 父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居する
・1910年(明治43) 徳島市立寺島尋常小学校に入学する
・1916年(大正5) 旧制徳島県立徳島中学校へ入学する
・1920年(大正9) 旧制徳島中学校4年修了で、京都に出て旧制第三高等学校文科甲類に入学する
・1923年(大正12) 東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学文学部英文科を卒業し、千葉県成田町成田中学校の英語教師となるが、胸の疾患で入院する
・1928年(昭和3) 東京都郁文館中学に英語教師として就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をする
・1929年(昭和4) 東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務める
・1930年(昭和5) 土井晩翠の娘・信と結婚する
・1931年(昭和6) ルーカスの『批評論』を翻訳刊行する
・1934年(昭和9) 『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となる
・1935年(昭和10) 東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となる
・1939年(昭和14) 「知識人のある傾向について」を「思想」に発表する
・1940年(昭和15) 評伝『アラビアのロレンス』を刊行、妻・信が亡くなる
・1942年(昭和17) 中村勝麻呂の娘・静と再婚する
・1943年(昭和18) 『文学評論集』を刊行する
・1946年(昭和21) 『反省と出発』を刊行する
・1947年(昭和22) 『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行する
・1948年(昭和23) 東京大学文学部教授となり、『怒りの花束』、『英米文学論』を刊行する
・1949年(昭和24) 「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、『南極のスコット』を刊行する
・1950年(昭和25) 日本英米文学会の会長(~1952年)となる
・1951年(昭和26) 『良識と寛容』を刊行する
・1952年(昭和27) 『私の平和論』を刊行する
・1953年(昭和28) 東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤める
・1954年(昭和29) 渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ね、『人間の名において』を刊行する
・1956年(昭和31) 『私の消極哲学』を刊行する
・1957年(昭和32) バーチェット『十七度線の北』を翻訳刊行、『平和と良識』を刊行する
・1958年(昭和33) 東京女子大学講師を辞め、『ぼらのへそ』を刊行する
・1960年(昭和35) 沖縄資料センターを東京に設立する
・1961年(昭和36) 『最後の沖縄県知事』を刊行する
・1964年(昭和39) 中央大学文学部教授(~1968年)となる
・1965年(昭和40) 『私の憲法勉強』を刊行する
・1967年(昭和42) 日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞する
・1968年(昭和43) 『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行する
・1969年(昭和44) 『戦後資料沖縄』を編纂して刊行する
・1970年(昭和45) 「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受け、新崎盛暉と共著で『沖縄・70年前後』を刊行する
・1971年(昭和46) 東京女子大学大学院講師となる
・1972年(昭和47) 『沖縄と私』、『蘆花徳富健次郎 第一部・第二部』を刊行する
・1973年(昭和48) 『忘れえぬ日本人』を刊行する
・1974年(昭和49) 『蘆花徳富健次郎 第三部』を刊行、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞する
・1976年(昭和51) 『沖縄戦後史』、『風雨前後』を刊行、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅰを翻訳刊行する
・1978年(昭和53) 第14回琉球新報賞受賞を受賞、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅱを翻訳刊行する
・1981年(昭和56) ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅲを翻訳刊行する
・1983年(昭和58) 「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞する
・1985年(昭和60)2月20日 東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

国際デー国際連合が定めた世界社会正義の日です詳細
1886年(明治19)歌人石川啄木の誕生日詳細
1913年(大正2)大正2年東京神田三崎町の大火で、家屋全焼2,376戸、半焼54戸を出す詳細
1928年(昭和3)改正「衆議院議員選挙法」(普通選挙法)により第16回衆議院議員総選挙の投票が行われる詳細
1949年(昭和24)秋田県で第一次能代大火が起き、2,237棟が焼失する詳細
2018年(平成30)俳人金子兜太の命日詳細
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