ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:言語学者

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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、言語学者・国語学者大野晋が亡くなった日です。
 大野晋(おおの すすむ)は、大正時代の1919年(大正8)8月23日に、東京府東京市深川区(現在の江東区)の商家に生まれた、生粋の江戸っ子で、下町っ子でした。東京開成中学校、旧制第一高等学校文科乙類を経て、1941年(昭和16)に東京帝国大学文学部へ入学します。
 しかし、太平洋戦争下の1943年(昭和18)に繰上卒業となり、徴兵検査を受けたところ、肋膜炎の疑いで「丙種合格」となり、徴兵されませんでした。1944年(昭和19)に東京帝国大学文学部国語研究室の副手として勤務を開始したものの、すぐに「肋膜炎の疑い」により、伝染病研究所に入院することとなります。
 太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に清泉女学院高等学校講師、1950年(昭和25)に学習院大学非常勤講師となり、1952年(昭和27)には、同大学文学部助教授に就任しました。1953年(昭和28)に『上代仮名遣(かなづかい)の研究』、1957年(昭和32)に『日本語の起源』を発表、1960年(昭和35)に同大学文学部教授へ昇進し、1962年(昭和37)には、文学博士ともなります。
 1966年(昭和41)に国語審議会委員(3年間)となり、1974年(昭和49)に、20年かけて編纂した『岩波古語辞典』が刊行され、1981年(昭和56)に『日本語とタミル語』を発表しました。1985年(昭和60)に『類語国語辞典』(浜西正人との共著)を上梓、1989年(平成元)に丸谷才一との共著『光る源氏の物語』刊行し、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞、学習院大学を定年退職し、同大学名誉教授となり、東洋英和女学院大学教授となります。
 1993年(平成5)に『係り結びの研究』を発表、翌年に、これにより読売文学賞を受賞、1999年(平成11)には、『日本語練習帳』が190万部を超えるベストセラーになり、井上靖文化賞を受賞しました。2000年(平成12)に『日本語の形成』を発表したものの、2008年(平成20)7月14日に、東京都文京区の順天堂大学医院において、心不全のため、88歳で亡くなっています。

〇大野晋の主要な著作

・『上代仮名遣(かなづかい)の研究』(1953年)
・『日本語の起源』(1957年)
・『日本語の文法を考える』(1978年)
・『日本語以前』(1987年)
・『日本語とタミル語』(1981年)
・『係り結びの研究』(1993年)
・『日本語練習帳』(1999年)
・『日本語の形成』(2000年)

☆大野晋関係略年表

・1919年(大正8)8月23日 東京府東京市深川区(現在の江東区)の商家に生まれる
・1932年(昭和7) 東京開成中学校に入学する
・1938年(昭和13) 第一高等学校 (旧制)文科乙類に入学する
・1941年(昭和16) 第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部へ進む
・1943年(昭和18) 東京帝国大学文学部国文学科を卒業(戦時下で繰上)、徴兵検査を受けたところ、肋膜炎の疑いで「丙種合格」となり、徴兵されなかった
・1944年(昭和19) 東京帝国大学文学部大学院を退学し、国語研究室の副手として勤務を開始するが、すぐに「肋膜炎の疑い」により、伝染病研究所に入院する
・1947年(昭和22) 清泉女学院高等学校講師となる
・1950年(昭和25) 学習院大学非常勤講師となる
・1952年(昭和27) 学習院大学文学部助教授に就任する
・1953年(昭和28) 『上代仮名遣(かなづかい)の研究』を発表する
・1957年(昭和32) 『日本語の起源』を発表する
・1960年(昭和35) 学習院大学文学部教授へ昇進する
・1962年(昭和37) 文学博士となる
・1966年(昭和41) 国語審議会委員(3年間)となる
・1974年(昭和49) 20年かけて編纂した『岩波古語辞典』が刊行される
・1981年(昭和56) 『日本語とタミル語』を発表する
・1985年(昭和60) 『類語国語辞典』(浜西正人との共著)を上梓する
・1989年(平成元) 丸谷才一との共著『光る源氏の物語』を中央公論社より刊行する
・1990年(平成2) 『光る源氏の物語』により、芸術選奨文部大臣賞を受賞、学習院大学を定年退職し、同大学名誉教授となり、東洋英和女学院大学教授となる
・1993年(平成5) 『係り結びの研究』を発表する
・1994年(平成6) 『係り結びの研究』で読売文学賞を受賞する
・1999年(平成11) 『日本語練習帳』が190万部を超えるベストセラーになり、井上靖文化賞を受賞する
・2000年(平成12) 『日本語の形成』を発表する
・2008年(平成20)7月14日 東京都文京区の順天堂大学医院において、心不全のため、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1810年(文化7)武士・医師・蘭学者緒方洪庵の誕生日(新暦8月13日)詳細
1871年(明治4)「廃藩置県の詔」(新暦8月29日)が出される(廃藩置県の日)詳細
1917年(大正6)映画文化の中心地であった東京市を対象とした「活動写真興行取締規則」が公布される詳細
1945年(昭和20)北海道空襲で、青函連絡船の翔鳳丸など8隻が米艦載機の攻撃を受けて沈没する詳細
1967年(昭和42)「世界知的所有権機関を設立する条約」がストックホルムで調印される詳細
1969年(昭和44)洋画家坂本繁二郎の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、言語学者服部四郎が生まれた日です。
 服部四郎(はっとり しろう)は、三重県鈴鹿郡亀山町(現在の亀山市)において生まれ、旧制第一高校を経て、東京帝国大学文学部言語学科に入学、1931年(昭和6)に‎卒業し、大学院へ進みました。1933年(昭和8)に旧満州国に留学し、日本学術振興会の援助を受け、ハイラルなどで、モンゴル語、ブリヤート語やタタール語などのアルタイ諸語の研究を行ない、1936年(昭和11)に帰国して、東京帝国大学文学部講師となります。
 1942年(昭和17)に助教授に昇任し、翌年に「元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究」で、文学博士の学位を取得し、1949年(昭和24)には、教授(言語学講座担当)となりました。1950年(昭和25)にミシガン大学交換教授、1955年(昭和30)には、琉球大学招聘教授となります。
 1966年(昭和41)に榊原陽により東京言語研究所が創設されると、初代運営委員長となり、1969年(昭和44)には、東京大学を定年退官し、名誉教授となりました。1971年(昭和46)に文化功労者、1972年(昭和47)に日本学士院会員、1975年(昭和50)には、日本言語学会会長(~1977年)となります。
 1978年(昭和53)に勲二等旭日重光章受章、1979年(昭和54)にNHK放送文化賞受賞、1982年(昭和57)には、国際言語学者会議(第13回)会長となりました。中国語、モンゴル語からアイヌ語まで東アジアのあらゆる言語に通じ、戦後の言語学研究に指導的な役割を果たしたことにより、1983年(昭和58)に文化勲章受章、常設国際アルタイ学会PIACメダル受章、亀山市名誉市民となったもの、1995年(平成7)1月29日に、神奈川県藤沢市において、86歳で亡くなっています。

〇服部四郎の主要な著作

・『アクセントと方言』(1933年)
・『元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究』(1946年)
・『音声学』(1951年)
・『音韻論と正書法』(1951年)
・『日本語の系統』(1959年)
・『言語学の方法』(1960年)
・『英語基礎語彙の研究』(1968年)

〇服部四郎関係略年表

・1908年(明治41)5月29日 三重県鈴鹿郡亀山町(現在の亀山市)において生まれる
・1931年(昭和6) 東京帝国大学文学部言語学科を卒業する
・1933年(昭和8) 旧満州国に留学する
・1936年(昭和11) 旧満州国から帰国し、東京帝国大学文学部講師となる
・1942年(昭和17) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1943年(昭和18) 「元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究」で、文学博士の学位を取得する
・1949年(昭和24) 東京大学文学部教授(言語学講座担当)となる
・1950年(昭和25) ミシガン大学交換教授となる
・1955年(昭和30) 琉球大学招聘教授(琉球方言研究クラブ発足の契機となる)となる
・1966年(昭和41) 榊原陽により東京言語研究所が創設され、初代運営委員長となる
・1969年(昭和44) 東京大学を定年退官し、名誉教授となる
・1971年(昭和46) 文化功労者となる
・1972年(昭和47) 日本学士院会員となる
・1975年(昭和50) 日本言語学会会長となる
・1977年(昭和52) 日本言語学会会長を辞める
・1978年(昭和53) 勲二等旭日重光章を受章する
・1979年(昭和54) NHK放送文化賞を受賞する
・1982年(昭和57) 国際言語学者会議(第13回)会長となる
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章、常設国際アルタイ学会PIACメダル受章、亀山市名誉市民となる
・1995年(平成7)1月29日 神奈川県藤沢市において、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1889年(明治22)小説家・随筆家・俳人内田百閒の誕生日詳細
1942年(昭和17)歌人・詩人与謝野晶子の命日(白櫻忌)詳細
1945年(昭和20)横浜大空襲により、死者・行方不明3,959人、重軽傷者10,198人、罹災者311,218人を出す詳細
1952年(昭和27)国際通貨基金(IMF)と世界銀行が日本の加盟を承認する詳細
1961年(昭和36)青森県八戸市で白銀大火が起きる詳細
1981年(昭和56)日本で7番目の地下鉄として、京都市営地下鉄が開業(烏丸線北大路駅~京都駅間)する詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、言語学者・国語学者橋本進吉が生まれた日です。
 橋本進吉(はしもと しんきち)は、福井県敦賀郡敦賀町(現在の敦賀市)で、代々の医家であった家の長男として生まれましたが、5歳の時に父を亡くしました。京都府第一中学校(現在の洛北高校)、第三高等学校(現在の京都大学)を経て、東京帝国大学文科大学へ入学します。
 言語学科で学び、「係り結びの起源」を卒業論文として、1906年(明治39)に卒業、国語調査委員会補助委員となり、1909年(明治42)には、東京帝国大学文科大学助手に任ぜられました。日本語の歴史的研究に力をそそぎ、1916年(大正5)に、上田万年との共著『古本節用集の研究』を刊行します。
 1927年(昭和2)に東京帝国大学助教授となり、室町時代末の音韻体系をキリシタン資料によって再構し、1928年(昭和3)には、『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』を出しました。1929年(昭和4)に東京帝国大学教授に昇任し、1931年(昭和6)には、中等学校の文法教科書として『新文典初年級用』を著し、橋本文法として知られます。
 1934年(昭和9)に「文禄元年天草版吉利支丹教義の研究」で文学博士となり、その文法学説を著した『国語法要説』を刊行しました。1942年(昭和17)に日本文学報国会国文学部会長となり、天津教の不敬罪裁判で、いわゆる竹内文書について、上代特殊仮名遣の観点から竹内文書の神代文字を否定、1943年(昭和18)に東京帝国大学を定年退官します。
 1944年(昭和19)に、国語学会発足と同時に初代会長となりましたが、翌年1月30日に、東京において、64歳で亡くなりました。

〇橋本進吉の主要な著作

・『古本節用集の研究』上田万年との共著(1916年)
・『校本万葉集』 (佐佐木信綱らと共編)
・『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』(1928年)
・『新文典初年級用』(1931年)
・『国語法要説』(1934年)
・『古代国語の音韻について』(1942年)
・『国語学概論』
・『国語音韻の研究』
・『古本節用集の研究』
・『新文典別記』
・『文字及び仮名遣の研究』
・『国語音韻史』
・『上代語の研究』

☆橋本進吉関係略年表

・1882年(明治15)12月24日 福井県敦賀郡敦賀町(現在の敦賀市)で、代々の医家であった家の長男に生まれる
・1887年(明治20) 5歳の時、父を失う
・1906年(明治39) 東京帝国大学文科大学言語学科を卒業、国語調査委員会補助委員となる
・1909年(明治42) 東京帝国大学文科大学助手となる
・1916年(大正5) 上田万年との共著『古本節用集の研究』を刊行する
・1927年(昭和2) 東京帝国大学助教授となる
・1928年(昭和3) 『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』を出す
・1929年(昭和4) 東京帝国大学教授となる
・1931年(昭和6) 中等学校の文法教科書として『新文典初年級用』を著し、橋本文法として知られる
・1934年(昭和9) 「文禄元年天草版吉利支丹教義の研究」で文学博士となる
・1942年(昭和17) 日本文学報国会国文学部会長となる
・1943年(昭和18) 東京帝国大学を定年退官する
・1944年(昭和19) 国語学会発足と同時に初代会長となる
・1945年(昭和20)1月30日 東京において、64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)文芸評論家・思想家高山樗牛の命日詳細
1953年(昭和28)日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する詳細
1975年(昭和50)国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される詳細
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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、言語学者・国語学者・随筆家新村出の生まれた日です。
 新村出(しんむら いずる)は、山口県山口において、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれましたが、1889年(明治22)に、父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、元小姓頭取の新村猛雄の養子となりました。1896年(明治29)に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学へ入学、1899年(明治32)に博言学科を卒業、国語研究室助手を経て、1902年(明治35)より東京高等師範学校の教授となる一方で東大大学院で国語学を専攻します。
 1904年(明治37)に東京帝国大学助教授を兼任、1907年(明治40)に京都帝国大学助教授となり、欧州留学に出発し、イギリス・ドイツ・フランスで言語学研究に従事、1908年(明治40)にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として参加、1909年(明治41)には、欧州留学から帰国して京都帝国大学教授となり、言語学講座を担当しました。1910年(明治43)に文学博士、翌年には、京都帝国大学図書館長となり、日本語音韻史や近隣の諸言語との比較研究に成果をあげ、1927年(昭和2)に論文集『東方言語史叢考』を刊行、翌年には帝国学士院会員となります。
 1930年(昭和5)に語源研究『東亜語源志』を刊行、1935年(昭和9)には、宮中の講書始の正メンバーに選ばれ、昭和天皇に国書の進講を行い、国語審議会委員も勤めました。1936年(昭和11)に京都帝国大学を定年退官し名誉教授となってからは、1937年(昭和12)に音声学協会、1938年(昭和13)に日本言語学会、1942年(昭和17)に日本民族学協会などの会長を歴任します。
 1943年(昭和18)に『国語学叢録』を刊行、1949年(昭和24)に国語辞書『言林』を編纂、1955年(昭和30)には、国語辞書『広辞苑』を編纂、初版が発刊されました。これらの功績により、1956年(昭和31)に文化勲章を受章、文人でもあり、『琅玕記 』(1930年)など多くの随筆も残しましたが、1967年(昭和42)8月17日に、京都府京都市北区の自宅において、90歳で亡くなっています。

〇新村出の主要な著作

・南蛮文化論考『南蛮更紗』(1924年)
・南蛮文化論考『南蛮広記』(1925年)
・論文集『東方言語史叢考』(1927年)
・語源研究『東亜語源志』(1930年)
・随筆集『琅玕記 (ろうかんき) 』(1930年)
・『言語学概論』(1935年)
・国語辞書『辞苑』編纂(1935年)
・『日本吉利支丹文化史』(1940年)
・『国語学叢録』(1943年)
・国語辞書『言林』編纂(1949年)
・国語辞書『広辞苑』編纂(1955年)

〇『広辞苑』自序 新村出

 いまさら辞典懐古の自叙でもないが、明治時代の下半期に、国語学言語学を修めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入したころには、恩師上田万年先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両先進の、辞書編集法およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであった。柳村上田からは『新英大辞典』の偉業の紹介を「帝国文学」の誌上で示され、目をみはって海彼にあこがれた。われらもいかにしてか、理想的な大中小はともかくも、あんなに整った辞典を編んでみたいものだと、たのしい夢を見たのであった。
 かくて、英米独仏の大辞書の完備に対して限りなき羨望の情が動き、ひたむき学究的な理想にのみふけりつつ、青春の客気で現実的方面については一層暗愚であったことは、後年とほぼ同様であった。卒業後の三年めの明治三十五年(一九〇二年)から凡そ五年間、それぞれの大辞典の編著や統理に成功を収めた上田・大槻・芳賀・松井等の諸先覚には、他方において国語の研究や調査や教育や改善やの諸事業にわたって計るべからざる種々の資益を得たことが、かれこれと想起されてくる。とりわけ、上田・松井両博士の『大日本国語辞典』と、大槻博士の『大言海』とに関しては、身親しくその編集室に見学した縁故もあったのみか、殊に後者の校訂には深く参与し、前者の再刊に際しては僅少ながら接触したゆかりもあって、自分のためにも、何かと参考に資せられて幸福であった。その後も、かれこれ二つばかりの辞典の編集に参画はしたものの、元より綜合統理の任に当った次第ではなかった。それに反して、自分の仕事は、主として語原や語史、語誌や語釈の、主として分解的な、しかし根本的本質的な方面の考究に専念し、綜合的方面の事業に意を致し力を注ぐまでには至らなかった。それは、自分自身の研究が、当初は音韻および文字に、やや進んでからは漸次語法や語義に及び、後年には段々と語誌に向って来たのであって、要は分解を主とし、綜合にうとかった。
 今から二十年前、私の辞典の処女作が出来て、望外の歓迎を受けたが、内心大いに満足し得ず、『言海』の著者が、古く率直にその巻末に録しておいたごとく、そんなに良く出来あがったものは無く、ただ直してゆくばかりだ、と思って、すぐさま改訂の業を起し、或は簡約し、或は増訂し、同時に業を進めて、大戦の末期に入り、改訂版の原稿が災厄に帰した。簡約版は衆知のごとく、早く印行して世に出でたが、しかし私に代って戦時中には、統理の傍ら、他方には、新たに、語詞の採訪と採集とに力を尽くしつつ専ら改訂の業に従った私の次男猛は、苦心努力の結果、辞書編集上、望外にもこよなき良い経験と智識とを得たかと信ずる。彼自身もまたフランスの大辞典リットレないしラルース等の名著およびダルメステテール等の中辞典から平素得つつある智識を、他山の石として、乃父の『改訂辞苑』旧版本の礎石の材料にも供してくれた。彼は従前のごとくには、今回の『広辞苑』の編集に関して、協力する余裕は十分でなかったが、名古屋大学の行余の力をこれに注いでくれ、老父の能くせざる所を補足し、編集および印刷の進行、人事その他各般の統理に心を尽くしてくれた。現代の国語に対する智識と感覚とについては、当然長所の在ることは認めてよろしく、その点において、むしろ語史にのみ傾倒せる編者の粗漫な一方面を補佐してくれたことを付言したい。また、グリム兄弟の場合とは、全く違った情味が存する。
 以上、主として『改訂辞苑』の進行および始末について述べつつ、その善後の処理に及ばんとしたが、戦後その改訂版の長所を保存し、短所を除去し、内容形態共に新時代の要求に応ずる必要上、根本的修正と増補とを施すことを得たのは、昭和二十三年九月より岩波書店内に設置された編集室において、斯業の経験と智識とを具備する市村宏氏を編集主任となし、終始一貫、増訂の業を進めたことによる。爾来、編集部はこの複雑な編集に従事し、その間いくたびか内員外員の増減変動と場所の転移等とを見たが、書店内外よりの定期臨機に嘱託された諸員諸君の格別なる協力に依って、編集すでに了り、校正および修治の業、将に完成せんとするに至ったのは、まことに欣懐といたす所である。
 抱負と実行、理想と現実、その間、自分の未熟か老境かよりして、事志と違った趣きがあることを自省してやまないが、とにかく、簡明にして平易、広汎にして周到、雅語漢語、古語新語、慣用語と新造語、日用語と専門語、旧外来語と新外来語、新聞語と流行語、みなつとめて博載を期した。発音の正確と語法の説明には意を注ぎて、規範を示さんと欲したけれども、現在の規範こんとんとして未だ定まらぬ不便をなげかねばならなかった。
 誇称してもよいが、われら父子が親交ある哲学・史学・文学の先進同友をはじめ、今日の科学界に令名あり世界的栄誉をも博せられた碩学者より、直接にも間接にも指示を受けた語詞の説明も少からず存し、花さき実のれる、この言語園を展望しながら、感激してやまぬ心境に在るのである。従来の経験により、あとからあとから、自他の注意から、種々補修を要することが、殊に一般辞書の上には生じがちなのを按ずるが、さりとて先進の辞典学者の引いた言葉にたよって、あのラテン語の金言や、ゲーテの箴言にもあるがごとき、過まるは人のつね、容るすは神のみち、とやら申された遁辞めいた文句にすがる気はない。ただ周密な眼光をもって徹底的に過誤なきを期したばかりである。
 もしそれ、物の順序からすると、大辞書が先きに出来あがってから、その後に、それらの成果を収拾し抜萃し、簡易に平明に、短縮して編集してこそ、より完全な中小辞典、簡短(ショーター)とか、要略(コンサイス)とかの文字を冠らせた中型小型の辞書が作られるわけであるが、私一個の場合、その逆のコースを進んで来たので、殊に現今わが国語界の標準規律は未だ緒につかず、新語の粗製濫造のはげしい時代には、程よき中辞典の達成は、省みるに早計であったかも知れない。
 上記のごとく、本書は、当初の出発点こそ改訂版をいささか加除し修正する程度から進んだのであったが、いつしか本来の節度をかなり超えて、根本的修正が、ひとり文字の表記法のみにとどまらず、載録語詞、分量の上のみならず、かなり本質的にも及ぶことになってしまった。結局、実質にも、形式にも、少なからぬ進歩の跡がみとめられると信ずる。従って、頁数や組方の上にも、多大の影響を及ぼし、厚みその他装幀等色々な点にも、予想以上の多難を感ぜねばならなかった。
 かくて、編集完成の時期もおくれたし、諸般の煩雑名状しがたい苦難も甞めなければならなかった。編集部においても、辛うじてこれらの難を克服し得たのであるが、部員の手不足などを補充するために、書店の内部からも、俊敏練達の士の参加協力を得ると共に、臨時に外部からも特に明達懇篤な新進諸学人の援助をも求めることとなり、内外一和、衆力一致、他方もちろん熟練な校正員の補翼にも由り、着々、印刷の工程もなめらかにはかどり、ここに発行の機運に恵まれるに至ったのは、編者の満足これに及ぶものはない。
 それら諸彦の助力を跋文中に銘記するに先だって、特に今記すべき一事は、畏友大野晋氏が、語法と基本語詞につき、更にその同窓板坂元・同美智子両氏の協力をも得て、応急適切な援助を寄せられたことである。
 斯業行程の始終に関しては、一に岩波書店前店主故岩波茂雄氏の宏量と、現社長同雄二郎氏の寛厚に感謝すると共に、事業の進行上絶えず店内の練達者諸賢から、啓発激励を蒙ったことを肝銘する。さかのぼっては、前行『辞苑』の出版改訂時代の、博文館の上局諸氏と、忠実なる編集主任たりし溝江八男太翁と内助の一老友をも想起せざるを得ない。曽て「私の信条」(本全集第十三巻二九七頁)として書いた如く、老至って益々四恩のありがたきを感ずるのみである。(昭和三十年一月一日)

☆新村出関係略年表

・1876年(明治9)10月4日 山口県山口において、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれる
・1889年(明治22) 父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる
・1896年(明治29) 第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学へ入学する
・1899年(明治32) 東京帝国大学文科大学博言学科を卒業する
・1902年(明治35) 東京高等師範学校の教授となる一方で東大大学院で国語学を専攻する
・1904年(明治37) 東京帝国大学助教授を兼任する
・1907年(明治40) 京都帝国大学助教授となり、ヨーロッパへの留学に出発する
・1908年(明治41) ドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として参加する
・1909年(明治42) ヨーロッパ留学から帰国して京都帝国大学教授となり、言語学講座を担当する
・1910年(明治43) 文学博士となる
・1911年(明治44) 京都帝国大学図書館長となる
・1919年(大正8) 中国旅行に出かける
・1921年(大正10) 欧米旅行に出かける
・1924年(大正13) 南蛮文化論考『南蛮更紗』を刊行する
・1925年(大正14) 南蛮文化論考『南蛮広記』を刊行する
・1927年(昭和2) 論文集『東方言語史叢考(そうこう)』を刊行する
・1928年(昭和3) 帝国学士院会員となる
・1930年(昭和5) 語源研究『東亜語源志』を刊行する
・1933年(昭和7) 宮中の講書始の控えメンバーに選ばれる、欧米旅行を行う
・1935年(昭和9) 宮中の講書始の正メンバーに選ばれ、昭和天皇に国書の進講を行う、国語審議会委員を勤める
・1936年(昭和11) 京都帝国大学を定年退官し名誉教授となる
・1937年(昭和12) 音声学協会の会長となる
・1938年(昭和13) 日本言語学会の会長となる
・1942年(昭和17) 日本民族学協会の会長となる
・1943年(昭和18) 『国語学叢録』を刊行する
・1944年(昭和19) 学術会議会員となる
・1949年(昭和24) 国語辞書『言林』を編纂、刊行する
・1950年(昭和25) 日本ダンテ学会の会長となる
・1951年(昭和26) 日西文化協会の会長となる
・1955年(昭和30) 国語辞書『広辞苑』を編纂、初版が発刊される
・1956年(昭和31) 文化勲章を受章する
・1967年(昭和42)8月17日 京都府京都市北区の自宅において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1707年(宝永4) 宝永地震が起き甚大な被害が出る(新暦10月28日)詳細
1870年(明治5)官営模範工場富岡製糸場が操業を開始する(新暦11月4日)詳細
1945年(昭和20)マッカーサーより「GHQ民主化指令」が出される詳細
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