ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:解体新書

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 今日は、江戸時代中期の1774年(安永3)に、前野良沢・杉田玄白らによって、『解体新書』が刊行された日ですが、新暦では4月18日となります。
 『解体新書』(かいたいしんしょ)は、解剖学書で、日本最初の西洋医学書の本格的翻訳書でした。1771年(明和8)の骨ヶ原(小塚原刑場)での女囚の腑分け (解剖) が契機となって、ドイツ人 J.クルムスが1722年に著した「Anatomische Tabellen(解剖図譜)」第3版の蘭訳本「Ontleedkundige Tafelen(俗称:ターヘル・アナトミア)」(1734年) の翻訳を杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが企て、苦労を重ね、3年半の歳月と11回の改稿を経て、1774年(安永3年3月4日)に刊行したものです。
 全文漢文体からなり、本文4巻と序・図1巻で構成され、図は小田野直武が制作、吉雄耕牛の序文と杉田玄白の自序、および凡例が載っていて、自然科学・蘭学の興隆に貢献しました。この翻訳の苦心談が杉田玄白著の『蘭学事始 (らんがくことはじめ) 』として知られています。
 以下に、杉田玄白著『蘭学事始』の『解体新書』が完成した時の記述を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇杉田 玄白(すぎた げんぱく)とは?

 江戸時代後期に活躍した蘭学医です。1733年(享保18年9月13日)に、若狭小浜藩医の父・杉田玄甫と母・八尾氏の娘の子として江戸牛込の小浜藩酒井家の藩邸で生まれましたが、名は翼(たすく)といいました。
 母は出産時に亡くなり、1740年(元文5)には一家で小浜へ移り、1745年(延享2)まで過ごしました。父玄甫が江戸詰めを命じられて再び上京し、18歳から儒者宮瀬竜門に漢学を幕府医官西玄哲に蘭方外科を学びます。
 1752年(宝暦2)には小浜藩医となり、上屋敷に勤めましたが、1757年(宝暦7)には江戸日本橋で開業して町医者ともなり、1765年(明和2)には藩の奥医師となりました。1769年(明和6)には父の玄甫が亡くなりくなり、家督と侍医の職を継ぎ、中屋敷詰となります。
 1771年(明和8)に、小塚原処刑場にて死体解剖を参観、蘭医書『ターヘル・アナトミア』の精緻さを知り、翌日から前野良沢、中川淳庵らとともに翻訳に着手し、1774年(安永3)に『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)を完成しました。1776年(安永5)には藩の中屋敷を出て、開業するとともに、医学塾「天真楼」を開き、大槻玄沢、杉田伯元、宇田川玄真ら多数の門人を育成し、蘭学の発達に貢献します。
 著書も多数あり、晩年には、『蘭学事始』(1815年成稿)などを書きましたが、1817年(文化14年4月17日)に、江戸において、数え年85歳で亡くなりました。

〇前野 良沢(まえの りょうたく)とは?

 江戸時代の蘭学者・医師で、『解体新書』の翻訳者の一人として知られていますが、名は熹、字は子悦、号は楽山、蘭化といいました。
 江戸時代中期の1723年(享保8)に、筑前藩士谷口新介の子として江戸牛込矢に生まれます。幼少の時、父母を亡くし、淀藩の医師で伯父の宮田全沢に養育されました。1748年(寛延元)に、中津藩医師前野東元の養子となり、吉益東洞流医学を修め、その後中津藩医となります。
 40代で蘭学を志し、青木昆陽についてオランダ語を学び、長崎への遊学もしました。その時に、西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れ、江戸に持ち帰って、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周らと翻訳に励みます。
 3年5ヶ月を費やして、翻訳書『解体新書』(1774年刊行)を完成させました。それからも医学、語学、物理、地理、歴史、築城など多方面のオランダ書の翻訳に打ち込みましたが、1803年(享和3年10月17日)に、81歳で亡くなります。
 著訳書に『管蠡秘言』、『和蘭訳筌』、『和蘭築城書』、『輿地図編小解』、『西洋画賛訳文稿』、『仁言私説』、『和蘭訳文略』、『蘭語随筆』、『魯西亜本紀』などがあり、洋学に寄与しました。

☆『蘭学事始』下之卷

○此會業怠らずして勤たりし中、次第に同臭の人も相加り寄りつどふ事なりしが、各志す所ありて一樣ならず、翁は一たび彼國解剖の書を得直に實驗し、東西千古の差ひある事を知り明らめ、治療の實用にも立て、世の醫家の業にも發明ある種にもなしたく、一日もはやく此一部を用立つ樣になし見度と、志を起せし事ゆゑ他に望む所もなく、一日會して解する處は、其夜翻譯して草稿を立て、それに付きては其譯述の仕かたを種々樣々に考へ直せし事、四年の間草稿は十二度迄認かへて、板下に渡すやうになり、遂に解體新書翻譯の業成就したり、抑江戶にて此學を創業して、腑分といひ古りしことを新に解體と譯名し、且社中にて誰いふとなく、蘭學といへる新名を首唱し、我東方闔州につぽんそうこくちゆう自然と通稱となるにも至れり、是れ今時のごとく隆盛となるべき最初嚆矢なり、今を以て考れば、是迄二百年來彼外科法は傳りしなれども、直に彼醫書を譯するといふ事は絕てなかりしが、此時の創業不可思議にも、凡そ醫道の大經大本たる身體內景の書、其新譯の起始となりしは、不用意を以て得る所にして、實に天意とやいふべし、(後略)
 「蘭學事始 下之卷」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1697年(元禄10)国学者・歌人賀茂真淵の誕生日(新暦4月24日)詳細
1806年(文化3)江戸三大大火の一つ、文化の大火が起きる(新暦4月22日)詳細
1952年(昭和27)1952年十勝沖地震(M8.2)が起こり、津波によって死者行方不明者33名を出す詳細
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 今日は、江戸時代後期の1827年(文政10)に、医学者・蘭学者大槻玄沢の亡くなった日ですが、新暦では4月25日となります。
 大槻玄沢(おおつき げんたく)は、1757年(宝暦7年9月28日)に、一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれましたが、名は茂質(しげかた)と言いました。1765年(明和2)、9歳の時に父が藩医となったので、翌年に一関に転居、1769年(明和6)、13歳の時に同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示します。
 1778年(安永7)、22歳の時に江戸への遊学、杉田玄白の私塾・天真楼で医術を修め、前野良沢にオランダ語を学び、1780年(安永9)に良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合いました。1781年(安永10)に蘭学の入門書『蘭学階梯』を起草し、2年後に完成させます。
 1784年(天明4)、28歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐことになり、翌年に長崎遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に向かいました。オランダ通詞本木良永のもとに寄宿、オランダ語を学び、1786年(天明6)には江戸に戻ります。
 本藩の仙台藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられ、蘭学界での地位を確立して、1789年(寛政元)には、江戸三十間堀に私塾・芝蘭堂をひらいて多くの人材育成に当たりました。1790年(寛政2)に『解体新書』の改訂を命ぜられて着手、1794年(寛政6)にはオランダ商館長の参府一行を定宿の長崎屋に訪れ、質疑応答を交わし、太陽暦の新年を祝して、「阿蘭陀正月」の会を芝蘭堂で催します。
 1804年(文化元)に『解体新書』の改訂作業はにいちおう完了し、『重訂解体新書』が出され、漂流民の事歴を聴取した『環海異聞』(1807年)、たばこの研究書『焉録』(1809年)なども刊行されました。1810年(文化7)に幕府天文台蕃書和解御用局員となり、ショメールの百科事典の翻訳『厚生新編』の訳業に参加します。
 1825年(文政8)には、ローレンツ・ハイスターの外科書の翻訳『瘍医新書』を刊行したものの、1827年(文政10年3月30日)に江戸において、数え年71歳で亡くなりました。尚、多くの弟子を育てましたが、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と称されています。

〇大槻玄沢の主要な著作

・『蘭学階梯(かいてい)』(1783年)
・『西賓対晤(せいひんたいご)』
・『環海異聞』(1807年)
・『焉録』(1809年)
・翻訳『瘍医(ようい)新書』4冊(1825年)
・翻訳『重訂解体新書』13冊(1826年)
・『六物新志』

☆大槻玄沢関係略年表(日付は旧暦です)

・1757年(宝暦7年9月28日) 一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれる
・1765年(明和2年) 玄沢9歳の時、オランダ流外科の開業医であった父が藩医となる
・1766年(明和3年) 一関に転居する
・1769年(明和6年) 13歳の時、同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示す
・1778年(安永7年) 22歳の時、江戸への遊学、杉田玄白の私塾・天真楼で医術を修め、前野良沢にオランダ語を学ぶ
・1780年(安永9年) 良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合う
・1781年(安永10年) 『蘭学階梯』2巻を起草する
・1783年(天明3年) 『蘭学階梯(かいてい)』2巻が完成する
・1784年(天明4年) 28歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐことになる
・1785年(天明5年10月) 長崎遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に向かう
・1786年(天明6年5月) 江戸に戻る
・1786年(天明6年8月) 本材木町に単身居を構える
・1786年(天明6年) 本藩の仙台藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられる
・1788年(天明8年) 蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立する
・1789年(寛政元年) 江戸三十間堀に私塾・芝蘭堂をひらいて多くの人材育成に当たる
・1790年(寛政2年) 『解体新書』の改訂を命ぜられ、着手する
・1794年(寛政6年) オランダ商館長の参府一行を定宿の長崎屋に訪れ、質疑応答を交わす
・1794年(寛政6年閏11月11日) 太陽暦の新年を祝して、「阿蘭陀(おらんだ)正月」の会を芝蘭堂で催す
・1804年(文化元年) 『解体新書』の改訂作業はにいちおう完了し、『重訂解体新書』が出される
・1807年(文化4年) 『環海異聞』を出す
・1809年(文化6年) 『焉録』を蘭学塾芝蘭堂の私家版として出版する
・1810年(文化7年) 幕府天文台蕃書和解御用局員となる
・1811年(文化8年) 江戸幕府の天文台に出仕して『厚生新編』の訳業に参加する
・1816年(文化13年3月) 工藤平助の医書『救瘟袖暦』に序を書く
・1825年(文政8年) 翻訳書『瘍医新書』4冊が完成し、刊行する
・1827年(文政10年3月30日) 江戸において、数え年71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1803年(享和3)に、蘭学者・医師前野良沢の亡くなった日ですが、新暦では11月30日となります。
 前野良沢は、江戸時代の蘭学者・医師で、『解体新書』の翻訳者の一人として知られていますが、名は熹、字は子悦、号は楽山、蘭化といいました。
 江戸時代中期の1723年(享保8)に、筑前藩士谷口新介の子として江戸牛込矢に生まれます。幼少の時、父母を亡くし、淀藩の医師で伯父の宮田全沢に養育されました。
 1748年(寛延元)に、中津藩医師前野東元の養子となり、吉益東洞流医学を修め、その後中津藩医となります。
 40代で蘭学を志し、青木昆陽についてオランダ語を学び、長崎への遊学もしました。その時に、西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れ、江戸に持ち帰って、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周らと翻訳に励みます。3年5ヶ月を費やして、翻訳書『解体新書』(1774年刊行)を完成させました。
 それからも医学、語学、物理、地理、歴史、築城など多方面のオランダ書の翻訳に打ち込みましたが、1803年(享和3年10月17日)に、81歳で亡くなります。

〇前野良沢の主な著訳書

・『管蠡秘言』
・『和蘭訳筌』
・『和蘭築城書』
・『輿地図編小解』
・『西洋画賛訳文稿』
・『仁言私説』
・『和蘭訳文略』
・『蘭語随筆』
・『魯西亜本紀』
・『蘭学階梯』
・『魯西亜本記略』
・『字学小成』
・『翻訳運動法』
・『東砂葛記』
・『魯西亜大統略記』、
・『和蘭築城法』
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