ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:角川源義

kadokawashyoten01
 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、角川源義が角川書店を設立した日です。
 角川書店(かどかわしょてん)は、太平洋戦争直後の1945年(昭和20)11月10日に、国文学者で俳人だった角川源義が創業した出版社でした。1948年(昭和23)に雑誌「表現」を刊行(~1949年)、1949年(昭和24)には、名著の廉価版として「角川文庫」創刊し、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救うこととなります。
 1952年(昭和27)に俳句総合誌「俳句」を創刊、1953年(昭和28)には、『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こしました。1954年(昭和29)に短歌総合誌「短歌」創刊、株式会社角川書店に改組、1955年(昭和30)に角川俳句賞と角川短歌賞を設立、1956年(昭和31)には、『角川国語辞典』、『角川漢和辞典』を発刊し、辞典分野に進出します。
 1957年(昭和32)に高校教科書『国語』(総合)で教科書分野に進出、1958年(昭和33)に『日本絵巻物全集』、『図説世界文化史大系』、1960年(昭和35)には、『世界美術全集』を刊行しました。1971年(昭和46)に日本放送協会 NHKの番組『日本史探訪』の出版化など文化全般にわたる総合出版社への脱皮をはかります。
 1975年(昭和50)に創業者の死去に伴い角川春樹が事業を引き継ぎ、1976年(昭和51)には、角川春樹事務所を設立して映画制作に乗り出し、映画と連動して原作者の著作を売り込む独自の販売方式で大成功しました。しかし、1993年(平成5)には、角川春樹社長が麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕されたのを契機に、経営体制が一新され、実弟の角川歴彦が社長に就任します。
 2003年(平成15)に社名を角川ホールディングスに変更して純粋持株会社となり、角川書店を事業会社とし、2004年(平成16)にアスキー、エンターブレインの持株会社を株式公開買付制度で買収して傘下に収め、2006年(平成18)には、社名を角川グループホールディングスに変更しました。2007年(平成19)に角川書店を分割して新たに角川書店,角川マガジンズ(2011エンターブレインと合併),角川グループパブリッシング(2013角川グループホールディングスと合併)が発足、2013年(平成25)には、株式会社KADOKAWAに社名を変更、角川書店を含む連結子会社9社を吸収合併し、持株会社から事業会社に変わります。
 2015年(平成27)に、KADOKAWAが社内カンパニー制を廃止し、「角川書店」は文芸書のブランド名の一つとなり、社名からは姿を消しました。

〇角川書店関係略年表

・1945年(昭和20)11月10日 角川源義が東京都板橋区小竹町の自宅応接間を事務所として角川書店を創立する
・1947年(昭和22) 事務所を千代田区代官町に移転する
・1948年(昭和23) 雑誌「表現」を刊行(~1949年)する
・1949年(昭和24) 名著の廉価版として「角川文庫」創刊し、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救う
・1950年(昭和25) 事務所を千代田区富士見町に移転する
・1952年(昭和27)6月 俳句総合誌「俳句」を創刊する
・1953年(昭和28) 『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こす
・1954年(昭和29) 短歌総合誌「短歌」創刊、株式会社角川書店に改組する
・1955年(昭和30) 角川俳句賞と角川短歌賞を設立する
・1956年(昭和31) 『角川国語辞典』、『角川漢和辞典』を発刊し、辞典分野に進出する
・1957年(昭和32) 高校教科書『国語』(総合)で教科書分野に進出する
・1958年(昭和33) 『日本絵巻物全集』『図説世界文化史大系』を刊行する
・1960年(昭和35) 『世界美術全集』を刊行する
・1971年(昭和46) 日本放送協会 NHKの番組『日本史探訪』の出版化など文化全般にわたる総合出版社への脱皮をはかる
・1975年(昭和50) 創業者の死去に伴い角川春樹が事業を引き継ぐ
・1976年(昭和51) 角川春樹事務所を設立して映画制作に乗り出し,映画と連動して原作者の著作を売り込む独自の販売方式で大成功する
・1993年(平成5) 角川春樹社長が麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕されたのを契機に、経営体制が一新され、実弟の角川歴彦が社長に就任する
・1998年(平成10) 東京証券取引所第2部に上場する
・1999年(平成11) 衛星デジタル放送事業を行う新会社トスカドメインを、東芝をはじめとする11社との合弁で設立する
・2002年(平成14) 大映の営業権を獲得,子会社として角川大映映画を設立する
・2003年(平成15)4月 社名を角川ホールディングスに変更して純粋持株会社となり,角川書店を事業会社とする
・2004年(平成16) アスキー、エンターブレインの持株会社を株式公開買付制度で買収して傘下に収める
・2006年(平成18) 社名を角川グループホールディングスに変更する
・2007年(平成19) 角川書店を分割して新たに角川書店,角川マガジンズ(2011エンターブレインと合併),角川グループパブリッシング(2013角川グループホールディングスと合併)が発足する
・2013年(平成25) 株式会社KADOKAWAに社名を変更、角川書店を含む連結子会社9社を吸収合併し、持株会社から事業会社に変わる
・2014年(平成26) 株式会社KADOKAWAは株式会社ドワンゴ(動画配信サービス会社)と経営統合し共同持株会社「株式会社KADOKAWA・DWANGO」を設立する
・2015年(平成27) 株式会社KADOKAWAはブランドカンパニー制を廃止し、ジャンルごとに新しい局をつくり再編する

〇角川 源義(かどかわ げんよし)とは?

 昭和時代に活躍した実業家・国文学者・俳人です。大正時代の1917年(大正6)10月9日に、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれました。
 1930年(昭和5)に富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学し、1931年(昭和6)に中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿、1932年(昭和7)には、「草上」に投句をはじめます。1935年(昭和10)に中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出ましたが、1936年(昭和11)には、上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会いました。
 1937年(昭和12)に折口の在籍する国学院大学に入学、折口や武田祐吉、柳田國男に師事したものの、1941年(昭和16)には、臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業します。1942年(昭和17)に東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となりました。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、東京都板橋区小竹町で角川書店を設立、1947年(昭和22)に金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加、1948年(昭和23)には、雑誌「表現」を刊行(~1949年)します。1949年(昭和24)に角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救い、1951年(昭和26)には、山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版しました。
 1952年(昭和27)に俳句総合誌「俳句」を創刊、現代俳句協会に入会し、1953年(昭和28)には、『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こします。1954年(昭和29)に短歌総合誌「短歌」創刊、1955年(昭和30)に角川俳句賞と角川短歌賞を設立、1956年(昭和31)に第1句集『ロダンの首』を刊行、1958年(昭和33)には、俳誌「河」を創刊・主宰しました。
 1961年(昭和36)に現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となり、『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)を得て、1964年(昭和39)には、国学院大学文学部講師となります。1967年(昭和42)に俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立、1971年(昭和46)に俳句文学館建設委員長に就任、1972年(昭和47)には、随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。
 1975年(昭和50)には、慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞したものの、10月27日に入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈されています。

<角川源義の代表的な句>

・「何求(と)めて冬帽行くや切通し」(ロダンの首)
・「篁(たかむら)に一水まぎる秋燕」(秋燕)
・「花あれば西行の日とおもふべし」(西行の日)
・「後の月雨に終るや足まくら」

☆角川源義の主要な著作

・論文集『悲劇文学の発生』(1942年)
・句集『ロダンの首』(1956年)
・文芸評論集『語り物文芸の発生』(1961年)
・文芸評論集『源義経』(1966年)
・句集『秋燕』(1966年)
・句集『神との宴』(1969年)
・随想集『雉子の声』(1972年)第20回日本エッセイストクラブ賞受賞
・句集『冬の虹』(1972年)
・句集『西行の日』(1975年)第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1696年(元禄9)第109代とされる明正天皇(女帝)の命日(新暦12月4日)詳細
1920年(大正9)日本画家福王寺法林の誕生日詳細
1940年(昭和15)神武天皇即位2600年とされる「紀元二千六百年記念行事」が始まる詳細
1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細
2008年〈平成20〉数学者伊藤清の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、実業家・国文学者・俳人角川源義の亡くなった日です。
 角川源義(かどかわ げんよし)は、大正時代の1917年(大正6)10月9日に、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれました。1930年(昭和5)に富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学し、1931年(昭和6)に中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿、1932年(昭和7)には、「草上」に投句をはじめます。
 1935年(昭和10)に中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出ましたが、1936年(昭和11)には、上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会いました。1937年(昭和12)に折口の在籍する国学院大学に入学、折口や武田祐吉、柳田國男に師事したものの、1941年(昭和16)には、臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業します。
 1942年(昭和17)に東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となりました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、東京都板橋区小竹町で角川書店を設立、1947年(昭和22)に金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加、1948年(昭和23)には、雑誌「表現」を刊行(~1949年)します。
 1949年(昭和24)に角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救い、1951年(昭和26)には、山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版しました。1952年(昭和27)に俳句総合誌「俳句」を創刊、現代俳句協会に入会し、1953年(昭和28)には、『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こします。
 1954年(昭和29)に短歌総合誌「短歌」創刊、1955年(昭和30)に角川俳句賞と角川短歌賞を設立、1956年(昭和31)に第1句集『ロダンの首』を刊行、1958年(昭和33)には、俳誌「河」を創刊・主宰しました。1961年(昭和36)に現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となり、『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)を得て、1964年(昭和39)には、国学院大学文学部講師となります。
 1967年(昭和42)に俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立、1971年(昭和46)に俳句文学館建設委員長に就任、1972年(昭和47)には、随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。1975年(昭和50)には、慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞したものの、10月27日に入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈されています。

<角川源義の代表的な句>

・「何求(と)めて冬帽行くや切通し」(ロダンの首)
・「篁(たかむら)に一水まぎる秋燕」(秋燕)
・「花あれば西行の日とおもふべし」(西行の日)
・「後の月雨に終るや足まくら」

〇角川源義の主要な著作

・論文集『悲劇文学の発生』(1942年)
・句集『ロダンの首』(1956年)
・文芸評論集『語り物文芸の発生』(1961年)
・文芸評論集『源義経』(1966年)
・句集『秋燕』(1966年)
・句集『神との宴』(1969年)
・随想集『雉子の声』(1972年)第20回日本エッセイストクラブ賞受賞
・句集『冬の虹』(1972年)
・句集『西行の日』(1975年)第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞 

☆角川源義関係略年表

・1917年(大正6)10月9日 富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれる
・1930年(昭和5) 富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学する
・1931年(昭和6) 中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿する
・1932年(昭和7) 「草上」に投句をはじめる
・1935年(昭和10) 中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出る
・1936年(昭和11) 上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会います
・1937年(昭和12) 折口信夫の在籍する国学院大学に入学、折口信夫や武田祐吉、柳田國男に師事する
・1941年(昭和16) 臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業する
・1942年(昭和17) 東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となる
・1945年(昭和20) 東京都板橋区小竹町で角川書店を設立する
・1947年(昭和22) 金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加する
・1948年(昭和23) 雑誌「表現」を刊行(~1949年)する
・1949年(昭和24) 角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救う
・1951年(昭和26) 山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版する
・1952年(昭和27) 俳句総合誌「俳句」創刊、現代俳句協会に入会する
・1953年(昭和28) 『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こす
・1954年(昭和29) 短歌総合誌「短歌」創刊する
・1955年(昭和30) 角川俳句賞と角川短歌賞を設立する
・1956年(昭和31) 第1句集『ロダンの首』を刊行する
・1958年(昭和33) 俳誌「河」を創刊・主宰する
・1961年(昭和36) 現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となる。『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)となる
・1964年(昭和39) 国学院大学文学部講師となる
・1967年(昭和42) 俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立する
・1971年(昭和46) 俳句文学館建設委員長に就任する
・1972年(昭和47) 随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞する
・1975年(昭和50) 慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞、10月27日に、入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈される
・1979年(昭和54) 文学・歴史の学術賞「角川源義賞」が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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