ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:西郷隆盛

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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、西郷隆盛が鹿児島県で主宰していた私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取して、西南戦争の発端となった日です。
 西南戦争(せいなんせんそう)は、明治時代前期の1877年(明治10)に、鹿児島士族が西郷隆盛を擁立して蜂起した反政府暴動で、明治新政府に対する不平士族の反乱では、最大で最後のもので、西南の役とも呼ばれてきました。1873年(明治6)の征韓論で敗れ、下野した西郷らは鹿児島へ戻り、士族組織として私学校を結成します。
 明治新政府との対立が深まり、鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたのを契機に、1877年(明治10)1月30日に、私学校生が集団決起、陸軍火薬庫などを奪い、西郷を盟主として決起し、2月15日に薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始しました。これに対し、2月19日に薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して、官軍として征討に当らせます。
 戦場は熊本や宮崎にまで広がり、2月22日に薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を包囲しましたが、鎮台兵は司令長官谷干城を中心に50日間籠城、徐々に官軍に押されていき、4月15日に官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城しました。守勢に回った薩摩軍は、日向地方に転じて再起を図りましたが、6月1日人吉、7月24日都城、同31日宮崎、佐土原を失い、鹿児島に戻った西郷は同年9月、城山に立てこもり、政府軍の総攻撃を受ける中、同月24日に西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃して、終結します。
 戦いでの戦死者は、官軍側は6,403人、薩摩軍側は6,765人に及び、戦後に斬罪22人を含んで2,760余人が処罰されました。

〇西郷 隆盛】(さいごう たかもり)とは?

 幕末明治維新期に活躍した薩摩藩士・軍人・政治家です。江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。
 1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。
 1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。
 第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
 その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
 その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

☆西南戦争関係略年表

<1873年(明治6)>

・10月23日 西郷隆盛が征韓論に敗れ、辞表を提出(桐野、篠原ら西郷派士官辞職)
・11月10日 西郷、桐野と共に鹿児島へ帰る

<1874年(明治7)>

・2月1日 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる

<1876年(明治9)>

・10月24日 熊本県で神風連の乱が起こる
・10月27日 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・10月28日 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>

・1月 明治新政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考える
・1月30日 鹿児島で私学校生が集団決起、陸軍火薬庫など襲う
・2月3日 私学校党は中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまう
・2月4日 鹿児島暴発の報が明治天皇の行在所に達する
・2月14日 黒田清隆が旧庄内士族のリーダーに手紙で、西郷らに同調しないよう要請する
・2月15日 薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始する
・2月18日 官軍は乃木希典(陸軍少佐)連隊の一部を率いて熊本に向かう
・2月19日 薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせる
・2月20日 薩摩軍の先鋒、別府晋介の二大隊川尻に入る
・2月21日 軍議で薩摩軍の全軍が熊本城を強襲すること決まる
・2月22日 植木で乃木少佐、連隊旗を奪われる、薩摩軍は熊本城の包囲を完了する
・2月23日 官軍の第十四連隊が木葉にて敗れる
・2月24日 官軍の山県参軍博多に到着、薩摩軍は熊本城強攻を中止し、主力は山鹿、田原、木留に進出する
・2月25日 明治新政府は西郷の官位を取り消す、官軍の第一、二旅団南関に入る
・2月27日 薩摩軍は三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死、乃木少佐が負傷する
・3月3日 官軍は木葉・吉次に攻撃を開始する 
・3月4日 熊本の田原坂での戦闘が始まる
・3月13日 黒田清隆が京都の行在所宛て電報で、衝背軍による背面攻撃を建言する
・3月19日 官軍は高島鞆之助の別働第二旅団が日奈久に上陸し、八代まで進撃する
・3月20日 官軍は田原坂の戦いで薩摩軍を破る
・3月21日 黒田清隆が歩兵・警視隊500人を率いて日奈久に上陸する
・3月24~25日 山田顕義以下の別働第二旅団、川路利良以下の別働第三旅団が、八代に上陸する
・3月26日 薩摩軍は、石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにする
・3月30~31日 官軍により松橋が陥落する
・4月1日 官軍は吉次・木留を占領する
・4月4日 薩摩軍別働隊(辺見十郎太・別府晋介指揮)が人吉から八代に来襲、善戦するが、政府増援部隊に阻まれて撤退する
・4月12日 官軍は御船を占領、永山弥一郎(薩軍三番大隊大隊長)が戦死する
・4月15日 官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城、薩摩軍は植木・荻迫・鐙田・三の岳より退去する
・4月20日 官軍は御船で大勝、薩摩軍は矢部に退去、西郷らは人吉へ退去する
・4月27日 薩摩軍は人吉盆地での攻防戦を始める(~6月21日)
・5月28日 西郷は宮崎へ入る
・6月1日 官軍は人吉を占領する
・7月24日 官軍は都城を占領する
・7月31日 薩摩軍は宮崎、佐土原を失い、長井村に追い詰められて解散する
・8月2日 官軍は高鍋を占領する
・8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促す
・8月中旬 延岡の北方約6KMの長井村に追い詰められる
・8月14日 薩摩軍は延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退する
・8月15日 薩摩軍は延岡への攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れる
・8月16日 西郷は解隊布告する
・9月1日 官軍は同地警備の新撰旅団を破って鹿児島市内に進出する
・9月6日頃 官軍主力は鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲する
・9月22日 城山で西郷の名による決死の檄を飛ばす
・9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開く
・9月24日 払暁とともに城山総攻撃の火蓋がきって落とされ、桐野、村田ら戦死、西郷が自刃、薩摩軍は城山において全滅し、西南戦争が終結する

☆明治新政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる
・1877年(明治10)3月 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20)藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行される詳細
2010年(平成22)児童文学作家川村たかしの命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、明治六年政変が起き、西郷隆盛が参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途に就いた日です。
 明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、征韓論争により、明治新政府内が分裂した政変でした。明治維新以来、明治新政府は朝鮮に度々国交を求めたものの、朝鮮は排外鎖国政策をとっていて、拒否されたので、西郷隆盛や板垣退助らが征韓論(朝鮮侵略)を主張するようになります。
 これと、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが主張する内治優先論(国内政治の優先)とが激しく対立することとなりました。その結果、征韓派は敗れて一斉に政府を去ることとなり、近衛の将士の辞職も相次ぎます。
 これ以後、大久保が政権を指導し、大久保政権と呼ばれることとなり、のちに征韓派は、自由民権派と士族反乱派に分化しました。翌年の佐賀の乱、台湾出兵、1877年(明治10)の西南戦争をはじめ、自由民権運動の隆盛など、その後の政局に大きな影響を与えることとなります。

〇明治六年政変関係略年表

<1872年(明治5)>
・9月12日 木戸派の大蔵大輔井上馨が大久保の洋行を提案し、大久保のみならず大納言岩倉具視・木戸といった実力者を加えた大使節団の派遣へと展開していった。
・11月7日 木戸らと留守政府の代表は洋行中に「大規模な内政改革は行わないこと」などを取り決めた12ヶ条の約定をとりかわした
・11月9日 会議で板垣が朝鮮に使節を送って開国を促し、応じなければ戦争に訴えるべきと主張したが、朝鮮問題には手を付けないことなどが合意された
・11月8日 宮古島島民遭難事件が発生し、台湾征討を主張する声が高まる
・11月11日 岩倉を代表とし、木戸・大久保・伊藤博文らも加わった使節団が出国する

<1873年(明治6)>
・1月19日 木戸・大久保に対して早期帰国の命令が下る
・4月 井上は正院を改革して大蔵省の権力を強めようともくろむ
・4月19日 新たな参議となったのは司法卿江藤新平・文部卿大木喬任・左院議長後藤象二郎という反大蔵省の人物ばかりであり、井上は参議となれず
・5月29日 大久保が帰国する
・5月31日 釜山に設置されていた大日本公館代表広津弘信より、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本に対する無礼な字があったと報告する
・7月23日 木戸が帰国したが留守政府の現状に激怒し、大久保同様政府への復帰をボイコットし、政府打倒を目指して裏面で活動を行なう
・7月末 西郷は三条に遣使を強く要求する
・7月29日 西郷は板垣宛書簡で、軍隊より先に使節を出せば朝鮮から「暴挙」「暴殺」に出るから「討つべきの名」が立つ、だから自分が使節になると主張する
・8月14日 西郷の板垣宛書簡でも先に使節を出すやり方で「はめ込」めば「必ず戦うべき機会」になる、だから西郷を死なせては可哀そうなどと思わないでほしいと述べる
・8月16日 西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請する
・8月17日 西郷の要望により三条太政大臣の私邸で催された閣議の席上、西郷の遣韓大使任命が内決される
・8月18日 上奏裁可を得て三条は、岩倉大使の帰国を待って熟議することを西郷に伝え、問題は一時延期のかたちとなる
・9月13日 岩倉が帰国し、三条とともに木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始する
・9月16日 木戸が病気となり、参議復帰を拒む
・10月12日 大久保が参議に復帰したが、木戸は閣議への復帰に応じなかった
・10月14日 岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張、板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張する
・10月15日 閣議で板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求、三条は西郷の派遣自体は認める決定を行なう
・10月16日 岩倉は三条の元を訪れ、決断の変更を求めたが、三条は受け入れなかった
・10月17日 もう一度閣議を行うことなっていたが、岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで行われなかった
・10月18日 三条は病に倒れたが、狭心症、心筋梗塞、脚気衝心のいずれかではないかと見られている
・10月19日 副島・江藤・後藤・大木の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された
・10月20日 明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任すると、樺太問題が急務であるという趣旨を上奏する
・10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張する
・10月23日 岩倉は参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途につく
・10月24日 岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職、板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出する
・10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理され、西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)「蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
765年(天平神護元)第47代天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなる(新暦11月10日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、薩摩藩と長州藩との間で、江戸幕府を倒すための同盟(薩長同盟)が結ばれた日ですが、新暦では3月7日となります。
 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、京都薩摩藩邸にて、土佐藩の坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩代表の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允(桂小五郎)との間で成立した、江戸幕府を倒すための政治的・軍事的密約で、薩長盟約または薩長連合とも呼ばれてきました。
 薩摩藩は、1863年(文久3年8月18日)に中川宮と会津藩に協力して、長州藩勢力を京都から追放(八月十八日の政変)や翌年7月19日に、上京出兵した長州藩兵と戦火を交え(禁門の変)敗走させ、長州藩は徳川幕府から第一次長州征討を受けるなど、薩長両藩はことごとく反目し合います。しかし、薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし、薩長両藩の指導層は急速に接近することとなり、幕府の薩長討伐計画が漏れるに及んで、両藩は土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介のもとにこれまでの対立反目を解消するため、1866年(慶応2年1月21日)に、京都の薩摩藩邸において、会談しました。
 その結果、「薩長六ケ条盟約」が成り、これによって同年6月より戦いが始まった第2次長州征伐では、薩摩藩が幕府の征長を背後から妨げ、一方長州藩は高杉晋作や桂らの奮戦により、幕府軍は諸所で敗退、形勢悪化の内に第14代将軍徳川家茂が大坂城中で没したため、長州と和して、同年9月に撤兵します。その後、討幕運動は大きく前進し、翌年10月14日の大政奉還から12月9日の王政復古の大号令、そして明治維新へと至りました。
 以下に、「薩長六ケ条盟約」を現代語訳付で掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「薩長六ケ条盟約」 1866年(慶応2年1月21日)

木戸孝允(桂小五郎)が会談内容を六ケ条にまとめ、内容確認のため坂本龍馬に送付した書簡(慶応2年1月23日付)による

(表書)

一、戦と相成候時は、直様二千余之兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華[1]へも千程は差置[2]、京・坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上、屹度[3]尽力之次第有之候との事

一、万一負色[4]に有之候とも、一年や半年に決て潰滅[5]致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度[3]有之候との事

一、是なり[6]にて幕兵東帰[7]せしときは、屹度[3]朝廷へ申上、直様冤罪[8]は従朝廷御免[9]に相成候都合に、屹度[3]尽力との事

一、兵士をも上国[10]之上、橋・会・桑[11]等も如只今次第にて、勿体なくも[12]朝廷を擁し奉り、正義を抗み[13]、周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外は、無之との事

一、冤罪[7]も御免[9]之上は、双方誠心[15]以相合し、皇国之御為に砕身[16]尽力仕候事は不及申、いづれ之道にしても、今日より双方皇国之御為皇威[17]相暉き、御回復に立至り候を目途[18]に誠心[15]を尽し、屹度[3]尽力可仕との事

(裏書)

表に御記被成候六条ハ、小・西両氏[19]及老兄・龍等も御同席ニて談論[20]セし所ニて毛も[21]相違無之候、後来[22]といへとも決して変わり候事無之ハ神明[23]の知る所ニ御座候、
丙寅 二月五日 坂本龍

    『史義史料』四より

【注釈】

[1]浪華:なにわ=大阪(大坂)のこと。
[2]差置:さしおく=人や物をある位置・場所にとどめる。
[3]屹度:きっと=確かに。必ず。
[4]負色:まけいろ=戦いに、負けそうな様子。敗色。
[5]潰滅:かいめつ=ひどくこわれてだめになること。
[6]是なり:これなり=物事が、そこに示されているままの状態、様子でこれきり変わらないさま。現在の状態。今のまま。このまま。
[7]東帰:とうき=東の地に戻ること。この場合は、江戸へ戻ること。
[8]冤罪:えんざい=罪がないのに疑われ、または罰せられること。無実の罪。ぬれぎぬ。
[9]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[10]上国:じょうこく=都へ上ること。上京。
[11]橋・会・桑:きょう・かい・そう=一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)のこと。
[12]勿体なくも:もったいなくも=申すも畏れ多いことに。畏れ多くも。
[13]抗み:こばみ=張り合う。手向かう。さからう。
[14]周旋:しゅうせん=当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋。
[15]誠心:せいしん=心に偽りのないこと。真実の心。また、そのさま。まごころ。
[16]砕身:さいしん=身をくだくほど献身的につとめること。献身的に働くこと。
[17]皇威:こうい=天皇の威光。皇帝の威勢。
[18]目途:もくと=めあて。目的。
[19]小・西両氏:こ・さいりょうし=小松帯刀・西郷隆盛両氏のこと。
[20]談論:だんろん=談話と議論。また、談話し議論すること。論談。
[21]毛も:けも=非常にわずかなことのたとえ。ほんの少しも。
[22]後来:こうらい=この後。ゆくすえ。将来。
[23]神明:しんめい=神。神祇。

<現代語訳>

(表書)

一、(幕府と長州藩の間で)戦となった時は、すぐに2,000余の兵を急いで上京させ、現在在京の兵と合わせて、浪華(大坂)へも1,000程は駐留させて、京都・大坂の両所を守備させること。

一、戦局が自然に我らの勝利と成りそうなとき、その時は(薩摩藩は)朝廷へ上申して、きっと(長州藩のため)尽力するようにすること。

一、万が一敗戦濃厚になったときも、一年や半年では決して壊滅することはないので、その間には必ず尽力するべきようにしてほしいこと。

一、勝負がつかなくて、幕府兵が江戸へ帰還したときは、きっと朝廷へ上申し、すぐに冤罪は朝廷より許してもらえるように、必ず尽力してほしいこと。

一、兵士をも上京の上、一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)等も今のような状態では、畏れ多くも朝廷を擁し奉って、正義に抗い、周旋尽力の道を遮断されたときは、ついに(薩摩藩も)決戦におよぶ他ないこと。

一、(長州藩の)冤罪も晴れたならば、薩長双方が真心を以て一緒になり、皇国のために献身的に力を尽くすことは言うに及ばず、いづれの道にしても、今日より薩長双方が皇国のため、皇威を発揚し、その回復が出来ることを目標に真心を尽し、きっと尽力するべきこと。

(裏書)

表にお記しになった六ケ条は、小松帯刀・西郷隆盛両氏および老兄・龍馬なども同席した上で、談話・議論した結果であり、ほんの少しも相違のないものです。この後と言っても、決してこれが変わる事がない事は、神様の知る所であります。

慶応二年二月五日 坂本龍馬

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1946年(昭和21)GHQが「公娼廃止の指令」(SCAPIN-642)を出す詳細
1951年(昭和26)小説家宮本百合子の命日詳細
1983年(昭和58)小説家里見弴の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、薩摩藩と土佐藩の間で、「薩土盟約」が結ばれた日ですが、新暦では7月23日となります。
 薩土盟約(さつどめいやく/さっとめいやく)は、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた、幕藩制に代わる国家を構想しようとしたもので、大政奉還による列侯公議政体を目ざした盟約書でした。1867年(慶応3)5月の四侯会議解体後の政局の中で、武力討幕を企てる薩摩藩と大政奉還・公議政体が藩論の土佐藩とが、同年6月22日に京都三本木料亭「吉田屋」において会合を持ちます。
 土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟・坂本龍馬と薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らが集まって議論の上、倒幕挙兵に替わり、大政奉還を骨子とする政治同盟を結んだものでした。しかし、同年10月13日に岩倉具視が大久保利通に薩摩藩主島津忠義父子に宛てた倒幕の密勅を渡し、薩摩藩が倒幕運動の名分を得たことで破棄されています。
 以下に、「薩土盟約」の原文と現代語訳を載せておきますので、ご参照下さい。

〇「薩土盟約」慶応三年六月付

約定の大綱

一国体を協正し万世万国に亘て不耻是第一義
一王政復古は論なし宜しく宇内の形勢を察し参酌協正すべし
一国に二王なし家に二主なし政刑唯一君に帰すべし
一将軍職に居て政柄を執る是天地間あるべからざるの理なり宜しく侯列に帰し翼戴を主とすべし
右方今の急務にして天地間常に有之大條理なり心力を協一にして斃て後已ん何ぞ成敗利鈍を顧るに暇あらむや
  皇慶応丁卯六月

約定書

一方今皇國の務國體制度を糺正し万國に臨て不耻是第一義とす其要王制復古宇内之形勢を參酌して下後世に至て猶其遺憾なきの大條理を以て處せむ國に二王なし家に二主なし政刑一君に歸す是れ大條理なり我皇家綿々一系万古不易然るに古郡縣の政變して今封建の體と成り大政遂に幕府に歸す上皇帝在を知らず是を地球上に考るに其國體制度如茲者あらんや然則制度一新政權朝に歸し諸侯會議人民共和然後庶幾ハ以て万國に臨て不耻是以初て我皇國の國體特立する者と云ふべし若二三の事件を執り喋々曲直を抗論し朝幕諸侯倶に相辯難し枝葉に馳せ小條理に止り却て皇國の大基本を失す豈に本志ならむや爾後執心公平所見万國に存すべし此大條理を以て此大基本を立つ今日堂々諸侯の責而已成否顧る所にあらず斃而後已ん今般更始一新皇國の興復を謀り奸邪を除き明良を擧げ治平を求天下萬民の爲に寬仁明恕の政を爲んと欲し其法則を定る事左の如し

一天下の大政を議定する全權は朝廷にあり我皇國の制度法則一切の万機議事室より出を要す
一議事院を建立するは宜しく諸侯より其の入費を貢獻すべし
一議事院上下を分ち議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまで正義純粹の者を撰擧し尚且諸侯も自分其職掌に因て上院の任に充つ
一將軍職を以て天下の萬機を掌握するの理なし自今宜しく其職を辭して諸侯の列に歸順し政權を朝廷へ歸すべきハ勿論なり
一各港外國の條約、兵庫港に於て新に朝廷之大臣諸大夫と衆合し道理明白に新約定を立て誠實の商法を行ふべし
一朝廷の制度法則は往昔より律例ありといへども當今の時勢に參し或は當らざる者あり宜しく弊風を一新改革して地球上に愧ざるの國本を建てむ
一此皇國興復の議事に關係する士大夫は私意を去り公平に基き術策を設けず正實を貴び既往の是非曲直を不問人心一和を主として此議論を定むべし
右約定せる盟約ハ方今の急務天下之大事之に如く者なし故に一旦盟約決議之上は何ぞ其事の成敗利鈍を顧んや唯一心協力永く貫徹せむ事を要す

 六月                  (慶明雜録)

   勝田孫彌著『西鄕隆盛傳』より

<現代語訳>

約定の大綱

一、国体を協力して正し、あらゆる世の中、あらゆる国に臨んで恥じないことを第一義とする。
一、王制復古については当然の事であり、天下の形勢をあれこれ照らし合わせて取捨し、協力して正すべきこと。
一、一つの国に二人の王はなく、一つの家に二人の主人はいない。政治と刑罰を行うのは、一人の君主に帰着すること。
一、将軍職において政務を執行すること、これは万物にあるべきではない道理であり、当然に諸侯(大名)の列に戻り、天皇を補佐することを主とすべきである。
右は以後の急務であり、万物に常にある大きな物事の道理である。精神力を協一にして倒れるまで努力を続けるべきで、どうして成否について振り返ってみる暇があるだろうか、いやない。
  皇慶応3年(1867年)6月22日

約定書

一、以後天皇の国の務として国体制度の正・不正をただし、あらゆる国に臨んで恥じないこと、これを第一義とする。その要は、王制復古について天下の形勢をあれこれ照らし合わせて取捨し、下に向かって世に至てなおその心残りがなきの大きな物事の道理をもって処置する。一つの国に二人の王はなく、一つの家に二人の主人はいない。政治と刑罰を行うのは、一人の君主に帰着する。これは、大きな物事の道理である。私たちの天皇家は絶えることなく綿々と続いていつまでもかわっていない、それにもかかわらず古に郡県の政変によって、今の封建制度と成り、天下の政治はついに幕府に帰着してしまった。上に天皇があるのを知らず、これを地球上で考えるにその国体制度にとってどのようなものであろう、このようなものであってはならないはずだ。そうだとすれば、制度を一新し、政権を朝廷に帰着させ、諸侯(大名)会議と人民が和合して事に当たり、その後はあらゆる国に臨んで恥じないことを切望する。これをもってはじめて、私たち天皇の国の国体を自立することが出来る。もし、二三の事件を取り上げ、しきりにしゃべって正邪を抗論し、朝廷、幕府、諸侯(大名)ともに相手の不正や誤りを論じ立てて非難し、主要でない部分に走って、小さな物事の道理にとどまっては、かえって天皇の国の大きな基本を失ってしまう。これでどうして本当の志となろうか、いやなりはしない。この後は、こだわって公平な見方ですべて国のこととすべきである。この大きな物事の道理に従って、この大基本を立てる。今日厳然と諸侯(大名)の責任があるばかりだ、成否について振り返ってみるものではなく、倒れるまで努力を続けるべきである。今度さらに、一新をはじめて天皇の国の再興をはかり、よこしまな人を除き、賢明な君主と忠良な臣下が事を起こし、泰平を求めて国中のすべての人民のために心が広くて情け深く、明るく思いやりのある政治をしようと考え、その約定を定める事、左のようである。

一、「天下の大政」を評議決定する全権は朝廷にあり、私たち天皇の国の制度や法令の一切は京都の議事堂から発令されるべきである。
一、議事院設置にかかる経費は諸藩の費用負担で行うこと。
一、議事院は上院と下院の二院制とし、議事官(議員)は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで、「正義純粋」の者を選挙し、なおかつ諸侯(大名)も職掌によって上院議員に充てる。
一、将軍職は国のすべてを掌握する道理はない。以後は当然にその職を辞して諸侯(大名)の列に戻り、政権を朝廷へ返すのはもちろんのことである。
一、各港の外国との条約については、兵庫港(神戸港)において新に朝廷の大臣が諸侯(大名)と寄り集まり、道理がはっきりとした新条約を結び、誠実な商いを行うこと。
一、朝廷の制度法則は昔からの律令があるといっても、この頃の時勢に際してあるいは妥当ではないものもあり、当然に弊害のあるものを一新改革して、地球上に恥じない国の基礎を建てる。
一、この天皇の国の復興の議事に当たる者は、私意を捨て公平に基づいてはかりごとをせず、誠実であることを貴んで、今までの物事のよしあしや正邪を問わず、人間としての心を一つにすることを主としてこの議論を行うべきである。
右のとおり約定した盟約は、以後の急務であり、国家の大事はこれに及ぶものはない。従っていったん盟約決議した上は、どうしてその事の成功を顧わずにいられようか、ただ一心に協力して久しく貫徹する事が必要である。

 6月                (慶明雜録)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1853年(嘉永6)江戸幕府第12代将軍徳川家慶の命日(新暦7月27日)詳細
1945年(昭和20)戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定)詳細
1965年(昭和40)日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される詳細
1972年(昭和47)自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される詳細
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seinansensou01

 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、薩摩軍の一番隊が鹿児島を出発し、西南戦争(西南の役)が始まった日です。
 西南戦争(せいなんせんそう)は、鹿児島士族が西郷隆盛を擁立して蜂起した反政府暴動で、明治新政府に対する不平士族の反乱では、最大で最後のもので、西南の役とも呼ばれてきました。
 1873年(明治6)の征韓論で敗れ、下野した西郷隆盛らは鹿児島へ戻り、士族組織として私学校を結成します。明治新政府との対立が深まり、鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたのを契機に、私学校生が集団決起、陸軍火薬庫などを奪い、西郷隆盛を盟主として、1877年(明治10)2月15日に薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始しました。
 これに対し、2月19日に薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して、官軍として征討に当らせます。戦場は熊本や宮崎に広がり、2月22日に薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を包囲しましたが、鎮台兵は司令長官谷干城を中心に50日間籠城、徐々に官軍に押されていき、4月15日に官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城しました。
 守勢に回った薩摩軍は、日向地方に転じて再起を図りましたが、6月1日人吉、7月24日都城、同31日宮崎、佐土原を失い、鹿児島に戻った西郷は同年9月、城山に立てこもり、政府軍の総攻撃を受ける中、同月24日に西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃して、終結します。戦いでの戦死は、官軍側は6,403人、薩摩軍側は6,765人に及び、戦後に斬罪22を含んで2,760余が処罰されました。

〇西郷隆盛とは?

 幕末明治維新期に活躍した薩摩藩士・軍人・政治家です。江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。
 1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。
 1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。
 第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。
 戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。
 鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

☆西南戦争関係略年表

<1873年(明治6)>

・10月23日 西郷隆盛が征韓論に敗れ、辞表を提出(桐野、篠原ら西郷派士官辞職)
・11月10日 西郷、桐野と共に鹿児島へ帰る

<1874年(明治7)>

・2月1日 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる

<1876年(明治9)>

・10月24日 熊本県で神風連の乱が起こる
・10月27日 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・10月28日 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>

・1月 明治新政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考える
・1月30日 鹿児島で私学校生が集団決起、陸軍火薬庫など襲う
・2月3日 私学校党は中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまう
・2月4日 鹿児島暴発の報が明治天皇の行在所に達する
・2月14日 黒田清隆が旧庄内士族のリーダーに手紙で、西郷らに同調しないよう要請する
・2月15日 薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始する
・2月18日 官軍は乃木希典(陸軍少佐)連隊の一部を率いて熊本に向かう
・2月19日 薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせる
・2月20日 薩摩軍の先鋒、別府晋介の二大隊川尻に入る
・2月21日 軍議で薩摩軍の全軍が熊本城を強襲すること決まる
・2月22日 植木で乃木少佐、連隊旗を奪われる、薩摩軍は熊本城の包囲を完了する
・2月23日 官軍の第十四連隊が木葉にて敗れる
・2月24日 官軍の山県参軍博多に到着、薩摩軍は熊本城強攻を中止し、主力は山鹿、田原、木留に進出する
・2月25日 明治新政府は西郷の官位を取り消す、官軍の第一、二旅団南関に入る
・2月27日 薩摩軍は三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死、乃木少佐が負傷する
・3月3日 官軍は木葉・吉次に攻撃を開始する 
・3月4日 熊本の田原坂での戦闘が始まる
・3月13日 黒田清隆が京都の行在所宛て電報で、衝背軍による背面攻撃を建言する
・3月19日 官軍は高島鞆之助の別働第二旅団が日奈久に上陸し、八代まで進撃する
・3月20日 官軍は田原坂の戦いで薩摩軍を破る
・3月21日 黒田清隆が歩兵・警視隊500人を率いて日奈久に上陸する
・3月24~25日 山田顕義以下の別働第二旅団、川路利良以下の別働第三旅団が、八代に上陸する
・3月26日 薩摩軍は、石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにする
・3月30~31日 官軍により松橋が陥落する
・4月1日 官軍は吉次・木留を占領する
・4月4日 薩摩軍別働隊(辺見十郎太・別府晋介指揮)が人吉から八代に来襲、善戦するが、政府増援部隊に阻まれて撤退する
・4月12日 官軍は御船を占領、永山弥一郎(薩軍三番大隊大隊長)が戦死する
・4月15日 官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城、薩摩軍は植木・荻迫・鐙田・三の岳より退去する
・4月20日 官軍は御船で大勝、薩摩軍は矢部に退去、西郷らは人吉へ退去する
・4月27日 薩摩軍は人吉盆地での攻防戦を始める(~6月21日)
・5月28日 西郷は宮崎へ入る
・6月1日 官軍は人吉を占領する
・7月24日 官軍は都城を占領する
・7月31日 薩摩軍は宮崎、佐土原を失い、長井村に追い詰められて解散する
・8月2日 官軍は高鍋を占領する
・8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促す
・8月中旬 延岡の北方約6KMの長井村に追い詰められる
・8月14日 薩摩軍は延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退する
・8月15日 薩摩軍は延岡への攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れる
・8月16日 西郷は解隊布告する
・9月1日 官軍は同地警備の新撰旅団を破って鹿児島市内に進出する
・9月6日頃 官軍主力は鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲する
・9月22日 城山で西郷の名による決死の檄を飛ばす
・9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開く
・9月24日 払暁とともに城山総攻撃の火蓋がきって落とされ、桐野、村田ら戦死、西郷が自刃、薩摩軍は城山において全滅し、西南戦争が終結する

☆明治新政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる
・1877年(明治10)3月 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)元明天皇が平城京造営の詔を布告する(新暦3月11日)詳細
1239年(延応元)僧侶・時宗の開祖一遍の誕生日(新暦3月21日)詳細
1938年(昭和13)実業家で「電力王」とも呼ばれた福沢桃介の命日詳細
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