明治新政府との対立が深まり、鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたのを契機に、1877年(明治10)1月30日に、私学校生が集団決起、陸軍火薬庫などを奪い、西郷を盟主として決起し、2月15日に薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始しました。これに対し、2月19日に薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して、官軍として征討に当らせます。
戦場は熊本や宮崎にまで広がり、2月22日に薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を包囲しましたが、鎮台兵は司令長官谷干城を中心に50日間籠城、徐々に官軍に押されていき、4月15日に官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城しました。守勢に回った薩摩軍は、日向地方に転じて再起を図りましたが、6月1日人吉、7月24日都城、同31日宮崎、佐土原を失い、鹿児島に戻った西郷は同年9月、城山に立てこもり、政府軍の総攻撃を受ける中、同月24日に西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃して、終結します。
戦いでの戦死者は、官軍側は6,403人、薩摩軍側は6,765人に及び、戦後に斬罪22人を含んで2,760余人が処罰されました。
1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。
1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。
第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。