ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:西南戦争

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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、西郷隆盛が鹿児島県で主宰していた私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取して、西南戦争の発端となった日です。
 西南戦争(せいなんせんそう)は、明治時代前期の1877年(明治10)に、鹿児島士族が西郷隆盛を擁立して蜂起した反政府暴動で、明治新政府に対する不平士族の反乱では、最大で最後のもので、西南の役とも呼ばれてきました。1873年(明治6)の征韓論で敗れ、下野した西郷らは鹿児島へ戻り、士族組織として私学校を結成します。
 明治新政府との対立が深まり、鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたのを契機に、1877年(明治10)1月30日に、私学校生が集団決起、陸軍火薬庫などを奪い、西郷を盟主として決起し、2月15日に薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始しました。これに対し、2月19日に薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して、官軍として征討に当らせます。
 戦場は熊本や宮崎にまで広がり、2月22日に薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を包囲しましたが、鎮台兵は司令長官谷干城を中心に50日間籠城、徐々に官軍に押されていき、4月15日に官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城しました。守勢に回った薩摩軍は、日向地方に転じて再起を図りましたが、6月1日人吉、7月24日都城、同31日宮崎、佐土原を失い、鹿児島に戻った西郷は同年9月、城山に立てこもり、政府軍の総攻撃を受ける中、同月24日に西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃して、終結します。
 戦いでの戦死者は、官軍側は6,403人、薩摩軍側は6,765人に及び、戦後に斬罪22人を含んで2,760余人が処罰されました。

〇西郷 隆盛】(さいごう たかもり)とは?

 幕末明治維新期に活躍した薩摩藩士・軍人・政治家です。江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。
 1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。
 1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。
 第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
 その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
 その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

☆西南戦争関係略年表

<1873年(明治6)>

・10月23日 西郷隆盛が征韓論に敗れ、辞表を提出(桐野、篠原ら西郷派士官辞職)
・11月10日 西郷、桐野と共に鹿児島へ帰る

<1874年(明治7)>

・2月1日 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる

<1876年(明治9)>

・10月24日 熊本県で神風連の乱が起こる
・10月27日 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・10月28日 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>

・1月 明治新政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考える
・1月30日 鹿児島で私学校生が集団決起、陸軍火薬庫など襲う
・2月3日 私学校党は中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまう
・2月4日 鹿児島暴発の報が明治天皇の行在所に達する
・2月14日 黒田清隆が旧庄内士族のリーダーに手紙で、西郷らに同調しないよう要請する
・2月15日 薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始する
・2月18日 官軍は乃木希典(陸軍少佐)連隊の一部を率いて熊本に向かう
・2月19日 薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせる
・2月20日 薩摩軍の先鋒、別府晋介の二大隊川尻に入る
・2月21日 軍議で薩摩軍の全軍が熊本城を強襲すること決まる
・2月22日 植木で乃木少佐、連隊旗を奪われる、薩摩軍は熊本城の包囲を完了する
・2月23日 官軍の第十四連隊が木葉にて敗れる
・2月24日 官軍の山県参軍博多に到着、薩摩軍は熊本城強攻を中止し、主力は山鹿、田原、木留に進出する
・2月25日 明治新政府は西郷の官位を取り消す、官軍の第一、二旅団南関に入る
・2月27日 薩摩軍は三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死、乃木少佐が負傷する
・3月3日 官軍は木葉・吉次に攻撃を開始する 
・3月4日 熊本の田原坂での戦闘が始まる
・3月13日 黒田清隆が京都の行在所宛て電報で、衝背軍による背面攻撃を建言する
・3月19日 官軍は高島鞆之助の別働第二旅団が日奈久に上陸し、八代まで進撃する
・3月20日 官軍は田原坂の戦いで薩摩軍を破る
・3月21日 黒田清隆が歩兵・警視隊500人を率いて日奈久に上陸する
・3月24~25日 山田顕義以下の別働第二旅団、川路利良以下の別働第三旅団が、八代に上陸する
・3月26日 薩摩軍は、石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにする
・3月30~31日 官軍により松橋が陥落する
・4月1日 官軍は吉次・木留を占領する
・4月4日 薩摩軍別働隊(辺見十郎太・別府晋介指揮)が人吉から八代に来襲、善戦するが、政府増援部隊に阻まれて撤退する
・4月12日 官軍は御船を占領、永山弥一郎(薩軍三番大隊大隊長)が戦死する
・4月15日 官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城、薩摩軍は植木・荻迫・鐙田・三の岳より退去する
・4月20日 官軍は御船で大勝、薩摩軍は矢部に退去、西郷らは人吉へ退去する
・4月27日 薩摩軍は人吉盆地での攻防戦を始める(~6月21日)
・5月28日 西郷は宮崎へ入る
・6月1日 官軍は人吉を占領する
・7月24日 官軍は都城を占領する
・7月31日 薩摩軍は宮崎、佐土原を失い、長井村に追い詰められて解散する
・8月2日 官軍は高鍋を占領する
・8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促す
・8月中旬 延岡の北方約6KMの長井村に追い詰められる
・8月14日 薩摩軍は延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退する
・8月15日 薩摩軍は延岡への攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れる
・8月16日 西郷は解隊布告する
・9月1日 官軍は同地警備の新撰旅団を破って鹿児島市内に進出する
・9月6日頃 官軍主力は鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲する
・9月22日 城山で西郷の名による決死の檄を飛ばす
・9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開く
・9月24日 払暁とともに城山総攻撃の火蓋がきって落とされ、桐野、村田ら戦死、西郷が自刃、薩摩軍は城山において全滅し、西南戦争が終結する

☆明治新政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる
・1877年(明治10)3月 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20)藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行される詳細
2010年(平成22)児童文学作家川村たかしの命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、薩摩軍の一番隊が鹿児島を出発し、西南戦争(西南の役)が始まった日です。
 西南戦争(せいなんせんそう)は、鹿児島士族が西郷隆盛を擁立して蜂起した反政府暴動で、明治新政府に対する不平士族の反乱では、最大で最後のもので、西南の役とも呼ばれてきました。
 1873年(明治6)の征韓論で敗れ、下野した西郷隆盛らは鹿児島へ戻り、士族組織として私学校を結成します。明治新政府との対立が深まり、鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたのを契機に、私学校生が集団決起、陸軍火薬庫などを奪い、西郷隆盛を盟主として、1877年(明治10)2月15日に薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始しました。
 これに対し、2月19日に薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して、官軍として征討に当らせます。戦場は熊本や宮崎に広がり、2月22日に薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を包囲しましたが、鎮台兵は司令長官谷干城を中心に50日間籠城、徐々に官軍に押されていき、4月15日に官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城しました。
 守勢に回った薩摩軍は、日向地方に転じて再起を図りましたが、6月1日人吉、7月24日都城、同31日宮崎、佐土原を失い、鹿児島に戻った西郷は同年9月、城山に立てこもり、政府軍の総攻撃を受ける中、同月24日に西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃して、終結します。戦いでの戦死は、官軍側は6,403人、薩摩軍側は6,765人に及び、戦後に斬罪22を含んで2,760余が処罰されました。

〇西郷隆盛とは?

 幕末明治維新期に活躍した薩摩藩士・軍人・政治家です。江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。
 1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。
 1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。
 第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。
 戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。
 鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

☆西南戦争関係略年表

<1873年(明治6)>

・10月23日 西郷隆盛が征韓論に敗れ、辞表を提出(桐野、篠原ら西郷派士官辞職)
・11月10日 西郷、桐野と共に鹿児島へ帰る

<1874年(明治7)>

・2月1日 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる

<1876年(明治9)>

・10月24日 熊本県で神風連の乱が起こる
・10月27日 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・10月28日 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>

・1月 明治新政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考える
・1月30日 鹿児島で私学校生が集団決起、陸軍火薬庫など襲う
・2月3日 私学校党は中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまう
・2月4日 鹿児島暴発の報が明治天皇の行在所に達する
・2月14日 黒田清隆が旧庄内士族のリーダーに手紙で、西郷らに同調しないよう要請する
・2月15日 薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始する
・2月18日 官軍は乃木希典(陸軍少佐)連隊の一部を率いて熊本に向かう
・2月19日 薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせる
・2月20日 薩摩軍の先鋒、別府晋介の二大隊川尻に入る
・2月21日 軍議で薩摩軍の全軍が熊本城を強襲すること決まる
・2月22日 植木で乃木少佐、連隊旗を奪われる、薩摩軍は熊本城の包囲を完了する
・2月23日 官軍の第十四連隊が木葉にて敗れる
・2月24日 官軍の山県参軍博多に到着、薩摩軍は熊本城強攻を中止し、主力は山鹿、田原、木留に進出する
・2月25日 明治新政府は西郷の官位を取り消す、官軍の第一、二旅団南関に入る
・2月27日 薩摩軍は三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死、乃木少佐が負傷する
・3月3日 官軍は木葉・吉次に攻撃を開始する 
・3月4日 熊本の田原坂での戦闘が始まる
・3月13日 黒田清隆が京都の行在所宛て電報で、衝背軍による背面攻撃を建言する
・3月19日 官軍は高島鞆之助の別働第二旅団が日奈久に上陸し、八代まで進撃する
・3月20日 官軍は田原坂の戦いで薩摩軍を破る
・3月21日 黒田清隆が歩兵・警視隊500人を率いて日奈久に上陸する
・3月24~25日 山田顕義以下の別働第二旅団、川路利良以下の別働第三旅団が、八代に上陸する
・3月26日 薩摩軍は、石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにする
・3月30~31日 官軍により松橋が陥落する
・4月1日 官軍は吉次・木留を占領する
・4月4日 薩摩軍別働隊(辺見十郎太・別府晋介指揮)が人吉から八代に来襲、善戦するが、政府増援部隊に阻まれて撤退する
・4月12日 官軍は御船を占領、永山弥一郎(薩軍三番大隊大隊長)が戦死する
・4月15日 官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城、薩摩軍は植木・荻迫・鐙田・三の岳より退去する
・4月20日 官軍は御船で大勝、薩摩軍は矢部に退去、西郷らは人吉へ退去する
・4月27日 薩摩軍は人吉盆地での攻防戦を始める(~6月21日)
・5月28日 西郷は宮崎へ入る
・6月1日 官軍は人吉を占領する
・7月24日 官軍は都城を占領する
・7月31日 薩摩軍は宮崎、佐土原を失い、長井村に追い詰められて解散する
・8月2日 官軍は高鍋を占領する
・8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促す
・8月中旬 延岡の北方約6KMの長井村に追い詰められる
・8月14日 薩摩軍は延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退する
・8月15日 薩摩軍は延岡への攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れる
・8月16日 西郷は解隊布告する
・9月1日 官軍は同地警備の新撰旅団を破って鹿児島市内に進出する
・9月6日頃 官軍主力は鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲する
・9月22日 城山で西郷の名による決死の檄を飛ばす
・9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開く
・9月24日 払暁とともに城山総攻撃の火蓋がきって落とされ、桐野、村田ら戦死、西郷が自刃、薩摩軍は城山において全滅し、西南戦争が終結する

☆明治新政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる
・1877年(明治10)3月 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)元明天皇が平城京造営の詔を布告する(新暦3月11日)詳細
1239年(延応元)僧侶・時宗の開祖一遍の誕生日(新暦3月21日)詳細
1938年(昭和13)実業家で「電力王」とも呼ばれた福沢桃介の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、薩摩藩士・軍人・政治家西郷隆盛が西南戦争に敗れ、城山で自刃した日です。
 西郷隆盛(さいごう たかもり)は、江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。
 しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。
 1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。
 1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
 その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
 その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

〇西郷隆盛関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1828年(文政10年12月7日) 薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれる
・1841年(天保12年) 元服し吉之介隆永と名乗る
・1844年(弘化元年) 18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめる
・1847年(弘化4年) 郷中の二才頭となる
・1851年(嘉永4年2月2日) 島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になる
・1852年(嘉永5年) 父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀と結婚する
・1853年(嘉永6年2月) 家督相続を許可されたが、この頃に通称を吉之介から善兵衛に改める
・1854年(安政元年) 農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬にみいだされ、庭方役に抜擢される
・1855年(安政2年) 西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める
・1858年(安政5年) 斉彬が急死する
・1858年(安政5年11月) 同志僧月照と鹿児島湾に投身自殺を試みたが命を取り留める
・1859年(安政6年1月) 奄美大島に流される
・1862年(文久2年1月) 島津久光が公武合体運動着手にあたり召還され、大島三右衛門と改名する
・1862年(文久2年7月) 久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島へ流される
・1862年(文久2年閏8月) さらに沖永良部島へ遠島となる
・1864年(元治元年2月28日) 赦免され鹿児島に帰る
・1864年(元治元年3月22日) 軍賦役、小納戸頭取となり上京し、伏見に着く
・1864年(元治元年7月18日) 蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝する
・1864年(元治元年7月23日) 長州藩追討の朝命が出る(第一次長州征伐)
・1864年(元治元年10月初旬) 御側役・代々小番に昇進、西郷吉之助と名のる
・1864年(元治元年10月12日) 第一次長州征伐において、征長軍の参謀に任じられる
・1864年(元治元年12月27日) 長州藩の無血降伏を実現し、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じる
・1865年(慶応元年1月中旬) 鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ませる
・1866年(慶応2年1月21日) 土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約する
・1866年(慶応2年6月7日) 第二次長州征伐が始まる
・1867年(慶応3年5月21日) 中岡慎太郎の仲介で、土佐藩の乾退助、谷干城らと薩土討幕の密約を結ぶ
・1867年(慶応3年10月14日) 討幕の密勅が薩長両藩に降下したが、同日将軍慶喜は大政奉還を上表する
・1867年(慶応3年12月9日) 王政復古の大号令が発布される(王政復古のクーデター)
・1867年(慶応3年12月) 明治新政府の参与に任命される
・1868年(慶応4年1月3日) 京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦いで撃退する
・1868年(慶応4年2月) 戊辰戦争では東征大総督府参謀に就任する
・1868年(慶応4年3月) 勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功する
・1868年(慶応4年9月27日) 庄内藩討伐にあたり、降伏させたものの、寛大な処置をとる
・1869年(明治2年2月) 藩参政に就任、門閥打破、大規模常備軍の編成を柱に藩政改革を推進する
・1870年(明治3年7月3日) 太政官から鹿児島藩大参事に任命される
・1870年(明治3年暮れ) 鹿児島に下向した勅使岩倉具視に政府改革のいくつかの条件を認めさせる
・1871年(明治4年1月) 政府強化を期す岩倉具視、大久保らの求めに応じて上京する
・1871年(明治4年6月) 提案した御親兵の編成が成り、明治新政府の参議に就任する
・1871年(明治4年7月) 参議筆頭となり、廃藩置県に主導的役割を果たす
・1871年(明治4年11月) 岩倉使節団出発後、筆頭参議兼大蔵省御用掛として、急進的改革政策を指導する
・1872年(明治5年5月~7月) 明治天皇の中四国九州巡幸に随行する
・1872年(明治5年7月29日) 陸軍元帥兼参議に任命される
・1873年(明治6年)5月 朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生する
・1873年(明治6年)8月 閣議は西郷の要望をいれ朝鮮派遣使節に内定する
・1873年(明治6年)9月 太政大臣三条実美が、右大臣岩倉具視と共に、朝鮮派遣の延期を求めるが断る
・1873年(明治6年)10月15日 閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定される
・1873年(明治6年)10月23日 西郷はこの処置に抗議の辞表を出す
・1873年(明治6年)10月24日 板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣も抗議辞職する(明治六年政変)
・1873年(明治6年)11月10日 帰郷引退し、鹿児島へ着く
・1874年(明治7年)2月 佐賀の乱が起きる
・1874年(明治7年)6月頃 県令・大山綱良の協力を得て、私学校がつくられる
・1876年(明治9年)10月24日 神風連の乱が起きる
・1876年(明治9年)10月27日 秋月の乱が起きる
・1876年(明治9年)10月28日 萩の乱が起きる
・1877年(明治10年) 私学校派士族が政府に挑発されて反乱(西南戦争)を起こすと、その先頭に立たされる
・1877年(明治10年)9月24日 西南戦争に敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃する

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