ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:蛮社の獄

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 今日は、江戸時代後期の天保10年に、蛮社の獄で、江戸幕府が渡辺崋山に蟄居、高野長英に永牢を命じた日ですが、新暦では1840年1月22日となります。
 蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判します。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。そして、幕政批判の罪により、同年12月18日に、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されます。
 これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。

〇蛮社の獄で逮捕された主要な人物

・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

〇渡辺崋山(わたなべ かざん)とは?

 江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれます。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となり、藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、モリソン号事件に関わって、「慎機論」を著し、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で高野長英らと共に捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応する(モリソン号事件)といううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。
 その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

☆『慎機論』抜粋

(前略)
今我が四周渺然[1]の海、天下拠る所の堺にして、我にありて世に不備の所[2]多く、彼が来る、本より一所に限ること能はず。一旦事あるに至ては、全国の力を以てすといへども、鞭の短くして、馬の腹に及ばざる[3]を恐るるなり。況んや西洋膻睲の徒[4]、四方[5]明かにして、万国を治め、世々擾乱[6]の驕徒[7]、海船火技[8]に長ずるを以て、我短にあたり、方に海運を妨げ、不備をおびやかさば、逸を以て労を攻む、百事反戻して、手を措く所なかるべし[9]。維昔[10]唐山[11]滉洋[12]恣肆[13]の風轉し、高明[14]空虚[15]の学盛なるより、終に其光明[16]蔀障[17]せられ、自ら井蛙の管見[18]にをつるを不知也。況や明末曲雅[19]風流[20]を尚ひ、兵戈[21]日々警むと云ども、苟も酣歌[22]皷舞[23]め士気益猥薄に陥り、終に国を亡せるが如し。嗚呼今夫れこれを在上[24]の大臣に責んと欲すれども、固より紈袴[25]の子弟、要路[26]の権臣[27]を責んと欲すれども、賄賂[28]の倖臣[29]、唯これ心有る者は儒臣[30]、儒臣[30]亦望浅ふして大を措き、小を取り、一々[31]皆不痛不癢[32]の世界と成れり。今夫此の如く束手[33]して寇[34]を待んか。
              田原藩  崋山邊誌

【注釈】

[1]渺然:びょうぜん=果てしなく広々としているさま。
[2]不備の所:ふびのところ=必要なものが完全にはそろっていない場所のこと。ここでは、海岸防備が手薄な場所。
[3]鞭の短くして、馬の腹に及ばざる:むちのみじかくして、うまのはらにおよばざる=鞭が短くて馬の腹に届かないことから、勢力が不十分で、周辺にその力の及ばないところがあるという意味。
[4]西洋膻睲の徒:せいようせんせいのと=西洋の生臭い連中。
[5]四方:しほう=自国のまわりの国。諸国。また、あらゆる所。諸方。天下。
[6]擾乱:じょうらん=入り乱れて騒ぐこと。また、秩序をかき乱すこと。騒乱。
[7]驕徒:きょうと=驕り高ぶった連中。
[8]火技:かぎ=小銃・大砲などを操作する技術。
[9]逸を以て労を攻む。百事反戻して、手を措く所なかるべし:いつをもってろうをおさむ、ひゃくじはんれいして、てをおくところなかるべし=十分休んで遠方から疲れてやってくる敵を迎え撃つ。この戦法に全く真逆のことをして手を付けることができなくなる。(孫子の兵法)
[10]維昔:いせき=むかし。
[11]唐山:とうざん=中国のこと。
[12]滉洋:こうよう=広くて深い海。
[13]恣肆:しし=自分の思うままにすること。また、そのさま。わがまま。放縦。
[14]高明:こうめい=立派ですぐれた見識、考え。
[15]空虚:くうきょ=実質的な内容や価値がないこと。
[16]光明:こうみょう=明るい見通し。希望。
[17]蔀障:ぶしょう=遮られること。遮断されること。
[18]井蛙の管見:せいあのかんけん=狭い見識。見識の狭さ。
[19]曲雅:きょくが=格調が高く上品な音楽。王侯貴族の歌。
[20]風流:ふうりゅう=上品で優美な趣のあること。優雅なおもむき。
[21]兵戈:へいか=戦争。いくさ。
[22]酣歌:かんか=心ゆくまで酒を飲んで、快い気分で歌う。
[23]皷舞:こぶ=鼓を打って舞わせること。
[24]在上:ざいじょう=上にあること。上の階層にあること。
[25]紈袴:がんこ=貴族の子弟。特に、柔弱な者をいう。
[26]要路:ようろ=重要な地位や職務。権力威勢ある役。
[27]権臣:ごんしん=権勢のある家来。
[28]賄賂:わいろ=自分に都合のよいようにとりはからってもらう目的で他人に贈る品物や金銭。まいない。そでのした。
[29]倖臣:こうしん=お気に入りの家来。
[30]儒臣:じゅしん=儒学をもって仕える臣下。
[31]一々:いちいち=一つ残らず。どれもこれも。ことごとく。
[32]不痛不癢:ふつうふよう=痛くもかゆくもない。通り一遍である。いい加減でおざなりである。何ら問題とするに足りない。
[33]束手:そくしゅ=手をつかねること。手出しをしないこと。反抗しないで傍観すること。手をこまねいて。
[34]寇:こう=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。

<現代語訳>

(前略)
 今我が国の周囲は広くて深い海に囲まれ、世界の諸国との国境となしているものの、我が国においては海岸防備が手薄な場所が多く、外国が来寇するとすれば、もとより一ヶ所とは限らない。一旦危急のことがあるならば、全国の兵力を集めても不十分で、周辺にその力の及ばないところがあるのではと心配になる。まして西洋の生臭い連中、諸国の情勢に明るく、万国を支配し、世界の秩序をかき乱す驕り高ぶった連中なのだ。航海術や小銃・大砲などを操作する技術に長けているので、我が国の短所に付け入り、まさに海運を妨害して、海岸防備の手薄を突かれれば、「十分休んで遠方から疲れてやってくる敵を迎え撃つという戦法に、全く真逆のことをして手を付けることができなくなる。」(孫子の兵法)であろう。昔、中国が広くて深い海をほしいままにして風のように転じたのに、立派ですぐれた見識だが内容や価値がない学問が盛んになるにつれ、ついにその明るい見通しが遮られ、自ら狭い見識に落ち込んでいったことがわからなかった。まして、明時代末期には格調が高く上品で優美な趣が久しくなり、戦争を日々警戒していたと言っても、不相応にも心ゆくまで酒を飲んで、快い気分で歌い、鼓を打って舞わせたりして、士気はますます淫らで軽薄に陥り、終に国を亡してしまった如くである。
 ああ、今この事を(朝廷の)上層の大臣に訴えようとしても、もとより育ちのよい軟弱者であり、(幕府の)重責を持つ権勢のある者に訴えようとしても、賄賂を使うお気に入りの者ばかりなのだ。ただ心有るのは儒学をもって仕えている者ではあるが、その者でさえ志が浅く、大事を捨てて、小事に走り、どれもこれも皆、いい加減でおざなりであるという世界となっているのだ。今このように手をこまねいていて、外敵を待てというのか。
          田原藩   渡辺崋山記す

〇高野長英(たかの ちょうえい)とは?

 江戸時代後期の医師・蘭学者です。1804年(文化元年5月5日)に、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市水沢)において、水沢領主水沢伊達家家臣の父・後藤実慶の三男(母は美代)として生まれましたが、名は譲(ゆずる)と言いました。幼いころ父と死別し、母方の伯父高野玄斎の養子となります。
 1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
 1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
 1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を受け、投獄されます。
 しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
 翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。

〇高野長英著『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり)とは?

 高野長英が1838年(天保9)に、夢に託して江戸幕府を批判した書物で、「夢物語」とも呼ばれています。同年10月15日に尚歯会の例会の席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに聞き及び、このモリソン号事件を憂えて書かれ、夢の中で討議を聞いた婉曲な形式をとりました。
 内容は、イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題を取り上げ、鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べて、これを撃退しようととする「異国船打払令」がいかに無謀なものであるかを警告したものです。しかし、幕政批判の書として蘭学者弾圧の口実とされ、蛮社の獄の起因となりました。

☆『戊戌夢物語』抜粋

(前略)
西洋ノ風俗[1]ハタトヘ敵船ニ候モ、自国ノ者其内ニアルトキハ、放砲不仕事ニ候。然処、イキリスハ日本ニ対シ敵国ニモ之無ク、イハゝ付合モナキ他人ニ候處、今漂流人[2]ヲ憐ミ、仁義[3]ヲ名トシ、態々送来候モノヲ、何事モ取合不申、直ニ打払ニ相成[4]候テハ、日本ハ民ヲ不燐不仁[5]ノ国ト存シ。若万一其不仁[5]不義[6]ヲ憤テ、日本近海ニハイキリスノ属島夥シク之在、始終通行致候得ハ、後来、海上ノ寇[7]ヲ相ナシテ、海運ノ邪魔[8]相成候モ難計、左候得自然[9]国ノ大患[10]ニモ相成可申ヤ。譬右等ノ儀コレ無トモ、右打拂ニ相成候ハゝ、理非[11]モ分リ不申異国ヘ対シ不義[6]ノ国ト申觸レ、義国ノ名ヲ失ヒ、是ヨリ如何ナル患害[12]、萌生[13]仕候ヤモ難計、或ハ頻ニイキリスヲ恐候ヤウニモ考付ラレ候ハゝ、国内衰微仕候ヤウニ推察仕候、恐ナカラ、御武威[14]ヲ損シ候ヤウニモ相成候ハント、考ラレ候。
(後略)

【注釈】

[1]風俗:ふうぞく=習慣。
[2]漂流人:ひょうりゅうにん=アメリカのモリソン号が伴ってきた日本人の漂流漁師7名のこと。
[3]仁義:じんぎ=仁と義。道徳上守るべき筋道。
[4]直ニ打払ニ相成:ただちにうちはらいにあいなり=1837年に「異国船打払令」でモリソン号を砲撃して追い返したこと。
[5]不仁:ふじん=仁義のない。
[6]不義:ふぎ=人として守るべき道にはずれること。また、その行い。
[7]寇:こう=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。
[8]海運ノ邪魔:かいうんのじゃま=沿岸航路による物資輸送の障害になること。
[9]自然:しぜん=当然。
[10]大患:たいかん=大きな心配事。大きなわざわい。
[11]理非:りひ= 理と非。道理に合っていることとそむいていること。是非。理否。
[12]患害:かんがい=これからどうなるかという心配。また、他に迷惑を及ぼす悪事。
[13]萌生:ほうせい=草木がもえ出ること。転じて、物事が起こり始まること。
[14]頻ニ:しきに=何度も何度も。しきりに。
[15]武威:ぶい=たけだけしい威力。武力の威勢。また、武家の威光。

<現代語訳>

(前略)
西洋の習慣では、たとえ敵船であっても、自国の者が乗船している時には、鉄砲を打ちかけたりはしない。しかし、イキリスは日本に対し敵国ではなく、いってみれば、付合もない他人であるから、今、日本人の漂流民を憐れんで、道徳上守るべき筋道として、わざわざ送り届けてくれたものを、何も取り合わずに、ただちに「異国船打払令」によって打払ってしまえば、日本は人民を憐れまない仁義のない国となってしまう。もし、万一その仁義がなく、人として守るべき道にはずれていることを憤れば、日本近海にはイキリスの属島を多く所有し、始終艦船が通行しているので、後に、海上の敵となって、沿岸航路による物資輸送の障害にもなるかもしれない、そうなれば、当然国の大きなわざわいともなるであろう。たとえ右のようなことがなかったとしても、打払いを行えば、道理がわからないとして、異国ヘ対し人として守るべき道にはずれた国だと言いふらし、仁義の国という名を失い、これよりどのような迷惑を及ぼす悪事が、起こり始まるか計り知れない、あるいは、しきりにイキリスを恐れるように思いこまされると、国内が衰微するようにも推察され、恐れながら、武力の威勢を損なうことになりはしないかと、考える次第である。
(後略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)日本2番目の洋式灯台である野島埼灯台が初点灯する(新暦1870年1月19日)詳細
1914年(大正3)東京駅の開業式が行われる(東京駅完成記念日)詳細
1917年(大正6)相模鉄道株式会社が創立総会を開催する詳細
1947年(昭和22)「過度経済力集中排除法」が公布施行される詳細
1948年(昭和23)連合国最高司令官総司令部(GHQ)が日本経済自立復興の為の「経済安定9原則」を指令する詳細
1997年(平成9)東京湾横断道路(愛称:東京湾アクアライン)が開通する詳細
2002年(平成14)「東京地下鉄株式会社法」が公布・施行される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1853年(嘉永6)に、江戸幕府第12代将軍徳川家慶が亡くなった日ですが、新暦では7月27日となります。
 徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、1793年(寛政5年5月14日)に、江戸城内において、第11代将軍徳川家斉の次男(母はお楽の方)として生まれましたが、幼名は敏治郎と言いました。兄竹千代が夭折したので、将軍継嗣となり、1797年(寛政9)に従二位権大納言に叙任され、元服して家慶を名乗ります。
 1816年(文化13)に右近衛大将を兼任し、1822年(文政5)には、正二位内大臣に昇叙転任しました。1824年(文政7)に四男政之助(のちの第13代将軍徳川家定)が生まれ、1827年(文政10)には、従一位に昇叙します。
 1837年(天保8)に、45歳で父・家斉から譲られ、左大臣に転任して、第12代将軍となったものの、父が大御所として実権を握り続けました。その中で、1839年(天保10)に渡辺崋山、高野長英らを処罰する事件(蛮社の獄)が起きます。
 1841年(天保12)に、父・家斉が亡くなると、家斉側近を排し、水野忠邦を重用して天保の改革を断行させ、内憂外患の危機打開を図ろうとしました。「株仲間解散令」、遭難した船に限り薪水の給与を認める「天保の薪水給与令」、「人返しの法」、江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした「上知令」、「無利子年賦返済令」などを立て続けに発令します。
 しかし、急激にすぎて多くの反発を招き、2年余りで挫折、忠邦は失脚、その後、阿部正弘を老中首座に起用し、海防問題の難局に対処しました。しかし、1853年(嘉永6)にアメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、難局に直面する中、同年6月22日に、江戸城内において、数え年61歳で亡くなっています。

〇徳川家慶関係略年表(日付は旧暦です)

・1793年(寛政5年5月14日) 江戸城において、第11代将軍徳川家斉の次男(母はお楽の方)として生まれる
・1793年(寛政5年) 兄竹千代が夭折する
・1797年(寛政9年3月1日) 従二位権大納言に叙任、元服して家慶を名乗る
・1816年(文化13年4月2日) 右近衛大将を兼任する
・1822年(文政5年3月5日) 正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し
・1824年(文政7年4月8日) 四男政之助(のちの第13代将軍徳川家定)が生まれる
・1827年(文政10年3月18日) 従一位に昇叙し、内大臣右近衛大将元の如し
・1837年(天保8年9月2日) 左大臣に転任し、征夷大将軍・源氏長者宣下、右近衛大将は同日、世子徳川家定が兼任する
・1839年(天保10年) 渡辺崋山、高野長英らを処罰する(蛮社の獄)
・1841年(天保12年閏1月7日) 父・家斉が亡くなる
・1841年(天保12年5月15日) 享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、天保の改革が始まる
・1841年(天保12年12月13日) 最初の「株仲間解散令」が出される
・1842年(天保13年) 遭難した船に限り薪水の給与を認める「天保の薪水給与令」を発令する
・1843年(天保14年) 「人返しの法」が制定される
・1843年(天保14年) 江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした「上知令」を発令する
・1843年(天保14年) 「無利子年賦返済令」を発令する
・1853年(嘉永6年6月3日) アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れる(黒船来航)
・1853年(嘉永6年8月21日) 正一位太政大臣を贈られる
・1853年(嘉永6年6月22日) 江戸城において、数え年年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定)詳細
1965年(昭和40)日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される詳細
1972年(昭和47)自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される詳細


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 今日は、江戸時代後期の1850年(嘉永5)に、医師・蘭学者高野長英の亡くなった日ですが、新暦では12月3日となります。
 高野長英(たかの ちょうえい)は、1804年(文化元年5月5日)に、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市水沢)において、水沢領主水沢伊達家家臣の父・後藤実慶の三男(母は美代)として生まれましたが、名は譲(ゆずる)と言いました。幼いころ父と死別し、母方の伯父高野玄斎の養子となります。
 1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
 1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
 1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を売ヶ投獄されます。
 しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
 翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。

〇高野長英の主要な著作

・『避疫要法』(1832年)
・翻訳『西説医原枢要』(1832年)
・『救荒二物考』(1836年)
・『戊戌夢物語』(1838年)
・獄中記『わすれがたみ』(1839年)
・『蛮社遭厄(そうやく)小記』(1841年)
・『知彼一助』(1847年)
・翻訳『三兵答古知幾(タクチーキ)』(1847年)
・翻訳『家(ほうか)必読』(1848年)
・翻訳『兵制全書』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1839年(天保10)に、蛮社の獄で、渡辺崋山らに出頭命令が下され、伝馬町の獄に入れられた日ですが、新暦では6月24日となります。
 これは、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されたのです。
 これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。

〇蛮社の獄で逮捕された主要な人物

・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

〇渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応するといううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

☆『慎機論』抜粋

「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。 (中略) 今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひは漂蕩し、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯て瑣屑の論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋戎狄といへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、驕横の端となるべし。」
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 今日は、江戸時代後期の1793年(寛政5)に、武士・画家 渡辺崋山の生まれた日ですが、新暦では10月20日となります。
 渡辺崋山は、江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれました。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となりしました。家老として藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。
 天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、「慎機論」を著して、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。
 画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇「蛮社の獄」とは?

 江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) の判決が下されたのです。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていました。
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