
1822年(文政5)に蘭方医島本竜嘯に入門、翌年には、長崎の大通詞猪股伝次右衛門にオランダ語を学び、シーボルトにも師事して蘭医学を学びました。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府にシーボルトが随行する際、一緒に江戸に出て、1828年(文政11)には、本所番場町に医業を開くものの、シーボルト事件に連座し、一時入獄します。
1829年(文政12)に玄朴と改名、医書翻訳や蘭書教授を行ない、1831年(天保2)に佐賀藩主鍋島家の一代士として召しかかえられ、1833年(天保4)には、江戸・御徒町に蘭学塾象先堂を開設しました。1835年(天保6)にビショップの著書を翻訳して『医療正始』24巻を刊行、1838年(天保9)には、モストの『牛痘種法篇』を訳出しています。
1843年(天保14)に佐賀藩鍋島直正の侍医として7人扶持で召し抱えられ、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言、江戸で貢姫君に牛痘苗を接種し成功しました。1858年(安政5)に大槻俊斎・戸塚静海らと図り江戸に種痘所(お玉が池種痘所)を開設、戸塚静海とともに奥医師に任命され、コレラ流行に際し、松本良甫・吉田収庵・伊東玄圭ら蘭方医の採用を申請します。
1860年(万延元)にお玉ケ池種痘所が幕府直轄となり、1861年(文久元)に脱疽患者の肢切断治療で日本で初めてクロロホルム麻酔を使用、蘭方医として初めて、法印に叙せられ、長春院の号を賜わりました。1862年(文久2)に林洞海や竹内玄同と共に、西洋医学所の取締に就任しましたが、翌年に緒方洪庵が死去すると、後任の頭取に松本良順が就き、その弾劾により、奥医師を免ぜられて小普請入となります。
1864年(元治元)に小普請医師より寄合医師に昇格したものの、1868年(明治元)には、隠居して家督を養子の方成(玄伯)に譲り、1871年(明治4年1月2日)に東京において、数え年72歳で亡くなりました。
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