ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:蘭学

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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、緒方洪庵の適塾に福沢諭吉が入塾した日です。
 適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、江戸時代後期の1838年(天保9)に、大坂の瓦町に開いた蘭学の家塾ですが、正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)といいました。1843年(天保14)には、船場過書町に移転して、大いに発展し、緒方洪庵が1862年(文久2)に江戸に移るまで続きます。
 この間の門人数は600名余りで、出身地はほぼ全国に及び、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介など幕末から明治にかけて活躍した人材を多数輩出しました。尚、建物は現存していて、「緒方洪庵旧宅および塾」として1941年(昭和16)に国の史跡指定を受け、1964年(昭和39)には国の重要文化財ともなっています。

〇緒方洪庵(おがた こうあん)とは?

 江戸時代後期に活躍した武士・医師・蘭学者です。1810年(文化7年7月14日)に、備中国足守(現在の岡山県岡山市)において、足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として生まれましたが、幼名は田上之助といいました。
 1825年(文政8)に元服して田上惟章と名乗るようになり、父が大坂蔵屋敷留守居役になったため同行して大坂に出ます。翌年に中天游の私塾「思々斎塾」に入門、4年間蘭学を学び、1831年(天保2)には、江戸へ出て坪井信道に入門(3年間在塾)、さらに宇田川玄真にも学びました。
 1836年(天保7)に長崎へ遊学し、オランダ商館長ニーマンのもとで医学を学び、この頃から洪庵と号すようになります。1838年(天保9)に、大坂に帰って瓦町で医業を開業するとともに、蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を始めました。
 名が知られるようになり、門弟も増えたので、1845年(弘化2)に、過書町の商家跡へ適塾を移転します。多くの人材が集い、門人は600名以上に及び、大鳥圭介、佐野常民、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内らを輩出しました。
 また、1849年(嘉永2)に、牛痘種痘法による切痘を始め、『虎狼痢治準』、『扶氏経験遺訓』、『病学通論』などの著訳書を出して、蘭学・医学の発展に貢献します。1862年(文久2)には、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕し、「法眼」にも叙せられました。
 しかし、1863年(文久3年6月11日)、江戸の役宅において突然喀血し、52歳で急逝します。

〇福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)とは?

 幕末から明治時代の思想家・教育者です。1835年(天保5)に豊前国中津藩士福沢百助の五男として、大坂藩邸で生まれました。
 1854年(安政元)に長崎で蘭学を学び、翌年大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾に学び、塾頭にまでなります。1858年(安政5)藩命によって江戸へ出府し、鉄砲洲の中津藩邸内に蘭学塾を開きました。
 その後、英学を独修し、1860年(万延元)には幕府の軍艦咸臨丸の艦長の従僕を志願して渡米することになります。以後、1861年(文久元)~翌年、1867年(慶応3)と都合3回幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。
 その経験をもとに1866年(慶応2)『西洋事情』初編、1868年(慶応4)『西洋事情』外編、1869年(明治2)『世界国尽』(1869)などを刊行して大衆の啓蒙に寄与します。また、1868年(慶応4)蘭学塾の名を慶応義塾と改め。今日の慶應義塾大学の礎を築きました。
 そして、1872年(明治5)から1876年(明治9)にわたって出版した『学問のすゝめ』は、人間平等宣言と「一身の独立」「一国の独立」の主張により、ベストセラーとなります。このように、教育と啓蒙活動に専念し、1873年(明治6)に明六社を設立、1875年(明治8)『文明論之概略』を出版、(1875)1882年(明治15)「時事新報」を創刊するなどしてきましたが、1901年(明治34)年2月3日に68歳で死去しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1634年(寛永11)将棋師・一世名人大橋宗桂(初代)の命日(新暦4月6日)詳細
1851年(嘉永4)江戸幕府により、江戸に於て、「株仲間再興令」が布達される(新暦4月10日)詳細
1894年(明治27)日本初の記念切手(明治天皇銀婚記念切手)が発行される(記念切手記念日)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「学童疎開強化要綱」を閣議決定する詳細
1958年(昭和33)下関~門司間の海底道路トンネルである関門国道トンネルが開通する詳細
1968年(昭和43)イタイイタイ病の患者・遺族が原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1774年(安永3)に、前野良沢・杉田玄白らによって、『解体新書』が刊行された日ですが、新暦では4月18日となります。
 『解体新書』(かいたいしんしょ)は、解剖学書で、日本最初の西洋医学書の本格的翻訳書でした。1771年(明和8)の骨ヶ原(小塚原刑場)での女囚の腑分け (解剖) が契機となって、ドイツ人 J.クルムスが1722年に著した「Anatomische Tabellen(解剖図譜)」第3版の蘭訳本「Ontleedkundige Tafelen(俗称:ターヘル・アナトミア)」(1734年) の翻訳を杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが企て、苦労を重ね、3年半の歳月と11回の改稿を経て、1774年(安永3年3月4日)に刊行したものです。
 全文漢文体からなり、本文4巻と序・図1巻で構成され、図は小田野直武が制作、吉雄耕牛の序文と杉田玄白の自序、および凡例が載っていて、自然科学・蘭学の興隆に貢献しました。この翻訳の苦心談が杉田玄白著の『蘭学事始 (らんがくことはじめ) 』として知られています。
 以下に、杉田玄白著『蘭学事始』の『解体新書』が完成した時の記述を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇杉田 玄白(すぎた げんぱく)とは?

 江戸時代後期に活躍した蘭学医です。1733年(享保18年9月13日)に、若狭小浜藩医の父・杉田玄甫と母・八尾氏の娘の子として江戸牛込の小浜藩酒井家の藩邸で生まれましたが、名は翼(たすく)といいました。
 母は出産時に亡くなり、1740年(元文5)には一家で小浜へ移り、1745年(延享2)まで過ごしました。父玄甫が江戸詰めを命じられて再び上京し、18歳から儒者宮瀬竜門に漢学を幕府医官西玄哲に蘭方外科を学びます。
 1752年(宝暦2)には小浜藩医となり、上屋敷に勤めましたが、1757年(宝暦7)には江戸日本橋で開業して町医者ともなり、1765年(明和2)には藩の奥医師となりました。1769年(明和6)には父の玄甫が亡くなりくなり、家督と侍医の職を継ぎ、中屋敷詰となります。
 1771年(明和8)に、小塚原処刑場にて死体解剖を参観、蘭医書『ターヘル・アナトミア』の精緻さを知り、翌日から前野良沢、中川淳庵らとともに翻訳に着手し、1774年(安永3)に『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)を完成しました。1776年(安永5)には藩の中屋敷を出て、開業するとともに、医学塾「天真楼」を開き、大槻玄沢、杉田伯元、宇田川玄真ら多数の門人を育成し、蘭学の発達に貢献します。
 著書も多数あり、晩年には、『蘭学事始』(1815年成稿)などを書きましたが、1817年(文化14年4月17日)に、江戸において、数え年85歳で亡くなりました。

〇前野 良沢(まえの りょうたく)とは?

 江戸時代の蘭学者・医師で、『解体新書』の翻訳者の一人として知られていますが、名は熹、字は子悦、号は楽山、蘭化といいました。
 江戸時代中期の1723年(享保8)に、筑前藩士谷口新介の子として江戸牛込矢に生まれます。幼少の時、父母を亡くし、淀藩の医師で伯父の宮田全沢に養育されました。1748年(寛延元)に、中津藩医師前野東元の養子となり、吉益東洞流医学を修め、その後中津藩医となります。
 40代で蘭学を志し、青木昆陽についてオランダ語を学び、長崎への遊学もしました。その時に、西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れ、江戸に持ち帰って、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周らと翻訳に励みます。
 3年5ヶ月を費やして、翻訳書『解体新書』(1774年刊行)を完成させました。それからも医学、語学、物理、地理、歴史、築城など多方面のオランダ書の翻訳に打ち込みましたが、1803年(享和3年10月17日)に、81歳で亡くなります。
 著訳書に『管蠡秘言』、『和蘭訳筌』、『和蘭築城書』、『輿地図編小解』、『西洋画賛訳文稿』、『仁言私説』、『和蘭訳文略』、『蘭語随筆』、『魯西亜本紀』などがあり、洋学に寄与しました。

☆『蘭学事始』下之卷

○此會業怠らずして勤たりし中、次第に同臭の人も相加り寄りつどふ事なりしが、各志す所ありて一樣ならず、翁は一たび彼國解剖の書を得直に實驗し、東西千古の差ひある事を知り明らめ、治療の實用にも立て、世の醫家の業にも發明ある種にもなしたく、一日もはやく此一部を用立つ樣になし見度と、志を起せし事ゆゑ他に望む所もなく、一日會して解する處は、其夜翻譯して草稿を立て、それに付きては其譯述の仕かたを種々樣々に考へ直せし事、四年の間草稿は十二度迄認かへて、板下に渡すやうになり、遂に解體新書翻譯の業成就したり、抑江戶にて此學を創業して、腑分といひ古りしことを新に解體と譯名し、且社中にて誰いふとなく、蘭學といへる新名を首唱し、我東方闔州につぽんそうこくちゆう自然と通稱となるにも至れり、是れ今時のごとく隆盛となるべき最初嚆矢なり、今を以て考れば、是迄二百年來彼外科法は傳りしなれども、直に彼醫書を譯するといふ事は絕てなかりしが、此時の創業不可思議にも、凡そ醫道の大經大本たる身體內景の書、其新譯の起始となりしは、不用意を以て得る所にして、實に天意とやいふべし、(後略)
 「蘭學事始 下之卷」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1697年(元禄10)国学者・歌人賀茂真淵の誕生日(新暦4月24日)詳細
1806年(文化3)江戸三大大火の一つ、文化の大火が起きる(新暦4月22日)詳細
1952年(昭和27)1952年十勝沖地震(M8.2)が起こり、津波によって死者行方不明者33名を出す詳細
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