ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:蘇我馬子

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 今日は、飛鳥時代の585年(敏達天皇14)に、仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病流行の原因が仏教崇拝にあると奏上(物部守屋の仏教排斥)した日ですが、新暦では4月5日となります。
 物部守屋の仏教排斥(もののべもりやのぶっきょうはいせき)は、守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)が蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求め、敏達天皇が仏法を止めるよう詔したことでした。仏教は、欽明天皇の時代に伝来したと言われていますが、敏達天皇の御代になって、585年(敏達天皇14)2月に、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めます。
 敏達天皇はこれを許可しましたが、この頃から疫病が流行し出しましたので、同年3月1日に守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めます。敏達天皇は仏法を止めるよう詔し、3月30日に、守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵します。
 その上で、使者(佐伯造御室)を派遣して、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって、海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑に処するという事件が起こりました。しかし、疫病は更にひどくなって、天皇も病に伏すことになりましたので、馬子は、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、敏達天皇は馬子に限り許すことになります。
 しばらくして敏達天皇が亡くなった後も、仏教を広めようとする蘇我氏と旧来の神々を崇める物部氏との対立は続き、とうとう、2年後の587年(用明天皇2)7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めました。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて守屋の館を攻め、守屋は射殺され、これ以後、蘇我氏の勢力が増大します。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻20の渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)14年の条の該当部分を抜粋し、注釈と現代語訳を付けておきましたので、ご参照下さい。

〇「日本書紀」巻第二十 渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)十四年の条

<原文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
是日、無雲風雨。大連、被雨衣、訶責馬子宿禰與從行法侶、令生毀辱之心。乃遣佐伯造御室更名、於閭礙、喚馬子宿禰所供善信等尼。由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭。

 「岩波古典文学大系本」(卜部兼方・兼右本)より

<読み下し文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と、奏して曰く、「何の故にか肯て臣が言を用いたまはぬ。考天皇[1]より陛下に及び、疫疾[2]流く行はれて、國の民絶えつ可し。豈に專に蘇我臣が佛法を興し行ふに由るに非ずや。」詔して曰く、「灼然なり[3]、宜しく佛法を斷めよ。」丙戌、物部弓削守屋大連、自ら寺に詣りて、胡床[4]に踞坐り[5]、其の塔を斫倒し、火を縱けて之を燔く、幷せて佛像と佛殿とを燒く。既にして燒けし所の餘りの佛像を取りて、難波[6]の堀江に棄てしむ。
是の日に、雲無くて風ふき雨ふる。大連、被雨衣[7]して、馬子宿禰と從ひて法を行へる侶とを訶責[8]して、毀り辱かしむるの心を生さしむ。乃ち佐伯造御室(更の名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰の供る所の善信等の尼を喚さしむ。是に由りて、馬子宿禰、敢て命に違はず、惻み愴き啼泣つヽ、尼等を喚し出して、御室に付く。有司[9]、便ち尼等の三衣[10]を奪ひて、海石榴市[11]の亭[12]に禁錮へ[13]、楚撻ちき[14]。

【注釈】
[1]考天皇:かぞのみかど=欽明天皇のこと。
[2]疫疾:えやみ=疫病。
[3]灼然なり:いやちこなり=明白となること。とてもはっきりすること。非常に明らかになること。
[4]胡床:あぐら=腰を掛ける座具の一種。床几のこと。
[5]踞坐り:しりうたげをすわり=うずくまること。しゃがむこと。あぐらをかくこと。
[6]難波:なには=現在の大阪市およびその周辺地域の古称。
[7]被雨衣:あまよそい=雨具を付けること。
[8]訶責:かしゃく=しかり責めること。責めさいなむこと。
[9]有司:つかさ=役人。
[10]三衣:さんえ=僧の着る大衣、七条、五条の三種の袈裟のこと。僧衣。
[11]海石榴市:つばきいち=現在の奈良県桜井市付近にあった。
[12]亭:うまやたち=駅舎。駅家。大和政権が運営した交通施設で、馬や人員を常備した。
[13]禁錮へ:からめとらえへ=受刑者を監獄に拘置すること。
[14]楚撻ちき:しりかたうちき=鞭打ちの刑にする。

<現代語訳>

3月1日、大連の物部弓削守屋と大夫の中臣勝海が奏上するのには、「どうして私どもの進言を用いられないのですか。欽明天皇より陛下の御代に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えそうです。これは専ら、蘇我氏が仏法を広めたことによるのに間違えありません。」天皇が詔して、「これは明白である。すぐに仏法を止めるように。」と言われた。30日に大連の物部弓削守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、火を着けた。同時に仏像と仏殿も焼き、焼損した仏像を集めて、難波の堀江に投げ込ませた。
この日、雲も見えないのに風雨となり、大連(物部弓削守屋)は雨具をつけた。馬子宿禰やこれに従っていた仏法信者を面罵し、人々の信頼がなくなるようにした。その上で、佐伯造御室(別名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰に従っている善信等の尼を召喚させた。これについては、馬子宿禰はあえて命令には逆らわず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼らを呼び出して、使者の御室に託した。役人たちは、尼達の三衣を剥ぎとって、捕縛して海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑にした。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)郵便制度が新設され、郵便物の取扱、最初の切手(竜文切手)の発行が始まる(新暦4月20日)詳細
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1952年(昭和27)小説家・劇作家・俳人久米正雄の命日(三汀忌)詳細
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 今日は、飛鳥時代の626年(推古天皇34)に、古代の大臣・中央豪族蘇我馬子の亡くなった日ですが、新暦では6月19日となります。
 蘇我馬子(そが の うまこ)は、古代の中央豪族蘇我稲目の子として生まれましたが、生年ははっきりしません。572年(敏達元)の敏達天皇の即位に伴い、大臣に任命され、高句麗使を朝廷に迎え、高句麗外交を始めたとされています。
 584年(敏達天皇13)に、百済からもたらされた石仏像を請い、自宅の東に仏殿を建てて安置し、高句麗僧恵便を師として善信尼など3人の女性を出家させました。585年(敏達天皇14)に病気になり、天皇に奏上して仏法を祀る許可を得たものの、疫病が流行したため、物部守屋と中臣勝海は蕃神を信奉したために疫病が起きたと奏上して仏法禁止を求め、天皇は止めるよう詔することとなります。そして、守屋は自ら寺に赴き、仏塔・仏殿・仏像を破壊、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵、3人の尼を捕らえ鞭打ち刑に処する事件が起きました。しかし、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許し、3人の尼を返したので、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養します。
 その年の8月に、敏達天皇が崩御すると、葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒する事態となりました。その後即位した用明天皇は、587年(用明天皇2)に病となり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮ります。
 同年に馬子は、対立する穴穂部皇子と守屋を殺害し、泊瀬部皇子を即位させて崇峻天皇とし、朝廷における地位を確立しました。
 592年(崇峻天皇5)には、東漢駒に崇峻天皇を殺害させ、皇太后であった炊屋姫を推古天皇(初の女帝)とし、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立てて摂政とします。その後は、太子に協力して、603年(推古天皇11)に冠位十二階の制定、翌年に「十七条憲法」の制定、620年(推古天皇28)に、『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の編纂に従事しました。
 しかし、626年(推古天皇34)に、大和において亡くなり、桃原墓に葬られましたが、現在の奈良県明日香村にある石舞台古墳だとする説が有力です。

〇蘇我馬子関係略年表(日付は旧暦です)

・570年(欽明天皇31年) 北陸に高句麗使が来着する
・572年(敏達元年) 敏達天皇即位に伴い大臣に任命される
・572年(敏達天皇元年) 高句麗使を朝廷に迎える
・574年(敏達天皇3年) 高句麗外交を始める
・574年(敏達天皇3年) 白猪屯倉(現在の岡山県落合町)の戸籍整備に努力する
・584年(敏達天皇13年) 百済からもたらされた石仏像を請い、宅の東に仏殿を建てて安置し、高句麗僧恵便を師として善信尼など3人の女性を出家させる
・585年(敏達天皇14年2月) 馬子は病になり、敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得る
・585年(敏達天皇14年3月1日) 物部守屋と中臣勝海は蕃神を信奉したために疫病が起きたと奏上して仏法禁止を求め、天皇は止めるよう詔する
・585年(敏達天皇14年3月30日) 守屋は自ら寺に赴き、仏塔・仏殿・仏像を破壊、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵、3人の尼を捕らえ鞭打ち刑に処する
・585年(敏達天皇14年6月) 自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許し、3人の尼を返したので、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養する
・585年(敏達天皇14年8月) 敏達天皇が崩御し、葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒する
・587年(用明天皇2年4月) 用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮る
・587年(用明天皇2年6月) 炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害する
・587年(用明天皇2年7月) 馬子は群臣に諮り、物部守屋を滅ぼす
・587年(用明天皇2年8月) 馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とし、炊屋姫は皇太后となる
・588年(崇峻天皇元年) 馬子は善信尼らを百済へ留学させる
・591年(崇峻天皇4年) 崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送る
・592年(崇峻天皇5年) 蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)を着工する
・592年(崇峻天皇5年10月) 天皇へ猪が献上され、猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集する
・592年(崇峻天皇5年11月) 馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させる
・593年(崇峻天皇5年12月8日) 馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とし、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となる
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔が発せられる
・596年(推古天皇4年) 蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)が完成し、子の徳善を寺司とする
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階が定められる
・604年(推古天皇12年4月3日) 十七条憲法が制定される
・605年(推古天皇13年) 厩戸皇子(聖徳太子)の上宮王家が斑鳩宮に移転後も、馬子は飛鳥にあって政治を主導する
・612年(推古天皇20年) 堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行う
・620年(推古天皇28年) 厩戸皇子(聖徳太子)と共に『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の編纂に従事する
・622年(推古天皇30年) 厩戸皇子(聖徳太子)が死去する
・623年(推古天皇31年) 新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣し、新羅は戦わずに朝貢する
・624年(推古天皇32年) 葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、拒否される
・626年(推古天皇34年5月20日) 大和において死去し、桃原墓に葬られる
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 今日は、古墳時代の585年(敏達天皇14)に、仏教排斥を唱える物部守屋が、仏像・寺院等を焼打ちにした日ですが、新暦では5月4日となります。
 仏教は、欽明天皇の時代に伝来したと言われていますが、敏達天皇の御代になって、585年(敏達天皇14)2月に、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めました。天皇はこれを許可しましたが、この頃から疫病が流行し出します。
 同年3月1日に守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めました。天皇は仏法を止めるよう詔し、3月30日に、守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵しました。その上で、使者(佐伯造御室)を派遣して、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって、海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑に処するという事件が起こります。
 しかし、疫病は更にひどくなって、天皇も病に伏すことになりました。馬子は、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許すことになります。
 しばらくして敏達天皇が亡くなった後も、仏教を広めようとする蘇我氏と旧来の神々を崇める物部氏との対立は続き、とうとう、2年後の587年(用明天皇2)7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めました。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて守屋の館を攻め、守屋は射殺されます。これ以後、蘇我氏の勢力が増大しました。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻20の渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)14年の条の該当部分を抜粋し、注釈と現代語訳を付けておきましたので、ご参照下さい。

〇「日本書紀」巻第二十 渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)十四年の条

<原文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
是日、無雲風雨。大連、被雨衣、訶責馬子宿禰與從行法侶、令生毀辱之心。乃遣佐伯造御室更名、於閭礙、喚馬子宿禰所供善信等尼。由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭。

 「岩波古典文学大系本」(卜部兼方・兼右本)より

<読み下し文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と、奏して曰く、「何の故にか肯て臣が言を用いたまはぬ。考天皇[1]より陛下に及び、疫疾[2]流く行はれて、國の民絶えつ可し。豈に專に蘇我臣が佛法を興し行ふに由るに非ずや。」詔して曰く、「灼然なり[3]、宜しく佛法を斷めよ。」丙戌、物部弓削守屋大連、自ら寺に詣りて、胡床[4]に踞坐り[5]、其の塔を斫倒し、火を縱けて之を燔く、幷せて佛像と佛殿とを燒く。既にして燒けし所の餘りの佛像を取りて、難波[6]の堀江に棄てしむ。
是の日に、雲無くて風ふき雨ふる。大連、被雨衣[7]して、馬子宿禰と從ひて法を行へる侶とを訶責[8]して、毀り辱かしむるの心を生さしむ。乃ち佐伯造御室(更の名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰の供る所の善信等の尼を喚さしむ。是に由りて、馬子宿禰、敢て命に違はず、惻み愴き啼泣つヽ、尼等を喚し出して、御室に付く。有司[9]、便ち尼等の三衣[10]を奪ひて、海石榴市[11]の亭[12]に禁錮へ[13]、楚撻ちき[14]。

【注釈】
[1]考天皇:かぞのみかど=欽明天皇のこと。
[2]疫疾:えやみ=疫病。
[3]灼然なり:いやちこなり=明白となること。とてもはっきりすること。非常に明らかになること。
[4]胡床:あぐら=腰を掛ける座具の一種。床几のこと。
[5]踞坐り:しりうたげをすわり=うずくまること。しゃがむこと。あぐらをかくこと。
[6]難波:なには=現在の大阪市およびその周辺地域の古称。
[7]被雨衣:あまよそい=雨具を付けること。
[8]訶責:かしゃく=しかり責めること。責めさいなむこと。
[9]有司:つかさ=役人。
[10]三衣:さんえ=僧の着る大衣、七条、五条の三種の袈裟のこと。僧衣。
[11]海石榴市:つばきいち=現在の奈良県桜井市付近にあった。
[12]亭:うまやたち=駅舎。駅家。大和政権が運営した交通施設で、馬や人員を常備した。
[13]禁錮へ:からめとらえへ=受刑者を監獄に拘置すること。
[14]楚撻ちき:しりかたうちき=鞭打ちの刑にする。

<現代語訳>

3月1日、大連の物部弓削守屋と大夫の中臣勝海が奏上するのには、「どうして私どもの進言を用いられないのですか。欽明天皇より陛下の御代に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えそうです。これは専ら、蘇我氏が仏法を広めたことによるのに間違えありません。」天皇が詔して、「これは明白である。すぐに仏法を止めるように。」と言われた。30日に大連の物部弓削守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、火を着けた。同時に仏像と仏殿も焼き、焼損した仏像を集めて、難波の堀江に投げ込ませた。
この日、雲も見えないのに風雨となり、大連(物部弓削守屋)は雨具をつけた。馬子宿禰やこれに従っていた仏法信者を面罵し、人々の信頼がなくなるようにした。その上で、佐伯造御室(別名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰に従っている善信等の尼を召喚させた。これについては、馬子宿禰はあえて命令には逆らわず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼らを呼び出して、使者の御室に託した。役人たちは、尼達の三衣を剥ぎとって、捕縛して海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑にした。
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