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 今日は、飛鳥時代の626年(推古天皇34)に、古代の大臣・中央豪族蘇我馬子の亡くなった日ですが、新暦では6月19日となります。
 蘇我馬子(そが の うまこ)は、古代の中央豪族蘇我稲目の子として生まれましたが、生年ははっきりしません。572年(敏達元)の敏達天皇の即位に伴い、大臣に任命され、高句麗使を朝廷に迎え、高句麗外交を始めたとされています。
 584年(敏達天皇13)に、百済からもたらされた石仏像を請い、自宅の東に仏殿を建てて安置し、高句麗僧恵便を師として善信尼など3人の女性を出家させました。585年(敏達天皇14)に病気になり、天皇に奏上して仏法を祀る許可を得たものの、疫病が流行したため、物部守屋と中臣勝海は蕃神を信奉したために疫病が起きたと奏上して仏法禁止を求め、天皇は止めるよう詔することとなります。そして、守屋は自ら寺に赴き、仏塔・仏殿・仏像を破壊、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵、3人の尼を捕らえ鞭打ち刑に処する事件が起きました。しかし、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許し、3人の尼を返したので、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養します。
 その年の8月に、敏達天皇が崩御すると、葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒する事態となりました。その後即位した用明天皇は、587年(用明天皇2)に病となり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮ります。
 同年に馬子は、対立する穴穂部皇子と守屋を殺害し、泊瀬部皇子を即位させて崇峻天皇とし、朝廷における地位を確立しました。
 592年(崇峻天皇5)には、東漢駒に崇峻天皇を殺害させ、皇太后であった炊屋姫を推古天皇(初の女帝)とし、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立てて摂政とします。その後は、太子に協力して、603年(推古天皇11)に冠位十二階の制定、翌年に「十七条憲法」の制定、620年(推古天皇28)に、『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の編纂に従事しました。
 しかし、626年(推古天皇34)に、大和において亡くなり、桃原墓に葬られましたが、現在の奈良県明日香村にある石舞台古墳だとする説が有力です。

〇蘇我馬子関係略年表(日付は旧暦です)

・570年(欽明天皇31年) 北陸に高句麗使が来着する
・572年(敏達元年) 敏達天皇即位に伴い大臣に任命される
・572年(敏達天皇元年) 高句麗使を朝廷に迎える
・574年(敏達天皇3年) 高句麗外交を始める
・574年(敏達天皇3年) 白猪屯倉(現在の岡山県落合町)の戸籍整備に努力する
・584年(敏達天皇13年) 百済からもたらされた石仏像を請い、宅の東に仏殿を建てて安置し、高句麗僧恵便を師として善信尼など3人の女性を出家させる
・585年(敏達天皇14年2月) 馬子は病になり、敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得る
・585年(敏達天皇14年3月1日) 物部守屋と中臣勝海は蕃神を信奉したために疫病が起きたと奏上して仏法禁止を求め、天皇は止めるよう詔する
・585年(敏達天皇14年3月30日) 守屋は自ら寺に赴き、仏塔・仏殿・仏像を破壊、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵、3人の尼を捕らえ鞭打ち刑に処する
・585年(敏達天皇14年6月) 自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許し、3人の尼を返したので、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養する
・585年(敏達天皇14年8月) 敏達天皇が崩御し、葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒する
・587年(用明天皇2年4月) 用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮る
・587年(用明天皇2年6月) 炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害する
・587年(用明天皇2年7月) 馬子は群臣に諮り、物部守屋を滅ぼす
・587年(用明天皇2年8月) 馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とし、炊屋姫は皇太后となる
・588年(崇峻天皇元年) 馬子は善信尼らを百済へ留学させる
・591年(崇峻天皇4年) 崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送る
・592年(崇峻天皇5年) 蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)を着工する
・592年(崇峻天皇5年10月) 天皇へ猪が献上され、猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集する
・592年(崇峻天皇5年11月) 馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させる
・593年(崇峻天皇5年12月8日) 馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とし、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となる
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔が発せられる
・596年(推古天皇4年) 蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)が完成し、子の徳善を寺司とする
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階が定められる
・604年(推古天皇12年4月3日) 十七条憲法が制定される
・605年(推古天皇13年) 厩戸皇子(聖徳太子)の上宮王家が斑鳩宮に移転後も、馬子は飛鳥にあって政治を主導する
・612年(推古天皇20年) 堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行う
・620年(推古天皇28年) 厩戸皇子(聖徳太子)と共に『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の編纂に従事する
・622年(推古天皇30年) 厩戸皇子(聖徳太子)が死去する
・623年(推古天皇31年) 新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣し、新羅は戦わずに朝貢する
・624年(推古天皇32年) 葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、拒否される
・626年(推古天皇34年5月20日) 大和において死去し、桃原墓に葬られる