ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:藤原道長

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 今日は、平安時代中期の1008年(寛弘5)に、第68代の天皇とされる後一条天皇が生まれた日ですが、新暦では10月12日となります。
 後一条天皇(ごいちじょうてんのう)は、京都において、一条天皇の第二皇子(母は藤原道長女中宮彰子)として生まれましたが、名は敦成(あつひら)と言いました。1011年(寛弘8)に父・一条天皇が亡くなり、居貞親王(三条天皇)が第67代とされる天皇として即位すると、藤原道長の意により、その皇太子となります。
 1016年(長和5)に三条天皇の譲位により、9歳で第68代とされる天皇として即位したものの、藤原道長が摂政となり権勢を振るいました。翌年には、藤原頼通が摂政を受け継ぎ、敦明親王の辞意により、天皇の同母弟敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子とします。
 1018年(寛仁2)に11歳で一条殿において元服すると、藤原道長の娘威子が中宮となり、太皇太后(一条天皇中宮彰子)、皇太后(三条天皇中宮妍子)の三后がともに道長の娘で、その栄華を極めることとなりました。1019年(寛仁3)に刀伊(女真族)が対馬、壱岐、筑前に襲来、1028年(長元元)には、下総で平忠常が乱をおこしたりしています。
 威子との間に二人の内親王が誕生したものの、皇子は出来ず、1036年(長元9年4月17日)に京都の清涼殿において、数え年29歳で亡くなった後は、同母弟敦良親王(後朱雀天皇)が皇位を継承しました。浄土寺西原において火葬された後は、菩提樹院陵(現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町)が墓所とされています。

〇後一条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1008年(寛弘5年9月11日) 京都において、一条天皇の第二皇子(母は藤原道長女中宮彰子)として生まれる
・1008年(寛弘5年10月16日) 親王宣下される
・1011年(寛弘8年6月13日) 三条天皇の皇太子となる
・1011年(寛弘8年6月22日) 父・一条天皇が亡くなる
・1011年(寛弘8年10月16日) 居貞親王(三条天皇)が、第67代とされる天皇として即位する
・1015年(長和4年) 疫病が流行する
・1016年(長和5年1月29日) 三条天皇の譲位により、9歳で受禅し、藤原道長が摂政となる
・1016年(長和5年2月7日) 第68代とされる天皇として即位する
・1017年(寛仁元年3月16日) 藤原頼通が摂政となる
・1017年(寛仁元年8月9日) 敦明親王の辞意により、天皇の同母弟敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子とする
・1018年(寛仁2年1月3日) 11歳で一条殿において元服する
・1018年(寛仁2年10月16日) 藤原道長の娘威子を中宮とする
・1019年(寛仁3年4月) 刀伊(女真族)が対馬、壱岐、筑前に襲来する
・1019年(寛仁3年12月22日) 藤原頼通が関白となる
・1021年(治安元年10月) 春日社に行幸し、大和国添上郡を寄進する 
・1027年(万寿4年12月) 藤原道長が亡くなる 
・1028年(長元元年6月) 下総で平忠常が乱をおこす
・1036年(長元9年4月17日) 京都の清涼殿において、数え年29歳で亡くなる
・1036年(長元9年5月19日) 浄土寺西原において火葬される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

764年(天平宝字8)孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚する(新暦10月10日)詳細
972年(天禄3)僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日)詳細
1900年(明治33)東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日)詳細
1940年(昭和15)内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される詳細
1949年(昭和24)明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する詳細
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 今日は、平安時代中期の980年(天元3)に、第66代の天皇とされる一条天皇が生まれた日ですが、新暦では7月15日となります。
 一条天皇(いちじょうてんのう)は、京都において円融天皇の第1皇子(母は藤原兼家の娘・詮子)として生まれましたが、名は懐仁(やすひと)と言いました。984年(永観2)に5歳で立太子し、同年6月23日に、花山天皇の譲位を受けて、第66代とされる天皇として即位、藤原兼家を摂政とします。
 990年(永祚2)に元服しましたが、同年に兼家は出家し、藤原道隆を関白・摂政とし、その娘の定子を中宮としました。991年(正暦2)に、父・円融天皇が亡くなり、996年(長徳2)には、道隆が亡くなり、藤原道兼を関白としたものの、その直後疫病で死去し、代わって藤原道長に内覧の宣旨を下します。
 999年(長保元)に道長の娘の彰子を女御とし、翌年には中宮として、一帝二后の先例を開きました。一条天皇は道長と協調して政治を行ったとされますが、道長の専権は著しく、藤原氏の全盛期を作り出し、荘園の増加による律令制の衰微を招きます。
 一方、文人、貴族、僧、武士など各界で人材が輩出し、宮廷文化が栄華を極め、特に女流文学が栄え、紫式部、清少納言などが活躍しました。天皇自身も才学豊かで笛の名手であり、漢詩にすぐれ、『本朝麗藻』などに作品を残し、和歌も『後拾遺和歌集』集初後、勅撰集に8首入集しています。
 しかし、1011年(寛弘8)に病を得て、皇太子居貞親王(三条天皇)に譲位し、太上天皇となり、6日後に出家したものの、同年6月22日に京都において、数え年32歳で亡くなり、陵墓はの円融寺北陵(現在の京都市右京区)とされました。

<代表的な歌>

・「これをだに 形見と思ふを 都には 葉がへやしつる 椎柴の袖」(後拾遺和歌集)
・「野べまでに 心一つは 通へども わが御幸とは 知らずやありけむ」(後拾遺和歌集)
・「くらき夜の 雨にたぐひて 散る花を 春のみぞれと 思ひつるかな」(続古今和歌集)
・「秋風の 露の宿りに 君をおきて 塵をいでぬる ことぞ悲しき」(新古今和歌集)

〇一条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・980年(天元3年6月1日) 京都において円融天皇の第1皇子(母は藤原兼家の娘・詮子)として生まれる
・984年(永観2年8月) 5歳で立太子する
・986年(寛和2年6月23日) 花山天皇の譲位を受けて、第66代とされる天皇として即位、藤原兼家を摂政とする
・990年(永祚2年1月) 元服する
・990年(永祚2年5月) 兼家は出家し、道隆を関白・摂政とする
・990年(永祚年10月) 道隆女定子を中宮とする
・991年(正暦2年2月12日) 父・円融天皇が亡くなる
・996年(長徳2年4月) 道隆が亡くなる
・996年(長徳2年5月) 道兼を関白としたが、道兼はその直後疫病で死去し、代わって道長に内覧の宣旨を下す
・999年(長保元年) 道長の娘彰子を女御とする
・1000年(長保2年) 道長の娘彰子を中宮とする
・1002年(長保3年閏12月22日) 母・詮子が亡くなる
・1011年(寛弘8年6月13日) 病を得て、皇太子居貞親王(三条天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1011年(寛弘8年6月19日) 出家する
・1011年(寛弘8年6月22日) 京都において、数え年32歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1837年(天保8)生田万の乱が失敗し、国学者生田万が自刃する(新暦7月3日)詳細
1875年(明治8)日本初の気象台「東京気象台」が設置され、気象と地震の観測が開始される(気象記念日)詳細
1957年(昭和32)自然公園法」が制定される

詳細

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 今日は、平安時代中期の万寿4年に、公卿藤原道長が亡くなった日ですが、新暦では1028年1月3日となります。
 藤原道長(ふじわら の みちなが)は、966年(康保3年)に京都において、摂政・関白・太政大臣の父・藤原兼家の五男(母は左京大夫藤原中正の女)として生まれました。980年(天元3年)に従五位下に叙位され、982年(天元5)に昇殿を許され、翌年には侍従に任官します。
 986年(寛和2)に父・兼家が一条天皇の摂政となると、翌年に従四位から一気に従三位に昇位し、991年(正暦2)には、26歳の若さで権大納言に任じられました。995年(長徳元)に疫病が流行し、兄の関白道隆・道兼が相ついで没したため、その地位を道隆の嫡子内大臣伊周 (これちか) と争いましたが、道長の姉で天皇の生母である東三条院詮子の強力な後援により、この争いに勝って、同年内覧、右大臣、氏長者となって政権の首座に就きます。
 翌年に伊周の失脚により左大臣となり、娘彰子・妍子・威子・嬉子・盛子を入内させて三代の外戚となりました。1016年(長和5)には外孫の後一条天皇の践祚とともに摂政となり、翌年にはこれを嫡子頼通に譲り、太政大臣となって、父子並んで政権を独占して権勢を振るい、藤原氏摂関政治の最盛期を築きます。
 その中で、1018年(寛仁2年)に娘・威子立后の夜の宴席では、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」と歌いました。しかし、同年太政大臣を辞し、さらに1019年(寛仁3)に出家し、行観 (同年行覚と改める) と名乗り、法成寺を造営します。
 詩歌も良くし、詩は『本朝麗藻』に、歌は勅撰集に43首が入集していますが、1028年1月3日(万寿4年12月4日)に、京都において、病のため数え年63歳で、亡くなりました。

〇藤原道長関係略年表(日付は旧暦です)

・966年(康保3年) 京都において、父・摂政・関白・太政大臣の兼家の五男(母は左京大夫藤原中正の女)として生まれる
・980年(天元3年1月7日)  従五位下に叙位される
・982年(天元5年1月10日)  昇殿を許される
・983年(天元6年1月27日) 侍従に任官する
・984年(永観2年2月1日) 右兵衛権佐に転任する
・984年(永観2年4月14日) 禁色を許される
・984年(永観2年4月28日) 東宮(のちの花山天皇こと、師貞親王)昇殿を許される
・986年(寛和2年2月8日) 昇殿を許される
・986年(寛和2年6月23日) 一条天皇が践祚し、父の兼家が摂政となるとあらためて昇殿を許される
・986年(寛和2年7月23日) 従五位上に昇叙し、蔵人に補任される
・986年(寛和2年7月27日) 正五位下に昇叙する
・986年(寛和2年8月15日) 少納言を兼任する
・986年(寛和2年10月15日) 左近衛少将に転任する
・986年(寛和2年11月18日) 従四位下に昇叙し、禁色と昇殿をあらためて許される
・987年(寛和3年1月7日) 従四位上に昇叙する
・987年(寛和3年1月27日) 讃岐権守を兼任する
・987年(永延元年7月11日) 備前権守を兼任し、讃岐権守を去る
・987年(永延元年9月4日) 左京大夫を兼任する
・987年(永延元年9月20日) 従三位に昇叙する
・987年(永延元年9月26日) 左近衛少将を止むが、帯剣を許される
・988年(永延2年1月29日) 権中納言に転任する
・989年(永延3年3月4日) 右衛門督を兼任する
・990年(永祚2年1月7日) 正三位に昇叙する
・990年(永祚2年10月5日) 中宮(道隆の娘で一条天皇中宮・藤原定子)大夫を兼任する
・991年(正暦2年9月7日) 26歳の若さで権大納言に転任する
・992年(正暦3年4月27日) 従二位に昇叙する
・995年(長徳元年4月27日) 左近衛大将を兼任する
・995年(長徳元年5月) 内覧宣下される
・995年(長徳元年9月19日) 右大臣に転任し、藤原氏長者宣下される
・996年(長徳2年7月20日) 正二位に昇叙し、左大臣に転任する
・996年(長徳2年8月9日) 左近衛大将を辞任する
・1015年(長和4年10月27日) 准摂政宣下される
・1016年(長和5年1月29日) 摂政宣下される
・1017年(長和5年12月7日) 左大臣を辞任する
・1017年(長和6年3月16日) 摂政を辞し、子頼通(よりみち)に譲り、従一位に昇叙する
・1017年(寛仁元年12月4) 太政大臣を宣下される
・1018年(寛仁2年2月9日) 太政大臣を辞任する
・1019年(寛仁3年3月21日) 出家して法名を行観とする
・1025年(万寿2年8月) 娘の嬉子が皇子(後の後冷泉天皇)を産んで亡くなる
・1026年(万寿3年9月) 娘の妍子が亡くなる
・1028年(万寿4年12月4日) 京都において、病のため数え年63歳で、亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1942年(昭和17)小説家中島敦の命日詳細
1961年(昭和36)歴史学者・思想史家津田左右吉の命日詳細
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