ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:藤原泰衡

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 今日は、鎌倉時代の1183年(文治5)に、源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い(衣川合戦)、源義経が自害した日(閏)ですが、新暦では6月15日となります。
 源義経(みなもと の よしつね)は、平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将でした。1159年(平治元)に、河内源氏の源義朝の九男(母は常盤)として生まれましたが、幼名は牛若丸と言います。
 同年12月に平治の乱が起き、戦いに敗れた父・義朝は、翌年敗死しました。平氏に捕えられ京の鞍馬寺に入れられましたが、1174年(承安4)頃ひそかに奥州平泉の藤原秀衡の下に赴いて庇護を受けます。
 1180年(治承4)に兄の源頼朝が挙兵すると、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝との対面を果たしました。1183年(寿永2)に頼朝の代官として京へ向かい、翌年には源義仲を討って入京します。
 1184年(元暦元)に平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担うことになりました。1185年(文治元年2月)の屋島の戦いを制し、同年3月には壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込みます。
 同年4月に京へ凱旋し、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、6月に京へと戻りました。後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させます。
 奥州平泉へと逃れましたが、1187年(文治5)の秀衡の死後、その跡を継いだ泰衡に、1189年(文治5年閏4月30日)、衣川の館を急襲され、数え年31歳で自刃したとされてきました。後に、悲劇の英雄として伝説化され、文学作品の素材ともなっています。

〇源義経関係略年表(日付は旧暦です)

・1159年(平治元年12月) 源義朝の九男(母は常盤)として生まれる
・1160年(平治2年) 父・源義朝が敗死する
・1162年(応保2年)頃 母・常盤が一条長成と再婚する
・1169年(嘉応元年)頃、鞍馬寺で稚児となる
・1174年(承安4年) 鞍馬寺を出奔して金売吉次の案内で奥州平泉へ下る
・1180年(治承4年8月) 兄・頼朝が挙兵したので、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝と対面する
・1183年(寿永2年11月) 頼朝代官として上洛へと向かう
・1184年(元暦元年) 源義仲を討って入京、平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担う
・1185年(文治元年) 屋島の戦いを制し、壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込み京へ凱旋したものの、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、京へと戻り、後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させる
・1187年(文治3年) 奥州平泉へ落ち延びるものの、庇護者藤原秀衡が亡くなる
・1189年(文治5年閏4月30日) 藤原泰衡が衣川の館を襲い(衣川合戦)、数え年31歳で自害する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票で、翼賛政治体制協議会推薦者が381議席を占める詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、鎌倉時代初期の1189年(文治5)に、源頼朝が28万の大軍を率いて奥州平泉に来攻(奥州合戦)し、藤原泰衡は逃走中に家臣・河田次郎に殺され、奥州藤原氏が滅亡した日ですが、新暦では10月14日となります。
 奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、この年の7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間での東北地方における一連の戦いの総称ですが、『吾妻鏡』では、奥州征伐としてきました。奥州藤原氏は鎌倉政権を脅かす存在でしたが、さきに秀衡・泰衡父子が義経をかくまっていたことを口実とし、7月19日には頼朝自らが兵を率いて鎌倉を出発、奥州へ向かいます。
 頼朝は全軍を東海道軍・大手軍・北陸道軍の三手に分けて奥州へ侵攻し、8月22日には平泉を陥落させました。泰衡は平泉から逃れたものの、9月3日に比内郡贄柵で、家臣・河田次郎に殺され、奥州藤原氏は滅亡します。これによって、全国統一を完了し、頼朝による武士政権が確立しました。

〇奥州合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<1189年(文治5)>
・閏4月30日 藤原泰衡の軍勢が衣川館を襲撃し、源義経が自害する
・5月22日 奥州より義経誅殺を伝える飛脚が鎌倉に参着する
・6月8日 義経滅亡を受けて、後白河法皇より戦闘停止の院宣が鎌倉に届く
・6月13日 藤原高衡が義経の首を鎌倉に持参、和田義盛・梶原景時が実検する
・6月25日 源頼朝が泰衡追討宣旨の発給を朝廷に要請する
・6月26日 奥州で兵乱が起き、藤原忠衡が殺害される
・6月30日 頼朝は奥州征伐について大庭景義に諮問する
・7月16日 泰衡追討の延期を命じる宣旨が鎌倉に届くが、頼朝は宣旨なしでの出兵を決断する
・7月17日 終日審議し、東海道軍・大手軍・北陸道軍の三軍を編成して、進攻ルートを決定する
・7月18日 北陸道軍が鎌倉を出発する
・7月19日 頼朝が率いる大手軍が鎌倉を出発、越後の囚人・城長茂を軍勢に加える
・7月25日 頼朝は下野国古多橋駅に到着、宇都宮社に奉幣する
・7月26日 頼朝は宇都宮を出発、常陸の佐竹秀義を軍勢に加える
・7月28日 新渡戸駅に到着、城長茂の郎従200余人が参集する
・7月29日 頼朝は白河関を通過する
・8月7日 頼朝は国見駅に到着する
・8月8日~10日 阿津賀志山、石那坂、根無藤で戦闘があり、藤原国衡・金剛別当秀綱・佐藤基治・金十郎らが戦死して奥州軍が大敗する
・8月11日 頼朝は船迫宿に到着、国衡の首を実検する
・8月12日 頼朝は多賀城国府に到着、東海道軍が合流する
・8月13日 北陸道軍は出羽国で田川行文・秋田致文を討ち取る
・8月14日 頼朝は玉造郡に発向、小山朝政、物見岡を攻略する
・8月20日 頼朝は玉造郡多加波々城を攻略する
・8月21日 頼朝は平泉に発向、栗原・三迫の要害を攻略して津久毛橋に達するが、泰衡は平泉に火を放って逃走する
・8月22日 平泉が陥落する
・8月25日 衣川館の藤原基成父子が投降する
・8月26日 頼朝の宿所に投降をほのめかす泰衡の書状が投げ込まれる
・9月2日 頼朝は平泉から岩手郡厨河柵に発向する
・9月3日 泰衡が比内郡贄柵で郎従の河田次郎に殺害される
・9月4日 頼朝は志波郡に到着、陣岡で北陸道軍が合流する
・9月6日 河田次郎が泰衡の首を陣岡に持参、頼朝は前九年の役の故事に倣い、釘を打ち付けて梟首とする
・9月8日 頼朝は奥州平定の飛脚を京都に送る
・9月9日 一条能保の使者が陣岡に到着、7月19日付の泰衡追討宣旨を持参する
・9月11日 頼朝は陣岡を出て厨河柵に入る
・9月19日 頼朝は厨河柵を出発し、平泉に戻る
・9月22日 頼朝は陸奥国の奉行を葛西清重に命じる
・9月28日 頼朝は鎌倉に向けて帰還する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

740年(天平12)藤原広嗣の乱が起きる(新暦9月28日)詳細
1161年(応保元)第80代の天皇とされる高倉天皇の誕生日(新暦9月23日)詳細
1950年(昭和25)ジェーン台風が四国に上陸、近畿地方を横断し、甚大な被害をもたらす詳細
1953年(昭和28)民俗学者・国文学者・詩人・歌人折口信夫(釈迢空)の命日詳細
1981年(昭和56)「女子差別撤廃条約」が発効する詳細
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