ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:藤原冬嗣

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 今日は、平安時代前期の承和7年に、藤原緒嗣らが『日本後紀』を撰上した日ですが、新暦では、841年1月5日となります。
 『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代前期に成立した官撰の正史で、『続日本紀』に続く、「六国史」の三番目のものでした。元々は全40巻で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)の43年間を扱う漢文編年史でしたが、室町時代の応仁・文明の戦乱で散逸し、現存するのは10巻分のみです。
 819年(弘仁10)に、嵯峨天皇の勅命により、藤原冬嗣(ふゆつぐ)、藤原緒嗣(おつぐ)、藤原貞嗣(さだつぐ)、良岑安世(よしみねのやすよ)が編纂を開始したものの、3人が相次いで亡くなり、終始編纂に従事したのは緒嗣のみで、841年1月5日(承和7年12月9日)にようやく完成し、仁明天皇に撰上されました。内容では、天皇や官人について批判した伝記の記述に特色があるとされ、書中に和歌が12首あることも明らかにもなっています。
 現存しない他の30巻については、『日本紀略』、『類聚国史』等の引用文(逸文)によって部分的復元がなされてきました。
 以下に、『日本後紀』の成立について記した『日本後紀』序〔逸文〕を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本後紀』序(逸文)

<原文>

臣緒嗣等、討論綿書、披閲曩索、文史之興、其来尚矣、無隠毫釐之疵、咸載錙銖之善、炳戒於是森羅、徽猷所以昭晢、史之為用、蓋如斯歟、伏惟前後太上天皇、一天両日、異体同光、並欽明文思、済世利物、問養馬於牧童、得烹鮮於李老、民俗未飽昭華、薛羅早収渙汗、弘仁十年太上天皇(嵯峨)、勅大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣・正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣緒嗣、参議従四位上行皇后宮大夫兼伊勢守藤原朝臣貞嗣、参議左衛門督従四位下兼守右大弁行近江守良岑朝臣安世等、監修撰集、未了之間、三臣相尋薨逝、緒嗣独存、後太上天皇(淳和)詔、副左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・中納言従三位兼行中務卿直世王・参議正四位下守右近衛大将兼行春宮大夫藤原朝臣吉野・参議従四位上守刑部卿小野朝臣岑守・従五位下勲七等行大外記兼紀伝博士坂上忌寸今継・従五位下行大外記島田朝臣清田等、続令修緝、属之譲祚、日不暇給、今上陛下、稟乾坤之秀気、含宇宙之滴精、受玉璽而光宅、臨瑶図而治平、仁孝自然、聿修鴻業、聖綸重畳、筆削遅延、今更詔左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣・正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常・正三位行中納言臣藤原朝臣吉野・中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房・参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取、令遂功夫、仍令前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭・従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣等、銓次其事以備釈文、錯綜群書、撮其機要、瑣事細語、不入此録、接先史後、綴叙已畢、但事縁例行、具載曹案、今之所撰、棄而不取、自延暦十一年正月丙辰、迄于天長十年二月乙酉、上下卌二年、勒以成卌巻、名曰日本後紀、其次第、列之如左、庶令後世視今、猶今之視古、臣等才非司馬、識異董狐、代匠傷手、流汗如漿、謹詣朝堂、奉進以聞、謹序
      承和七年十二月九日
               左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣
               正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常
               正三位行中納言臣藤原朝臣吉野
               中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房
               参議民部卿正四位下勲六等臣朝野禰祢鹿取
               前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭
               従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣

<現代語訳>

 臣緒嗣らが、先人が著した書物を調べ、古来の書索を閲覧しますと、史書が作られるようになって久しいことが判ります。そこにおいては些細な悪行についても隠すことがなく、小さな善行についてもすべて記載し、明らかな戒めとすべき事柄が限りなく含まれ、これにより正しい道が照らし出されており、史書の有用性は、ここにあります。
 伏して思いますに、前後太上天皇(嵯峨太上天皇と淳和太上天皇)は、一天における二つの太陽と同然でして、体を異にしつつ同じ光輝を発して、共に身心を慎み、道理に明らかで文徳が輝き思慮深い、という徳をもち、世を済い万物に利益を与え、中国古代の聖帝である黄帝が牧童に学んだ、と伝える牧馬の法に同じとする政治の要諦を身につけ、大国を治めるのは小魚を煮るのと同じだと説く老子の政治哲学を体得しておられます。しかし、人民が嵯峨・淳和両天皇の盛世を満喫しないうちに、お二人は退位されてしまいました。
 弘仁十年(819年)に嵯峨天皇は、大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣・正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣緒嗣・参議従四位上行皇后宮大夫兼伊勢守藤原朝臣貞嗣・参議左衛門督従四位下兼守右大弁行近江守良岑朝臣安世らに勅して、国史の編修を監督・指導させることになりましたが、作業が終了しない間に三臣が相ついで死去し、緒嗣独り存命する事態になりました。そこで、淳和天皇が詔りして、左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・中納言従三位兼行中務卿直世王・参議正四位下守右近衛大将兼行春宮大夫藤原朝臣吉野・参議従四位上守刑部卿小野朝臣岑守・従五位下勲七等行大外記兼紀伝博士坂上忌寸今継・従五位下行大外記島田朝臣清田らを副えて、編修作業を継続させることになりました。しかし、淳和天皇の譲祚に至りましても完成できませんでした。
 今上陛下(仁明天皇)は、天地の間の優れた気を受け継ぎ、宇宙の精気を身に有して、皇位に即いて四方に徳を及ぼし、太平をもたらし、仁と孝の徳を本性として天下を治める大事業に当たられ、国史の編修を促す勅を重ねて出されましたが、作業は遅れてしまいました。ここで、さらに左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣・正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常・正三位行中納言臣藤原朝臣吉野・中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房・参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取らに詔りして、作業を遂行させることになりました。そこで、前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭・従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣らに、資料を排列して整った文章を準備させました。錯雑する種々の書物に関しましては要点のみを採り、煩瑣な細事はこのたびの史書では省き、先史である『続日本紀』に続けて本文の叙述を完了いたしました。ただし国史編修の慣行に従い、詳しい記事を曹案(文案)に記しましたが、本文の編修に当たっては棄てて採りませんでした。延暦十一年(792年)正月丙辰(一日)から天長十年(833年)二月乙酉(二十八日)まで四十二年間の歴史を記述して四十巻にまとめ、『日本後紀』と名づけることにいたします。巻次の目録は、左記のとおりです。願わくは、この『日本後紀』により、いまの人が古の社会を視るがごとく後世の人がいまの社会を視るようになればと思います。編修に当たった私たちは、司馬遷の才能をもたず、識見は董狐(中国春秋時代の史官)に及びません。優れた能力を有する大匠でない私たちは、努力したもののみずからを傷つけ、汗を流すのみで、十分な成果をあげることができませんでした。謹んで朝廷に参内して奉進し、上奏して序文といたします。
  承和七年(840年)十二月九日
               左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣
               正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常
               正三位行中納言臣藤原朝臣吉野
               中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房
               参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取
               前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭
               従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣

  森田悌『日本後紀上 全現代語訳』(講談社学術文庫)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細
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 今日は、平安時代前期の826年(天長3)に、公卿藤原冬嗣の亡くなった日ですが、新暦では8月30日となります。
 藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、奈良時代の775年(宝亀6)に、藤原北家の出身で右大臣となった藤原内麻呂の次男(母は飛鳥部奈止麻呂の娘)として生まれました。806年(大同元)に、平城天皇が即位し、賀美能親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟となった時、従五位下・春宮大進(とうぐうだいしん)となり、信任を得ます。
 809年(大同4)に嵯峨天皇が即位すると一挙に従四位下・左衛士督に叙任されました。810年(大同5年9月)に起きた薬子の変に際して、嵯峨天皇が蔵人所を設置すると、巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられ、乱収束後の11月には従四位上、翌年には参議に任ぜられ、公卿に列します。
 その後、814年(弘仁5)に従三位、816年(弘仁7)に権中納言、817年(弘仁8)に中納言、818年(弘仁9)には正三位・大納言と急速に昇進しました。その中で、818年(弘仁9)に嵯峨天皇の勅命を受け編集させた『文華秀麗集』を撰上し、820年(弘仁11)に『弘仁格式』の編纂を主導し完成させ、821年(弘仁12)には、『内裏式』の編纂を主導し完成させ、国史の監修に参画するなど実績を積みます。
 一方で、藤原北家隆盛のため、813年(弘仁4)に氏寺の興福寺に南円堂を建立させ、821年(弘仁12)には一族子弟の大学生のための寄宿舎として勧学院を建てさせるなどしました。
 そして、821年(弘仁12)に右大臣、823年(弘仁14)に正二位、825年(天長2)には左大臣にまでなり、娘の順子を仁明天皇の后とするなど皇室との血縁関係を強く結び、藤原氏による摂関政治の基礎を築きましたが、826年(天長3年7月24日)に、数え年52歳で亡くなっています。没後、翌年に正一位を追贈され、850年(嘉祥3)には、太政大臣も贈られました。
 尚、詩歌にも優れ、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に漢詩が、『後撰和歌集』には4首の和歌が採録されています。

〇藤原冬嗣関係略年表(日付は旧暦です)

・775年(宝亀6年) 藤原内麻呂の次男(母は飛鳥部奈止麻呂の娘)として生まれる
・794年(延暦13年10月) 平安京へ遷都される
・801年(延暦20年閏正月6日) 大判事となる
・802年(延暦21年3月) 左衛士大尉となる
・802年(延暦21年5月14日) 左衛士大尉となる
・806年(大同元年10月9日) 従五位下、春宮大進(春宮・賀美能親王)となる
・807年(大同2年正月23日) 春宮亮となる
・809年(大同4年正月16日) 兼侍従となる
・809年(大同4年2月13日) 右少弁となる
・809年(大同4年4月13日) 嵯峨天皇即位に伴い、正五位下に昇叙する
・809年(大同4年4月14日) 従四位下に昇叙し、左衛士督となる
・809年(大同4年5月5日) 兼大舎人頭となる
・809年(大同4年12月) 兼中務大輔となる
・810年(大同5年正月) 兼備中守となる
・810年(大同5年3月10日) 蔵人頭となる
・810年(大同5年7月16日) 美作守となる
・810年(大同5年9月) 薬子の変が起きる
・810年(大同5年9月6日) 造宮使となる
・810年(大同5年9月16日) 兼式部大輔となる
・810年(大同5年11月22日) 従四位上に昇叙する
・811年(弘仁2年正月29日) 参議となり、公卿に列する
・811年(弘仁2年6月) 左衛門督
・811年(弘仁2年10月11日) 兼春宮大夫(春宮:大伴親王)、停式部大輔
・812年(弘仁3年10月) 父服喪のため辞官する
・812年(弘仁3年11月28日) 復本官
・812年(弘仁3年12月5日) 正四位下に昇叙し、兼左近衛大将となる
・813年(弘仁4年) 興福寺に南円堂を建立させる
・814年(弘仁5年4月) 自邸閑院に嵯峨天皇を迎えて詩宴を催す
・814年(弘仁5年4月28日) 従三位に昇叙する
・816年(弘仁7年正月) 兼近江守となる
・816年(弘仁7年10月18日) 権中納言となる
・817年(弘仁8年2月2日) 中納言となる
・818年(弘仁9年) 嵯峨天皇の勅命を受け編集させた『文華秀麗集』が撰上される
・818年(弘仁9年6月16日) 正三位に昇叙し、大納言となる
・820年(弘仁11年4月) 『弘仁格式』の編纂を主導し完成させる
・821年(弘仁12年) 一族子弟の大学生のための寄宿舎として勧学院を建てる
・821年(弘仁12年正月9日) 右大臣となる
・821年(弘仁12年) 『内裏式』の編纂を主導し完成させる
・822年(弘仁13年正月7日) 従二位に昇叙する
・823年(弘仁14年4月27日) 正二位に昇叙する
・825年(天長2年4月5日) 左大臣となる
・826年(天長3年7月24日) 数え年52歳で亡くなる
・826年(天長3年7月26日) 正一位を追贈される
・850年(嘉祥3年7月17日) 太政大臣を追贈される
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