ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:藤原不比等

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 今日は、奈良時代の760年(天平宝字4)に、聖武天皇の皇后・藤原不比等の娘光明皇后の亡くなった日ですが、新暦では7月27日となります。
 光明皇后(こうみょうこうごう)は、飛鳥時代の701年(大宝元)に、公卿であった藤原不比等の第3女(母は県犬養橘三千代)として生まれましたが、名は安宿媛(あすかべひめ)と言いました。幼少の頃より聡慧で、早くから声誉高かったのですが、716年(霊亀2)に16歳で首皇子(のちの聖武天皇)の妃となり、718年(養老2)阿倍皇女(のちの孝謙天皇)を出産します。
 724年(神亀元)聖武天皇即位に伴って、後宮の位階である夫人号を得、727年(神亀4)に基王を出産しました。しかし、728年(神亀5)に皇太子に立てられた基王が夭折したため、後継を巡って長屋王の変が起こります。
 729年(天平元)に、皇后となりましたが、皇族以外の臣下からはじめてのことで、藤原氏の勢力拡大に寄与することとなりました。聖武天皇と共に仏教を厚く信仰し、皇后宮職で写経事業を行い、730年(天平2)に悲田院、施薬院を設立して孤児や病人の救済に努力、東大寺大仏、国分寺の創建にも深いつながりを持ちます。
 749年(天平勝宝元)に、聖武天皇退位後、娘阿倍内親王(孝謙天皇)の即位に伴い、皇后宮職を拡充した紫微中台を置き、甥の藤原仲麻呂を長官として、実質的に国政を掌握しました。754年(天平勝宝6)には聖武、孝謙と共に大仏殿前で唐僧鑑真より受戒を受け、756年(天平勝宝8)に夫の聖武太上天皇が崩御すると、遺愛の品を東大寺大仏に献じましたが、これが現在の正倉院宝物となります。
 しかし、760年(天平宝字4年6月7日)に数え年60歳で亡くなり、佐保山東陵に葬られました。尚、能書家として知られ、自筆と伝えられる「楽毅論」が正倉院に伝存しています。

〇光明皇后関係略年表

・701年(大宝元年) 藤原不比等の第3女(母は県犬養橘三千代)として生まれる
・716年(霊亀2年) 16歳で首皇子(のちの聖武天皇)の妃となる
・718年(養老2年) 阿倍皇女(のちの孝謙天皇)を出産する
・724年(神亀元年2月4日) 聖武天皇即位に伴って、後宮の位階である夫人号を得る
・727年(神亀4年閏9月29日) 基王を出産する
・728年(神亀5年9月13日) 皇太子に立てられた基王が夭折する
・729年(神亀6年2月12日) 後継を巡って長屋王の変が起こり、長屋王が妻子とともに自害する
・729年(天平元年) 皇族以外の臣下からはじめて皇后となる
・730年(天平2年) 悲田院、施薬院を設立して孤児や病人の救済に努力する
・738年(天平10年1月13日) 娘阿倍内親王が立太子する
・740年(天平12年) 藤原広嗣の乱が起きる
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇により「国分寺建立の詔」が出される
・743年(天平15年10月5日) 聖武天皇により「大仏造立の詔」が出される
・749年(天平勝宝元年7月2日) 聖武天皇が退位し、娘阿倍内親王(孝謙天皇)が即位する
・749年(天平勝宝元年) 皇后宮職が昇格して紫微中台と改称、長官に藤原仲麻呂が就任する
・752年(天平勝宝4年) 大仏開眼供養会が実施される
・754年(天平勝宝6年) 聖武太上天皇、孝謙天皇と共に大仏殿前で唐僧鑑真より受戒を受ける
・756年(天平勝宝8年) 夫の聖武太上天皇が崩御すると、遺愛の品を東大寺大仏に献じる(正倉院宝物)
・760年(天平宝字4年6月7日) 平城京において、数え年60歳で亡くなり、佐保山東陵に葬られる
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 今日は、飛鳥時代の701年(大宝元)に、藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了した日ですが、新暦では9月9日となります。
 「大宝律令」は、日本古代の基本法典で、律(刑法)6巻と令(行政法など)11巻の全17巻からなっていました。
 それまでも、668年(天智天皇7)成立の「近江令」 22巻(疑問視する意見もある)、 682年(天武 11)成立の「飛鳥浄御原令 (あすかのきよみはらりょう)」 (律もあったという説もある) がありましたが、それにかえて作成されます。
 持統上皇・文武天皇の命令で編纂が始まり、刑部親王、藤原不比等、粟田真人 (まひと)、下毛野古麻呂 (しもつけぬのこまろ) らにより、700年(文武天皇4)に令がほぼ完成し、翌701年(大宝元年8月3日)に、大宝律令として完成し、翌年に施行されました。
 律は6巻で約500条、令は11巻で約1000条と伝えられますが現存せず、「続日本紀」、「令集解(りょうのしゅうげ)」などに逸文があり、718年(養老2)ころ、大宝律令を修訂して成立した「養老律令」から復元が試みられています。
 唐の律令を参考にしたと考えられていますが、この完成によって官僚制度が整い、中央集権の政治体制ができあがりました。
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