
1925年(大正14)に母・フサが亡くなりましたが、1926年(大正15)に東京帝国大学医学部薬学科へ入学し、1929年(昭和4)に卒業後、薬化学教室の無給副手となりました。1930年(昭和5)に薬化学教室の助手に昇格し、1936年(昭和11)に論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得て、翌年には、落合英二との共著『有機微量小量定量分析法』が刊行されます。
1938年(昭和13)に東京帝国大学助教授に昇格し、1939年(昭和14)に伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学び、1941年(昭和16)には東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行ないました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に父・宗助が亡くなり、1949年(昭和24)にフグ毒の研究を開始、1951年(昭和26)には、九州大学医学部教授となります。
1954年(昭和29)にノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学、1955年(昭和30)には、東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となりました。1956年(昭和31)にステロイドの微生物転換に関する研究に取り組み、1957年(昭和32)に日本薬学会学術賞を受賞、1961年(昭和36)頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出します。
1963年(昭和38)に日本学術会議会員(~1966年)に選ばれ、1964年(昭和39)には、テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)に東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となり、1966年(昭和41)には、「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞します。
1967年(昭和42)に東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長(~1984年)に就任、1968年(昭和43)には、国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組みました。1975年(昭和50)に厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)、1977年(昭和52)に勲二等旭日重光章を受章、1979年(昭和54)には、宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講をします。
1979年(昭和54)にスイス工科大学の招待によりスイスへ出張、1980年(昭和55)に文化功労者となり、1982年(昭和57)には、文化勲章を受章します。1986年(昭和61)には、ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任しましたが、1999年(平成11)6月17日に、東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈されています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1439年(永享11) | 鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日) | 詳細 |
1657年(明暦3) | 儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日) | 詳細 |
1903年(明治36) | 病理学者吉田富三の誕生日 | 詳細 |
1904年(明治37) | 「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される | 詳細 |
1929年(昭和4) | 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる | 詳細 |
1940年(昭和15) | 「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる | 詳細 |