ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:薬学者

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 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、薬学者・有機化学者津田恭介の生まれた日です。
 津田恭介(つだ きょうすけ)は、台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)において、父・津田宗助、母・フサの子として生まれました。1917年(大正6)に父の転勤で台北に転居し、1919年(大正8)に台北中学へ入学し、1923年(大正12)に4年で卒業後、旧制浦和高等学校理科乙類に入学します。
 1925年(大正14)に母・フサが亡くなりましたが、1926年(大正15)に東京帝国大学医学部薬学科へ入学し、1929年(昭和4)に卒業後、薬化学教室の無給副手となりました。1930年(昭和5)に薬化学教室の助手に昇格し、1936年(昭和11)に論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得て、翌年には、落合英二との共著『有機微量小量定量分析法』が刊行されます。
 1938年(昭和13)に東京帝国大学助教授に昇格し、1939年(昭和14)に伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学び、1941年(昭和16)には東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行ないました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に父・宗助が亡くなり、1949年(昭和24)にフグ毒の研究を開始、1951年(昭和26)には、九州大学医学部教授となります。
 1954年(昭和29)にノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学、1955年(昭和30)には、東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となりました。1956年(昭和31)にステロイドの微生物転換に関する研究に取り組み、1957年(昭和32)に日本薬学会学術賞を受賞、1961年(昭和36)頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出します。
 1963年(昭和38)に日本学術会議会員(~1966年)に選ばれ、1964年(昭和39)には、テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)に東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となり、1966年(昭和41)には、「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1967年(昭和42)に東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長(~1984年)に就任、1968年(昭和43)には、国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組みました。1975年(昭和50)に厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)、1977年(昭和52)に勲二等旭日重光章を受章、1979年(昭和54)には、宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講をします。
 1979年(昭和54)にスイス工科大学の招待によりスイスへ出張、1980年(昭和55)に文化功労者となり、1982年(昭和57)には、文化勲章を受章します。1986年(昭和61)には、ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任しましたが、1999年(平成11)6月17日に、東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇津田恭介の主要な著作

・落合英二との共著『有機微量少量分析法』(1937年)
・『植物塩基』
・『薬品合成化学』
・『医薬品合成化学』

☆津田恭介関係略年表

・1907年(明治40)2月10日 台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)において、父・津田宗助、母・フサの子として生まれる
・1917年(大正6) 父の転勤で台北に転居する
・1919年(大正8) 台北中学へ入学する
・1923年(大正12) 旧制浦和高等学校理科乙類に入学する
・1925年(大正14) 母・フサが亡くなる
・1926年(大正15) 東京帝国大学医学部薬学科へ入学する
・1929年(昭和4) 東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、薬化学教室の無給副手となる
・1930年(昭和5) 東京帝国大学医学部薬化学教室の助手に昇格する
・1936年(昭和11) 論文「マトリンの構造研究補遺」で、東京大学より薬学博士を得る
・1937年(昭和12) 落合、津田共著『有機微量小量定量分析法』(南山堂書店)が刊行される
・1938年(昭和13) 東京帝国大学助教授となる
・1939年(昭和14) 伝染病研究所の長谷川秀治教授の研究室で実験化学療法を学ぶ
・1941年(昭和16) 東大薬学と伝研と兼任し、合成と動物実験とを連結してスルホンアミドの研究を行なう
・1946年(昭和21) 疎開先の福島で、父・宗助が亡くなる
・1949年(昭和24) フグ毒の研究を開始する
・1951年(昭和26) 九州大学医学部教授となる
・1954年(昭和29) ノルデヒドロ-α-マトリニジンの合成に成功し、チューリヒ工科大学ルジーチカ教授の下に留学する
・1955年(昭和30) 東京大学応用微生物研究所教授・薬学部教授併任となる
・1956年(昭和31) ステロイドの微生物転換に関する研究に取り組む
・1957年(昭和32) 日本薬学会学術賞を受賞する
・1961年(昭和36) この頃から、モルフィン塩基の微生物による転換の研究に移り、坦子菌のヒイロタケによる水酸化反応を見出す
・1963年(昭和38) 日本学術会議会員に選ばれる(~1966年)
・1964年(昭和39) テトロドトキシンの構造決定に成功し、「フグ毒の単離と化学構造決定」で、朝日文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) 東京大学応用微生物研究所研究所所長、東京大学評議員となる
・1966年(昭和41) 「苦蔘(くしん)塩基を中心とする荳科(とうか)アルカロイドの化学的研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1967年(昭和42) 東京大学を定年退官し、共立薬科大学学長に就任する
・1968年(昭和43) 国際誌の「テトラヘドロン」、同速報誌のアジア地区編集委員(~1976年)として、編集・審査に取り組む
・1975年(昭和50) 厚生省中央薬事審議会会長(~1981年)となる
・1976年(昭和51) 日本学士院会員となる
・1977年(昭和52) 勲二等旭日重光章を受章する
・1979年(昭和54) 宮内庁から依頼されて、宮中の講書始の儀で御進講する
・1979年(昭和54) スイス工科大学の招待によりスイスへ出張する
・1980年(昭和55) 文化功労者として顕彰される
・1982年(昭和57) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 共立薬科大学学長を辞める
・1986年(昭和61) ヒューマンサイエンス振興財団会長に就任する
・1999年(平成11)6月17日 東京都において、92歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日)詳細
1657年(明暦3)儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日)詳細
1903年(明治36)病理学者吉田富三の誕生日詳細
1904年(明治37)「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる詳細
1940年(昭和15)「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる詳細
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kondouheizaburou01
 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、薬学者(薬化学)近藤平三郎の生まれた日です。
 近藤平三郎(こんどう へいざぶろう)は、静岡県松崎において、薬種商を営む父・近藤平八郎の長男として生まれました。ドイツ語学校、旧制第一高等学校を経て、1997年(明治30)に東京帝国医科大学薬学科へ入学し、翌年には、陸軍委託生に選ばれます。
 1900年(明治33)に卒業後、陸軍薬剤官(中尉)となり、1902年(明治35)には、東京帝大医科大学副手を兼務しました。1904年(明治37)に野戦病院付薬剤官として日露戦争に陸軍一等薬剤官として従軍、1906年(明治39)には、陸軍軍医学校教官となります。
 1907年(明治40)にドイツへの私費留学へ出発、1908年(明治41)にベルリン工科大学で有機化学を専攻し、1909年(明治42)には、薬学博士の学位を取得しました。1911年(明治44)に留学から帰国し、塩野義商店の塩野長次郎の懇請を受け、塩野義商店顧問に就任、1912年(明治45)には、東京帝国大学講師となります。
 1915年(大正4)に東京帝国大学教授となって薬化学講座を主宰、塩野の援助によって、財団法人乙卯 (いつう) 研究所を創立し理事長兼所長となりました。1926年(大正15)に陸軍薬剤監(少将)となり、1928年(昭和3)に「ツヅラフジ科アルカロイドの研究」で、帝国学士院賞東宮御成婚記念賞を受賞、1929年(昭和4)には、薬剤師試験官、日本薬学会名誉会員となり、外国留学します。
 1937年(昭和12)に東京帝国大学を退官し、日本薬学会会頭となり、1938年(昭和13)には、東京帝国大学名誉教授となりました。1939年(昭和14)に日本学術会議委員、1943年(昭和18)に日本薬剤師会会長、1953年(昭和28)には、日本学士院会員となります。
 植物アルカロイドの化学構造の研究で知られ、多くの新種アルカロイドを分離、発見した功績等により、1958年(昭和33)には、文化功労者となり、文化勲章を受章しましたが、1963年(昭和38)11月17日に、東京において、85歳で亡くなりました。

〇近藤平三郎関係略年表

・1877年(明治10)12月11日 静岡県松崎において、薬種商を営む近藤家の長男として生まれる
・1882年(明治15) 松崎小学校へ入学する
・1886年(明治19) 豆南高等小学校へ入学する
・1993年(明治26) 第一高等中学校入学する
・1997年(明治30) 東京帝国医科大学薬学科へ入学する
・1998年(明治31) 陸軍委託生に選ばれる
・1900年(明治33) 東京帝大医科大学薬学科を卒業し、陸軍薬剤官(中尉)となる
・1902年(明治35) 東京帝大医科大学副手となる
・1904年(明治37) 野戦病院付薬剤官として日露戦争に陸軍一等薬剤官として従軍する
・1906年(明治39) 陸軍軍医学校教官となる
・1907年(明治40) ドイツへの私費留学へ出発する
・1908年(明治41) ベルリン工科大学で有機化学を専攻する
・1909年(明治42) 薬学博士の学位を取得する
・1911年(明治44) 留学から帰国し、塩野義商店の塩野長次郎の懇請を受け、塩野義商店顧問に就任する
・1912年(明治45) 東京帝国大学講師となる
・1915年(大正4) 東京帝国大学教授となって薬化学講座を主宰、財団法人乙卯 (いつう) 研究所を創立し理事長兼所長となる
・1926年(大正15) 陸軍薬剤監(少将)となる
・1928年(昭和3) 「ツヅラフジ科アルカロイドの研究」で、帝国学士院賞東宮御成婚記念賞を受賞する
・1929年(昭和4)  薬剤師試験官、日本薬学会名誉会員となり、外国留学する
・1937年(昭和12) 東京帝国大学を退官し、日本薬学会会頭となる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学名誉教授となる
・1939年(昭和14) 日本学術会議委員となる
・1943年(昭和18) 日本薬剤師会会長となる
・1953年(昭和28) 日本学士院会員となる
・1958年(昭和33) 文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1963年(昭和38)11月17日 東京において、85歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1335年(建武2)箱根・竹ノ下の戦いが起き、南北朝動乱が始まる(新暦1336年1月24日)詳細
1645年(正保元)臨済宗の僧沢庵宗彭の命日で「沢庵忌」とされる(新暦1646年1月27日)詳細
1959年(昭和34)三井三池炭鉱で指名解雇を通告し、「三井三池争議」が始る詳細
1967年(昭和42)佐藤栄作首相が第57回国会の衆議院予算委員会において、「非核三原則」を表明する詳細
1986年(昭和61)歌人宮柊二の命日 詳細
1997年(平成9)地球温暖化防止京都会議(COP3)が閉幕、温室効果ガスの削減目標を定めた「京都議定書」を採択する詳細
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 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、薬学者・薬理学者石館守三が亡くなった日です。
 石館守三(いしだて もりぞう)は、明治時代後期の1901年(明治34)1月24日に、青森県青森市で薬種商を営む父・石館喜久造、母・みきの三男として生まれました。青森県立青森中学校、第二高等学校を経て、1922年(大正11)に、東京帝国大学医学部薬学科へ入学します。
 3年のときから朝比奈泰彦教授に師事し、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って研究生活を続け、1930年(昭和5)には、樟脳(しょうのう)の生化学的研究により、薬学博士となりました。1933年(昭和8)に、服部報公会賞を受賞、1936年(昭和11)に、生薬・植物化学研究のためドイツへ留学、ハイデルベルク大学などで学びます。
 1938年(昭和13)に、ドイツ留学から帰国し、東京帝国大学助教授から、1942年(昭和17)に教授へ昇任、1944年(昭和19)には、「樟脳に関する研究」で、帝国学士院賞を受賞しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、ハンセン病治療薬「プロミン」の合成で日本薬学会賞、1948年(昭和23)には、「ジキタリス葉の強心性配糖体の研究」で日本薬学会賞・薬事日報学術賞を受賞しています。
 1958年(昭和33)に、東京大学初代薬学部長に就任しましたが、1961年(昭和36)には、定年退官し名誉教授となり、青森市褒章を受章、日本分析化学会名誉会員となりました。その後、1965年(昭和40)に国立衛生試験所所長、1966年(昭和41)に中央薬事審議会長、1970年(昭和45)に日本薬剤師会会長に就任し、重責を担います。
 日本の薬学の進歩、地位向上に決定的役割を果たした功績により、1971年(昭和46)に従四位勲二等旭日重光章、米国薬剤師会名誉会員、1972年(昭和47)にパリ大学名誉博士、パリ大学薬学部アカデミー会員、1973年(昭和48)に第3回「佐藤尚武郷土大賞」、1983年(昭和58)に第28回日本薬剤師会賞、環境庁長官表彰など数々の栄誉に輝きました。「日本のハンセン病化学療法の父」とも称され、1996年(平成8)に、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受けたものの、同年7月18日に、東京都杉並区の自宅において、95歳で亡くなっています。

〇石館守三の主要な著書

・『微量定性分析』
・『生活環境と発がん』

☆石館守三関係略年表

・1901年(明治34)1月24日 青森県青森市で薬種商を営む父・石館喜久造、母・みきの三男として生まれる
・1918年(大正7) 青森県立青森中学校を卒業する
・1919年(大正8) 第二高等学校理科二類に進学する
・1922年(大正11) 第二高等学校を卒業、東京帝国大学医学部薬学科へ入学する
・1925年(大正14) 東京帝国大学医学部薬学科を卒業する
・1926年(大正15) 倉田清・芳子の長女光子と結婚する
・1930年(昭和5) 樟脳(しょうのう)の生化学的研究により、薬学博士となる
・1933年(昭和8)  服部報公会賞を受賞する
・1936年(昭和11) 生薬・植物化学研究のためドイツへ留学する
・1938年(昭和13) ドイツ留学から帰国する
・1942年(昭和17) 東京帝国大学教授となる
・1944年(昭和19) 「樟脳に関する研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1946年(昭和21) ハンセン病治療薬「プロミン」を合成、日本薬学会賞を受賞する
・1948年(昭和23) 「ジキタリス葉の強心性配糖体の研究」で、日本薬学会賞・薬事日報学術賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京大学初代薬学部長に就任する
・1961年(昭和36) 定年退官し名誉教授となり、青森市褒章を受章、日本分析化学会名誉会員となる
・1965年(昭和40) 国立衛生試験所所長に就任する
・1966年(昭和41) 中央薬事審議会長となる
・1970年(昭和45)12月 日本薬剤師会会長に就任する
・1971年(昭和46) 従四位勲二等旭日重光章を受章、米国薬剤師会名誉会員となる
・1972年(昭和47) パリ大学名誉博士、パリ大学薬学部アカデミー会員となる
・1973年(昭和48) 第3回「佐藤尚武郷土大賞」を受賞する
・1974年(昭和49) 財団法人笹川記念保健協力財団を設立する
・1977年(昭和52) 日本癌学会名誉会員となる
・1983年(昭和58) 第28回日本薬剤師会賞、環境庁長官表彰を受ける 
・1989年(平成元) タイ王国王冠勲章を受章する
・1991年(平成3) 中華人民共和国衛生奨、大韓民国国民勲章牡丹章を受章する
・1994年(平成6) アジア薬剤師連合会・特別功労賞を受賞する    
・1996年(平成8) 日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける
・1996年(平成8)7月18日 東京都杉並区の自宅において、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1866年(慶応2)東洋史学者・評論家内藤湖南の誕生日(新暦8月27日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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ochiaieiji01

 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、薬学者・薬化学者落合英二の亡くなった日です。
 落合英二(おちあい えいじ)は、明治時代後期の1898年(明治31)6月26日に、埼玉県浦和で、教育家の父・落合初太郎、母・ノブの三男として生まれました。千葉県立千葉中学校を経て、仙台の第二高等学校二部乙類へ入学、卒業後東京帝大医学部へ進みます。
 1922年(大正11)に大学卒業後、医学部副手となって近藤平三郎の門下に入り、ツヅラフジ科アルカロイドの研究を進め、1925年(大正14)に同助手に任命され、1928年(昭和3)には、シノメニンの構造研究により、薬学博士の学位を授与されました。1930年(昭和5)に同助教授となり、イツに留学を命ぜられ、フライブルク大学のシュタウディンガーに高分子をファイファーRichard F. J. Pfeifferに有機金属錯体を学びます。
 1932年(昭和7)に帰国、国内で初めてとなる有機ミクロ分析を開始し、1938年(昭和13)には、東京帝国大学教授に就任、薬化学講座担任を継承しました。
 1944年(昭和19)に「芳香属複素環塩基の研究」により、帝国学士院賞を受賞しましたが、翌年には太平洋戦争下の空襲によって自宅が羅災します。戦後の1947年(昭和22)に小石川茗荷谷の新居に移り、1950年(昭和25)には、アコニット属アルカロイドの新しい研究分野に着目しました。
 1955年(昭和30)にチューリッヒで開催される第18回IUPAC総会に日本学術会議代表として出席、翌年には、日本薬学会会頭に選任されます。1959年(昭和34)に東京大学教授を定年退官し、名誉教授の称号を授与され、1965年(昭和40)に日本学士院会員に選ばれ、翌年には、アメリカ薬学アカデミー名誉会員に推薦されました。
 1967年(昭和42)にAromatic Amine Oxides がアムステルダムのElsevier出版から発刊され、高い評価を受け、第8回藤原賞も受賞します。1969年(昭和44)に文化勲章を受章、文化功労者となりましたが、1974年(昭和49)11月4日に、神奈川県鎌倉市において、76歳で亡くなりました。

〇落合英二の主要な著作

・『日有機微量少量定量分析法』
・『医薬品結合研究法』

☆落合英二関係略年表

・1898年(明治31)6月26日 埼玉県浦和で、教育家の父・落合初太郎、母・ノブの三男として生まれる
・1911年(明治44)3月 千葉師範学校付属小学校を卒業する
・1911年(明治44)4月 千葉県立千葉中学校へ入学する
・1916年(大正5)3月 千葉県立千葉中学校を卒業する
・1916年(大正5)9月 仙台の第二高等学校二部乙類へ入学する
・1922年(大正11) 東京帝大医学部薬学科を卒業、医学部副手となって近藤平三郎の門下に入り、ツヅラフジ科アルカロイドの研究する
・1925年(大正14)5月 東京帝国大学医学部薬学科助手に任命され、教室伝統の苦参塩基マトリンの研究に着手する
・1926年(大正15)12月 防巳科植物採集のため台湾に渡航、危険を冒して山岳を跋渉して大量の採集に成功し、また新種を発見する。
・1928年(昭和3)11月 シノメニンの構造研究により、薬学博士の学位を授与される
・1928年(昭和3)12月 光代夫人と結婚する
・1930年(昭和5)3月 東京帝国大学助教授となる
・1930年(昭和5)7月 ドイツに留学を命ぜられる
・1930年(昭和5)9月9日 シベリア鉄道で訪独の途に上る
・1930年(昭和5)11月 フライブルク大学のProf.Staudingerの研究室で指導を受ける
・1931年(昭和6)7月 約束の期限で、Prof.Staudinger の研究室を辞去する
・1931年(昭和6)9月 オーストリアのグラーツ大学で微量化学の原理と微量分析の講習を受け、留学の土産として微量元素分析の機器一式を購入する
・1931年(昭和6)11月 ボン大学総Prof.Pfeifferの研究室で、錯塩、複塩、有機分子化合物などの実験研修を受ける
・1932年(昭和7)9月 2年間の留学から帰国する
・1933年(昭和8)4月 国内で初めてとなる有機ミクロ分析を開始する
・1938年(昭和13)3月 東京帝国大学教授に就任、薬化学講座担任を継承する
・1938年(昭和13)4月 落合教授の研究指導は、伝統の苦参塩基マトリンに次いで、マラリアの特効薬として、軍用の規那塩基研究が緊急の課題となる
・1942年(昭和17)7月 陸軍技術本部第七研究所兼務を命じられる
・1944年(昭和19)5月 「芳香属複素環塩基の研究」により、帝国学士院賞を受賞する
・1945年(昭和20)5月24日 空襲爆撃によって自宅を羅災する
・1946年(昭和21)6月5日 科学者たちがGHQから東京会館における夕食会に招かれ、科学連絡調整機関について懇談する
・1947年(昭和22)3月頃 小石川茗荷谷の新居に移る
・1950年(昭和25)11月 アコニット属アルカロイドの新しい研究分野に着目する
・1951年(昭和26)8月中旬 アコニット研究資料を収集するために岡本敏彦助教授と教室員を同伴して、那須大丸温泉周辺の山岳地帯を跋渉する
・1952年(昭和27)8月 佐渡の山地でアコニットを採集する
・1953年(昭和28)8月 本州の最北端下北周辺のアコニットを採集する
・1955年(昭和30) チューリッヒで開催される第18回IUPAC総会に日本学術会議代表として出席する
・1956年(昭和31)4月7日 日本薬学会第76回総会において会頭に選任される
・1958年(昭和33)4月 高分子学会理事に就任する
・1958年(昭和33)9月1日 財団法人乙卯研究所所長に就任する
・1959年(昭和34)3月 東京大学教授を定年退官する
・1959年(昭和34)5月 東京大学名誉教授の称号を授与される
・1960年(昭和35)2月 理化学研究所招聘研究員を嘱託される
・1960年(昭和35)4月4日、日本薬学会名誉会員に推薦される
・1965年(昭和40)1月12日 日本学士院会員に選ばれる
・1966年(昭和41)4月29日 アメリカ薬学アカデミー名誉会員に推薦される
・1966年(昭和41)8月 都内の喧噪を避けて鎌倉東御門の新居に移る
・1967年(昭和42)8月24日 Aromatic Amine Oxides がアムステルダムのElsevier出版から発刊され、高い評価を受ける
・1967年(昭和42) 第8回藤原賞を受賞する
・1968年(昭和43)3月 財団法人乙卯研究所所長を辞任する
・1968年(昭和43)11月3日 勲二等瑞宝章を受章する
・1969年(昭和44)11月3日 文化勲章を受章、文化功労者となる
・1972年(昭和47)10月 体調を崩して入院を迫られる
・1974年(昭和49)7月 喜寿を祝う薬化学の会に招かれ、喜色満面で応対される
・1974年(昭和49)11月4日 神奈川県鎌倉市において、76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)武将・戦国大名・後北条氏5代目当主北条氏直の命日(新暦12月19日)詳細
1854年(嘉永7)安政東海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月23日)詳細
2000年(平成12)宮城県上高森遺蹟等で発見の前期旧石器が捏造と判明(旧石器捏造事件の発覚)詳細
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