薬子の変(くすこのへん)は、平城上皇の寵愛を受けていた藤原薬子が、兄・仲成らと共に、上皇の重祚と平城京への復都を企てたものの、失敗に終わった事件でした。在位後3年の平城天皇が、809年(大同4年4月)に発病、同月13日に退位し、弟の神野親王が第52代天皇(嵯峨天皇)として即位し、上皇となります。
それによって権勢を失った、平城上皇に寵愛を受けていた女官の藤原薬子(ふじわらのくすこ)と、その兄・仲成(なかなり)が天皇の復位を画策、同年12月に、平城上皇は旧都である平城京へ移りました。そして、翌年6月に平城上皇は、突如として、観察使をやめて参議の号に復せとの詔を発し、さらに、9月6日には、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出し、政治に関与します。
これに対し、嵯峨天皇側は、9月10日に使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせ、藤原仲成を逮捕して佐渡権守に貶降し、薬子を追放に処しました。そのため、11日に上皇は薬子とともに平城京から東国に向かい対抗しようとした薬子の変が起きましたが、坂上田村麻呂らに抑えられて失敗に終わり、藤原仲成は射殺されます。
そこで、12日に平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、藤原薬子は毒を仰いで自殺することとなりました。尚、9月17日に、越前介の安倍清継らが上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとしたとして、越前介登美藤津や越前国に派遣された民部少輔紀南麻呂に捕らえらています。
それによって権勢を失った、平城上皇に寵愛を受けていた女官の藤原薬子(ふじわらのくすこ)と、その兄・仲成(なかなり)が天皇の復位を画策、同年12月に、平城上皇は旧都である平城京へ移りました。そして、翌年6月に平城上皇は、突如として、観察使をやめて参議の号に復せとの詔を発し、さらに、9月6日には、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出し、政治に関与します。
これに対し、嵯峨天皇側は、9月10日に使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせ、藤原仲成を逮捕して佐渡権守に貶降し、薬子を追放に処しました。そのため、11日に上皇は薬子とともに平城京から東国に向かい対抗しようとした薬子の変が起きましたが、坂上田村麻呂らに抑えられて失敗に終わり、藤原仲成は射殺されます。
そこで、12日に平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、藤原薬子は毒を仰いで自殺することとなりました。尚、9月17日に、越前介の安倍清継らが上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとしたとして、越前介登美藤津や越前国に派遣された民部少輔紀南麻呂に捕らえらています。
〇薬子の変関係略年表(日付は旧暦です)
<806年(大同元)>
・3月17日 桓武天皇が亡くなり、皇太子・安殿親王が第51代天皇(平城天皇)として即位する
<809年(大同4)>
・4月 平城天皇が発病する
・4月13日 平城天皇が退位し、弟の神野親王が第52代天皇(嵯峨天皇)として即位する
・12月 平城上皇は旧都である平城京へ移る
<810年(大同5)>
・1月 嵯峨天皇が病に倒れて元日の朝賀が中止になる
・3月 嵯峨天皇は蔵人所を設置する
・6月 平城上皇は突如、観察使をやめて参議の号に復せとの詔を発する
・9月6日 平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出す
・9月10日 嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせ、藤原仲成を逮捕して佐渡権守に貶降し、薬子を追放に処する
・9月11日 平城天皇の復位を企てた薬子の変が起きるが、藤原仲成は射殺される
・9月12日 平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、藤原薬子は毒を仰いで自殺する
・9月17日 越前介の安倍清継らが上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとしたとして、越前介登美藤津や越前国に派遣された民部少輔紀南麻呂に捕らえらる
・9月19日 元号が「弘仁」と改元される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
764年(天平宝字8) | 孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚する(新暦10月10日) | 詳細 |
972年(天禄3) | 僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日) | 詳細 |
1008年(寛弘5) | 第68代の天皇とされる後一条天皇の誕生日(新暦10月12日) | 詳細 |
1900年(明治33) | 東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日) | 詳細 |
1940年(昭和15) | 内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される | 詳細 |
1949年(昭和24) | 明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する | 詳細 |