terajimamunenori01

 今日は、江戸時代後期の1832年(天保3)に、蘭学者・政治家・外交官寺島宗則の生まれた日ですが、新暦では6月21日となります。
 寺島宗則(てらしま むねのり)は、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現在の阿久根市脇本字槝之浦)の郷士だった父・長野成宗の次男(母は秋野)として生まれましたが、幼名は徳太郎と言いました。1836年(天保7)の5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、1841年(天保12)の10歳より蘭語学習を始めます。
 1845年(弘化2)に松木家を継いで弘安と名乗り、翌年の15歳の時、藩命を受けて、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学びました。1855年(安政2)に中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講、翌年には、蕃書調所教授手伝となり、翌々年頃から英語を独学しはじめます。
 1858年(安政5)に横浜で貿易実務に関わり、翌年から本格的に英語を学びはじめ、1860年(万延元)には、幕府の蕃書調所教授となりました。1861年(文久元)に英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員に抜擢され、翌年には、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わり、福沢論吉、箕作秋坪らと渡欧します。
 西洋諸国を視察、1863年(文久3)に帰国して鹿児島に戻り、御船奉行となったものの、同年の薩英戦争において、五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となりました。1865年(慶応元)に薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れ、翌年に寺島姓に改名、1867年(慶応3)には、全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出します。
 1868年(明治元)に明治新政府の参与外国事務掛を命ぜられ、スペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、翌年には神奈川県知事として、京浜間に最初の電信事業を開業させ、外務大輔となりました。1872年(明治5)に初代の在イギリス日本公使、翌年には、参議兼外務卿となって、1875年(明治8)の「樺太・千島交換条約」の締結に携わります。
 1878年(明治11)に関税自主権の回復に関する日米約書の調印に成功したものの、英独の反対で条約は無効となり、翌年には外務卿を辞職しました。その後文部卿、法制局長、元老院議長、駐米公使などを歴任し、晩年は宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院副議長などを勤めます。
 その中で、1884年(明治17)に伯爵、1887年(明治20)には、正三位ともなりましたが、1893年(明治26年)6月6日 東京において、62歳で亡くなりました。

〇寺島宗則関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1832年(天保3年5月23日) 薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現在の阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として生まれる
・1836年(天保7年) 5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となる
・1841年(天保12年) 10歳より蘭語学習を始める
・1845年(弘化2年) 松木家を継いで弘安と名乗る
・1846年(弘化3年) 15歳の時、藩命を受けて、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学ぶ
・1855年(安政2年) 中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する
・1856年(安政3年) 蕃書調所教授手伝となる
・1857年(安政4年) 薩摩藩主島津斉彬の要請で帰藩、製鉄、造船、ガス、写真、電信などの藩近代化事業に携わる
・1857年(安政4年) 英語を独学しはじめる
・1858年(安政5年) 横浜で貿易実務に関わる
・1859年(安政6年) 本格的に英語を学びはじめる
・1860年(万延元年) 幕府の蕃書調所教授となる
・1861年(文久元年) 英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員に抜擢される
・1862年(文久2年) 幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わる
・1863年(文久3年) 帰国して鹿児島に戻り、御船奉行となる
・1863年(文久3年) 薩英戦争において、五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる
・1865年(慶応元年) 薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れる
・1866年(慶応2年) 寺島姓に改名し、当初陶蔵と称する
・1867年(慶応3年11月) 全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出する
・1868年(明治元年) 新政府の参与外国事務掛を命ぜられる
・1868年(明治元年) スペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わる
・1869年(明治2年) 神奈川県知事として、京浜間に最初の電信事業を開業させる
・1869年(明治2年) 外務大輔となる
・1871年(明治4年) ハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任される
・1872年(明治5年) 初代の在イギリス日本公使となる
・1873年(明治6年) 参議兼外務卿となる
・1875年(明治8年)5月7日 「樺太・千島交換条約」の締結に至る
・1878年(明治11年) 関税自主権の回復に関する日米約書の調印に成功したが、英独の反対で条約は無効となる
・1879年(明治12年) 外務卿を辞職する
・1882年(明治15年) アメリカ駐在公使となる
・1884年(明治17年) 宮内省出仕に補せられる
・1884年(明治17年)7月7日 伯爵となる
・1885年(明治18年) 宮中顧問官となる
・1885年(明治18年) 東京学士会院会員となる
・1886年(明治19年) 枢密顧問官となる
・1886年(明治19年)10月20日 従三位となる
・1887年(明治20年)4月12日 正三位となる
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1891年(明治24年) 枢密院副議長となる
・1893年(明治26年)6月6日 東京において、62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

811年(弘仁2)武将・征夷大将軍坂上田村麻呂の命日(新暦6月17日)詳細
1948年(昭和23)憲法学者美濃部達吉の命日詳細
1981年(昭和56)編集者・児童文学者・評論家・翻訳家吉野源三郎の命日詳細