ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:薩摩藩

sattchyoudoumei01
 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、薩摩藩と長州藩との間で、江戸幕府を倒すための同盟(薩長同盟)が結ばれた日ですが、新暦では3月7日となります。
 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、京都薩摩藩邸にて、土佐藩の坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩代表の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允(桂小五郎)との間で成立した、江戸幕府を倒すための政治的・軍事的密約で、薩長盟約または薩長連合とも呼ばれてきました。
 薩摩藩は、1863年(文久3年8月18日)に中川宮と会津藩に協力して、長州藩勢力を京都から追放(八月十八日の政変)や翌年7月19日に、上京出兵した長州藩兵と戦火を交え(禁門の変)敗走させ、長州藩は徳川幕府から第一次長州征討を受けるなど、薩長両藩はことごとく反目し合います。しかし、薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし、薩長両藩の指導層は急速に接近することとなり、幕府の薩長討伐計画が漏れるに及んで、両藩は土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介のもとにこれまでの対立反目を解消するため、1866年(慶応2年1月21日)に、京都の薩摩藩邸において、会談しました。
 その結果、「薩長六ケ条盟約」が成り、これによって同年6月より戦いが始まった第2次長州征伐では、薩摩藩が幕府の征長を背後から妨げ、一方長州藩は高杉晋作や桂らの奮戦により、幕府軍は諸所で敗退、形勢悪化の内に第14代将軍徳川家茂が大坂城中で没したため、長州と和して、同年9月に撤兵します。その後、討幕運動は大きく前進し、翌年10月14日の大政奉還から12月9日の王政復古の大号令、そして明治維新へと至りました。
 以下に、「薩長六ケ条盟約」を現代語訳付で掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「薩長六ケ条盟約」 1866年(慶応2年1月21日)

木戸孝允(桂小五郎)が会談内容を六ケ条にまとめ、内容確認のため坂本龍馬に送付した書簡(慶応2年1月23日付)による

(表書)

一、戦と相成候時は、直様二千余之兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華[1]へも千程は差置[2]、京・坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上、屹度[3]尽力之次第有之候との事

一、万一負色[4]に有之候とも、一年や半年に決て潰滅[5]致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度[3]有之候との事

一、是なり[6]にて幕兵東帰[7]せしときは、屹度[3]朝廷へ申上、直様冤罪[8]は従朝廷御免[9]に相成候都合に、屹度[3]尽力との事

一、兵士をも上国[10]之上、橋・会・桑[11]等も如只今次第にて、勿体なくも[12]朝廷を擁し奉り、正義を抗み[13]、周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外は、無之との事

一、冤罪[7]も御免[9]之上は、双方誠心[15]以相合し、皇国之御為に砕身[16]尽力仕候事は不及申、いづれ之道にしても、今日より双方皇国之御為皇威[17]相暉き、御回復に立至り候を目途[18]に誠心[15]を尽し、屹度[3]尽力可仕との事

(裏書)

表に御記被成候六条ハ、小・西両氏[19]及老兄・龍等も御同席ニて談論[20]セし所ニて毛も[21]相違無之候、後来[22]といへとも決して変わり候事無之ハ神明[23]の知る所ニ御座候、
丙寅 二月五日 坂本龍

    『史義史料』四より

【注釈】

[1]浪華:なにわ=大阪(大坂)のこと。
[2]差置:さしおく=人や物をある位置・場所にとどめる。
[3]屹度:きっと=確かに。必ず。
[4]負色:まけいろ=戦いに、負けそうな様子。敗色。
[5]潰滅:かいめつ=ひどくこわれてだめになること。
[6]是なり:これなり=物事が、そこに示されているままの状態、様子でこれきり変わらないさま。現在の状態。今のまま。このまま。
[7]東帰:とうき=東の地に戻ること。この場合は、江戸へ戻ること。
[8]冤罪:えんざい=罪がないのに疑われ、または罰せられること。無実の罪。ぬれぎぬ。
[9]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[10]上国:じょうこく=都へ上ること。上京。
[11]橋・会・桑:きょう・かい・そう=一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)のこと。
[12]勿体なくも:もったいなくも=申すも畏れ多いことに。畏れ多くも。
[13]抗み:こばみ=張り合う。手向かう。さからう。
[14]周旋:しゅうせん=当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋。
[15]誠心:せいしん=心に偽りのないこと。真実の心。また、そのさま。まごころ。
[16]砕身:さいしん=身をくだくほど献身的につとめること。献身的に働くこと。
[17]皇威:こうい=天皇の威光。皇帝の威勢。
[18]目途:もくと=めあて。目的。
[19]小・西両氏:こ・さいりょうし=小松帯刀・西郷隆盛両氏のこと。
[20]談論:だんろん=談話と議論。また、談話し議論すること。論談。
[21]毛も:けも=非常にわずかなことのたとえ。ほんの少しも。
[22]後来:こうらい=この後。ゆくすえ。将来。
[23]神明:しんめい=神。神祇。

<現代語訳>

(表書)

一、(幕府と長州藩の間で)戦となった時は、すぐに2,000余の兵を急いで上京させ、現在在京の兵と合わせて、浪華(大坂)へも1,000程は駐留させて、京都・大坂の両所を守備させること。

一、戦局が自然に我らの勝利と成りそうなとき、その時は(薩摩藩は)朝廷へ上申して、きっと(長州藩のため)尽力するようにすること。

一、万が一敗戦濃厚になったときも、一年や半年では決して壊滅することはないので、その間には必ず尽力するべきようにしてほしいこと。

一、勝負がつかなくて、幕府兵が江戸へ帰還したときは、きっと朝廷へ上申し、すぐに冤罪は朝廷より許してもらえるように、必ず尽力してほしいこと。

一、兵士をも上京の上、一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)等も今のような状態では、畏れ多くも朝廷を擁し奉って、正義に抗い、周旋尽力の道を遮断されたときは、ついに(薩摩藩も)決戦におよぶ他ないこと。

一、(長州藩の)冤罪も晴れたならば、薩長双方が真心を以て一緒になり、皇国のために献身的に力を尽くすことは言うに及ばず、いづれの道にしても、今日より薩長双方が皇国のため、皇威を発揚し、その回復が出来ることを目標に真心を尽し、きっと尽力するべきこと。

(裏書)

表にお記しになった六ケ条は、小松帯刀・西郷隆盛両氏および老兄・龍馬なども同席した上で、談話・議論した結果であり、ほんの少しも相違のないものです。この後と言っても、決してこれが変わる事がない事は、神様の知る所であります。

慶応二年二月五日 坂本龍馬

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1530年(享禄3)武将・戦国大名上杉謙信の誕生日(新暦2月18日)詳細
1946年(昭和21)GHQが「公娼廃止の指令」(SCAPIN-642)を出す詳細
1951年(昭和26)小説家宮本百合子の命日詳細
1983年(昭和58)小説家里見弴の命日詳細
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 今日は、1863年(文久3)に薩英戦争の起きた日ですが、新暦では8月15日のこととなります。
 これは、江戸時代末期の1863年(文久3年7月2~4日)、薩摩国鹿児島で行われた、薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘でした。1862年(文久2年8月21日)に起きた生麦事件に対して、イギリス代理公使 E.ニールは、江戸幕府に対して公式謝罪状および償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しては、犯人の処刑と償金2万5千ポンドを要求します。
 しかし、江戸幕府は従ったものの、薩摩藩は拒否したため、ニール公使は、みずからの力で事態の解決をはかり、翌年6月27日に、イギリス艦隊を鹿児島湾に侵入させ、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めました。
 これに対し、薩摩藩が回答しなかったため、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦したので、戦闘状態となります。戦闘は4日まで続きましたが、鹿児島城下は砲火を浴びて、鹿児島城内の櫓、門等を損壊、集成館、鋳銭局など重要施設を含む市街地の1割を焼亡し、イギリス側も艦船を損傷、死傷者63人を出し、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去し、横浜に帰りました。
 同年10月横浜で交渉の結果、薩摩藩は償金を江戸幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で和議が成立し、以後両者の提携が進むことになります。

〇生麦事件とは?

 幕末の1862年(文久2年8月21日)に、神奈川の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件です。薩摩藩の島津久光一行が、江戸からの帰途、騎馬のイギリス人リチャードソンら4名と行き会い、馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ、続いて多数で襲撃し、リチャードソンは絶命、2人が重傷を負いました。
 イギリスは幕府と薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府はこれに応じましたが、薩摩藩はあくまで拒否したため、薩英戦争の原因となりました。

☆薩英戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1862年(文久2)>
・8月21日 神奈川の生麦村で薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件が起こる(生麦事件)
・8月23日 ニール公使は横浜において外国奉行津田正路と会談し、幕府の責任を問う
・8月30日 ニール公使と老中板倉・水野忠精との折衝が行われ、犯人の差し出しを要求する
・11月20日 ヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で武力制裁に関する勅令が可決される

<1863年(文久3)>
・2月4日 幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつける
・2月19日 ニール公使は幕府に対して、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉することを通告する
・5月9日 ニール公使と江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉(賠償金10万ポンド)がまとまる
・6月22日 ニール公使は薩摩国との直接交渉のため、7隻の艦隊と共に横浜を出港し、薩摩へ向かう
・6月27日 イギリス軍艦7隻が鹿児島湾に入る
・6月28日 イギリス艦隊は鹿児島城下前之浜沖合に投錨し、薩摩の使者に対しイギリスの国書を提出する
・7月1日 ニール公使は島津家の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告する
・7月2日 イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦する
・7月3日 イギリス艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地1割と島津屋敷を延焼させる
・7月4日 イギリス艦隊は死傷者63人を出し、弾薬や石炭燃料の消耗もあって薩摩を撤退する
・7月11日 イギリスの全艦隊が横浜に帰着する
・9月28日 横浜の英国公使館の応接室にて、第1回和睦の談判が行われ、紛糾・決裂するものの次回を決める
・10月4日 第2回和睦の談判が行われ、紛糾・決裂するものの翌日の継続を決める
・10月5日 第3回和睦の談判が行われ、イギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すことで決着する
*島津家は6万300両(2万5000ポンド相当)を幕府から借用してイギリス側に支払うが、これを幕府に返却しなかった
*講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されずに終わる
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 今日は、江戸時代中期の1754年(宝暦4)に、江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手した日ですが、新暦では3月20日となります。
 これは、1754年(宝暦4)2月から1755年(宝暦5)5月まで、幕府の命により薩摩藩が行った治水工事のことで、濃尾平野の治水対策として、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事が行われました。
 しかし、想像以上の難工事で、薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両にも及び、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害するという結果になります。
 この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及びましたが、本格的な治水工事の完成は、明治時代前期のヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事を待たなければなりませんでした。
 現在は、亡くなった84名の薩摩藩士を祀った治水神社があり、千本松原の河口側の南端に薩摩藩士の慰霊と宝暦治水の偉業を記念する宝暦治水之碑が建てられています。
 また、周辺は国営木曽三川公園として整備され、木曽三川公園センターの「水と緑の館」では、宝暦治水やその後の木曽三川分流工事に関する展示がありますし、展望タワー(高さ65m)からは、木曽三川を一望の下にすることができるようになりました。
 以下に、「宝暦治水之碑」の碑文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寳暦治水之碑」の碑文

暦治水碑
     内閣総理大臣元帥陸軍大將正二位勲一等功二級侯爵山縣有朋蒙額
     樞密院書記官長従三位勲二等小牧昌業撰文 正五位日下部東作書
尾濃二州之地田野廣衍厥土沃饒有木曽長良揖斐三大川南注入勢海支川交錯或合或分市邑散
在其間者俗稱輪中毎霖雨水出衆流逓相侵淩輒致漲溢横决汎濫往往潰田畝漂廬舎民之苦之也
久矣寳暦年中幕府命薩摩藩修治之藩侯島津重年遣其家老平田靱負大目附伊集院十蔵等赴役
以寳暦四年二月起工至五月而止以夏時水長不獲施功也及九月復作翌年五月而畢費藩帑三十
萬兩始克告成幕府嘉其功賜重年時服五十襲其餘賞賚有差是役也藩士従事者凡六百人地亘十
餘里畫為四區衆各分任其事靱負為総奉行十蔵副之幕府亦遣吏監視修隄防疏溝渠建閘排柵築
堰累籠或創設或修補遠近呼應畚鍤相接而其尤致力者為油島防堵大榑築堰盖油島當木曽揖斐
兩川相會處洪流激甚大榑川受長良川地低湍急故施工甚艱随作随壊困頓支持迄以有成按當時
經營之迹其要在務使諸水各循其道以防侵凌漲溢之憂而其計莫急於斯二者是其所以注全力于
此也於是輪中十里之地無復有慘害如往時者民安其業以至今日世稱之曰薩摩工事後来三川分
流之策實基于此役己竣総奉行平田靱負俄自刃而斃其他前後自殺者數十人就塟安龍海蔵等諸
寺事載其過去牒顧其致死之由奮記靡得而詳焉土人傳言工事艱鉅出於意料之外功屡敗于垂成
以致経費逾額然勢不可中止故寧決死成事而謝專擅増費之罪也想當時士風淳樸人重紀律崇氣
義諸子既奉君命就功程不遂則不己苦心焦思之餘計不得巳以至于此土人所傳當不謬也然則是
役事業之偉且艱可以想見而諸子之堅志不撓舎身徇公竟能全其職守以貽澤於後世則可謂古之
所稱以死勤事功徳加民者矣豈不韙哉尓来百五十年矣居民猶頒薩摩工事而不衰言及死事者則
有歔欷泣下者 皇治中興百度維新凡興利除害之事次第修舉三川分流之策亦果施行成功將在
近茲地人士既感 聖世仁澤之洽因念寶暦創始之功又哀致命諸人之義烈不忍使其泯没莫聞胥
謀建石勒其功績以垂永遠来徴余文余不能辭乃為叙其梗概云
明治三十三年二月                           井龜泉刻字

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 今日は、江戸時代末期の1862年(文久2)に、生麦事件の起きた日ですが、新暦では9月14日となります。
 この事件は、神奈川の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件です。
 薩摩藩の島津久光一行が、江戸からの帰途、騎馬のイギリス人リチャードソンら4名と行き会い、馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ,続いて多数で襲撃し、リチャードソンは絶命、2人が重傷を負いました。
 イギリスは幕府と薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府はこれに応じましたが、薩摩藩はあくまで拒否したため、薩英戦争の原因となりました。
 
〇「薩英戦争」とは?
 江戸時代末期の1863年(文久3年7月2~4日)、薩摩国鹿児島で行われた、薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘です。
 1862年(文久2年8月21日)に起きた生麦事件に対して、イギリス代理公使 E.ニールは、江戸幕府に対して公式謝罪状および償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しては、犯人の処刑と償金2万5千ポンドを要求しました。
 しかし、江戸幕府は従ったものの、薩摩藩は拒否したため、ニール公使は、みずからの力で事態の解決をはかり、翌年6月27日に、イギリス艦隊を鹿児島湾に侵入させ、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めたのです。
 これに対し、薩摩藩が回答しなかったため、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦したので、戦闘状態となりました。
 戦闘は4日まで続きましたが、鹿児島城下は砲火を浴びて、鹿児島城内の櫓、門等を損壊、集成館、鋳銭局など重要施設を含む市街地の1割を焼亡し、イギリス側も艦船を損傷、死傷者63人を出し、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去し、横浜に帰ったのです。
 同年11月横浜で交渉の結果、薩摩藩は償金を江戸幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で和議が成立し、以後両者の提携が進むことになりました。
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