ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:蕉風

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 今日は、江戸時代中期の1689年(元禄2)に、松尾芭蕉が『更科紀行』の旅に出発した日ですが、新暦では9月5日となります。
 『更科紀行』(さらしなきこう)は、江戸時代中期に俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が書いた紀行文でした。1689年(元禄2)の8月11日(新暦では9月5日)に、門人の越智越人(えつじん)と山本荷兮(かけい)の下僕を連れて、名古屋から木曽路を通り、8月15日夜、更科に到着して姨捨山の名月を見て、善光寺より碓氷峠を経て8月下旬、江戸へと帰着します。1688~89年(元祿元~2年)に成立し、1709年(宝永6)に『笈の小文』の付録として刊行され、文末に芭蕉と越人の句が一括して収められました。尚、芭蕉自筆の『更科紀行』(沖森文庫本)は、国指定重要文化財(三重県伊賀市所蔵)になっています。
 
<収載されている代表的な句>
・「俤や 姥ひとりなく 月の友」
・「桟や まづおもひいづ 駒むかへ」
・「木曾の橡 うき世の人の 土産かな」 
・「送られつ 別れつ果は 木曽の秋」

〇『更科紀行』の冒頭部分

さらしなの里、 姨捨山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂すもの又ひとり、越人と云。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をして送らす。おのおの心ざし尽すといへども、羇旅の事心得ぬさまにて、ともにおぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。
何々と云いふ所にて、六十ばかりの道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共ども、かの僧のおひね物ものとひとつにからみて、馬に付けて、我をそ上にのす。

     紀行文『更科紀行』 松尾芭蕉著より

☆松尾芭蕉(まつお ばしょう)とは?

 俳諧文学の第一人者・俳聖です。江戸時代前期の1644年(寛永21)に、伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)において(伊賀国柘植出生説あり)、士分待遇の農家の松尾与左衛門の子として生まれましたが、幼名は金作、本名は宗房と言いました。
 若年にして、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、良忠と共に北村季吟に俳諧を学びます。1666年(寛文6)に良忠の死とともに仕官を退き、兄の家に戻って、俳諧に精進しました。
 1672年(寛文12)に郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、延宝初年には江戸に出て上水道工事に携わったりしますが、談林派の感化を受けつつ、俳諧師の道を歩むようになります。1680年(延宝8)には、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するにおよび、俳壇内に地盤を形成し、深川の芭蕉庵で隠逸生活に入った頃から、独自の蕉風を開拓し始めました。
 1684年(貞享元)以後は、『野ざらし紀行』(1685~86年頃)、『鹿島詣』(1687年)、『笈の小文』、『更科紀行』(1688年)に書かれたように諸国を行脚するようになります。1689年(元禄2)には、もっとも著名な『おくのほそ道』の旅に弟子の河合曾良を伴って出て、東北・北陸地方を回りました。
 そして、最後に西へ向かって旅立ち、大坂の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7年10月12日)に、数え年51歳で息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」というものでした。
 弟子も多く、死後は蕉門の十哲(榎本其角・服部嵐雪・各務支考・森川許六・向井去来・内藤丈草・志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)などによって、蕉風俳諧が広められます。

<代表的な句>
・「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
・「野ざらしを 心に風の しむ身哉」
・「夏草や 兵どもが 夢の跡」
・「荒海や 佐渡によこたふ 天河」
・「五月雨をあつめて早し 最上川」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代中期の1740年(元文5)に、俳人で蕉門十哲の一人志太野坡の亡くなった日ですが、新暦では1月31日となります。
 志太野坡(しだ やば)は、江戸時代前期の1662年(寛文2年1月3日)に、越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれましたが、幼名を庄一郎、通称を弥助、半次郎と言いました。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店に勤め、手代となりましたが、室井其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされます。
 1687年(貞享4)の其角撰『読虚栗』に初めて野馬の名が見え、1693年(元禄6)には、芭蕉の指導を受けるようになったとされてきました。1694年(元禄7)に越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加し、1695年(元禄8)には、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られています。
 1698年(元禄11)に江戸を立ち、途中に膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向き、1699年(元禄12)の芭蕉の七回忌には撰文して、長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立し、1701年(元禄14)に江戸に戻り、越後屋の番頭を辞めました。1702年(元禄15)から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始し、長崎、田代、久留米、日田、博多などを巡って、多くの弟子を獲得します。
 1704年(元禄17)に大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となりました。1708年(宝永5)に筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着、1710年(宝永7)には、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行します。
 1714年(正徳4)から翌年にかけて、森川許六と俳論書翰の応酬を行いました。1724年(享保9年)に大火に遭って無一文になり、翌年、難波に浅生庵(あそうあん)を新築します。
 その後、積極的に上方や九州を行脚して、芭蕉の顕彰と蕉風の発展と門人の育成に尽くし、その数は、千人を越え、後世に名を残すこととなりました。作風は軽み・枯淡を旨とし平明で、温厚な人柄として親しまれたものの、1740年(元文5年1月3日)に、大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなっています。

<志太野坡の代表的な句>

・「鉢まきをとれば若衆ぞ大根引」(炭俵)
・「朝霜や師の脛おもふゆきのくれ」
・「寒きほど案じぬ夏の別れ哉」
・「ちからなや膝をかかえて冬篭り」
・「手まはしに朝の間凉し夏念仏」(続猿蓑)
・「金屏の松の古さよ冬篭り」(許六宛芭蕉書簡)

〇志太野坡の主要な著作

・編纂『炭俵』(1694年)
・『万句四季之富士』(1715年) 
・『放生日』(1726年) 
・『野坡吟草』(1759年)

☆志太野坡関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年1月3日) 越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれる
・1687年(貞享4年) 其角撰『読虚栗』に野馬の名が見える
・1693年(元禄6年) 芭蕉の指導を受けるようになる
・1694年(元禄7年) 越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加する
・1695年(元禄8年) 深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られる
・1696年(元禄9年) 土芳を訪ねる
・1698年(元禄11年) 江戸を立ち、膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向く
・1699年(元禄12年) 芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立する
・1700年(元禄13年) 箱崎の俳人哺川が枯野塚を建立し、野坡が揮毫する
・1701年(元禄14年) 長崎の商用より戻り、越後屋の番頭を辞める
・1702年(元禄15年) 筑紫から豊後の日田に吟遊して、野紅亭に逗留、日田で越年する
・1703年(元禄16年) 筑紫行脚から戻る
・1704年(元禄17年) 大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となる
・1705年(宝永2年) 長崎に旅立つ魯九に餞別の句を詠む
・1708年(宝永5年) 筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着する
・1710年(宝永7年) 筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行する
・1714年(正徳4年) 森川許六と翌年にかけて、俳論書翰の応酬を行う
・1716年(正徳6年) 露川は門人燕説を伴い西国行脚の途上、難波の野坡を訪れる
・1718年(享保3年) 筑紫行脚中に直方を訪れ、多賀宮神官青山文雄、直方藩士有井浮風が入門する
・1719年(享保4年) 冬に塩足村の市山邸を訪ねる
・1721年(享保6年) 熊本壺風亭に遊び、門人30余人に送られて熊本を去る
・1724年(享保9年) 大火に遭い、無一文になる
・1725年(享保10年) 難波に浅生庵(あそうあん)を新築する
・1728年(享保13年) 再び直方を訪れ、弟子たちとに上野の皿山や白糸滝を見物する
・1729年(享保14年) 上京する
・1730年(享保15年) 廬元坊が西国行脚の途上、浅生庵を訪れる
・1734年(享保19年) 風之を伴い赤間関に下り、小倉へ行き、風之は熊本に赴く
・1735年(享保20年) 芭蕉四十一回忌に「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて「屋土里塚」を建立する
・1737年(元文2年) 風律亭で歌仙興行し、三原からの福山に移り素浅を訪れる。
・1738年(元文3年) 伊勢神宮参詣に出立する
・1739年(元文4年) 高津の新庵が落成し、瓦屋町より新庵に移る
・1740年(元文5年1月3日) 大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなる
・1756年(宝暦6年) 十七回忌追善句集『窓の春』(浮風編)が出される
・1759年(宝暦9年) 『野坡吟草』(風之編)が刊行される
・1761年(宝暦11年) 二十回忌に湖白菴浮風は野坡の墓を建立する
・1785年(天明5年) 許六との往復書簡が、嘯山(しょうざん)によって『許野消息(きょやしょうそこ)』として公刊される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1669年(寛文9)国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の誕生日(新暦2月3日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
1976年(昭和51)多国間条約である「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」が発効する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1661年(寛文元)に、蕉門十哲の一人である俳人、宝井其角が生まれた日ですが、新暦では8月11日となります。
 宝井其角(たからい きかく)は、江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれ、初め、母方の姓榎本を名乗りました。草刈三越に医、大顚和尚に禅・詩・易、服部寛斎に儒、佐々木玄竜に書、英一蝶に絵を学びます。
 早熟の才子で、15歳頃に松尾芭蕉の門に入り、1679年(延宝7)に刊行された『坂東太郎』に発句3句が載りました。20歳代の頃、天和調が盛んな中で、芭蕉の指導の下に、俳諧集『田舎之句合(いなかのくあわせ)』、『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などを編纂しています。
 1688年(貞享5)に上方へ旅立ち、膳所水楼に遊んだり、嵯峨を吟遊したりし、江戸に戻って宝井を名乗るようになりました。1690年(元禄3)に俳諧集『いつを昔』を刊行、翌年には、俳諧集『猿蓑』(去来・凡兆共編)に序文を寄せ、芭蕉と共に句会に連なるなど、蕉風の樹立、展開に寄与し、服部嵐雪とともに蕉門の桜桃と並称され、蕉門十哲の一人ともされています。
 1694年(元禄7)に上方へ旅立ち、偶然にも芭蕉の他界の前日、大坂の病床に参じ、芭蕉没後に追悼俳諧・俳文集『枯尾華(かれおばな)』を刊行しました。その後は、洒落ふうに傾き、江戸座を興し、豪放闊達な都会風な作風として知られています。
 晋永機、藤井晋流、稲津祇空、常盤潭北はじめ、門人も多く育てましたが、1707年(宝永4年2月30日)に、江戸において、数え年47歳で亡くなりました。尚、死後に遺稿集『類柑子』(1707年)や発句集『五元集』(1747年)が刊行されています。

<代表的な句>

・「草の戸に 我は蓼食ふ 蛍哉」(虚栗)
・「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな」(武蔵曲)
・「暁の 反吐は隣か 時鳥」(焦尾琴)
・「切られたる 夢は誠か 蚤の跡」(花摘)
・「なきがら を笠に隠すや 枯尾花」(枯尾花)
・「夢に来る 母をかへすか 時鳥」(続虚栗)
・「切られたる 夢は誠か 蚤の跡」(花摘)
・「雪の日や 船頭どのゝ 顔の色」(あら野)

〇宝井其角の主要な著作

・俳諧集『田舎句合(いなかのくあわせ)』 (1680年)
・俳諧集『虚栗 (みなしぐり)』(1683年)
・俳諧集『続虚栗』(1687年)
・俳諧集『いつを昔』(1690年)
・俳諧集『花摘』(1690年)
・『雑談集』(1692年)
・俳文集『枯尾花(かれおばな)』(1694年)
・『句兄弟』(1694年)
・『末若葉 (うらわかば)』(1697年)
・『焦尾琴 (しょうびきん)』(1701年)
・句文集『類柑子』(1707年)
・発句集『五元集』(1747年)

☆宝井其角関係略年表(日付は旧暦です)

・1661年(寛文元年7月17日) 江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれる
・1675年(延宝3年)頃 15歳ごろ芭蕉門に入る
・1679年(延宝7年) 刊行された『坂東太郎』に発句3句が見える
・1680年(延宝8年) 俳諧集『田舎句合(いなかのくあわせ)』を刊行する
・1681年(延宝9年) 芭蕉の才丸・揚水らと四吟二百五十韻を『俳諧次韻江戸桃青』として板行される
・1683年(天和3年) 俳諧集『虚栗(みなしぐり)』を刊行する
・1684年(貞享元年2月15日) 江戸を立って上京する
・1684年(貞享元年6月5日) 大坂の住吉神社で伊原西鶴は大矢数俳諧を行い、その立会人となる
・1685年(貞享2年) 芭蕉が出羽の鈴木清風を迎えての小石川での百韻興行にコ斎・才丸・素堂・嵐雪と参加する
・1686年(貞享3年) 芭蕉庵にて月見の会あり、隅田川で舟遊びをする
・1687年(貞享4年4月8日) 母が亡くなる
・1687年(貞享4年10月25日) 江戸深川を出て帰郷する芭蕉を見送る
・1687年(貞享4年11月13日) 俳諧集『続虚栗』を刊行する
・1688年(貞享5年9月) 上方へ旅立つ
・1688年(元禄元年10月2日) 曲翠と共に膳所水楼に遊ぶ
・1688年(元禄元年10月20日) 加生と共に去来を訪ね、嵯峨を吟遊する 
・1688年(元禄元年11月27日) 加生と共に尚白亭を訪ねる 
・1690年(元禄3年4月) 俳諧集『いつを昔』を刊行する
・1691年(元禄4年7月3日) 俳諧集『猿蓑』(去来・凡兆共編)に序文を寄せる
・1692年(元禄5年2月) 『雑談集』を刊行する
・1692年(元禄5年12月20日) 松山藩主松平貞直の藩医青地彫棠は芭蕉・其角・桃隣・黄山・銀杏を迎えて連句の会を催す
・1693年(元禄6年5月) 許六が木曽路を経て帰郷するにあたり、餞別の句を贈る
・1693年(元禄6年8月29日) 父東順が72歳で亡くなる
・1694年(元禄7年8月5日) 『句兄弟』を刊行する
・1694年(元禄7年9月6日) 上方へ旅立つ
・1694年(元禄7年10月11日) 偶然にも芭蕉の他界の前日、大坂の病床に参じる
・1694年(元禄7年) 追悼俳諧・俳文集『枯尾華(かれおばな)』を刊行する
・1696年(元禄9年1月) 弟子素見・紫紅を連れて出山寺に遊ぶ
・1697年(元禄10年) 『末若葉 (うらわかば)』を刊行する
・1698年(元禄11年6月22日) 芝三田の新庵有竹居に移る
・1698年(元禄11年12月10日) 有竹居が火災に遭う
・1698年(元禄11年) 『皮籠摺』(涼莵編)の観光に際し、序文を寄せる
・1701年(元禄14年) 『焦尾琴 (しょうびきん)』を刊行する
・1705年(宝永2年) 園女が頼って江戸に出てきて、富岡八幡宮の門前に住む
・1706年(宝永3年11月22日) 娘「みわ」が10歳で亡くなる
・1707年(宝永4年2月23日) 祇空が訪れてきて両吟、これが其角の辞世の句となる
・1707年(宝永4年2月30日) 江戸において、数え年47歳で亡くなる 
・1707年(宝永4年) 遺稿集『類柑子』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(元和元)江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定する(新暦9月9日)詳細
1795年(寛政7)画家・円山派の祖円山応挙の命日(新暦8月31日)詳細
1945年(昭和20)ポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)が始まる詳細
1981年(昭和56)俳人・医師水原秋桜子の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1738年(元文3)に、江戸時代の俳人上島鬼貫が亡くなった日ですが、新暦では9月15日となります。
 上島鬼貫(うえじま おにつら)は、江戸時代前期の1661年(万治4年4月4日)に、摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)で、有数の酒造業者(屋号・油谷)の父・上島宗次の三男として生まれましたが、名は宗邇(むねちか)と言いました。8歳の時、初めての句「こいこいといへと蛍がとんでゆく」を詠み、13歳の時、松江重頼(維舟)に入門、16歳の頃には、西山宗因を尊敬するようになって談林派に近づき、維舟撰『武蔵野』にも初入集しています。
 伊丹風俳諧の中心となり、1678年(延宝6)に『当流籠抜』に伊丹派の五吟五百韻を発表したものの、古風俳人から「狂乱体」と難ぜられました。その後、大坂へ出て修業し、4年間にわたって沈思・独吟の末、25歳の時に「誠のほかに俳諧なし」と悟り、その実作面でも完成の域に達したのが、1690年(元禄3)に出した『大悟物狂』です。
 1691年(元禄4)に本多氏に鍼医として仕官し、1699年(元禄12)には、伊丹の領主である近衛家から家来分に取り立てられました。その中で、松尾芭蕉とも親交を持つようになり、蕉風の影響も受け、1718年(享保3)には、『獨言』を刊行し、すぐれた俳諧観を示し、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称されたりもしています。
 1724年(享保9)に大坂で起きた享保の大火で自宅が焼けて、一時疎開するなど晩年は苦労をし、1738年(元文3年8月2日)に、大坂鰻谷(現在の大阪市中央区鰻谷)で、数え年78歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「春風や三穂の松原清見寺」(仏兄七久留万)
・「後のつき入りて貌よし星の空」
・「によつぽりと秋の空なる不尽(ふじ)の山」(古今句集)
・「行水の捨てどころなし虫の声」

〇上島鬼貫の主要な著作

・俳諧紀行『犬居士』(1690年)
・自撰集『大悟物狂(たいごものぐるい)』(1690年)
・俳論『独(ひとり)ごと』(1718年刊)
・句文集『仏兄七久留万(さとえななくるま)』(1728年)
・句文集『俳諧七車』

☆上島鬼貫関係略年表(日付は旧暦です)

・1661年(万治4年4月4日) 摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)で、有数の酒造業者(屋号・油谷)の父・上島宗次の三男として生まれる
・1668年(寛文8年) 8歳の時、初めての句「こいこいといへと蛍がとんでゆく」を詠む
・1673年(延宝元年) 13歳の時、松江重頼(維舟)に入門する
・1676年(延宝4年) 16歳の頃、西山宗因を尊敬するようになり、維舟撰『武蔵野』に初入集する
・1678年(延宝6年) 『当流籠抜(とうりゆうかごぬけ)』に伊丹派の五吟五百韻を発表し,古風俳人から〈狂乱体〉と難ぜられる
・1685年(貞享2年) 25歳の時、医学を志し大坂に出る
・1686年(貞享3年) 仕官のため江戸へ下る
・1688年(元禄元年2月) 伊丹を立ち、清見寺を訪れる  
・1690年(元禄3年) 30歳の時、『大悟物狂(たいごものぐるい)』を出し、大坂福島村に移る
・1691年(元禄4年) 本多氏に鍼医として仕官する
・1699年(元禄12年) 伊丹の領主である近衛家から家来分に取り立てられる
・1700年(元禄13年1月) 長男の永太郎を亡く
・1718年(享保3年)『獨言(ひとりごと)』を刊行する
・1724年(享保9年3月) 大坂で起きた大火災で自宅が焼けてしまい、その年の10月まで伊丹に疎開する
・1738年(元文3年8月2日) 大坂鰻谷(現在の大阪市中央区鰻谷)で、数え年78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

901年(延喜元)六国史一番最後の『日本三代実録』が完成する詳細
1721年(享保6)徳川吉宗の命で江戸・評定所の門前に目安箱が設置される(新暦9月23日)詳細
1947年(昭和22)中学校用『あたらしい憲法のはなし』・高校用『民主主義の手引』の副読本発行詳細
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 今日は、江戸時代前期の1656年(明暦2)に、彦根藩士・俳人で蕉門十哲の一人森川許六の生まれた日ですが、新暦では10月1日となります。
 森川許六(もりかわ きょりく)は、近江国彦根城下藪下(現在の滋賀県彦根市)において、佐々木高綱を遠祖とする300石取りの彦根藩士の父・森川與次右衛門の子としてに生まれましたが、幼名を兵助または金平、本名は百仲(ももなか)と言いました。
 宝蔵院流の槍を得意とし、狩野派の絵画や漢詩にも親しみ、延宝の始め(1670年代前半)頃に和歌や俳諧は初め北村季吟・田中常矩などに学んだとされます。21歳から井伊直澄に仕え、30歳前後から俳諧に執心し、尚白、嵐雪、其角に指導を受け、1689年(元禄2)33歳の時に、父の隠居により家督を継ぎました。
 1692年(元禄5)に公務で江戸に出た際、松尾芭蕉に入門し、許六と言う号を授けられ、1年間懇篤な指導を受けるとともに、芭蕉に絵を伝授します。翌年帰郷する際に芭蕉から「柴門之辞」と俳諧の奥伝書を授けられました。
 1694年(元禄7)の芭蕉没後からは、蕉風の理論化につとめ、向井去来らと俳論をかわした往復書簡を集めたものが、『俳諧問答』として残されています。彦根風の一派を形成し、『篇突』(1698年)、『宇陀法師』(1702年)の俳論書(李由との共編著)、俳文集『風俗文選』(1706年)、『正風彦根体』(1712年)、俳諧史論『歴代滑稽伝』(1715年)などを著しました。
 門下として、直江木導・松居汶村・北山毛紈・寺島朱迪などを指導しましたが、1715年(正徳5年8月26日)に、彦根において、数え年60歳で亡くなっています。

<代表的な句>

・「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」
・「秋も早か やにすぢかふ 天の川」
・「うの花に 芦毛の馬の 夜明哉」
・「茶の花の 香や冬枯の 興聖寺」
・「苗代の 水にちりうく 桜かな」
・「水筋を 尋ねてみれば 柳かな」
・「もちつきや 下戸三代の ゆずり臼」

〇森川許六の主要な著作

・撰集『韻塞 (いんふたぎ) 』(1696年)
・俳論書『篇突(へんつき)』李由との共編著(1698年)
・俳論書『宇陀法師(うだのほうし)』李由との共編著(1702年)
・俳文集『風俗文選』10巻9冊(1706年)
・『正風彦根体 (ぶり) 』(1712年)
・俳諧史論『歴代滑稽(こっけい)伝』(1715年)
・俳論書『青根が峯』
・句集『五老井発句集』
・俳論書『俳諧問答』
・『和訓三体詩』
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