ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:蕉門十哲

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 今日は、江戸時代中期の1740年(元文5)に、俳人で蕉門十哲の一人志太野坡の亡くなった日ですが、新暦では1月31日となります。
 志太野坡(しだ やば)は、江戸時代前期の1662年(寛文2年1月3日)に、越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれましたが、幼名を庄一郎、通称を弥助、半次郎と言いました。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店に勤め、手代となりましたが、室井其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされます。
 1687年(貞享4)の其角撰『読虚栗』に初めて野馬の名が見え、1693年(元禄6)には、芭蕉の指導を受けるようになったとされてきました。1694年(元禄7)に越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加し、1695年(元禄8)には、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られています。
 1698年(元禄11)に江戸を立ち、途中に膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向き、1699年(元禄12)の芭蕉の七回忌には撰文して、長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立し、1701年(元禄14)に江戸に戻り、越後屋の番頭を辞めました。1702年(元禄15)から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始し、長崎、田代、久留米、日田、博多などを巡って、多くの弟子を獲得します。
 1704年(元禄17)に大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となりました。1708年(宝永5)に筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着、1710年(宝永7)には、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行します。
 1714年(正徳4)から翌年にかけて、森川許六と俳論書翰の応酬を行いました。1724年(享保9年)に大火に遭って無一文になり、翌年、難波に浅生庵(あそうあん)を新築します。
 その後、積極的に上方や九州を行脚して、芭蕉の顕彰と蕉風の発展と門人の育成に尽くし、その数は、千人を越え、後世に名を残すこととなりました。作風は軽み・枯淡を旨とし平明で、温厚な人柄として親しまれたものの、1740年(元文5年1月3日)に、大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなっています。

<志太野坡の代表的な句>

・「鉢まきをとれば若衆ぞ大根引」(炭俵)
・「朝霜や師の脛おもふゆきのくれ」
・「寒きほど案じぬ夏の別れ哉」
・「ちからなや膝をかかえて冬篭り」
・「手まはしに朝の間凉し夏念仏」(続猿蓑)
・「金屏の松の古さよ冬篭り」(許六宛芭蕉書簡)

〇志太野坡の主要な著作

・編纂『炭俵』(1694年)
・『万句四季之富士』(1715年) 
・『放生日』(1726年) 
・『野坡吟草』(1759年)

☆志太野坡関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年1月3日) 越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれる
・1687年(貞享4年) 其角撰『読虚栗』に野馬の名が見える
・1693年(元禄6年) 芭蕉の指導を受けるようになる
・1694年(元禄7年) 越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加する
・1695年(元禄8年) 深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られる
・1696年(元禄9年) 土芳を訪ねる
・1698年(元禄11年) 江戸を立ち、膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向く
・1699年(元禄12年) 芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立する
・1700年(元禄13年) 箱崎の俳人哺川が枯野塚を建立し、野坡が揮毫する
・1701年(元禄14年) 長崎の商用より戻り、越後屋の番頭を辞める
・1702年(元禄15年) 筑紫から豊後の日田に吟遊して、野紅亭に逗留、日田で越年する
・1703年(元禄16年) 筑紫行脚から戻る
・1704年(元禄17年) 大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となる
・1705年(宝永2年) 長崎に旅立つ魯九に餞別の句を詠む
・1708年(宝永5年) 筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着する
・1710年(宝永7年) 筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行する
・1714年(正徳4年) 森川許六と翌年にかけて、俳論書翰の応酬を行う
・1716年(正徳6年) 露川は門人燕説を伴い西国行脚の途上、難波の野坡を訪れる
・1718年(享保3年) 筑紫行脚中に直方を訪れ、多賀宮神官青山文雄、直方藩士有井浮風が入門する
・1719年(享保4年) 冬に塩足村の市山邸を訪ねる
・1721年(享保6年) 熊本壺風亭に遊び、門人30余人に送られて熊本を去る
・1724年(享保9年) 大火に遭い、無一文になる
・1725年(享保10年) 難波に浅生庵(あそうあん)を新築する
・1728年(享保13年) 再び直方を訪れ、弟子たちとに上野の皿山や白糸滝を見物する
・1729年(享保14年) 上京する
・1730年(享保15年) 廬元坊が西国行脚の途上、浅生庵を訪れる
・1734年(享保19年) 風之を伴い赤間関に下り、小倉へ行き、風之は熊本に赴く
・1735年(享保20年) 芭蕉四十一回忌に「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて「屋土里塚」を建立する
・1737年(元文2年) 風律亭で歌仙興行し、三原からの福山に移り素浅を訪れる。
・1738年(元文3年) 伊勢神宮参詣に出立する
・1739年(元文4年) 高津の新庵が落成し、瓦屋町より新庵に移る
・1740年(元文5年1月3日) 大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなる
・1756年(宝暦6年) 十七回忌追善句集『窓の春』(浮風編)が出される
・1759年(宝暦9年) 『野坡吟草』(風之編)が刊行される
・1761年(宝暦11年) 二十回忌に湖白菴浮風は野坡の墓を建立する
・1785年(天明5年) 許六との往復書簡が、嘯山(しょうざん)によって『許野消息(きょやしょうそこ)』として公刊される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1669年(寛文9)国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の誕生日(新暦2月3日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
1976年(昭和51)多国間条約である「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」が発効する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1661年(寛文元)に、蕉門十哲の一人である俳人、宝井其角が生まれた日ですが、新暦では8月11日となります。
 宝井其角(たからい きかく)は、江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれ、初め、母方の姓榎本を名乗りました。草刈三越に医、大顚和尚に禅・詩・易、服部寛斎に儒、佐々木玄竜に書、英一蝶に絵を学びます。
 早熟の才子で、15歳頃に松尾芭蕉の門に入り、1679年(延宝7)に刊行された『坂東太郎』に発句3句が載りました。20歳代の頃、天和調が盛んな中で、芭蕉の指導の下に、俳諧集『田舎之句合(いなかのくあわせ)』、『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などを編纂しています。
 1688年(貞享5)に上方へ旅立ち、膳所水楼に遊んだり、嵯峨を吟遊したりし、江戸に戻って宝井を名乗るようになりました。1690年(元禄3)に俳諧集『いつを昔』を刊行、翌年には、俳諧集『猿蓑』(去来・凡兆共編)に序文を寄せ、芭蕉と共に句会に連なるなど、蕉風の樹立、展開に寄与し、服部嵐雪とともに蕉門の桜桃と並称され、蕉門十哲の一人ともされています。
 1694年(元禄7)に上方へ旅立ち、偶然にも芭蕉の他界の前日、大坂の病床に参じ、芭蕉没後に追悼俳諧・俳文集『枯尾華(かれおばな)』を刊行しました。その後は、洒落ふうに傾き、江戸座を興し、豪放闊達な都会風な作風として知られています。
 晋永機、藤井晋流、稲津祇空、常盤潭北はじめ、門人も多く育てましたが、1707年(宝永4年2月30日)に、江戸において、数え年47歳で亡くなりました。尚、死後に遺稿集『類柑子』(1707年)や発句集『五元集』(1747年)が刊行されています。

<代表的な句>

・「草の戸に 我は蓼食ふ 蛍哉」(虚栗)
・「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな」(武蔵曲)
・「暁の 反吐は隣か 時鳥」(焦尾琴)
・「切られたる 夢は誠か 蚤の跡」(花摘)
・「なきがら を笠に隠すや 枯尾花」(枯尾花)
・「夢に来る 母をかへすか 時鳥」(続虚栗)
・「切られたる 夢は誠か 蚤の跡」(花摘)
・「雪の日や 船頭どのゝ 顔の色」(あら野)

〇宝井其角の主要な著作

・俳諧集『田舎句合(いなかのくあわせ)』 (1680年)
・俳諧集『虚栗 (みなしぐり)』(1683年)
・俳諧集『続虚栗』(1687年)
・俳諧集『いつを昔』(1690年)
・俳諧集『花摘』(1690年)
・『雑談集』(1692年)
・俳文集『枯尾花(かれおばな)』(1694年)
・『句兄弟』(1694年)
・『末若葉 (うらわかば)』(1697年)
・『焦尾琴 (しょうびきん)』(1701年)
・句文集『類柑子』(1707年)
・発句集『五元集』(1747年)

☆宝井其角関係略年表(日付は旧暦です)

・1661年(寛文元年7月17日) 江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれる
・1675年(延宝3年)頃 15歳ごろ芭蕉門に入る
・1679年(延宝7年) 刊行された『坂東太郎』に発句3句が見える
・1680年(延宝8年) 俳諧集『田舎句合(いなかのくあわせ)』を刊行する
・1681年(延宝9年) 芭蕉の才丸・揚水らと四吟二百五十韻を『俳諧次韻江戸桃青』として板行される
・1683年(天和3年) 俳諧集『虚栗(みなしぐり)』を刊行する
・1684年(貞享元年2月15日) 江戸を立って上京する
・1684年(貞享元年6月5日) 大坂の住吉神社で伊原西鶴は大矢数俳諧を行い、その立会人となる
・1685年(貞享2年) 芭蕉が出羽の鈴木清風を迎えての小石川での百韻興行にコ斎・才丸・素堂・嵐雪と参加する
・1686年(貞享3年) 芭蕉庵にて月見の会あり、隅田川で舟遊びをする
・1687年(貞享4年4月8日) 母が亡くなる
・1687年(貞享4年10月25日) 江戸深川を出て帰郷する芭蕉を見送る
・1687年(貞享4年11月13日) 俳諧集『続虚栗』を刊行する
・1688年(貞享5年9月) 上方へ旅立つ
・1688年(元禄元年10月2日) 曲翠と共に膳所水楼に遊ぶ
・1688年(元禄元年10月20日) 加生と共に去来を訪ね、嵯峨を吟遊する 
・1688年(元禄元年11月27日) 加生と共に尚白亭を訪ねる 
・1690年(元禄3年4月) 俳諧集『いつを昔』を刊行する
・1691年(元禄4年7月3日) 俳諧集『猿蓑』(去来・凡兆共編)に序文を寄せる
・1692年(元禄5年2月) 『雑談集』を刊行する
・1692年(元禄5年12月20日) 松山藩主松平貞直の藩医青地彫棠は芭蕉・其角・桃隣・黄山・銀杏を迎えて連句の会を催す
・1693年(元禄6年5月) 許六が木曽路を経て帰郷するにあたり、餞別の句を贈る
・1693年(元禄6年8月29日) 父東順が72歳で亡くなる
・1694年(元禄7年8月5日) 『句兄弟』を刊行する
・1694年(元禄7年9月6日) 上方へ旅立つ
・1694年(元禄7年10月11日) 偶然にも芭蕉の他界の前日、大坂の病床に参じる
・1694年(元禄7年) 追悼俳諧・俳文集『枯尾華(かれおばな)』を刊行する
・1696年(元禄9年1月) 弟子素見・紫紅を連れて出山寺に遊ぶ
・1697年(元禄10年) 『末若葉 (うらわかば)』を刊行する
・1698年(元禄11年6月22日) 芝三田の新庵有竹居に移る
・1698年(元禄11年12月10日) 有竹居が火災に遭う
・1698年(元禄11年) 『皮籠摺』(涼莵編)の観光に際し、序文を寄せる
・1701年(元禄14年) 『焦尾琴 (しょうびきん)』を刊行する
・1705年(宝永2年) 園女が頼って江戸に出てきて、富岡八幡宮の門前に住む
・1706年(宝永3年11月22日) 娘「みわ」が10歳で亡くなる
・1707年(宝永4年2月23日) 祇空が訪れてきて両吟、これが其角の辞世の句となる
・1707年(宝永4年2月30日) 江戸において、数え年47歳で亡くなる 
・1707年(宝永4年) 遺稿集『類柑子』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(元和元)江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定する(新暦9月9日)詳細
1795年(寛政7)画家・円山派の祖円山応挙の命日(新暦8月31日)詳細
1945年(昭和20)ポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)が始まる詳細
1981年(昭和56)俳人・医師水原秋桜子の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1704年(元禄17)に、俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の亡くなった日ですが、新暦では3月29日となります。
 内藤 丈草(ないとう じょうそう)は、1662年(寛文2)に尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)で、尾張藩犬山領主成瀬家家臣・内藤源左衛門の長子として生まれましたが、名は本常(もとつね)と言いました。3歳の時に生母と死別し、継母に育てられ、10歳頃から俳諧に親しむようになります。
 漢学を穂積武平に学び、漢詩に通じるようになり、禅を玉堂和尚に教えられて、20歳頃から傾倒しました。1688年(貞享5年)に病弱のため武士を捨て、異母弟に家督を譲り、出家して中村史邦を頼って上京し、向井去来と親交を結びます。
 翌年に落姉舎で松尾芭蕉に会い入門、1691年(元禄4)発刊の去来・凡兆撰『猿蓑』に発句12句が入集し、跋(ばつ)を書くまでになりました。蕉門俳壇の中でしだいに重きをなし、芭蕉の信頼も得て、1693年(元禄6)には近江国に移り、義仲寺無名庵に住みます。
 翌年10月12日に師の芭蕉が亡くなると、3年間の喪に服し、1696年(元禄9)には近江国竜が岡(現在の滋賀県大津市)に仏幻庵を結びました。1700年(元禄13)に郷里に一時帰省後、帰庵して3年間庵に籠り、芭蕉追善のために千部の法華経を読誦します。
 温厚篤実、名利に恬淡な人柄で、洒脱な面もあり諸人に慕われましたが、1704年(元禄17年2月24日)に近江において、数え年43歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「ほととぎす 啼くや枝も梅桜」(寝ころび草)
・「柊に さえかえりわたる月夜かな」(寝ころび草)
・「初秋や をのづととれし 雲の角」(寝ころび草)
・「郭公(ほととぎす)鳴や湖水のさゝにごり」(芭蕉庵小文庫)
・「狼の声そろふなり雪のくれ」
・「うづくまる薬缶の下の寒さ哉」(去来抄)
・「ねばりなき空に走るや秋の雲」
・「眞先に見し枝ならんちる櫻」(猿蓑)
・「角いれし人をかしらや花の友」(続猿蓑)
・「大はらや蝶の出てまふ朧月」(炭俵)

〇内藤丈草の主要な著作

・編著『寝ころび草』(1694年)
・漢詩集『驢鳴草』
・『丈草発句集』(1774年)

☆内藤丈草関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年) 尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)で尾張藩犬山領主成瀬家家臣・内藤源左衛門の長子として生まれる
・1664年(寛文4年) 3歳の時に生母と死別し、継母に育てられる
・1671年(寛文11年) 10歳頃から俳諧に親しむ
・1681年(天和元年) 20歳頃から禅に傾倒する
・1688年(貞享5年8月) 病弱のため武士を捨て、異母弟に家督を譲り出家する
・1689年(元禄2年) 落姉舎で松尾芭蕉に会い入門する
・1691年(元禄4年) 『猿蓑(さるみの)』に発句12句が入集し、跋(ばつ)を書く
・1693年(元禄6年) 近江国に移り、義仲寺無名庵に住む
・1694年(元禄7年10月12日) 師の松尾芭蕉が亡くなる
・1696年(元禄9年) 近江国竜が岡(現在の滋賀県大津市)に仏幻庵を結ぶ
・1700年(元禄13年) 郷里に一時帰省する
・1701年(元禄14年) 初春から3年間庵に籠り、芭蕉追善の為に千部の法華経を読誦する
・1704年(元禄17年2月24日) 近江において、数え年43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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 今日は、江戸時代中期の1731年(享保16)に、俳人・蕉門十哲の一人各務支考の亡くなった日ですが、新暦では3月14日となります。
 各務 支考(かがみ しこう)は、1665年(寛文5)に美濃国山県郡北野村西山(現在の岐阜県岐阜市)の村瀬吉三郎の二男として生まれました。1671年(寛文11)の5歳の時、父が亡くなり、大智寺第4世の弟子として大智寺に住居するようになり、1675年(延宝3年)の10歳の時、はじめて俳句を作ったとされます。
 1683年(天和3)の18歳の時、姉の嫁ぎ先である各務甚平の養子となり、伊勢山田に行き、医学・俳諧・漢学の勉強を始め、翌年には、還俗して乞食僧として諸国行脚を開始しました。1690年(元禄3)の25歳の時、涼菟の仲立ちで近江の大津にある無名庵を訪ねて芭蕉の弟子になり身の回りの世話をし、各務支考と名乗るようになります。
 1692年(元禄5)の27歳の時、春から夏にかけて奥羽を行脚し、俳論書『葛の松原』上梓しました。1694年(元禄7)に芭蕉の難波への旅立に、惟然と共に同行、同年10月12日には、芭蕉を看病して、遺書を代筆し、臨終を看取り、『芭蕉翁追善之日記』を著します。
 翌年に美濃派の一風を樹立して、芭蕉の遺吟・遺文を集めて『笈日記』を編集、伊勢山田に草庵「十一庵」を結び拠点としました。1698年(元禄11)には西国を旅して蕉風俳諧の伝播に努め、『続猿蓑』の編纂にも加わり、刊行します。
 1701年(元禄14)に近江から越前、加賀、越中の旅し、1705年(宝永2年 に讃岐から伊予の間を徘徊、翌年には越後を行脚するなど各地を訪れて、普及活動をしました。1711年(正徳元)の46歳の時、伊勢を去り、故郷北野村に戻って「獅子庵」を営み、「終焉記」を書いて、自らの葬儀を催す佯死事件を起こし、風狂な面も見せます。
 1718年(享保3)に『本朝文鑑』を編纂、翌年に『俳諧十論』を刊行、旅先で加賀千代女を発掘するなどしました。俳壇形成や俳諧の理論的普及に努めましたが、1730年(享保15)に蘆元坊を美濃派の後継とし、翌年2月7日に美濃国山県郡北野村で、数え年67歳で亡くなり、大智寺に葬られ、法名を「梅花仙」とされます。

<代表的な句>

・「野に死なば 野を見て思へ 草の花」(越の名残)
・「鶯の 肝つぶしたる 寒さかな」
・「腹立てる 人にぬめくる なまこ哉」
・「気みじかし 夜ながし老いの 物狂ひ」
・「賭にして 降出されけり さくら狩」(続猿蓑)
・「むめが香の 筋に立よる はつ日哉」(炭俵)
・「牛呵(しか)る 声に鴫(しぎ)立つ ゆふべかな」
・「宇治に似て 山なつかしき 新茶かな」

〇各務支考の主要な著作

・俳論書『葛の松原』(1692年)
・『芭蕉翁追善之日記』(1694年)
・芭蕉の遺吟・遺文集『笈 (おい) 日記』(1695年)
・俳論書『続五論』(1698年)
・編纂『続猿蓑』(1698年)
・編纂『西華集』(1699年刊)
・編纂『東華集』(1700年刊)
・俳論書『十論為弁抄』(1699年)
・編纂『本朝文鑑』(1718年)
・俳論書『俳諧十論』(1719年刊)
・編纂『和漢文操』(1723年序)
・編纂『三日月日記』(1730年序)
・『論語先後鈔』(1731年)絶筆
・俳論書『二十五箇条』
・『俳諧古今抄』
・『伊勢新百韻』

☆各務支考関係略年表(日付は旧暦です)

・1665年(寛文5年) 美濃国山県郡北野村西山(現在の岐阜市)の村瀬吉三郎の二男として生まれる
・1671年(寛文11年) 5歳の時、父が亡くなり、大智寺第4世の弟子として大智寺に住居する
・1675年(延宝3年) 10歳の時、はじめて俳句を作る
・1683年(天和3年) 18歳の時、姉の嫁ぎ先 各務甚平の養子となり、伊勢山田に行き、医学・俳諧・漢学の勉強をはじめる
・1684年(貞享元年) 19歳の時、還俗して乞食僧として諸国行脚を開始する
・1690年(元禄3年) 25歳の時、涼菟の仲立ちで滋賀県大津にある無名庵を訪ねて芭蕉の弟子になり身の回りの世話をし、各務支考と名乗る
・1691年(元禄4年閏10月23日) 芭蕉の鳳来寺山登山に、天野桃隣、白雪の子桃先・桃後らと共に同行する
・1692年(元禄5年) 27歳の時、春から夏にかけて奥羽を行脚し、俳論書『葛の松原』上梓する
・1694年(元禄7年9月8日) 芭蕉の難波への旅立に、惟然と共に同行する
・1694年(元禄7年10月12日) 芭蕉を看病して、遺書を代筆し、臨終を看取る
・1694年(元禄7年) 『芭蕉翁追善之日記』を著す
・1695年(元禄8年) 30歳の時、俳句の仲間、「美濃派」を作り、『笈 (おい) 日記』を編集する
・1696年(元禄9年) 十丈が伊勢に訪ねてくる
・1698年(元禄11年4月20日) 難波津を出発し西国へと向かう
・1698年(元禄11年7月9日 長崎に着く
・1698年(元禄11年9月) 下関に着く
・1698年(元禄11年) 『続五論』を書き、『続猿蓑』を刊行する
・1699年(元禄12年) 『西華集』を刊行、『十論為弁抄』を著す
・1700年(元禄13年9月) 『東華集』刊行する
・1701年(元禄14年) 京を出発して、近江から越前、加賀、越中の旅をする
・1702年(元禄15年2月20日) 浪化を案内して向井去来を訪ねる
・1705年(宝永2年) 讃岐から伊予の間を徘徊、川之江の大師堂を訪れる
・1706年(宝永3年) 越後を行脚する
・1708年(宝永5年4月) 木曽から越後へ旅をする
・1708年(宝永5年7月~9月13日) 直江津および高田に滞在する
・1709年(宝永6年) 編纂した『白扇集』を出す
・1711年(正徳元年) 46歳の時、郷里北野村に帰り「獅子庵」に住む
・1711年(正徳元年8月15日) 「終焉記」を書き、自らの葬儀を催す佯死事件を起こす
・1718年(享保3年) 『本朝文鑑』を編纂する
・1719年(享保4年) 『俳諧十論』を刊行し、旅先で加賀千代女を発掘する
・1723年(享保8年) 『和漢文操』を編纂し序を書く
・1729年(享保14年) 也柳が美濃に支考を訪ねてくるが、疝痛療養のため長良川畔に病床を移していた
・1730年(享保15年) 蘆元坊を後継とする
・1730年(享保15年8月) 編纂した『三日月日記』に自序を書く
・1731年(享保16年2月7日) 美濃国山県郡北野村で、数え年67歳で亡くなり、大智寺に葬られ、法名を「梅花仙」とされました

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1184年(治承8)一ノ谷の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に圧勝する(新暦3月20日)詳細
1692年(元禄4)孔子を祭る湯島聖堂が完成する(新暦3月17日)詳細


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 今日は、江戸時代中期の1707年(宝永4)に、俳人・蕉門十哲の一人服部嵐雪の亡くなった日(嵐雪忌)ですが、新暦では11月6日となります。
 服部嵐雪(はっとり らんせつ)は、江戸時代前期の1654年(承応3)に、江戸の湯島(淡路国三原郡小榎並村とする説あり)で、淡路出身の下級武士の父・服部喜太夫高治の子としてに生まれましたが、幼名は久馬之助(長じて孫之丞)、名は治助(はるすけ)と言いました。初め新庄隠岐守に出仕しましたが、以後は転々と主を替えながら武家奉公を続けます。
 その間、1675年(延宝3)頃に松尾芭蕉に入門し、1678年(延宝6)に不卜編『俳諧江戸広小路』に付句が2句入集したのが作品の初見となりました。1680年(延宝8)に同門宝井其角の『田舎之句合』に序を書き、『桃青門弟独吟廿歌仙』、『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などに入集し、頭角を現します。
 貞享年間(1684~87年)に武士をやめて俳諧に専念し、1688年(貞享5)には『若水』を刊行して世に知られ、宗匠として立ちました。穏健な俳風で、其角と共に「蕉門の桃桜」と称され、1694年(元禄7)の芭蕉没後は、其角と江戸俳壇を二分します。
 その一派を雪門とも呼ばれ、高野百里らを育て、後年は黄檗禅に帰依して剃髪し、不白玄峯居士と号しました。しかし、1707年(宝永4年10月13日)に、江戸において、数え年54歳で亡くなり、辞世の句は「一葉散る 咄ひとはちる 風の上」とされています。

<代表的な句>

・「出替りや 幼ごころに 物あはれ」(猿蓑)
・「蒲団着て 寝たる姿や 東山」(枕屏風)
・「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」
・「この下に かくねむるらん 雪仏」

〇服部嵐雪の主要な著作

・句集『玄峯集』
・撰著『若水』(1688年)
・撰著『つるいちご』
・撰著『其袋(そのふくろ)』(1690年)
・撰著『或時集(あるときしゅう)』(1694年)
・撰著『若菜集』(1695年)
・撰著『杜撰集』 (1701年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1282年(弘安5)鎌倉時代の僧侶・日蓮宗の開祖日蓮の命日(新暦11月14日)詳細
1804年(文化元)華岡青洲が世界初の麻酔薬を使った手術に成功(新暦11月14日)詳細
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