
しかし、1853年(嘉永6)に黒船(ペリー艦隊)が来航して開国を要求、翌年に「日米和親条約」が締結される中で、専任の外交担当官と翻訳官が必要となり、蕃書和解御用方が多忙となりました。蘭学にとどまらない洋学研究の必要が痛感され、1855年(安政2)に御用方は、古賀謹一郎を頭取として、「洋学所」と改めて独立したものの、同年10月2日の安政江戸地震で建物が全壊焼失してしまいます。
そこで、1856年(安政3年2月11日)に幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称し、江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に建物を建てることとし、翌年1月18日に開場、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられるようになりました。同所の役割は、洋書洋文の翻訳・研究、洋学教育、洋書・翻訳書などの検閲、印刷・出版、一部の技術伝習とされ、これを担当する教授方には、箕作阮甫、杉田成卿、松木弘安(のちの寺島宗則)、村田蔵六(のちの大村益次郎)ら著名な洋学者が任ぜられ、生徒数は100人ほどとなります。
1858年(安政5)からは、藩士の入学も認められるようになり、1860年(万延元)に小川町に移転、英・仏・独の外国語、および精煉・器械・物産・数学などの科学技術部門諸科が次々に開設されていきました。1862年(文久2)に一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)の広大な建物に移転し、「洋書調所」と改称してに開校、翌年には、「開成所」となります。
1864年(元治元)に「開成所規則」が制定され、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5ヶ国語のほか、天文学、地理学、窮理学、数学、物産学、化学、器械学、画学、活字術の9学科が定められましたが、1868年(明治元)に幕府が倒れると、開成所は明治新政府に接収され、官立の開成学校と改称されました。翌年には、大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となり、1877年(明治10)には、東京医学校と統合されて、東京大学が設立されています。