
しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。
台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1502年(文亀2) | 連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日) | 詳細 |
| 1907年(明治40) | 日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される | 詳細 |
| 1913年(大正2) | 歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌) | 詳細 |
| 1958年(昭和33) | 冶金学者俵国一の命日 | 詳細 |
| 1965年(昭和40) | 小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌) | 詳細 |
| 1971年(昭和46) | 全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する | 詳細 |
| 1976年(昭和51) | 内閣が「人名用漢字追加表」を告示し、「人名用漢字別表」に28字を追加する | 詳細 |
| 1988年(昭和63) | 北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する | 詳細 |
