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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、薬学者・薬化学者落合英二の亡くなった日です。
 落合英二(おちあい えいじ)は、明治時代後期の1898年(明治31)6月26日に、埼玉県浦和で、教育家の父・落合初太郎、母・ノブの三男として生まれました。千葉県立千葉中学校を経て、仙台の第二高等学校二部乙類へ入学、卒業後東京帝大医学部へ進みます。
 1922年(大正11)に大学卒業後、医学部副手となって近藤平三郎の門下に入り、ツヅラフジ科アルカロイドの研究を進め、1925年(大正14)に同助手に任命され、1928年(昭和3)には、シノメニンの構造研究により、薬学博士の学位を授与されました。1930年(昭和5)に同助教授となり、イツに留学を命ぜられ、フライブルク大学のシュタウディンガーに高分子をファイファーRichard F. J. Pfeifferに有機金属錯体を学びます。
 1932年(昭和7)に帰国、国内で初めてとなる有機ミクロ分析を開始し、1938年(昭和13)には、東京帝国大学教授に就任、薬化学講座担任を継承しました。
 1944年(昭和19)に「芳香属複素環塩基の研究」により、帝国学士院賞を受賞しましたが、翌年には太平洋戦争下の空襲によって自宅が羅災します。戦後の1947年(昭和22)に小石川茗荷谷の新居に移り、1950年(昭和25)には、アコニット属アルカロイドの新しい研究分野に着目しました。
 1955年(昭和30)にチューリッヒで開催される第18回IUPAC総会に日本学術会議代表として出席、翌年には、日本薬学会会頭に選任されます。1959年(昭和34)に東京大学教授を定年退官し、名誉教授の称号を授与され、1965年(昭和40)に日本学士院会員に選ばれ、翌年には、アメリカ薬学アカデミー名誉会員に推薦されました。
 1967年(昭和42)にAromatic Amine Oxides がアムステルダムのElsevier出版から発刊され、高い評価を受け、第8回藤原賞も受賞します。1969年(昭和44)に文化勲章を受章、文化功労者となりましたが、1974年(昭和49)11月4日に、神奈川県鎌倉市において、76歳で亡くなりました。

〇落合英二の主要な著作

・『日有機微量少量定量分析法』
・『医薬品結合研究法』

☆落合英二関係略年表

・1898年(明治31)6月26日 埼玉県浦和で、教育家の父・落合初太郎、母・ノブの三男として生まれる
・1911年(明治44)3月 千葉師範学校付属小学校を卒業する
・1911年(明治44)4月 千葉県立千葉中学校へ入学する
・1916年(大正5)3月 千葉県立千葉中学校を卒業する
・1916年(大正5)9月 仙台の第二高等学校二部乙類へ入学する
・1922年(大正11) 東京帝大医学部薬学科を卒業、医学部副手となって近藤平三郎の門下に入り、ツヅラフジ科アルカロイドの研究する
・1925年(大正14)5月 東京帝国大学医学部薬学科助手に任命され、教室伝統の苦参塩基マトリンの研究に着手する
・1926年(大正15)12月 防巳科植物採集のため台湾に渡航、危険を冒して山岳を跋渉して大量の採集に成功し、また新種を発見する。
・1928年(昭和3)11月 シノメニンの構造研究により、薬学博士の学位を授与される
・1928年(昭和3)12月 光代夫人と結婚する
・1930年(昭和5)3月 東京帝国大学助教授となる
・1930年(昭和5)7月 ドイツに留学を命ぜられる
・1930年(昭和5)9月9日 シベリア鉄道で訪独の途に上る
・1930年(昭和5)11月 フライブルク大学のProf.Staudingerの研究室で指導を受ける
・1931年(昭和6)7月 約束の期限で、Prof.Staudinger の研究室を辞去する
・1931年(昭和6)9月 オーストリアのグラーツ大学で微量化学の原理と微量分析の講習を受け、留学の土産として微量元素分析の機器一式を購入する
・1931年(昭和6)11月 ボン大学総Prof.Pfeifferの研究室で、錯塩、複塩、有機分子化合物などの実験研修を受ける
・1932年(昭和7)9月 2年間の留学から帰国する
・1933年(昭和8)4月 国内で初めてとなる有機ミクロ分析を開始する
・1938年(昭和13)3月 東京帝国大学教授に就任、薬化学講座担任を継承する
・1938年(昭和13)4月 落合教授の研究指導は、伝統の苦参塩基マトリンに次いで、マラリアの特効薬として、軍用の規那塩基研究が緊急の課題となる
・1942年(昭和17)7月 陸軍技術本部第七研究所兼務を命じられる
・1944年(昭和19)5月 「芳香属複素環塩基の研究」により、帝国学士院賞を受賞する
・1945年(昭和20)5月24日 空襲爆撃によって自宅を羅災する
・1946年(昭和21)6月5日 科学者たちがGHQから東京会館における夕食会に招かれ、科学連絡調整機関について懇談する
・1947年(昭和22)3月頃 小石川茗荷谷の新居に移る
・1950年(昭和25)11月 アコニット属アルカロイドの新しい研究分野に着目する
・1951年(昭和26)8月中旬 アコニット研究資料を収集するために岡本敏彦助教授と教室員を同伴して、那須大丸温泉周辺の山岳地帯を跋渉する
・1952年(昭和27)8月 佐渡の山地でアコニットを採集する
・1953年(昭和28)8月 本州の最北端下北周辺のアコニットを採集する
・1955年(昭和30) チューリッヒで開催される第18回IUPAC総会に日本学術会議代表として出席する
・1956年(昭和31)4月7日 日本薬学会第76回総会において会頭に選任される
・1958年(昭和33)4月 高分子学会理事に就任する
・1958年(昭和33)9月1日 財団法人乙卯研究所所長に就任する
・1959年(昭和34)3月 東京大学教授を定年退官する
・1959年(昭和34)5月 東京大学名誉教授の称号を授与される
・1960年(昭和35)2月 理化学研究所招聘研究員を嘱託される
・1960年(昭和35)4月4日、日本薬学会名誉会員に推薦される
・1965年(昭和40)1月12日 日本学士院会員に選ばれる
・1966年(昭和41)4月29日 アメリカ薬学アカデミー名誉会員に推薦される
・1966年(昭和41)8月 都内の喧噪を避けて鎌倉東御門の新居に移る
・1967年(昭和42)8月24日 Aromatic Amine Oxides がアムステルダムのElsevier出版から発刊され、高い評価を受ける
・1967年(昭和42) 第8回藤原賞を受賞する
・1968年(昭和43)3月 財団法人乙卯研究所所長を辞任する
・1968年(昭和43)11月3日 勲二等瑞宝章を受章する
・1969年(昭和44)11月3日 文化勲章を受章、文化功労者となる
・1972年(昭和47)10月 体調を崩して入院を迫られる
・1974年(昭和49)7月 喜寿を祝う薬化学の会に招かれ、喜色満面で応対される
・1974年(昭和49)11月4日 神奈川県鎌倉市において、76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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