ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:菊池寛賞

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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、ジャーナリスト・編集者・装幀家・「暮しの手帖」編集長だった花森安治が亡くなった日です。
 花森安治(はなもり やすじ)は、明治時代後期の1911年(明治44)10月25日に、兵庫県神戸市において生まれました。旧制兵庫県立第三神戸中学校を経て、旧制松江高等学校に進み、1933年(昭和8)に卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学します。
 1935年(昭和10)の在学中に、伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わり、1937年(昭和12)には、卒業論文「社会学的美学の立場から見た衣粧」を書いて、東京帝国大学文学部美学科を卒業後、徴兵検査を受けて、応召されました。1938年(昭和13)に結核に冒されたため、満州の陸軍病院に入院、1940年(昭和15)には、疾病を理由として除隊になります。
 1941年(昭和16)に大政翼賛会に入り、宣伝部で戦時スローガン制作などの仕事に携わり、翌年には、戦意高揚のために「進め、一億火の玉だ!」、「屠れ!米英我らの敵だ」といったスローガンを選定しました。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に「衣裳研究所」を設立し、雑誌「スタイルブック」を創刊、1948年(昭和23)には、婦人家庭雑誌「美しい暮しの手帖」を大橋鎮子と創刊し、他社広告を掲載しない編集方針を掲げます。1949年(昭和24)に、朝日麦酒(後のアサヒビール)広報部の要請で同社の広告クリエイターとして勤務、キャッチコピーからデザイン、レイアウトを一手で引き受けました。
 1954年(昭和29)に「美しい暮しの手帖」を「暮しの手帖」と改題、1956年(昭和31)には、商品テストなど消費者の立場からの雑誌づくりが評価され、第4回菊池寛賞を受賞します。1967年(昭和42)から戦時中の暮らしの記録を集めるようになり、1969年(昭和44)には、それらをまとめて『戦争中の暮しの記録』を刊行しました。
 1971年(昭和46)に『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』を刊行、翌年この著作で、第23回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞、また、「暮しの手帖」の活動により、ラモン・マグサイサイ賞を受賞します。実証主義ジャーナリズムを展開して、庶民の日常生活の防衛と変革、消費者運動の推進に大いに寄与してきましたが、1978年(昭和53)1月14日に、東京において、心筋梗塞により66歳で亡くなりました。

〇花森安治の主要な著作

・『暮らしの眼鏡』(1953年)
・『風俗時評』(1953年)
・『戦争中の暮しの記録』(1969年)
・『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』(1971年)読売文学賞随筆・紀行賞受賞

☆花森安治関係略年表

・1911年(明治44)10月25日 兵庫県神戸市において、生まれる
・1933年(昭和8) 松江高等学校卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学する
・1935年(昭和10) 在学中に、伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わる
・1937年(昭和12) 卒業論文「社会学的美学の立場から見た衣粧」を書いて、東京帝国大学文学部美学科を卒業後、徴兵検査を受けて、応召される
・1938年(昭和13) 結核に冒されたため、満州の陸軍病院に入院する
・1940年(昭和15) 疾病を理由として除隊になる
・1941年(昭和16) 大政翼賛会に入り、宣伝部で戦時スローガン制作などの仕事に携わる
・1942年(昭和17) 戦意高揚のために「進め、一億火の玉だ!」、「屠れ!米英我らの敵だ」といったスローガンを選定する
・1946年(昭和21) 編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に「衣裳研究所」を設立し、雑誌「スタイルブック」を創刊する
・1948年(昭和23) 婦人家庭雑誌「美しい暮しの手帖」を大橋鎮子と創刊する
・1949年(昭和24) 朝日麦酒(後のアサヒビール)広報部の要請で同社の広告クリエイターとして勤務する
・1954年(昭和29) 「美しい暮しの手帖」を「暮しの手帖」と改題する
・1956年(昭和31) 商品テストなど消費者の立場からの雑誌づくりで、第4回菊池寛賞を受賞する
・1969年(昭和44) 『戦争中の暮しの記録』を刊行する
・1971年(昭和46) 『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』を刊行する
・1972年(昭和47) 『一戔五厘の旗』で、第23回読売文学賞随筆・紀行賞、「暮しの手帖」の活動により、ラモン・マグサイサイ賞を受賞する
・1978年(昭和53)1月14日 東京において、心筋梗塞により66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

允恭天皇42年第19代の天皇とされる允恭天皇の命日詳細
1602年(慶長7)江戸時代前期に活躍した絵師狩野探幽の誕生日(新暦3月7日)詳細
1866年(慶応2)兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者高島秋帆の命日(新暦2月28日)詳細
1906年(明治39)分子物理学者・生物物理学者小谷正雄の誕生日詳細
1953年(昭和28)人類学者・考古学者・民族学者鳥居龍蔵の命日詳細
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agawahiroyuki01
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、小説家阿川弘之の生まれた日です。阿川弘之(あがわ ひろゆき)は、広島県広島市白島九軒町土手通り(現在の中区白島九軒町)において、実業家だった父・阿川甲一、母・キミの長男として生まれました。
 広島高等師範学校附属中学を経て、1937年(昭和12)に、広島高等学校文科乙類に入学し、文芸部に所属、同人誌「こをろ」に参加します。1940年(昭和15)に、東京帝大文学部国文科に入学しましたが、1942年(昭和17)には、繰り上げ卒業となり、海軍予備学生を志願して佐世保海兵団に入団、台湾の高雄州東港海軍基地で基礎教育を受けました。
 1943年(昭和18)に帰国。横須賀海軍通信学校で特務班要員の訓練を受け、少尉に任官、翌年には、中尉に進級、支那方面艦隊司令部附となり、中国の漢口で通信諜報作業に従事しています。敗戦後の1945年(昭和20)にポツダム大尉に進級、俘虜となり、翌年復員帰国後、上京して志賀直哉を訪ね、定職につかずに執筆に専念することを決意、「世界」に掲げた短編『年年歳歳』によって文壇に進出しました。
 1950年(昭和25)に第一創作集『年年歳歳』を上梓、1952年(昭和27)には、長篇『春の城』で第4回読売文学賞を受賞します。1955年(昭和30)に「新潮」1~12月号に『雲の墓標』を連載、翌年、単行本化され、ロックフェラー財団の留学生(フェロウ)としてアメリカに滞在しました。
 1965年(昭和40)に『山本五十六』で、第13回新潮文学賞、1983年(昭和58)に第30回交通文化賞、1986年(昭和61)に『井上成美』(新潮社)で、第19回日本文学大賞、1979年(昭和54)に第35回日本芸術院賞・恩賜賞、1993年(平成5)には、文化功労者表彰を受けるなど数々の栄誉に輝きます。さらに、1994年(平成6)に評伝『志賀直哉』で、野間文芸賞、第48回毎日出版文化賞を受賞、1999年(平成11)には、文化勲章受章、第3回海洋文学大賞特別賞受賞、広島県名誉県民となりました。
 その後も、2002年(平成14)に『食味風々録』で、第53回読売文学賞受賞、2003年(平成15)に広島市名誉市民、2007年(平成19)には、第55回菊池寛賞を受賞したものの、2015年(平成27)8月3日に東京都内の病院において、94歳で亡くなっています。

〇阿川弘之の主要な著作

・第一創作集『年年歳歳』(1950年)
・『春の城』(1952年)第4回読売文学賞受賞
・『魔の遺産』(1954年)
・『雲の墓標』(1956年)
・『夜の波音』(1957年)
・童話『きかんしゃやえもん』(1959年)
・『なかよし特急』(1960年)第7回サンケイ児童出版文化賞
・『坂の多い道』(1960年)
・『山本五十六』(1965年)第13回新潮文学賞受賞
・『暗い波濤』(1974年)
・『南蛮阿房列車』(1977年)
・『米内光政』(1978年)
・『井上成美』(1986年)第19回日本文学大賞受賞
・評伝『志賀直哉』(1994年)第47回野間文芸賞受賞、第48回毎日出版文化賞
・『食味風々録』(2002年)読売文学賞受賞

☆阿川弘之関係略年表

・1920年(大正9)12月24日 広島県広島市白島九軒町土手通り(現在の中区白島九軒町)において、実業家だった父・阿川甲一、母・キミの長男として生まれる
・1927年(昭和2) 広島市の偕行社立済美小学校に入学する
・1933年(昭和8) 広島高等師範学校附属中学に入学する
・1937年(昭和12) 広島高等学校文科乙類に入学し、文芸部に所属する
・1940年(昭和15) 東京帝大文学部国文科に入学する
・1942年(昭和17) 繰り上げ卒業となり、海軍予備学生を志願して佐世保海兵団に入団、台湾の高雄州東港海軍基地で基礎教育を受ける
・1943年(昭和18) 帰国。横須賀海軍通信学校で特務班要員の訓練を受け、少尉に任官する
・1944年(昭和19) 中尉に進級、支那方面艦隊司令部附となり、中国の漢口で通信諜報作業に従事する
・1945年(昭和20) 敗戦後、ポツダム大尉に進級、俘虜となる
・1946年(昭和21) 復員帰国後、上京して志賀直哉を訪ね、定職につかずに執筆に専念することを決意、「世界」に掲げた短編『年年歳歳』によって文壇に進出する
・1949年(昭和24) 結婚する
・1950年(昭和25) 第一創作集『年年歳歳』を上梓する
・1952年(昭和27) 長篇『春の城』(新潮社)で第4回読売文学賞を受賞する
・1955年(昭和30) 「新潮」1~12月号に『雲の墓標』を連載する
・1956年(昭和31) 『雲の墓標』を単行本化、ロックフェラー財団の留学生(フェロウ)としてアメリカに滞在する
・1957年(昭和32) 『夜の波音』(創元社)を刊行する
・1960年(昭和35) 『坂の多い道』(新潮社)を刊行する
・1965年(昭和40) 『山本五十六』(新潮社)で、第13回新潮文学賞を受賞する
・1974年(昭和49) 『暗い波濤』(新潮社)を刊行する
・1983年(昭和58) 第30回交通文化賞を受賞する
・1986年(昭和61) 『井上成美』(新潮社)で、第19回日本文学大賞を受賞する
・1979年(昭和54) 第35回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞する
・1993年(平成5) 文化功労者表彰を受ける
・1994年(平成6) 評伝『志賀直哉』で、野間文芸賞、第48回毎日出版文化賞を受賞する
・1999年(平成11) 文化勲章受章、第3回海洋文学大賞特別賞受賞、広島県名誉県民となる
・2002年(平成14) 『食味風々録』で、第53回読売文学賞を受賞する
・2003年(平成15) 広島市名誉市民となる
・2007年(平成19) 第55回菊池寛賞を受賞する
・2015年(平成27)8月3日 東京都内の病院において、94歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)言語学者・国語学者橋本進吉の誕生日詳細
1902年(明治35)文芸評論家・思想家高山樗牛の命日詳細
1943年(昭和18)「徴兵適齢臨時特例」が公布・施行され、徴兵年齢が1歳引き下げられ19歳になる詳細
1953年(昭和28)日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する詳細
1975年(昭和50)国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される詳細
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 今日は、平成時代の1999年(平成11)に、文芸評論家江藤淳の亡くなった日です。
 江藤 淳(えとう じゅん)は、1932年(昭和7)12月25日に、東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)において、銀行員だった父・江頭隆、母・廣子の長男としてに生まれましたが、本名は江頭淳夫(えがしら あつお)と言いました。1937年(昭和12)の4歳半の時、母を結核で失ない、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下の空襲で、東京大久保の生家が焼失します。
 戦後、旧制湘南中学(現在の県立湘南高等学校)、旧制都立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)を経て、1953年(昭和28)に慶應義塾大学文学部(教養課程)に進みました。翌年に専門課程への進学に際して英文科を選びましたが、喀血して自宅で療養を余儀なくされます。
 1955年(昭和30)に「三田文学」に『夏目漱石論』を発表、初めて江藤淳を名乗り、1957年(昭和32)に卒業後、大学院文学研究科修士課程に進みました。1958年(昭和33)に『奴隷の思想を排す』を上梓、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対します。
 1959年(昭和34)に講談社から『作家は行動する』を上梓、大学院を中退、1962年(昭和37)にロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学、『小林秀雄』で第9回新潮社文学賞受賞、翌年にはプリンストン大学東洋学科で日本文学史を教えました。1964年(昭和39)に帰国し、1967年(昭和42)に遠山一行、高階秀爾と雑誌『季刊藝術』を創刊(1979年まで刊行)、1970年(昭和45)には、評伝『漱石とその時代』で、第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞を受賞します。
 1971年(昭和46)に東京工業大学助教授となり、翌年に中央教育審議会の委員に就任、1973年(昭和48)には、教授に昇任しました。1975年(昭和50)に、比較文学の手法に立脚した博士論文『漱石とアーサー王伝説』で文学博士号取得、第32回日本芸術院賞(文芸部門)受賞、『海は甦える』で第37回文芸春秋読者賞を受賞します。
 1990年(平成2)に東京工業大学を辞職、翌年に日本芸術院会員となり、1992年(平成4)には、慶應義塾大学環境情報学部教授となりました。1994年(平成6)に第45回NHK放送文化賞を受賞、日本文芸家協会理事長となり、日本文学大賞、文學界新人賞、群像新人文学賞、文藝賞、三島由紀夫賞などの選考委員を務めます。
 1997年(平成9)に定年まで1年を残し慶應義塾を去り、大正大学教授に就任しましたが、翌年暮れに癌により慶子夫人を亡くし、1999年(平成11)に、手記『妻と私』を発表、同年7月21日に、鎌倉市西御門の自宅において、66歳で自殺しました。

〇江藤淳の主要な著作

・『夏目漱石』(1956年)
・『奴隷の思想を排す』(1958年)
・『作家は行動する』(1959年)
・『小林秀雄』(1962年)第9回新潮社文学賞受賞
・『アメリカと私』(1965年)
・『成熟と喪失』(1967年)
・評伝『漱石とその時代』(1970年)第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞受賞
・『一族再会』(1972年)
・『海は甦(よみが)える』(1973年)第37回文芸春秋読者賞受賞
・『海舟余波 わが読史余滴』(1974年)
・『漱石とアーサー王伝説』(1975年)
・『忘れたこと忘れさせられたこと』(1979年)
・『落葉の掃寄せ』(1982年)
・『自由と禁忌』(1984年)
・『近代以前』(1985年)
・文学論『昭和の文人』(1989年)
・評論集『保守とはなにか』(1996年)
・手記『妻と私』(1999年)

☆江藤淳関係略年表

・1932年(昭和7)12月25日 東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)において、銀行員だった父・江頭隆、母・廣子の長男としてに生まれる
・1937年(昭和12) 4歳半の時、母を結核で失う。
・1939年(昭和14) 戸山小学校に入学するも、病弱な上に教師と合わず、不登校になる
・1942年(昭和17) 神奈川県鎌倉市の鎌倉第一国民学校に転校してから学校が好きになり、成績が上昇する
・1945年(昭和20)5月 空襲にて東京大久保の生家が焼失する
・1946年(昭和21) 神奈川県藤沢市の旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)に入学する
・1948年(昭和23) 旧制の東京都立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転校する
・1951年(昭和26) 健康診断で肺浸潤が見つかったため、高校を休学して自宅療養する
・1953年(昭和28) 東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)を受験して失敗、慶應義塾大学文学部(教養課程)に進む
・1954年(昭和29)4月 専門課程への進学に際して英文科を選ぶ
・1954年(昭和29)6月 喀血して自宅で療養する
・1955年(昭和30) 『三田文学』に「夏目漱石論」を発表。初めて江藤淳を名乗る
・1957年(昭和32) 慶應義塾大学文学部文学科(英米文学専攻)を卒業後、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に進む
・1958年(昭和33) 文藝春秋から『奴隷の思想を排す』を上梓。石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した
・1959年(昭和34) 講談社から『作家は行動する』を上梓、退学届けを提出し、正式に大学院を中退する
・1962年(昭和37) ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学する、『小林秀雄』で第9回新潮社文学賞を受賞する
・1963年(昭和38) プリンストン大学東洋学科で日本文学史を教える
・1964年(昭和39) 日本へ帰国する
・1967年(昭和42) 遠山一行、高階秀爾と雑誌『季刊藝術』を創刊(1979年まで刊行)
・1970年(昭和45) 評伝『漱石とその時代』で、第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞を受賞する
・1971年(昭和46) 東京工業大学助教授となる
・1972年(昭和47) 中央教育審議会の委員に就任する
・1973年(昭和48) 東京工業大学教授となる
・1974年(昭和49) 「『フォニイ』考」で、加賀乙彦、辻邦生らの長編を、純文学ならざるものとして批判し、論争となる
・1975年(昭和50) 博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶應義塾大学に提出し、同大学より文学博士号を取得、第32回日本芸術院賞(文芸部門)受賞、『海は甦える』で第37回文芸春秋読者賞を受賞する
・1976年(昭和51) NHKのドキュメンタリー・ドラマ『明治の群像』のシナリオを手掛ける
・1977年(昭和52) 『文學界』1月号掲載の開高健との対談『作家の狼疾』で、埴谷を激怒させ、『江藤淳のこと』を『文藝』に掲載し批判した
・1979年(昭和54) ワシントンのウィルソン・センターで米軍占領下の検閲事情を調査する
・1980年(昭和55) 田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』を高く評価する
・1982年(昭和57) 『海』4月号で吉本隆明と対談(『現代文学の倫理』)する
・1983年(昭和58) 「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立することとなる
・1988年(昭和63) 『新潮』5月号の創刊1000号記念で、大江健三郎、開高健、石原慎太郎ら同世代の作家と「文学の不易と流行」と題した座談会を行なう
・1990年(平成2) 東京工業大学を辞職する
・1991年(平成3) 日本芸術院会員となる
・1992年(平成4) 慶應義塾大学環境情報学部教授となる
・1994年(平成6) 第45回NHK放送文化賞を受賞、日本文芸家協会理事長となる
・1995年(平成7) 文藝春秋5月号で『皇室にあえて問う』を発表する
・1995年(平成7)12月7日 日本文藝家協会理事長として、公正取引委員会による出版流通の再販制度見直しに反対する声明を出す
・1997年(平成9) 定年まで1年を残し慶應義塾を去り、大正大学教授に就く
・1998年(平成10) 第13回正論大賞を受賞、暮れに癌により慶子夫人が亡くなる
・1999年(平成11)7月21日 鎌倉市西御門の自宅において、66歳で自殺する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)「開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定詳細
1896年(明治29)北京において「日清通商航海条約」が締結される詳細
1940年(昭和15)日本労働総同盟が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める詳細
1941年(昭和16)文部省教学局から『臣民の道』が刊行される詳細
2000年(平成12)写真家渡辺義雄の命日詳細
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 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、小説家杉本苑子が生まれた日です。
 杉本苑子(すぎもと そのこ)は、東京都牛込区(現・新宿区)において、薬剤師の父・杉本福次郎と母・成子の長女として生まれました。1943年(昭和18)に、駒沢高等女学校(現在の駒沢女子大学)卒業後、仏教系の千代田女子専門学校に入学し、国文学を専攻します。
 翌年に、同校を中退し、内務省防空研究所に務めたものの、1947年(昭和22)には、文化学院文科に入学し、世阿弥を研究しました。1949年(昭和24)に文化学院文科を卒業、1951年(昭和26)に、初めて書いた小説『申楽新記』がサンデー毎日百万円懸賞の3席入賞、翌年に『燐の譜』で第42回サンデー毎日大衆文芸賞に入選した時の審査委員吉川英治に弟子入りします。
 その下で、文学修業に励みましたが、師の指示により10年間は作品を一切発表しませんでした。1961年(昭和36)に、師の許可を得て、初めて商業誌「別冊週刊朝日」に『柿の木の下』を発表、処女創作集『船と将軍』を刊行します。
 翌年には、江戸幕府が薩摩藩に命じた濃尾平野の治水事業をめぐる悲劇を描いた『孤愁の岸』で第48回直木賞を受賞しました。古典の素養と構成力の確かさで、幅広い時代を扱った歴史小説に取り組み、1977年(昭和52)に『滝沢馬琴』で第12回吉川英治文学賞を受賞、1985年(昭和60)には、『マダム貞奴』および『冥府回廊』を原作とするNHK大河ドラマ『春の波濤』が放映されます。
 さらに、1986年(昭和61)に『穢土荘厳』で第25回女流文学賞を受賞、1987年(昭和62)に紫綬褒章を受章、1995年(平成7)に文化功労者となりました。続いて、1997年(平成9)に熱海市名誉市民、1999年(平成11)にNHK放送文化賞、2002年(平成14)に第50回菊池寛賞、文化勲章と数々の栄誉に輝きます。
 生涯独身を通しましたが、2017年(平成29)5月31日に、静岡県熱海市の自邸において、老衰のため91歳で亡くなりました。

〇杉本苑子の主要な著作

・『申楽新記』(1951年)サンデー毎日百万円懸賞の3席入賞
・『燐の譜』(1952年)第42回サンデー毎日大衆文芸賞入選
・『孤愁の岸』(1962年)第48回直木賞を受賞
・『船と将軍』(1962年)
・『春日局(かすがのつぼね)』(1970年)
・『埋(うず)み火』(1974年)
・『マダム貞奴』(1975年)
・『滝沢馬琴』(1977年)第12回吉川英治文学賞受賞
・『冥府回廊』(1984年)
・『穢土荘厳』(1986年)第25回女流文学賞を受賞

☆杉本苑子関係略年表

・1925年(大正14)6月26日 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)で、薬剤師の父・杉本福次郎と母・成子の長女として生まれる
・1943年(昭和18) 駒沢高等女学校(現在の駒沢女子大学)卒業後、仏教系の千代田女子専門学校に入学し、国文学を専攻する
・1944年(昭和19) 千代田女子専門学校を中退し、内務省防空研究所に務める
・1947年(昭和22) 文化学院文科に入学する
・1949年(昭和24) 文化学院文科を卒業する
・1951年(昭和26) 初めて書いた小説『申楽新記』がサンデー毎日百万円懸賞の3席入賞となる
・1952年(昭和27) 『燐の譜』で第42回サンデー毎日大衆文芸賞に入選する
・1961年(昭和36) 初めて商業誌「別冊週刊朝日」に『柿の木の下』を発表、処女創作集『船と将軍』を刊行する
・1962年(昭和37) 書き下ろし長編『孤愁の岸』で第48回直木賞を受賞する
・1977年(昭和52) 『滝沢馬琴』で第12回吉川英治文学賞を受賞、小学館『戦乱 日本の歴史』7(天下布武)を共著として刊行する
・1985年(昭和60) 『マダム貞奴』および『冥府回廊』を原作とするNHK大河ドラマ『春の波濤』が放映される
・1986年(昭和61) 『穢土荘厳』で第25回女流文学賞を受賞する
・1987年(昭和62) 紫綬褒章を受章する
・1995年(平成7) 文化功労者となる
・1997年(平成9) 熱海市名誉市民となる
・1999年(平成11) NHK放送文化賞を受賞する
・2002年(平成14) 第50回菊池寛賞を受賞、文化勲章を受章する
・2017年(平成29)5月31日 静岡県熱海市の自邸において、老衰により91歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1833年(天保4)長州藩士・政治家木戸孝允(桂小五郎)の誕生日(新暦8月11日)詳細
1903年(明治36)小説家・評論家・翻訳家・英文学者阿部知二の誕生日詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」に52ヶ国が署名する詳細
鈴木貫太郎内閣によって「重要物資等の緊急疎開に関する件」が閣議決定される詳細
1968年(昭和43)「小笠原返還協定」が発効し、小笠原諸島がアメリカから日本に返還される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、劇作家・演出家・作詞家菊田一夫の亡くなった日です。
 菊田一夫(きくた かずお)は、1908年(明治41)3月1日に、神奈川県横浜市において、西郷家に生まれましたが、生後4ヵ月で両親に連れられて台湾に渡りました。その後、両親に捨てられ、転々と他の人に養育されて、5歳の時に菊田家の養子になります。
 台湾城北小学校卒業直前に、大阪の薬種問屋に丁稚奉公に出され、1920年(大正9)には、神戸元町に移り住みました。それから、大阪・神戸で小僧をして夜学に学び、1923年(大正12)に結成された「元五青年団」の機関誌「桜草」の編集人を務めます。
 1925年(大正14)に上京し、印刷工として働き、1927年(昭和2)には、サトウハチロー門下となりました。その世話で、1929年(昭和4)に浅草公園劇場の文芸部に入り、翌年に玉木座の『阿呆(あほう)疑士迷々伝』で注目され、1933年(昭和8)には、古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられます。
 1935年(昭和10)に古川ロッパが退団して東宝に所属となるとね翌年に東宝に移籍して東宝文芸部の主力となりました。1943年(昭和18)に戯曲『花咲く港』を発表、本格的な劇作家としてスタートしたものの、戦時中は岩手県江刺市(現在の奥州市)に疎開します。
 太平洋戦争後、東京に戻り、作曲家の古関裕而とコンビを組むようになり、1947年(昭和22)からラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(~1950年)の放送を手掛け、注目されました。1952年(昭和27)にラジオドラマ『君の名は』(~1954年)の放送が開始されると、空前の大ヒットとなり、1953年(昭和28)には、松竹において、三部作で映画化されます。
 1955年(昭和30)に小林一三の招きで、東宝の取締役(演劇担当役員)に就任、1957年(昭和32)には、東宝芸術座を創設、東宝演劇部の総帥としての仕事に取り組みました。1959年(昭和44)に演劇『がめつい奴』(製作・脚本・演出)が初演され、翌年に菊池寛賞を受賞、1961年(昭和46)には、芸術選奨文部大臣賞(演劇部門)も受賞します。
 1963年(昭和48)に東宝劇場で『マイ・フェア・レディ』を制作・上演し、ミュージカル・ブームに火をつけ、1966年(昭和51)には、新装開場した帝劇で『風と共に去りぬ』を世界で初めて劇化し、上演しました。1970年(昭和55)に『風と共に去りぬ』をミュージカル化した『スカーレット』を帝劇で、次いでロンドン、パリで公演したものの、1973年(昭和48)4月4日に、東京・慶應義塾大学病院において、65歳で亡くなっています。
 尚、1975年(昭和50)に菊田の功績を記念し、演劇界の発展を願って「菊田一夫演劇賞」が東宝により創設(現在は一般社団法人映画演劇文化協会が主催)されました。

〇菊田一夫の主要な作品

・戯曲『花咲く港』(1943年)
・ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(1947~50年)
・ラジオドラマ『君の名は』(1952~54年)
・戯曲『がめつい奴』(1959年)
・戯曲『がしんたれ』(1960年)
・戯曲『放浪記』(1961年)

☆菊田一夫関係略年表

・1908年(明治41)3月1日 神奈川県横浜市において、生まれる
・1908年(明治41) 生後4カ月で両親に連れられ台湾に渡る
・1913年(大正2) 5歳のときに、菊田家の養子になる
・1920年(大正9) 神戸元町に移り住む
・1923年(大正12) 結成された「元五青年団」の機関誌「桜草」の編集人を務める
・1925年(大正14) 上京し、印刷工として働く
・1927年(昭和2) サトウハチロー門下となる
・1929年(昭和4) 浅草公園劇場の文芸部に入る
・1930年(昭和5) 玉木座の『阿呆(あほう)疑士迷々伝』で注目される
・1933年(昭和8) 古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられる
・1935年(昭和10) 古川ロッパが退団して東宝に所属となる
・1936年(昭和11) 東宝に移籍して東宝文芸部の主力となる
・1943年(昭和18) 戯曲『花咲く港』を発表、本格的な劇作家としてスタートする
・1947年(昭和22) ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の放送が始まる(~1950年)
・1952年(昭和27) ラジオドラマ『君の名は』の放送が始まり、空前の大ヒットとなる(~1954年)
・1953年(昭和28) 『君の名は』が松竹で三部作映画化される
・1955年(昭和30) 小林一三の招きで、東宝の取締役(演劇担当役員)に就任する
・1957年(昭和32) 東宝芸術座を創設、東宝演劇部の総帥としての仕事に取り組む
・1962年(昭和37)4月23日 開かれた「学者・文化人による民社党をはげます会」に尾崎士郎・徳川夢声・平林たい子らと共に出席する
・1959年(昭和44) 演劇『がめつい奴』(製作・脚本・演出)が初演される
・1960年(昭和45) 劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成、演劇『がめつい奴』で菊池寛賞を受賞する
・1961年(昭和46) 演劇『がめつい奴』、『がしんたれ』で芸術選奨文部大臣賞(演劇部門)を受賞する
・1963年(昭和48) 東宝劇場で『マイ・フェア・レディ』を制作・上演し,ミュージカル・ブームに火をつける
・1966年(昭和51) 新装開場した帝劇で『風と共に去りぬ』を世界で初めて劇化し、上演する
・1970年(昭和55) 『風と共に去りぬ』をミュージカル化した『スカーレット』を帝劇で、次いでロンドン、パリで公演する
・1973年(昭和48)4月4日 東京・慶應義塾大学病院において、65歳で亡くなる
・1975年(昭和50) 菊田の功績を記念し、演劇界の発展を願って菊田一夫演劇賞が東宝により創設(現在は一般社団法人映画演劇文化協会が主催)される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1284年(弘安7)鎌倉幕府第8代執権北条時宗の命日(新暦4月20日)詳細
1609年(慶長14)江戸時代の大名・備前岡山藩初代藩主池田光政の誕生日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)小説家中里介山の誕生日詳細
1949年(昭和24)「団体等規制令」が公布・施行される詳細
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