ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:菊池寛賞受賞

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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、昭和時代から平成時代に活躍した映画監督・脚本家新藤兼人が生まれた日です。
 新藤兼人(しんどう かねと)は、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町)の豪農の家で、4人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が借金の連帯保証人になったことで没落し、貧窮生活を送ることとなりました。1927年(昭和2)に石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられ、16歳の時には尾道の長兄宅に居候することになります。
 映画を志すようになり、1934年(昭和9年)の22歳の時、京都へ行って新興キネマに入りました。下働きから始まり、美術部門へ移り、脚本も書き始め、1943年(昭和18)には、情報局の国民映画脚本の公募に『強風』が当選します。
 1944年(昭和19)に所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍したものの、同年4月には、日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)秋に、脚本『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され、1947年(昭和22)には、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表します。
 1950年(昭和25)に松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立、翌年の39歳の時、近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たしました。1952年(昭和27)に原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表、翌年にはチェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞などを受賞します。
 1959年(昭和34)に『第五福竜丸』を発表、翌年の瀬戸内海を舞台にしたせりふのない作品『裸の島』で、モスクワ映画祭グランプリを獲得しました。その後も、『母』(1963年)、『裸の十九才』(1970年)、『ある映画監督の生涯・溝口健二の記録』(1975年)、『竹山ひとり旅』(1977年)、『北斎漫画』(1981年)、『午後の遺言状』(1995年)等を発表、1997年(平成9)には、文化功労者に選ばれています。
 1999年(平成11)の『生きたい』でモスクワ国際映画祭のグランプリを獲得、翌年には、文化勲章を授与されました。晩年の2010年(平成22)に『一枚のハガキ』で第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位となり、翌年には、菊池寛賞も受賞しましたが、2012年(平成24)5月29日に、東京都港区の自宅で、老衰のため100歳で亡くなっています。
 尚、脚本家としても、『けんかえれじい』、『ハチ公物語』、『完全なる飼育』始め、230本を超える作品を手がけました。

〇新藤兼人の主要な監督映画

・「愛妻物語」(1951年)
・「雪崩」(1952年)
・「原爆の子」(1952年)チェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞
・「縮図」(1953年)
・「女の一生」(1953年)
・「どぶ」(1954年)
・「狼」(1955年)
・「銀心中」(1956年)
・「流離の岸」(1956年)
・「女優」(1956年)
・「海の野郎ども」(1957年)
・「悲しみは女だけに」(1958年)
・「第五福竜丸」(1959年)
・「花嫁さんは世界一」(1959年)
・「らくがき黒板」(1959年)
・「裸の島」(1960年)モスクワ国際映画祭のグランプリ獲得
・「人間」(1962年)文部省芸術祭文部大臣賞
・「母」(1963年)毎日芸術賞
・「鬼婆」(1964年)
・「悪党」(1965年)
・「本能」(1966年)
・「尖石遺跡」(1966年)
・「蓼科の四季」(1966年)
・「性の起原」(1967年)
・「薮の中の黒猫」(1968年)
・「強虫女と弱虫男」(1968年)
・「かげろう」(1969年)文化庁芸術祭優秀賞
・「触角」(1970年)
・「裸の十九才」(1970年) モスクワ国際映画祭金賞
・「鉄輪(かなわ)」(1972年)
・「讃歌」(1972年)
・「心」(1973年)
・「わが道」(1974年)
・「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975年)キネマ旬報ベストテン1位・監督賞
・「竹山ひとり旅」(1977年) モスクワ国際映画祭監督賞・ソ連美術家同盟賞
・「絞殺」(1979年)
・「三本足のアロー」(1980年)
・「北斎漫画」(1981年)
・「地平線」(1984年)
・「ブラックボード」(1986年)
・「落葉樹」(1986年)
・「さくら隊散る」(1988年)
・「東綺譚(ぼくとうきだん)」(1992年)
・「午後の遺言状」(1995年)日本アカデミー最優秀作品賞、モスクワ国際映画祭ロシア批評家賞、キネマ旬報ベストテン1位
・「生きたい」(1999年)モスクワ国際映画祭のグランプリ獲得
・「三文役者」(2000年)モントリオール映画祭特別グランプリ
・「ふくろう」(2003年)モスクワ映画祭功労賞
・「石内尋常高等小学校 花は散れども」(2008年)
・「一枚のハガキ」(2010年)第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位

〇新藤兼人の主要な著書

・『ある映画監督 - 溝口健二と日本映画』(岩波新書)
・『ある映画監督の生涯 -溝口健二の記録-』(映人社) 
・『「断腸亭日乗」を読む』(岩波現代文庫)
・『小説 田中絹代』(読売新聞社、のち文春文庫)
・『ながい二人の道 乙羽信子とともに』(東京新聞出版局)
・『ひとり歩きの朝』(毎日新聞社)
・『歳月は風の吹くままに』(朝日新聞社)
・『シナリオ人生』(岩波新書)
・『老人読書日記』(岩波新書)
・『弔辞』(岩波新書)
・『午後の遺言状』(岩波同時代ライブラリー)
・『女の一生―杉村春子の生涯』(岩波書店)
・『三文役者の死―正伝殿山泰司』(岩波現代文庫)
・『追放者たち 映画のレッドパージ』(岩波書店)
・『作劇術』(岩波書店)
・『祭りの声 あるアメリカ移民の足跡』(岩波新書)
・『愛妻記』(岩波現代文庫)
・『新藤兼人の足跡』(著作集全6巻、岩波書店)
・『ふくろう90歳の挑戦』(岩波アクティブ新書)
・『日本シナリオ史』(上・下、岩波書店)
・『いのちのレッスン』(青草書房)

☆新藤兼人関係略年表

・1912年(明治45)4月22日 広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町)で生まれる
・1927年(昭和2) 石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられる
・1933年(昭和8) 徴兵検査が終わる
・1934年(昭和9) 22歳の時に新興キネマに入る
・1941年(昭和16) 溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都興亜映画に出向する
・1942年(昭和17) 情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる
・1943年(昭和18) 情報局の国民映画脚本の公募に『強風』が当選する
・1944年(昭和19) 所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍する
・1944年(昭和19)4月 日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団する
・1945年(昭和20) 宝塚海軍航空隊所属にて第二次世界大戦終戦を迎える
・1945年(昭和20)秋 脚本『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化される
・1946年(昭和21) 34歳の時、美代と結婚する
・1947年(昭和22) 吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表する
・1950年(昭和25) 松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立する
・1951年(昭和26) 39歳の時、近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たす
・1952年(昭和27) 近代映画協会初の自主制作作品として、原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表する
・1953年(昭和28) 映画『原爆の子』でチェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など受賞する
・1959年(昭和34) 『第五福竜丸』を発表する
・1960年(昭和35) 瀬戸内海を舞台にしたせりふのない作品『裸の島』を発表し、モスクワ映画祭グランプリを獲得する
・1970年(昭和45) 連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』を発表する
・1972年(昭和47) 60歳の時、美代と正式に離婚する
・1978年(昭和53) 乙羽信子と再婚する
・1995年(平成7) 『午後の遺言状』で日本アカデミー最優秀作品賞となる
・1997年(平成9) 文化功労者に選ばれる
・1999年(平成11) 『生きたい』でモスクワ国際映画祭のグランプリを獲得する
・2002年(平成14) 文化勲章を授与される
・2005年(平成17) 谷本清平和賞を受賞する
・2010年(平成22) 『一枚のハガキ』で第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位となる
・2010年(平成23) 菊池寛賞を受賞する
・2012年(平成24)5月29日 東京都港区の自宅で、老衰のため100歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1910年(明治43)彫刻家荻原守衛(碌山)の命日詳細
1993年(平成5)全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される詳細
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 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、小説家藤沢周平の亡くなった日です。
 藤沢周平(ふじさわ しゅうへい)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)12月26日に、山形県東田川郡黄金村(現在の鶴岡市高坂)で農業を営む父・小菅繁蔵と母・たきゑの第4子として生まれましたが、本名は小菅留治(こすげ とめじ)と言いました。1946年(昭和21)に山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部を卒業後、山形師範学校(現在の山形大教育学部)に入学し、文芸に親しみます。
 1949年(昭和24)に卒業後、中学校教師となったものの、結核が見つかり、2年で退職し、1952年(昭和27)に東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、5年間の闘病生活を送りました。退院後、1957年(昭和32)から業界紙の編集に携わるようになり、1960年(昭和35)には株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となります。
 その一方で、1963年(昭和38)から小説の投稿を始め、『赤い夕日』が読売新聞短編小説賞の選外佳作となり、1965年(昭和40)から藤沢周平のペンネームを使いはじめました。1971年(昭和46)に『溟い海』で、第38回「オール讀物」新人賞受賞、1973年(昭和48)に『暗殺の年輪』で、第69回直木賞受賞、1974年(昭和49)には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入ります。
 不遇な下級武士や市井に生きる庶民を描いたものを中心に時代小説、歴史小説の各分野で幅広く活躍し、流行作家となって、作品のテレビドラマ化や映画化もされました。1985年(昭和60)に直木賞選考委員、1986年(昭和61)に『白き瓶―小説 長塚節』で、第20回吉川英治文学賞、1989年(平成元)に『市塵』で、第40回芸術選奨文部大臣賞、同年に作家生活全体の功績に対して、第37回菊池寛賞と数々の栄誉に輝きます。
 さらに、1994年(平成6)に朝日賞受賞、第10回東京都文化賞を受賞、翌年には紫綬褒章を受章しましたが、1997年(平成9)1月26日に東京において、69歳で亡くなりました。尚、2010年(平成22)に出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館しています。

〇藤沢周平の主要な著作

・『溟(くら)い海』(1971年)オール読物新人賞受賞
・『暗殺の年輪』(1973年)第69回直木賞を受賞
・『闇(やみ)の梯子(はしご)』(1974年)
・『又蔵の火』(1974年)
・『用心棒日月抄(ようじんぼうじつげつしょう)』(1976年)
・『一茶(いっさ)』(1977年)
・「回天の門』(1979年)
・『闇の傀儡師』(1980年)
・『春秋の檻』(1980年)
・『孤剣』(1980年)
・『夜の橋』(1981年)
・『密謀』(1982年)
・『愛憎の檻』(1982年)
・連作短編集『用心棒日月抄』(1983年)
・『海鳴り』(1984年)
・『白き瓶(かめ)―小説 長塚節(たかし)』(1985年)吉川英治文学賞受賞
・『風の果て』(1985年)
・『本所しぐれ町物語』(1987年)
・『たそがれ清兵衛』(1988年)
・『蝉(せみ)しぐれ』(1988年)
・『市塵(しじん)』(1989年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・『三屋清左衛門残日録』(1989年)
・『玄鳥』(1991年)
・長編『漆の実のみのる国』(1997年)
・『日暮れ竹河岸(たけがし)』(1996年)
・時代小説集『静かな木』(1998年)
・エッセイ集『小説の周辺』(1986年)
・『早春―その他』(1998年)
・自伝『半生の記』(1994年)
・『漆の実のみのる国』(1996年)遺作

☆藤沢周平関係略年表

・1927年(昭和2)12月26日 山形県東田川郡黄金村(現在の鶴岡市高坂)の農家である父・小菅繁蔵と母・たきゑの第4子として生まれる
・1934年(昭和9) 青龍寺尋常高等小学校へ入学する
・1942年(昭和17) 15歳の時、黄金村国民学校高等科を卒業する
・1946年(昭和21)3月 山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部を卒業する
・1946年(昭和21)4月 山形師範学校(現在の山形大教育学部)に入学する
・1949年(昭和24)3月 山形師範学校(現在の山形大教育学部)を卒業する
・1949年(昭和24)4月 山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校へ赴任し、国語と社会を担当する
・1951年(昭和26) 『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加する
・1952年(昭和27)2月 東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院する
・1957年(昭和32) 業界紙の編集に携わる
・1959年(昭和34) 三浦悦子と結婚する
・1960年(昭和35) 株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となる
・1963年(昭和38) 小説の投稿を始める
・1963年(昭和38) 『赤い夕日』が読売新聞短編小説賞の選外佳作となる
・1963年(昭和38) 長女・展子が生まれ、東京都清瀬市上清戸で間借り生活を始める
・1963年(昭和38)10月 妻・悦子が急逝する
・1965年(昭和40) 藤沢周平のペンネームを使いはじめる
・1969年(昭和44) 高澤和子と再婚する
・1970年(昭和45) 東京都東久留米市に引っ越しする
・1971年(昭和46) 『溟(くら)い海』で、第38回「オール讀物」新人賞を受賞する
・1973年(昭和48) 『暗殺の年輪』で、第69回直木賞を受賞する
・1974年(昭和49) 日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る
・1976年(昭和51) オール讀物新人賞選考委員となる
・1985年(昭和60) 直木賞選考委員となる
・1986年(昭和61) 『白き瓶(かめ)―小説 長塚節(たかし)』で、第20回吉川英治文学賞受賞する
・1988年(昭和63) 山本周五郎賞選考委員となる
・1989年(平成元) 『市塵(しじん)』で、第40回芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1989年(平成元) 作家生活全体の功績に対して、第37回菊池寛賞を受賞する
・1994年(平成6) 朝日賞受賞、第10回東京都文化賞を受賞する
・1995年(平成7) 紫綬褒章を受章する
・1997年(平成9)1月26日 東京において、69歳で亡くなる
・1997年(平成9) 鶴岡市特別顕彰、山形県県民栄誉賞を受賞する
・2010年(平成22)4月29日 出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

2006年(平成18)重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細


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