ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:菊池寛賞

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 今日は、昭和時代後期の1979年(昭和54)に、漫画家近藤日出造の亡くなった日です。
 近藤日出造(こんどう ひでぞう)は、明治時代後期の1908年(明治41)2月15日に、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれましたが、本名は秀蔵と書きました。1921年(大正10)に、稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業したものの、半年後に退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就職します。
 1922年(大正11)に仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事、この間に、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受けました。1928年(昭和3)に再度上京、紹介者を得て岡本一平の門下生となり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表します。
 1929年(昭和4)に、九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書き、近藤日出造のペンネームを使用するようになり、1932年(昭和7)に岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成、翌年には、読売新聞社に嘱託として入社、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行しました。1936年(昭和11)に「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、ストーリー漫画「ミスパン子」が収録され、1938年(昭和13)には、満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなります。
 1940年(昭和15)に「新日本漫画家協会」を設立、「漫画」の編集にたずさわり、翌年に「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたり、1943年(昭和18)には、海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、翌年には、月刊誌「漫画」の責任編集者として復帰、表紙画を描きます。
 1947年(昭和22)に、読売新聞社に復職、1948年(昭和23)には、戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位を固めました。1955年(昭和30)に第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となり、1956年(昭和31)には、日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼びます。
 1964年(昭和39)に日本漫画家協会初代理事長に就任、1965年(昭和40)には、東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設しました。1974年(昭和49)に紫授褒章を受章、1975年(昭和50)には、「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章します。
 1976年(昭和51)に脳卒中で倒れて入院、療養生活を送り、1977年(昭和52)には、読売新聞社を退職しました。漫画の質的向上、漫画家の地位向上のために活躍しましたが、1979年(昭和54)3月23日に、東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなっています。
 尚、1990年(平成2)に故郷の長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示されるようになりました。

〇近藤日出造の主要な著作

<漫画>
・矢部友衛共著『漫画研究資料講座 第2輯 漫画デツサン論』(1935年)
・『家庭科学漫画』(1942年)
・『にっぽん人物画』 正・続(1964年)
・『人の顔はなにを語るか』(1970年)

<エッセイ・コラム>
・共著 東京産業報国会編『模範産業戦士訪問記』(1943年)
・『日出造膝栗毛』(1954年)
・『やァこんにちわ』第1‐2集(1954年)
・『絵のない漫画』(1956年)
・『海道うらばなし』(1958年)
・編『わが青春の懺悔録』(1958年)
・杉浦幸雄共著『この道ばかりは』(1960年)
・『孫子の兵法』(1962)
・『金 欲の皮の人間学』(1963年)

<小説>
・『恐妻会』(1955)

☆近藤日出造関係略年表

・1908年(明治41)2月15日 長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれる
・1914年(大正3) 稲荷山尋常高等小学校に入学する
・1921年(大正10) 稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業、半年後に三越を退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就業する
・1922年(大正11) 仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事。この間、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受ける
・1928年(昭和3) 母方の叔父・宮沢治平を頼って再度上京。紹介者を得て岡本一平の門下生となり、師の指導を受けながら「一平全集」全15巻(先進社)発行の準備にたずさわり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表する
・1929年(昭和4) 九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書く、「東京パック」3月号より「近藤日出造」のペンネームを使用、創刊された「月刊マンガマン」に数多くの作品を寄稿する
・1932年(昭和7) 岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成する
・1933年(昭和8) 読売新聞社に嘱託として入社、横山隆一の妹・英と結婚、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行する
・1936年(昭和11) 「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、最初にして最後のストーリー漫画「ミスパン子」(講談社「婦人倶楽部」連載)が収録される
・1938年(昭和13) 満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなる
・1940年(昭和15) 「新日本漫画家協会」を設立、設立委員として、機関誌、月刊・“眼で見る時局誌”「漫画」の編集にたずさわる
・1942年(昭和17) 執筆、出版事情が悪化する中、「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたる
・1943年(昭和18) 海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加する
・1945年(昭和20) 応召(九州・熊本県)、終戦で妻子の疎開先の上田市に復員後上京し、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、再発足のため仲間を集う
・1946年(昭和21) 月刊誌「漫画」1月号より責任編集者として復帰、表紙画を描く
・1947年(昭和22) 読売新聞社に復職、10月16日号より執筆を開始する
・1948年(昭和23) 戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位をかためる
・1951年(昭和26) サンフランシスコ対日講和会議取材に読売新聞社より派遣され、会議終了後、米国各地を取材旅行する
・1953年(昭和28) 「週刊読売」誌上に、各界第一人者との対談記事「やァこんにちわ、日出造見参」がスタートする
・1954年(昭和29) 文化人訪中団の一員として視察旅行へ行き、郭沫若ほか中国要人と会見する
・1955年(昭和30) 第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となる
・1956年(昭和31) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼ぶ
・1957年(昭和32) 流感がもとで肺炎、心臓病を併発し、東京・聖路加病院、東大病院に入院加療する
・1958年(昭和33) 東大病院を退院し、那須高原にて静養する
・1959年(昭和34) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」を改題した「春夏秋冬」に、ホストとして出演する
・1960年(昭和35) 五輪ローマ大会取材のためイタリアに渡る
・1964年(昭和39) 日本漫画家協会初代理事長に就任する
・1965年(昭和40) 東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設する
・1970年(昭和45) 日本万国博覧会(大阪)に漫画集団として参加、「自由新報」に「日本安全運転」の連載を開始する
・1972年(昭和47) 月刊「漫画」復刊にたずさわった樋口信と共に、株式会社漫画社を設立、社主として就任、東京銀座・松屋にて、横山隆一、杉浦幸雄と共に「漫画御三家展」を開催する
・1973年(昭和48) 東京・大丸にて「顔・近藤日出造が描く一五〇人展」を開催する
・1974年(昭和49) 全国の原子力発電所取材記事を読売新聞に連載、紫授褒章を受章する
・1975年(昭和50) 「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章する
・1976年(昭和51) 脳卒中で意識を失い、慈恵医大病院に入院、小康を得て中伊豆温泉病院にて療養生活を送る
・1977年(昭和52) 東京・武蔵野療園病院に転院、読売新聞社を退職する
・1978年(昭和53) 妻・英がくも膜下出血により急逝する
・1979年(昭和54)3月23日 東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなる
・1990年(平成2) 長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1238年(暦仁元)僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日)詳細
1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の生まれた日です。
 渡辺淳一(わたなべ じゅんいち)は、北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれました。父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住、札幌第一中学校、札幌南高等学校を経て、1952年(昭和27)に北海道大学理類に入学しましたが、1954年(昭和29)には、札幌医科大学医学部に進学しています。
 同年に、処女作『イタンキ浜にて』を発表、1957年(昭和32)には、同人雑誌「凍檣」に参加しました。1958年(昭和35)に札幌医科大学医学部を卒業、翌年には、整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し、テレビ放映されます。
 1964年(昭和39)に札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考され、1965年(昭和40)には、『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞しました。1966年(昭和41)に札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、前年の『死化粧』が第54回芥川賞候補となり、1967年(昭和42)に『霙』が第57回直木賞候補、1968年(昭和43)には、『訪れ』が第58回芥川賞候補となります。
 1969年(昭和44)に札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京、1970年(昭和45)には、総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞しました。1980年(昭和55)に『遠き落日』、『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞、1984年(昭和59)の『化身』発表後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、1986年(昭和61)の『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞します。
 1995年(平成7)に「日本経済新聞」に『失楽園』を連載、1997年(平成9)には、映画化・テレビドラマ化されて一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞しました。1998年(平成10)に「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成して一般公開され、2003年(平成15)に紫綬褒章受章、第51回菊池寛賞受賞、2007年(平成19)には、エッセー『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられます。
 医学小説、伝記、男女の愛と性をえがく恋愛小説と幅ひろく執筆してきましたが、2014年(平成26)4月30日に、東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。

〇渡辺淳一の主要な著作

・『死化粧』(1965年)第12回新潮同人雑誌賞受賞、第54回芥川賞候補
・『霙』(1967年)第57回直木賞候補
・『訪れ』(1968年)第58回芥川賞候補
・『光と影』(1970年)第63回直木賞受賞
・『花埋(はなうず)み』(1970年)
・『リラ冷えの街』(1971年)
・『野分け』(1972年)
・『冬の花火』(1975年)
・『女優』(1977年)
・『峰の記憶』(1978年)
・『白き旅立ち』(1979年)
・『流氷への旅』(1980年)
・『遠き落日』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『長崎ロシア遊女館』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『化粧』(1982年)
・『ひとひらの雪』(1983年)
・『化身(けしん)』(1986年)
・『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』(1986年)文藝春秋読者賞受賞
・『うたかた』(1990年)
・『失楽園』(1995年)
・『愛の流刑地』(2006年)

☆渡辺淳一関係略年表

・1933年(昭和8)10月24日 北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれる
・1946年(昭和21) 札幌第一中学校入学する
・1950年(昭和25) 札幌南高等学校へ入学する
・1952年(昭和27) 北海道大学理類に入学する
・1954年(昭和29) 札幌医科大学医学部に入学、処女作『イタンキ浜にて』を発表する
・1957年(昭和32) 同人雑誌「凍檣」に参加する
・1958年(昭和35) 札幌医科大学医学部を卒業する
・1959年(昭和34) 整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し,テレビ放映される
・1964年(昭和39) 札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考される
・1965年(昭和40) 『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞する
・1966年(昭和41) 札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、『死化粧』が第54回芥川賞候補となる
・1967年(昭和42) 『霙』が第57回直木賞候補となる
・1968年(昭和43) 『訪れ』が第58回芥川賞候補となる
・1969年(昭和44) 札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京する
・1970年(昭和45) 総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『リラ冷えの街』が刊行され、“リラ冷え”が季語として定着する
・1972年(昭和47) 『野分け』『氷紋』を発表する
・1974年(昭和49) 『白き旅立ち』『まひる野』を発表する
・1977年(昭和52) 『女優』を発表する
・1979年(昭和54) 『くれなゐ』を発表する
・1980年(昭和55)『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞する
・1982年(昭和57)『化粧』を発表する
・1983年(昭和58)『ひとひらの雪』刊行後、“ひとひら族”という造語が生まれる。
・1984年(昭和59)『化身』を発表する
・1986年(昭和61) 『化身』刊行後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞、『別れぬ理由』を発表する
・1987年(昭和62) 『桜の樹の下で』を発表する
・1988年(昭和63) 『メトレス 愛人』『男というもの』を発表する
・1990年(平成2) 『うたかた』刊行後、“うたかた族”という造語が生まれる
・1993年(平成5) 『春の別れ』を発表。
・1995年(平成7) 「日本経済新聞」に『失楽園』を連載する
・1997年(平成9) 『失楽園』が映画化・テレビドラマ化され、一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞する
・1998年(平成10) 「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成し、一般公開される
・2003年(平成15) 紫綬褒章を受章、第51回菊池寛賞を受賞する
・2006年(平成18) 『愛の流刑地』を刊行する
・2007年(平成19) 『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられる
・2008年(平成20) 『熟年革命』を刊行する
・2009年(平成21) 『欲情の作法』刊行 発売1週間で23万部を突破する
・2010年(平成22) 『幸せ上手』を刊行する、『孤舟』を刊行する
・2011年(平成23) 『天上紅蓮』を刊行する
・2013年(平成25)『愛ふたたび』を刊行する
・2014年(平成26)4月30日 東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・2015年(平成27) 集英社が文学賞「渡辺淳一文学賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
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 今日は、平成時代の2013年(平成25)に、小説家山崎豊子の亡くなった日です。
 山崎豊子(やまさき とよこ)は、大正時代の1924年(大正13)1月2日に、大阪市南区横堀において、老舗の昆布商「小倉屋昆布」を営む父・山本菊蔵、母・ますの長女として生まれました。相愛高等女学校(現在の相愛中学校・高等学校)を経て、京都女子専門学校(現在の京都女子大学)国文学科に進学し、1944年(昭和19)に卒業後、毎日新聞社大阪本社に入社して、調査部に配属されます。
 1945年(昭和20)に毎日新聞学芸部に転属、当時の学芸部長は井上靖で、強い影響を受け、1957年(昭和32)には、生家の昆布屋をモデルに、10年掛かりで書き上げた『暖簾』を刊行し、作家デビューを果しました。1958年(昭和33)に『花のれん』により第39回直木賞を受賞、『船場狂い』『死亡記事』など、大阪が舞台の小説を続々発表、本格的に作家生活に入るため、毎日新聞社を退社します。
 1959年(昭和34)に『ぼんち』の連載開始、この作品で大阪府芸術賞を受賞、1961年(昭和36)には、『女の勲章』の舞台を訪ねてフランスを始めヨーロッパの各国を回り、毎日新聞学芸部記者・杉本亀久雄と結婚しました。1962年(昭和37)にインフルエンザ肺炎で倒れ、半年間病気療養しながら執筆活動を続け、1963年(昭和38)には、『花紋』で第2回婦人公論読者賞を受賞、『白い巨塔』の「サンデー毎日」への連載を開始します。
 1964年(昭和39)にオスローで開催された国際ペンクラブ大会に川端康成、平林たい子と共に出席、1966年(昭和41)には、『白い巨塔』が映画化され、大ヒットしました。1968年(昭和43)に『花宴』で第6回婦人公論読者賞を受賞(後に、盗作問題で賞を返上)、1969年(昭和44)には、『華麗なる一族』の執筆取材のため、都市銀行や大蔵省、金融専門家に取材します。
 1973年(昭和48)には、『不毛地帯』執筆のため、シベリア、ハバロフスク、イルクーツクの日本人捕虜収容所、さらにテヘランの油田地帯に取材しました。1978年(昭和53)にハワイ州立大学へ客員教授として招聘され、1年間『ぼんち』をテキストに「上方文化」を講義、1979年(昭和54)には、『二つの祖国』執筆のため、ハワイ大学図書館、カリフォルニア大学図書館に出向き、資料収集します。
 1984年(昭和59)に『大地の子』執筆取材のため中国に渡り、胡耀邦総書記と対面し、1990年(平成2)に『大地の子』で、第52回文藝春秋読者賞、翌年には、第39回菊池寛賞を受賞しました。1993年(平成5)に『大地の子』の印税などを基にに「山崎豊子文化財団」を設立し、日本に帰国した中国残留孤児の学資援助などを行い、1995年(平成7)には、『沈まぬ太陽』の連載を開始、『大地の子』がNHKでテレビドラマ化されます。
 2009年(平成21)には、『運命の人』で第63回毎日出版文化賞特別賞を受賞しましたが、2013年(平成25)9月29日に、大阪府堺市において、呼吸不全により、89歳で亡くなりました。

〇山崎豊子の主要な著作

・『暖簾(のれん)』(1957年)
・『花のれん』(1958年)第39回直木賞受賞
・『しぶちん』(1958年)
・『ぼんち』(1959年)大阪府芸術賞受賞
・『女の勲章』(1960~61年)
・『女系家族』(1962~63年)
・『花紋(かもん)』(1962~64年)第2回婦人公論読者賞受賞
・『白い巨塔』(1963~65年)
・『続白い巨塔』(1967~68年)
・『華麗なる一族』(1973年)
・『不毛地帯』(1976~78年)
・『二つの祖国』(1980~83年)
・『大地の子』(1987~1991年)第52回文藝春秋読者賞、第39回菊池寛賞受賞
・『沈まぬ太陽』(1995~98年)
・『運命の人』(2009年)第63回毎日出版文化賞特別賞受賞
・『約束の海』(2013年)遺作

☆山崎豊子関係略年表

・1924年(大正13)1月2日 大阪市南区横堀において、老舗の昆布商「小倉屋昆布」を営む父・山本菊蔵、母・ますの長女として生まれる
・1936年(昭和11) 旧制大阪市芦池尋常小学校(現在の大阪市立南小学校)を卒業する
・1941年(昭和16) 相愛高等女学校(現在の相愛中学校・高等学校)を卒業する。同窓生には随筆家、岡部伊都子、バイロオリニストの辻久子がいた。
・1944年(昭和19) 京都女子専門学校(現在の京都女子大学)国文学科を卒業、毎日新聞社大阪本社に入社して、調査部に配属される
・1945年(昭和20) 毎日新聞学芸部に転属、当時の学芸部長は井上靖で、強い影響を受ける
・1957年(昭和32) 生家の昆布屋をモデルに、10年掛かりで書き上げた『暖簾』を刊行して作家デビューを果たす
・1958年(昭和33) 『花のれん』により第39回直木賞を受賞、『船場狂い』『死亡記事』など、大阪が舞台の小説を続々発表、本格的に作家生活にはいるため、毎日新聞社を退社する
・1959年(昭和34) 『ぼんち』の連載開始、大阪府芸術賞を受賞する
・1961年(昭和36) 『女の勲章』の舞台を訪ねてフランスを始めヨーロッパの各国を回り、毎日新聞学芸部記者・杉本亀久雄と結婚する
・1962年(昭和37) インフルエンザ肺炎で倒れ、半年間病気療養しながら執筆活動を続ける
・1963年(昭和38) 『花紋』にて第2回婦人公論読者賞を受賞、『白い巨塔』の「サンデー毎日」への連載を開始する
・1964年(昭和39) オスローで開催された国際ペンクラブ大会に川端康成、平林たい子と共に出席する
・1966年(昭和41) 『白い巨塔』が映画化される
・1968年(昭和43) 『花宴』で第6回婦人公論読者賞を受賞する(後に、盗作問題で賞を返上)
・1969年(昭和44) 『華麗なる一族』の執筆取材のため、都市銀行や大蔵省、金融専門家に取材する
・1973年(昭和48) 『不毛地帯』執筆のため、シベリア、ハバロフスク、イルクーツクの日本人捕虜収容所、さらにテヘランの油田地帯に取材する
・1978年(昭和53) ハワイ州立大学へ客員教授として招聘され、1年間『ぼんち』をテキストに「上方文化」を講義する
・1979年(昭和54) 『二つの祖国』執筆のため、ハワイ大学図書館、カリフォルニア大学図書館に出向き、資料収集する
・1984年(昭和59) 『大地の子』執筆取材のため中国に渡り、胡耀邦総書記と対面する
・1990年(平成2) 『大地の子』で、第52回文藝春秋読者賞を受賞する
・1991年(平成3) 『大地の子』で、第39回菊池寛賞を受賞する
・1993年(平成5) 『大地の子』の印税などを基にに「山崎豊子文化財団」を設立し、日本に帰国した中国残留孤児の学資援助などを行う
・1995年(平成7) 『沈まぬ太陽』の連載を開始、『大地の子』がNHKでテレビドラマ化される
・1997年(平成9) 北京日本人学校で創立20周年記念講演を行う
・2009年(平成21) 『運命の人』で第63回毎日出版文化賞特別賞を受賞する
・2013年(平成25)9月29日 大阪府堺市において、呼吸不全により、89歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

747年(天平19)東大寺大仏の鋳造が開始される(新暦11月6日)詳細
930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
949年(天暦3)第57代の天皇とされる陽成天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1879年(明治12)「学制」が廃止され、「教育令」が制定される詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1979年(昭和54)に、フランス文学者・文芸評論家中島健蔵が亡くなった日です。
 中島健蔵(なかじま けんぞう)は、明治時代後期の1903年(明治36)2月21日に、東京・麴町において、東京専門学校(後の早稲田大学)で講師を務めた父・中島泰蔵の長男として生まれました。東京高師附属中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、1925年(大正14)に、東京帝国大学文学部仏文科へ入学します。
 1926年(大正15)に今日出海と「仏蘭西文学研究」を創刊、1928年(昭和3)には、東京帝国大学文学部仏文科を卒業し、副手として研究室に残りました。1931年(昭和6)に「作品」の同人となり、バレリーの『ヴアリエテ』などを訳載、文芸時評ほかを書き、1933年(昭和8)には、東京帝国大学文学部助手に昇格します。
 1934年(昭和9)に、辰野隆や鈴木信太郎の世話で東京帝国大学文学部臨時講師となり、最初の評論集『懐疑と象徴』を刊行しました。太平洋戦争中の1942年(昭和17)に、陸軍に徴用されたためマライ派遣軍の一員の陸軍報道班員としてシンガポールに赴き、年末に帰国します。
 戦後は、1945年(昭和20)に日本文芸家協会を再建し、理事に就任(~1974年)、翌年には、日本著作家組合を創設し、書記長となり、野上彰の「火の会」にも参加しました。1948年(昭和23)に福田陸太郎、太田三郎とともに日本比較文学会を結成、初代会長となり、1951年~52年(昭和26~27)には、伊藤整のチャタレー裁判で特別弁護人として出廷し、言論の自由を擁護します。
 1954年(昭和29)に著作権保護への貢献によって、第2回菊池寛賞を受賞、1955年(昭和30)に新日本文学会幹事会議長(~1961年)となり、1956年(昭和31)には、日中文化交流協会を結成して理事長となりました。1959年(昭和34)に安保批判の会に参加、1960年(昭和35)に東京大学仏文大学院講師となりましたが、1962年(昭和37)には東京大学を辞職しています。
 1977年(昭和52)に『回想の文学』で、第30回野間文芸賞を受賞、1978年(昭和53)に『新聞収録大正史』(大正出版)を監修したものの、1979年(昭和54)6月11日に、東京都中野区において、76歳で亡くなりました。 

〇中島健蔵の主要な著作

・評論集『懐疑と象徴』(1934年)
・『現代文芸論』(1936年)
・『現代作家論』(1941年)
・『文芸学試論』(1942年)
・『アンドレ・ジード』(1949年)
・『昭和時代』(1957年)
・自伝小説『自画像』(1963~66年)
・『現代文化論』(1966年)
・『音楽とわたくし』(1971~73年)
・『回想の文学』全五巻(1977年)第30回野間文芸賞受賞
・『回想の戦後文学』(1979年)

☆中島健蔵関係略年表

・1903年(明治36)2月21日 東京・麴町において、東京専門学校(後の早稲田大学)で講師を務めた父・中島泰蔵の長男として生まれる
・1909年(明治42) 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学する
・1914年(大正3) 父宛に贈られた親類前田夕暮(泰蔵の姪を妻に持つ)の第三歌集『生くる日に』を読んで感銘を受け、短歌を創作する
・1919年(大正8) 父・中島泰蔵を結核で亡くす
・1920年(大正9) 東京高師附属中学校を卒業し、補習科に通う
・1921年(大正10) 旧制松本高等学校文科乙類へ入学する
・1925年(大正14) 旧制松本高等学校文科乙類を卒業し、東京帝国大学文学部仏文科へ入学する
・1926年(大正15) 今日出海と「仏蘭西文学研究」を創刊する
・1928年(昭和3) 東京帝国大学文学部仏文科を卒業し、副手として研究室に残る
・1931年(昭和6) 「作品」の同人となり、バレリーの『ヴアリエテ』などを訳載、文芸時評ほかを書く
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部助手に昇格する
・1934年(昭和9) 辰野隆や鈴木信太郎の世話で東京帝国大学文学部臨時講師となり、最初の評論集『懐疑と象徴』を刊行する
・1935年(昭和10) 東大仏文の研究室にて太宰治と檀一雄の訪問を受ける
・1942年(昭和17) 陸軍報道班員としてシンガポールに赴く
・1945年(昭和20) 日本文芸家協会を再建し、理事に就任(~1974年)する
・1946年(昭和21) 日本著作家組合を創設し、書記長となり、野上彰の「火の会」に参加する
・1948年(昭和23) 福田陸太郎、太田三郎とともに日本比較文学会を結成、初代会長となる
・1951年~52年(昭和26~27) 伊藤整のチャタレー裁判で特別弁護人として出廷し、言論の自由を擁護する
・1954年(昭和29) 著作権保護への貢献によって、第2回菊池寛賞を受賞する
・1955年(昭和30) 新日本文学会幹事会議長(~1961年)となる
・1956年(昭和31) 日中文化交流協会を結成して理事長となる
・1959年(昭和34) 安保批判の会に参加する
・1960年(昭和35) 東京大学仏文大学院講師となる
・1962年(昭和37) 東京大学を辞職する
・1977年(昭和52) 『回想の文学』で、第30回野間文芸賞を受賞する
・1978年(昭和53) 『新聞収録大正史』(大正出版)を監修する
・1979年(昭和54)6月11日 東京都中野区において、76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(慶長20)武将・大名・茶人・織部流茶道の祖古田重然(織部)が豊臣方内通の罪に問われ自刃する(新暦7月6日)詳細
1873年(明治6)「国立銀行条例」に基づき、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)が設立される(国立銀行設立の日)詳細
1942年(昭和17)関門トンネルが開通し、最初の試運転列車が通過する詳細
1951年(昭和26)「産業教育振興法」が公布される詳細
1969年(昭和44)「東京国立近代美術館」(現在の本館)が開館する詳細
1975年(昭和50)考古学者宮坂英弌の命日詳細
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 今日は、平成時代の2017年(平成29)に、詩人・評論家大岡信の亡くなった日です。
 大岡信(おおおか まこと)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)2月16日に、静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれました。静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)、旧制第一高等学校を経て、1950年(昭和25)に、東京大学文科に入学します。
 在学中に、日野啓三、佐野洋らと『現代文学』を創刊し、1953年(昭和28)に文学部国文科を卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属されました。1954年(昭和29)に、谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加、1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行します。
 1963年(昭和38)に読売新聞社を退職、翌年には、明治大学助教授となり、1969年(昭和44)には、評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞しました。1970年(昭和45)に明治大学教授に昇任、この頃から連句(連詩)をはじめ、1972年(昭和47)には、評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞、翌年には、『折々のうた』で菊池寛賞を受賞しました。1987年(昭和62)に明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任、1989年(平成元)には、日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞します。
 1990年(平成2)に『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1993年(平成5)には、『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞めました。1994年(平成6)に第51回恩賜賞・日本芸術院賞、1995年(平成7)に日本芸術院会員、1996年(平成8)に朝日賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞、1997年(平成9)には文化功労者となるなど、数々の栄誉に輝きます。
 さらに、2002年(平成14)に国際交流基金賞、2003年(平成15)に文化勲章、2004年(平成16)にフランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエ受章と続きました。2007年(平成19)に「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了、2009年(平成21)に静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館するなどしたものの、2017年(平成29)4月5日に、静岡県三島市において、呼吸不全のため86歳で亡くなっています。

〇大岡信の主要な著作

・詩集『記憶と現在』(1956年)
・評論『超現実と抒情(じょじょう)』(1965年)
・評論『蕩児(とうじ)の家系』(1969年)藤村記念歴程賞受賞
・評論『紀貫之』(1971年)読売文学賞受賞
・詩集『春 少女に』(1979年)無限賞受賞
・詩集『故郷の水へのメッセージ』(1989年)第7回現代詩花椿賞受賞
・評論『詩人・菅原道真』(1989年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・詩集『地上楽園の午後』(1993年)詩歌文学館賞受賞
・随筆『折々のうた』(1979~2007年)菊池寛賞受賞

☆大岡信関係略年表

・1931年(昭和6)2月16日 静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれる
・1943年(昭和18) 静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)に入学する
・1947年(昭和22) 沼津中学4年から旧制第一高等学校文科丙類に入学する
・1950年(昭和25) 東京大学文科に入学する
・1953年(昭和28) 東京大学卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属される
・1954年(昭和29) 谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加する
・1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行する
・1959年(昭和34) 「フォートリエ展」カタログ作成に協力する
・1962年(昭和37) 武満徹の管弦楽曲のために「環礁」を書き下ろす
・1963年(昭和38) 読売新聞社を退職する
・1965年(昭和40) 明治大学助教授となる
・1969年(昭和44) 評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞する
・1970年(昭和45) 明治大学教授となり、この頃から連句(連詩)をはじめる
・1972年(昭和47) 評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞する
・1979年(昭和54) 「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『折々のうた』で菊池寛賞を受賞する
・1987年(昭和62) 明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任する
・1989年(平成元) 日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞する
・1990年(平成2) 『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1993年(平成5) 『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞める
・1994年(平成6) 第51回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞する
・1995年(平成7) 日本芸術院会員となる
・1996年(平成8) 朝日賞を受賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞を受賞する
・1997年(平成9) 文化功労者となる
・2002年(平成14) ことばと文学による国際文化交流と相互理解に多大な貢献をしたとして、国際交流基金賞を受賞する
・2003年(平成15) 文化勲章を受章する
・2004年(平成16) フランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章する
・2007年(平成19) 「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了する
・2009年(平成21) 静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館する
・2017年(平成29)4月5日 静岡県三島市において、呼吸不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1880年(明治13)「集会条例」(明治13年太政官布告第12号)が公布される詳細
1939年(昭和14)「映画法」が公布され、脚本の事前検閲、外国映画の上映制限などが決まる詳細
1964年(昭和39)詩人・翻訳家三好達治の命日(達治忌)詳細
1984年(昭和59)染色工芸家芹沢銈介の命日詳細
1998年(平成10)明石海峡大橋が開通する詳細
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