
近藤日出造(こんどう ひでぞう)は、明治時代後期の1908年(明治41)2月15日に、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれましたが、本名は秀蔵と書きました。1921年(大正10)に、稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業したものの、半年後に退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就職します。
1922年(大正11)に仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事、この間に、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受けました。1928年(昭和3)に再度上京、紹介者を得て岡本一平の門下生となり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表します。
1929年(昭和4)に、九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書き、近藤日出造のペンネームを使用するようになり、1932年(昭和7)に岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成、翌年には、読売新聞社に嘱託として入社、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行しました。1936年(昭和11)に「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、ストーリー漫画「ミスパン子」が収録され、1938年(昭和13)には、満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなります。
1940年(昭和15)に「新日本漫画家協会」を設立、「漫画」の編集にたずさわり、翌年に「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたり、1943年(昭和18)には、海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、翌年には、月刊誌「漫画」の責任編集者として復帰、表紙画を描きます。
1947年(昭和22)に、読売新聞社に復職、1948年(昭和23)には、戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位を固めました。1955年(昭和30)に第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となり、1956年(昭和31)には、日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼びます。
1964年(昭和39)に日本漫画家協会初代理事長に就任、1965年(昭和40)には、東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設しました。1974年(昭和49)に紫授褒章を受章、1975年(昭和50)には、「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章します。
1976年(昭和51)に脳卒中で倒れて入院、療養生活を送り、1977年(昭和52)には、読売新聞社を退職しました。漫画の質的向上、漫画家の地位向上のために活躍しましたが、1979年(昭和54)3月23日に、東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなっています。
尚、1990年(平成2)に故郷の長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示されるようになりました。
1922年(大正11)に仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事、この間に、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受けました。1928年(昭和3)に再度上京、紹介者を得て岡本一平の門下生となり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表します。
1929年(昭和4)に、九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書き、近藤日出造のペンネームを使用するようになり、1932年(昭和7)に岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成、翌年には、読売新聞社に嘱託として入社、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行しました。1936年(昭和11)に「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、ストーリー漫画「ミスパン子」が収録され、1938年(昭和13)には、満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなります。
1940年(昭和15)に「新日本漫画家協会」を設立、「漫画」の編集にたずさわり、翌年に「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたり、1943年(昭和18)には、海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、翌年には、月刊誌「漫画」の責任編集者として復帰、表紙画を描きます。
1947年(昭和22)に、読売新聞社に復職、1948年(昭和23)には、戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位を固めました。1955年(昭和30)に第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となり、1956年(昭和31)には、日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼びます。
1964年(昭和39)に日本漫画家協会初代理事長に就任、1965年(昭和40)には、東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設しました。1974年(昭和49)に紫授褒章を受章、1975年(昭和50)には、「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章します。
1976年(昭和51)に脳卒中で倒れて入院、療養生活を送り、1977年(昭和52)には、読売新聞社を退職しました。漫画の質的向上、漫画家の地位向上のために活躍しましたが、1979年(昭和54)3月23日に、東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなっています。
尚、1990年(平成2)に故郷の長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示されるようになりました。
〇近藤日出造の主要な著作
<漫画>
・矢部友衛共著『漫画研究資料講座 第2輯 漫画デツサン論』(1935年)
・『家庭科学漫画』(1942年)
・『にっぽん人物画』 正・続(1964年)
・『人の顔はなにを語るか』(1970年)
<エッセイ・コラム>
・共著 東京産業報国会編『模範産業戦士訪問記』(1943年)
・『日出造膝栗毛』(1954年)
・『やァこんにちわ』第1‐2集(1954年)
・『絵のない漫画』(1956年)
・『海道うらばなし』(1958年)
・編『わが青春の懺悔録』(1958年)
・杉浦幸雄共著『この道ばかりは』(1960年)
・『孫子の兵法』(1962)
・『金 欲の皮の人間学』(1963年)
<小説>
・『恐妻会』(1955)
☆近藤日出造関係略年表
・1908年(明治41)2月15日 長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれる
・1914年(大正3) 稲荷山尋常高等小学校に入学する
・1921年(大正10) 稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業、半年後に三越を退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就業する
・1922年(大正11) 仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事。この間、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受ける
・1928年(昭和3) 母方の叔父・宮沢治平を頼って再度上京。紹介者を得て岡本一平の門下生となり、師の指導を受けながら「一平全集」全15巻(先進社)発行の準備にたずさわり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表する
・1929年(昭和4) 九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書く、「東京パック」3月号より「近藤日出造」のペンネームを使用、創刊された「月刊マンガマン」に数多くの作品を寄稿する
・1932年(昭和7) 岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成する
・1933年(昭和8) 読売新聞社に嘱託として入社、横山隆一の妹・英と結婚、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行する
・1936年(昭和11) 「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、最初にして最後のストーリー漫画「ミスパン子」(講談社「婦人倶楽部」連載)が収録される
・1938年(昭和13) 満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなる
・1940年(昭和15) 「新日本漫画家協会」を設立、設立委員として、機関誌、月刊・“眼で見る時局誌”「漫画」の編集にたずさわる
・1942年(昭和17) 執筆、出版事情が悪化する中、「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたる
・1943年(昭和18) 海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加する
・1945年(昭和20) 応召(九州・熊本県)、終戦で妻子の疎開先の上田市に復員後上京し、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、再発足のため仲間を集う
・1946年(昭和21) 月刊誌「漫画」1月号より責任編集者として復帰、表紙画を描く
・1947年(昭和22) 読売新聞社に復職、10月16日号より執筆を開始する
・1948年(昭和23) 戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位をかためる
・1951年(昭和26) サンフランシスコ対日講和会議取材に読売新聞社より派遣され、会議終了後、米国各地を取材旅行する
・1953年(昭和28) 「週刊読売」誌上に、各界第一人者との対談記事「やァこんにちわ、日出造見参」がスタートする
・1954年(昭和29) 文化人訪中団の一員として視察旅行へ行き、郭沫若ほか中国要人と会見する
・1955年(昭和30) 第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となる
・1956年(昭和31) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼ぶ
・1957年(昭和32) 流感がもとで肺炎、心臓病を併発し、東京・聖路加病院、東大病院に入院加療する
・1958年(昭和33) 東大病院を退院し、那須高原にて静養する
・1959年(昭和34) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」を改題した「春夏秋冬」に、ホストとして出演する
・1960年(昭和35) 五輪ローマ大会取材のためイタリアに渡る
・1964年(昭和39) 日本漫画家協会初代理事長に就任する
・1965年(昭和40) 東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設する
・1970年(昭和45) 日本万国博覧会(大阪)に漫画集団として参加、「自由新報」に「日本安全運転」の連載を開始する
・1972年(昭和47) 月刊「漫画」復刊にたずさわった樋口信と共に、株式会社漫画社を設立、社主として就任、東京銀座・松屋にて、横山隆一、杉浦幸雄と共に「漫画御三家展」を開催する
・1973年(昭和48) 東京・大丸にて「顔・近藤日出造が描く一五〇人展」を開催する
・1974年(昭和49) 全国の原子力発電所取材記事を読売新聞に連載、紫授褒章を受章する
・1975年(昭和50) 「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章する
・1976年(昭和51) 脳卒中で意識を失い、慈恵医大病院に入院、小康を得て中伊豆温泉病院にて療養生活を送る
・1977年(昭和52) 東京・武蔵野療園病院に転院、読売新聞社を退職する
・1978年(昭和53) 妻・英がくも膜下出血により急逝する
・1979年(昭和54)3月23日 東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなる
・1990年(平成2) 長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1238年(暦仁元) | 僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日) | 詳細 |
1883年(明治16) | 陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日 | 詳細 |
1898年(明治31) | 東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する | 詳細 |
1945年(昭和20) | 小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する | 詳細 |
1950年(昭和25) | 世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー) | 詳細 |
1981年(昭和56) | 国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する | 詳細 |