ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:菅原道真

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 今日は、平安時代前期の901年(延喜元)に、菅原道真が左遷され、大宰府へ向け京を出発した日ですが、新暦では2月16日となります。
 菅原道真(すがわら の みちざね)は、平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12年6月25日)に、参議・菅原是善の3男として生まれ、幼少の頃より詩歌に才能があったと言われてきました。
 862年(貞観4年)に式部省試を受けて及第し、数え年18歳で文章生となり、867年(貞観9年)には、文章得業生となり、正六位下に叙され、下野権少掾に任ぜらます。870年(貞観12年)に対策に及第し、正六位上に叙され、翌年には、玄蕃助に任ぜられ、次に少内記に任ぜられました。
 874年(貞観16年)に従五位下に叙され、ついで兵部少輔に任ぜられ、877年(元慶元)には、式部少輔に任ぜられ、文章博士となります。879年(元慶3年)に従五位上に叙され、藤原基経ら撰進の『文徳実録』の序を草しました。
 宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、893年(寛平5年)に参議に任じ、式部大輔を兼ね、左大弁に転じ、勘解由長官そして春宮亮を兼ね、翌年には、遣唐使に任ぜられたものの建議して、これを中止します。895年(寛平7年)に、近江守を兼ね、紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す、従三位に叙し、中納言に任じ、春宮権大夫を兼ね、896年(寛平8年)には、民部卿を兼ね、長女が入内して女御となりました。
 897年(寛平9年)に権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ね、正三位に叙され、中宮大夫を兼ね、899年(昌泰2年)には、右大臣に任ぜられ、嫡室島田宣来子が従五位下を授かります。しかし、901年(延喜元年)に従二位に叙されるも、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。
 そして、903年(延喜3年2月25日)に、失意のうちに、大宰府において、数え年59歳で亡くなっています。著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがありました。
 尚、923年(延喜23年4月20日)に贈右大臣、正二位、993年(正暦4年5月20日)に正一位左大臣、続いて太政大臣を追贈されています。

〇菅原道真関係略年表(日付は旧暦です)

・845年(承和12年6月25日) 参議・菅原是善の三男として生まれる
・855年(斉衡2年) 初めて詩を詠む
・862年(貞観4年) 式部省試を受け、及第し文章生となる
・867年(貞観9年) 文章得業生となり、正六位下に叙され、下野権少掾に任ぜらる
・870年(貞観12年) 対策に及第し、正六位上に叙さる
・871年(貞観13年) 玄蕃助に任ぜられ、次に少内記に任ぜらる
・872年(貞観14年) 母の喪により解官されるものの、本官に復し渤海国王に答うる勅書を草する
・874年(貞観16年) 従五位下に叙され、ついで兵部少輔に任ぜらる
・877年(元慶元年) 式部少輔に任ぜられ、文章博士となる
・879年(元慶3年) 従五位上に叙され、藤原基経ら撰進の『文徳実録』の序を草す
・883年(元慶7年) 加賀権守を兼ねる
・886年(仁和2年) 讃岐守に任ぜられ、讃岐国へ赴任する
・888年(仁和4年) 阿衡事件につき関白藤原基経に書を呈す
・890年(寛平2年) 春に国司の任が終わって帰京する
・891年(寛平3年) 蔵人頭に補され、式部少輔に任ぜられ、左中弁を兼ねる
・892年(寛平4年) 従四位下に叙され、『三代実録』の撰修にあずかり、左京大夫を兼ねる
・893年(寛平5年) 参議に任じ、式部大輔を兼ね、左大弁に転じ、勘解由長官を兼ね、春宮亮を兼ねる
・894年(寛平6年) 遣唐大使に任ぜらるものの、遣唐使派遣中止を進言し、侍従を兼ねる
・895年(寛平7年) 近江守を兼ね、紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す、従三位に叙し、中納言に任じ、春宮権大夫を兼ねる
・896年(寛平8年) 民部卿を兼ね、長女が入内して女御となる
・897年(寛平9年) 権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ね、正三位に叙され、中宮大夫を兼ねる
・899年(昌泰2年) 右大臣に任ぜられ、嫡室島田宣来子が従五位下を授かる
・900年(昌泰3年) 『菅家文草』、『菅相公集』、『菅家集』を献上する
・901年(延喜元年) 従二位に叙されるも、大宰権帥に左遷され、『三代実録』完成奏上、『延喜格』撰進、『去年今夜』の詩を詠む
・903年(延喜3年) 『菅家後集』を紀長谷雄に贈るが、2月25日に、大宰府にて59歳で亡くなる
・923年(延喜23年4月20日) 贈右大臣、正二位を追贈される
・993年(正暦4年5月20日) 正一位左大臣、続いて太政大臣を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1939年(昭和14)「警防団令」(昭和14年勅令第20号)が公布(施行は同年4月1日)される詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1947年(昭和22)国文学者・作詞家・文学博士高野辰之の命日詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
1960年(昭和35)三井鉱山が三井三池炭鉱をロックアウトし、全山の労組が無期限スト(三井三池争議)に突入する詳細
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 今日は、平安時代前期の894年(寛平6)に、菅原道真の建白により遣唐使の停止が決定した日ですが、新暦では11月1日となります。
 遣唐使は、遣隋使を引き継いで、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣されたのに始まり、260余年間続けられてきました。
 しかし、唐は安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、874年頃から起きた黄巣の乱によりさらに弱体化します。
 そこで、寛平6年(894年)に、遣唐大使となっていた菅原道真により、建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が9月14日に出され、9月30日に停止されることが決まりました。
 その後、道真が左遷されて大使を解かれ、907年(延喜7)には唐が滅亡して、再開されないまま終わりを告げました。
 以下に、菅原道真の建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(全文)を原文・読み下し文・現代語訳で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇菅原道真「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(全文) 894年(寛平6年9月14日)

請令諸公卿議定遣唐使進止状       菅原道眞

右臣某謹案在唐僧中瓘去年三月附商客王訥等所到之録記大唐凋弊載之具矣更告不朝之問終停入唐之人中瓘雖區々之旅僧爲聖朝盡其誠代馬越鳥豈非習性臣等伏撿舊記度々使等或有渡海不堪命者或有遭賊遂亡身者唯未見至唐有難阻飢寒之悲如中瓘所申報未然之事推而可知臣等伏願以中瓘録記之状遍下公卿博士詳被定其可否國之大事不獨爲身且陳欵誠伏請處分謹言

  寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

 『日本古典文学大系72 菅家文草 菅家後集』(岩波書店発行)による

<読み下し文>(読み仮名は、現代かなづかい)

 諸公卿をして遣唐使の進止[1]を議定せしめんことを請ふの状   菅原道真

 右臣某[2]、謹みて在唐の僧中瓘、去年三月[3]、商客[4]王訥等に附して到るところの録記を案ずるに、大唐の凋弊[5]、之を載すること[6]具なり[7]。更に不朝[8]の問を告げ、終に入唐の人を停む[9]。中瓘区々の旅僧[10]たりと雖も、聖朝のためにその誠を尽くす。代馬・越鳥[11]、豈に習性に非ざらんや。臣等、伏して旧記を検するに、度々の使等、或は海を渡りて命に堪えざりし者有り。或は賊に遭ひて遂に身を亡ぼせし者有り。唯だ、未だ唐に至りて難阻飢寒の悲しみ[12]有りしことを見ず。中瓘が申報するところの如くむば、未然の事[13]、推して知るべし。臣等、伏して願はくは、中瓘が録記の状を以て、遍ねく公卿・博士に下し、詳に其の可否を定められむことを。国の大事にして、独り身の為[14]ならず。且く款誠を陳べ[15]、伏して処分を請ふ。謹みて言す。

 寛平六年九月十四日
 大使[16]参議[17]勘解由次官[18]従四位下兼守[19]左大弁[20]行式部権大輔[21]春宮亮[22]菅原朝臣某

【注釈】
 [1]進止:しんじ=進退。存廃。
 [2]臣某:しんそれがし=菅原道真のこと。
 [3]去年三月:さるとしさんがつ=893年(寛平5年3月)のこと。
 [4]商客:しょうきゃく=商人。
 [5]凋弊:ちょうへい=衰えること。
 [6]之を載すること:これをのすること=これを掲載すること。これが書かれていること。
 [7]具なり:つぶさなり=詳しい。具体的である。
 [8]不朝:ふちょう=来朝しないこと。
 [9]入唐の人を停む:にゅうとうのひとをとどむ=遣唐使の派遣を停止すること。
 [10]区々の旅僧:くくのりょそう=取るに足らない旅の僧。
 [11]代馬・越鳥:だいばえつちょう=代(地方名)に産する馬と越(国名)の鳥をいい、馬や鳥でも故郷を忘れがたいこと。
 [12]難阻飢寒の悲しみ:なんそきかんのかなしみ=旅の困難や飢えや寒さによる悲哀。
 [13]未然の事:みぜんのこと=将来のこと。
 [14]独り身の為:ひとりみのため=遣唐大使に選ばれている自身のため。
 [15]款誠を陳べ:かんせいをのべ=誠心を述べる。
 [16]大使:たいし=遣唐大使のこと。
 [17]参議:さんぎ=大臣・納言とともに国政を審議する官。
 [18]勘解由次官:かげゆのすけ=勘解由使局の次官。
 [19]守:かみ=官は高いが位の低い場合に記すもの。
 [20]左大弁:さだいべん=太政官の事務局の一つ、左弁官局の局長。
 [21]式部権大輔:しきぶごんのたいふ=式部省の権官で次官。
 [22]春宮亮:とうぐうのすけ=皇太子の宮の内政を担当する役所の次官。

<現代語訳>

 諸公卿の方々に遣唐使の存廃を審議し決定して頂くことを願う書状  菅原道真

 右のことについて私(菅原道真)がつつしんでんで申し上げます。唐に滞在中の僧中灌(チュウカン)が昨年3月に商人の王訥(オウトツ)らに託して送ってきた記録を見ましたところ、大唐の衰退した様子が詳しく記載されておりました。更に来朝しないことを問われたと報告し、ついには遣唐使の派遣を停めようとします。中瓘は取るに足らない旅の僧とはいえ、朝廷のために誠意を尽くしています。代(中国の北方地方)に産する馬や越(中国の南方の国)の鳥のさえも故郷を忘れず、それが習性というものでしょう。
 私達がつつしんで古い記録を調べてみますと、何回かの使節(遣唐使)は、海で遭難して命が絶えてしまった者や、賊に遭遇して命を落とした者がいます。ただ唐に到着してからは、旅の困難や飢えや寒さによる悲哀はありませんでした。
 中灌が報告した通りであれば、これからの遣唐使は何が起こるかは推して知るべきでしょう。
 私達臣下が心からお願いしたいことは、中灌の記録に記された内容をひろく公卿・博士に渡して、遣唐使派遣の可否を事細かに審議し決定するよう願うものであります。
このことは国家の大事であり決して我が身一人の安全のために申しているのではありません。まさに誠心を述べ、取り計らって頂くことを求めます。以上謹んで申し上げます。

  寛平6年9月14日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

〇菅原道真(すがわら みちざね)とは?

 平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12)に、菅原是善の3男として生まれ。幼少の頃より詩歌に才能があったと言われています。
 862年(貞観4)に18歳で文章生となり、877年(元慶1)には、文章博士となりました。以後,宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、894年(寛平6)には、遣唐使に任ぜられましたが建議して、これを中止したのです。
 899年(昌泰2)に、右大臣となりますが、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。そして、903年(延喜3)に大宰府において、59歳で亡くなっています。
 著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがあります。

〇遣唐使(けんとうし)とは?

 飛鳥時代から平安時代前期にかけて、国際情勢や大陸文化を摂取するために、遣隋使のあとをうけ、10数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節です。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、数百人が数隻の船に分乗し、2~3年がかりで往復し、国書・物品などを奉献しました。第1回は、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣され、第5回までは朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を、その後新羅による朝鮮統一により、九州から東シナ海を横断して、揚子江河口に上陸する南路をとって入唐するようになります。とても厳しい航海で、計画したものの断念したり、途中で難破して沈没したり、引き返したこともありましたが、政治・学問・宗教などに多くの貢献をしました。しかし、唐も安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、また、商人による貿易もさかんになってきていたので、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止され、907年(延喜7)には唐が滅亡してなくなりました。

☆遣唐使一覧(カッコの回は唐へ行っていない)

・1回 舒明2年(630年)~舒明4年(632年)---犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧旻帰国
・2回 白雉4年(653年)~白雉5年(654年)---吉士長丹(大使)、高田根麻呂(大使)、吉士駒(副使)、掃守小麻呂(副使)、道昭・定恵・道観(派遣者) 第2船が往途で遭難
・3回 白雉5年(654年)~斉明元年(655年)---高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
・4回 斉明5年(659年)~斉明7年(661年)---坂合部石布(大使)、津守吉祥(副使)、伊吉博徳(派遣者) 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
・5回 天智4年(665年)~天智6年(667年)---守大石(送唐客使)、坂合部石積、吉士岐彌、吉士針間 唐使の劉徳高を送る。唐使の法聡が来日
・(6)回 天智6年(667年)~天智7年(668年)---伊吉博徳(送唐客使) 唐使の法聡を送る。唐には行かず?
・7回 天智8年(669年)~不明 河内鯨(大使)---第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
・8回 大宝2年(702年)~慶雲元年(704年)---粟田真人(執節使)、高橋笠間(大使)、坂合部大分(副使)、山上憶良・道慈(派遣者)
・9回 養老元年(717年)~養老2年(718年)---多治比縣守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(副使)、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成(派遣者) 
・10回 天平5年(733年)~天平6年(734年)---多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、平群広成(判官)、大伴古麻呂(派遣者)
・(11)回 天平18年(746年)~ 石上乙麻呂(大使) 停止される
・12回 天平勝宝4年(752年)~天平勝宝6年(754年)---藤原清河(大使)、吉備真備(副使)、大伴古麻呂(副使) 鑑真が来日する
・13回 天平宝字3年(759年)~天平宝字5年(761年)---高元度(迎入唐大使使)、内蔵全成(判官)
・(14)回 天平宝字5年(761年)---仲石伴(大使)、石上宅嗣(副使)、中臣鷹主(遣唐判官) 船破損のため停止
・(15)回 天平宝字6年(762年)---中臣鷹主(送唐客使)、藤原田麻呂(副使)、高麗広山(副使) 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止する
・16回 宝亀8年(777年)~宝亀9年(778年)---小野石根(持節副使・大使代行)、大神末足(副使)
・17回 宝亀10年(779年)~天応元年(781年)---布施清直(送唐客使) 唐使孫興進を送る
・18回 延暦23年(804年)~大同元年(806年)10月---藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)、最澄・空海・橘逸勢・霊仙(派遣者)
・19回 承和5年(838年)~承和6年(839年)---藤原常嗣(大使)、円仁、藤原貞敏(准判官)、長岑高名(准判官)、良岑長松(准判官)、菅原梶成(知乗船事・医師) 小野篁(副使)は拒否して流罪
・(20)回 寛平6年(894年)---菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使) 予定されたが菅原道真の建議により停止する
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