ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:荘園整理令

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 今日は、平安時代後期の1107年(嘉承2)に、第73代の天皇とされる堀河天皇が亡くなった日ですが、新暦では8月9日となります。
 堀河天皇(ほりかわてんのう)は、平安時代後期の1079年(承暦3年7月9日)に、京都において、白河天皇(母は右大臣源顕房の娘賢子)の第二皇子として生まれましたが、名は善仁(たるひと)と言いました。同年11月に親王宣下され、1084年(応徳元)に母を亡くしましたが、1085年(応徳2)に叔父の皇太子実仁親王が亡くなると、立太子し、即日父・白河天皇の譲位を受けて、第73代とされる天皇として即位したものの、父が院政を敷きます。
 1093年(寛治7)に篤子内親王を中宮とし、1096年(嘉保3)には、重病に臥しましたがまもなく快復しました。長ずるにおよび、藤原師通などの賢臣の補佐を得て政務に精励し、1099年(康和元)には、「荘園整理令」を発布、また僧徒の蜂起を制止するなどの政治力を示し、「末代の賢王」と称せられます。
 一方で、和歌や管絃(笙・笛)の道に長じ、1102年(康和4)に「堀河院艶書合」を主催、『金葉和歌集』を初出として、勅撰集への入集は9首に及びました。1103年(康和5)に、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、皇太子に立てましたが、1107年(嘉承2年7月19日)に、京都において、数え年29歳で亡くなり、墓所は後円教寺陵(現在の京都市右京区)とされています。

<堀河天皇の代表的な和歌>

・「世世ふれど 面がはりせぬ 河竹は 流れてのよの ためしなりけり」(金葉和歌集)
・「千歳まで 折りて見るべき 桜花 梢はるかに 咲きそめにけり」(千載和歌集)
・「しきしまや 高円山の 雲間より 光さしそふ 弓はりの月」(新古今和歌集)

〇堀河天皇関係略年表

・1079年(承暦3年7月9日) 京都において、白河天皇(母は右大臣源顕房の娘賢子)の第二皇子として生まれる
・1079年(承暦3年11月) 親王宣下される 
・1084年(応徳元年) 母を亡くす
・1085年(応徳2年) 叔父の皇太子実仁親王が亡くなる
・1086年(応徳3年11月) 立太子し、即日父・白河天皇の譲位を受けて即位したものの、父が院政を敷く
・1086年(応徳3年12月19日) 大極殿で即位の礼が行われる
・1093年(寛治7年) 篤子内親王を中宮とする
・1096年(嘉保3年) 重病に臥したがまもなく快復する
・1099年(康和元年) 「荘園整理令」を発布する
・1102年(康和4年閏5月) 「堀河院艶書合」を主催する
・1103年(康和5年) 宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、皇太子に立てる
・1107年(嘉承2年7月19日) 京都において、数え年29歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

931年(承平元)第59代の天皇とされる宇多天皇の命日(新暦9月3日)詳細
1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿の東京の私邸(荻外荘)に於いて、荻窪会談が開催される詳細
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 今日は、平安時代後期の1068年(治暦4)に、第70代の天皇とされる後冷泉天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月22日となります。
 後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)は、1025年(万寿2年8月3日)に、京都において後朱雀天皇の第一皇子(母は藤原道長女・藤原嬉子)として生まれましたが、名は親仁(ちかひと)と言いました。2日後に生母を亡くし、紫式部の娘大弐三位が乳母となり、1036年(長元9)に親王宣下されます。
 1037年(長暦元)に元服して三品に叙され、章子内親王(後一条天皇第一皇女)が入内、皇太子となりました。1045年(寛徳2)に病床の父・後朱雀天皇から譲位されて践祚、異母弟の尊仁親王が皇太弟となり、第70代とされる天皇として即位します。
 同年に荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあったので、荘園整理令に着手しました。また、章子内親王が中宮に冊立され、翌年には、藤原歓子(藤原教通の女)も入内しています。
 1049年(永承4)に藤原歓子が皇子を出産しましたものの、即日死没、翌年には藤原寛子(関白頼通の女)が入内、1051年(永承6)に立后しました。この年に陸奥に前九年の役が起こって辺境が動揺、1055年(天喜3)には、新立の荘園を停止させています。
 1059年(康平2)に皇子が誕生しましたが、皇后の子ではなく、皇位を継ぐには至らず、1067年(治暦3)には藤原頼通の建立した宇治平等院に行幸して 頼通を准三宮に叙し、特に封300石ならびに年官、年爵、食封3000戸そのほかを授けました。1068年(治暦4)に藤原歓子が立后し、三后鼎立となりましたが、いずれの皇后も子を育てられなかった中で、同年4月19日に、京都で在位のまま、数え年44歳で亡くなっています。
 その後は、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない尊仁親王(後三条天皇)が即位することになり、摂関の権力は弱体化していきました。尚、日記『後冷泉院御記』が残され、歌も『後拾遺和歌集』、『金葉集和歌集』、『新古今集和歌集』などに収載されています。

<代表的な和歌>

・「待つ人は 心ゆくとも すみよしの 里にとのみは 思はざらなむ」(新古今和歌集)
・「岩まより 流るる水は 早けれど うつれる月の 影ぞのどけき」(後拾遺和歌集)

〇後冷泉天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1025年(万寿2年8月3日) 京都において後朱雀天皇の第一皇子(母は藤原道長女藤原嬉子)として生まれる
・1025年(万寿2年8月5日) 生母の東宮妃嬉子が亡くなる
・1036年(長元9年2月22日) 親王宣下される
・1037年(長暦元年7月2日) 元服して三品に叙される
・1037年(長暦元年12月13日) 章子内親王(後一条天皇第一皇女)が入内する
・1037年(長暦元年8月17日) 皇太子となる
・1045年(寛徳2年1月16日) 病床の父・後朱雀天皇から譲位されて践祚、異母弟の尊仁親王が皇太弟となる
・1045年(寛徳2年1月19日) 章子内親王が女御宣下を受ける
・1045年(寛徳2年4月8日) 第70代とされる天皇として即位する
・1045年(寛徳2年) 荘園整理令に着手する
・1046年(永承元年7月10日) 章子内親王が中宮に冊立される
・1047年(永承2年10月14日) 藤原歓子(藤原教通の女)が入内する
・1048年(永承3年7月10日) 藤原歓子が女御宣下される
・1049年(永承4年3月14日) 藤原歓子が皇子を出産するが、即日死没する
・1050年(永承5年12月22日) 藤原寛子(関白頼通の女)が入内する
・1051年(永承6年2月13日) 藤原寛子が立后する
・1051年(永承6年) 陸奥に前九年の役が起こって辺境が動揺する
・1055年(天喜3年) 新立の荘園を停止させる
・1059年(康平2年) 皇子が誕生する
・1067年(治暦3年) 藤原頼通の建立した宇治平等院に行幸して 3日滞在し、頼通を准三宮に叙し、特に封 300石ならびに年官、年爵、食封3000戸そのほかを授ける
・1068年(治暦4年4月17日) 藤原歓子が立后する
・1068年(治暦4年4月19日) 京都で在位のまま、数え年44歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1870年(明治3)哲学者西田幾多郎の誕生日(新暦5月19日)詳細
1912年(明治45)小説家源氏鶏太の誕生日詳細
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 今日は、 平安時代中期の930年(延長8)に、第60代の天皇とされる醍醐天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月23日となります。
 醍醐天皇(だいごてんのう)は、885年(元慶9年1月18日)に、京都において、臣籍に降下していた源定省(のちの宇多天皇)の長男(母は内大臣藤原高藤の娘)として生まれましたが、名は維城(これざね)と言いました。887年(仁和3)に父の皇籍復帰と即位に伴い、皇族に列し、890年(寛平元)に親王宣下され、翌年に敦仁(あつぎみ)と改名します。
 893年(寛平5)に立太子し、父宇多天皇から壺切御剣を下賜され、897年(寛平9年7月3日)に元服すると同日践祚し、同月13日に第60代とされる天皇として即位、藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、親政を行いました。しかし、901年(昌泰4)に藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷する昌泰の変が起こります。
 901年(昌泰4)に『日本三代実録』が完成・撰上され、翌年には、班田の励行や荘園整理令を発布、905年(延喜5)に『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じ、『延喜式』を時平に編纂させ、907年(延喜7)には『延喜格』が完成し、撰上されるなど事績を積み上げました。これらの政務への精励やその治績は、後世に62代の村上天皇の時代とともに「延喜・天暦の治」と称えられたものの、律令政治の衰微過程にあったとされています。
 909年(延喜9)に時平が亡くなり、911年(延喜11)に保明親王も21歳で早世、慶頼王を皇太孫としましたが、913年(延喜13)に5歳で夭折するなど不幸が続きました。これらは、菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、923年(延喜23)に菅原道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めます。
 ところが、930年(延長8)に、清涼殿落雷事件が起きると体調を崩し、同年9月22日に皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位(朱雀天皇)し、同月29日に出家(法名は宝金剛)すると同日に数え年46歳で亡くなりました。尚、和歌に堪能で、以後の勅撰集に計43首が入集しているほか、家集『延喜御集』も編んでいます。

<代表的な歌>

・「春風の 吹かぬ世にだに あらませば 心のどかに 花は見てまし」(続後撰和歌集)
・「かくてこそ 見まくほしけれ 万代を かけてにほへる 藤浪の花」(新古今和歌集)
・「うつつにぞ とふべかりける 夢とのみ 迷ひしほどや 遥けかりけむ」(後撰和歌集)
・「人ごころ たのみがたきは 難波なる 葦のうら葉の うらみつべきを」(延喜御集)
・「いはひつる ことだまならば 百年の 後もつきせぬ 月をこそ見め」(玉葉和歌集)

〇醍醐天皇の主要な著作

・『醍醐天皇御記』
・家集『延喜御集』

☆醍醐天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・885年(元慶9年1月18日) 京都において、宇多天皇の第1皇子(母は内大臣藤原高藤の娘)として生まれる
・887年(仁和3年) 父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列する
・890年(寛平元年12月28日) 親王宣下される
・891年(寛平2年12月17日) 敦仁(あつぎみ)に改名する
・892年(寛平4年) 菅原道真の編纂により『類聚国史』が完成・成立する
・893年(寛平5年4月2日) 立太子し、父宇多天皇から壺切御剣を下賜される
・897年(寛平9年7月3日) 元服すると同日践祚する
・897年(寛平9年7月13日) 第60代とされる天皇として即位し、藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる
・901年(昌泰4年2月) 藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷する(昌泰の変)
・901年(昌泰4年8月) 『日本三代実録』が完成し、撰上される 
・902年(延喜2年) 時平と共に班田の励行や荘園整理令を発布する
・905年(延喜5年) 『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じる
・905年(延喜5年) 『延喜式』を藤原時平に編纂させる
・907年(延喜7年11月) 『延喜格』が完成し、撰上される 
・909年(延喜9年) 藤原時平が亡くなる
・911年(延喜11年) 保明親王も21歳で早世する
・913年(延喜13年) 慶頼王を皇太孫としたが、5歳で夭折する
・914年(延喜14年) 三善清行が意見封事十二箇条が奏上する
・923年(延喜23年) 菅原道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努める
・927年(延長5年12月) 『延喜式』が完成し、撰上される
・930年(延長8年6月) 清涼殿落雷事件が起きる
・930年(延長8年9月22日) 皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位(朱雀天皇)する
・930年(延長8年9月29日) 出家(法名は宝金剛)すると同日に数え年46歳で亡くなる
・930年(延長8年10月10日) 山城国宇治郡山科陵に土葬される

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 今日は、平安時代中期の1073年(延久5)に、第71代天皇とされる後三条天皇の亡くなった日ですが、新暦では6月15日となります。
 後三条天皇(ごさんじょうてんのう)は、1034年(長元7年7月18日)に、後朱雀天皇の第2皇子(母・三条天皇の皇女禎子内親王)として生まれましたが、名は尊仁(たかひと)と言いました。1036年(長元9年12月)に、父の即位に伴い、3歳で親王宣下を受けます。
 父の死去により、1045年(寛徳2)に義兄の後冷泉天皇が即位すると、12歳で皇太弟となりました。翌年に元服すると大納言藤原能信の養女茂子(実父は中納言藤原公成)を妃とします。
 義兄後冷泉天皇の死去にともない、1068年(治暦4年4月19日)に、35歳で即位しましたが、170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇でした。そのため、藤原氏の専権を押え、天皇親政の実現に努力、大江匡房らを重用して一連の改革に着手します。
 1069年(延久元)には、「延久の荘園整理令」を発布して、記録荘園券契所を設置、また、成功 (じょうごう) 、重任(ちょうにん)の悪弊を厳禁しました。1070年(延久2)に絹布の制、1072年(延久4)には、延久宣旨枡(標準枡)や估価法の制定などを実施します。
 しかし、その年に第1皇子の白河天皇に譲位、その半年後、病のため出家(法名は金剛行)、その後まもなく1073年(延久5年5月7日)に、京都において、数え年40歳で亡くなりました。

〇後三条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1034年(長元7年7月18日) 後朱雀天皇の第2皇子(母・三条天皇の皇女禎子内親王)として生まれる
・1036年(長元9年12月) 父の即位に伴い、3歳で親王宣下を受ける
・1045年(寛徳2年) 父の死去により、義兄の後冷泉天皇が即位すると、12歳で皇太弟となる
・1046年(寛徳3年) 元服して、大納言藤原能信の養女茂子(実父は中納言藤原公成)を妃とする
・1068年(治暦4年4月19日) 義兄後冷泉天皇の死去にともない、35歳で第71代天皇に即位する
・1069年(延久元年2月) 「延久の荘園整理令」を発布する
・1069年(延久元年閏10月) 記録荘園券契所を設置する
・1070年(延久2年) 絹布の制(絹や布の品質を統一する制度)を出す
・1072年(延久4年8月) 估価法(市場の公定価格や物品換算率を定めたもの)を制定する
・1072年(延久4年9月) 延久宣旨枡(標準枡)を制定する
・1073年(延久4年12月8日) 第1皇子の白河天皇に譲位する
・1073年(延久5年1月) 院蔵人所を設置する
・1073年(延久5年) 病のため出家(法名は金剛行)する
・1073年(延久5年5月7日) 京都において、数え年40歳で亡くなる
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 今日は、平安時代後期の1129年(大治4)に、白河天皇(第72代)が亡くなった日ですが、新暦では7月24日となります。
 白河天皇は、1053年(天喜元年6月19日)に、後三条天皇の第1皇子(母は藤原茂子)として、京都に生まれましたが、名は貞仁といいました。
 1065年(治暦元)に13歳で元服、1069年(延久元)に皇太子に立てられ、1072年(延久4)に、後三条天皇の譲位により、20歳で即位することになります。
 1075年(承保2)に荘園整理令を発し、1076年(承保3)に法勝寺を建立、1081年(永保元)には、宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立しました。1086年(応徳3)には、第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位し、上皇となって、天皇を後見しながら政治の実権を握る、いわゆる院政(堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間)を初めて行います。
 その後、1099年(康和1)、1107年(嘉承2)、1127年(大治2)などに何度も荘園整理令を発し、院の武力として北面の武士を創設、新興の源・平氏をこれにあてるなどして、摂関家の政治関与を抑えることに努めます。
 また、仏教への傾倒も著しく、1096年(永長元)出家して法皇となり、法勝寺などを建立しましたが、1129年(大治4年7月7日)に、数え年77歳で亡くなくなりました。

〇白河天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1053年(天喜元)6月19日 後三条天皇の第1皇子(母は藤原茂子)として、京都に生まれる
・1065年(治暦元) 数え年13歳で元服する
・1069年(延久元) 皇太子に立てられる
・1072年(延久4) 後三条天皇の譲位により、数え年20歳で即位し、第72代の天皇となる
・1075年(承保2) 荘園整理令を発する
・1076年(承保3) 法勝寺を建立する
・1081年(永保元) 宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する
・1086年(応徳3) 第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位し、上皇となって院政を始める
・1099年(康和1) 荘園整理令を発する
・1102年(康和4) 藤原忠実の職権を停止する
・1107年(嘉承2) 荘園整理令を発する
・1113年(永久元) 永久の変において、輔仁親王を没落に追い込む
・1127年(大治2) 荘園整理令を発する
・1096年(永長元) 出家して法皇となる
・1120年(保安元) 関白藤原忠実を勅勘に処し、職権を停止する
・1129年(大治4)7月7日 京都において、数え年77歳で亡くなる
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