ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:茶人

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 今日は、江戸時代前期の1642年(寛永19)に、説教僧・茶人・文人安楽庵策伝が亡くなった日ですが、新暦では2月7日となります。
 安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は、戦国時代の1554年(天文23)に、金森定近(土岐可頼)の子(兄は戦国大名金森長近)として、美濃国(現在の岐阜市山県)で生まれたとされてきました。1560年(永禄3)の7歳の時、美濃国淨音寺の策堂文叔上人について出家し、1567年(永禄7年)の11歳の時、京都・東山禅林寺(永観堂)において修行します。
 1578年(天正6)の25歳の時、山陽地方へと布教の旅に出て、1592年(文禄元)の39歳の時、和楽に入り、1594年(文禄3年)の41歳の時、安芸国正法寺の13世住職となりました。1596年(慶長元)の43歳の時、美濃国浄音寺に戻り、25世住職となり、1609年(慶長14)の56歳時、美濃国立政寺(りゅうしょうじ)を預かり、1613年(慶長18)の60歳の時、京都新京極大本山誓願寺55世法主となります。
 1615年(慶長20)に京都所司代板倉重宗の依頼によって『醒睡笑』の執筆を始め、1623年(元和9)には、全8巻が完成、紫衣の勅許を得て、誓願寺塔頭竹林院を創立して隠居しました。1624年(寛永元)に茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を始め、1628年(寛永5年3月17日)には、京都所司代板倉重宗に『醒睡笑』を献呈しています。
 1630年(寛永7)の77歳の時、『百椿集』1巻を上梓しましたが、1642年(寛永19年1月8日)に、京都において、数え年89歳で亡くなり、所は京都誓願寺とされました。説教僧として知られ、滑稽な落し噺を説教の高座で実演し,その話材を『醒睡笑(せいすいしょう)』に集録して後世に残したので、落語の元祖とも言われています。
 以下に、『醒睡笑』の構成と序文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇安楽庵策伝の主要な著作

・笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』全8巻(1623年完成)
・記録『百椿集(ひやくちんしゆう)』(1630年)
・交友録『策伝和尚送答控(さくでんおしょうそうとうひかえ)』

〇『醒睡笑』(せいすいしょう)とは?

 京の僧侶である安樂菴策傳著の笑話集で、全8巻からなり、42項に分類された1,039話を収録しています。江戸時代前期の1615年(慶長20)に京都所司代板倉重宗の依頼によって執筆を始め、1623年(元和9)頃に完成し、1628年(寛永5年3月17日)に板倉重宗に献呈されるたと考えられています。庶民の間に広く流行した話を集め、様々な滑稽話、人情話で構成されており、「睡り(ねむり)を醒まして笑う」という、本の中に出てくる文章から題名を名付けたとされ、落語の元になったとも言われてきました。

<構成>
(巻の一)
・謂えば謂われる物の由来(よくも謂えたものだというこじつけばなし)
・落書(風刺を含んだ匿名の投書)
・ふわとのる(「ふわっ」と乗る:煽てに乗ること)
・鈍副子(どんふうす:鈍物の副司。つまり血の巡りの悪い禅寺の会計係)
・無知の僧(お経もろくに読めない坊主のはなし)
・祝い過ぎるも異なること(縁起の担ぎすぎの失敗談)
(巻の二)
・名付親方(変な名前をつける名付親)
・貴人の行跡(身分の高い人の笑いのエピソード)
・空(愚か者の笑い)
・吝太郎(けちんぼの笑い)
・賢だて(利巧ぶる人の間抜け話)
(巻の三)
・文字知り顔(知ったかぶりの間抜けさ)
・不文字(文盲なのにそれを気が付かないふりをする。おかしさ)
・文のしなじな(機知にとんだ手紙の数々)
・自堕落(ふしだら者の犯す失敗談)
・清僧(女性と交わる罪を犯さない坊主の話)
(巻の四)
・聞こえた批判(頓智裁判)
・いやな批判(不合理な裁判)
・そでない合点(見当はずれ・早合点)
・唯あり(味のある話)
(巻の五)
・きしゃごころ(やさしい風流ごころ)
・上戸(酒飲みの珍談・奇談・失敗談)
・人はそだち(育ちの悪さから来る失敗談。「氏より育ち」の逆)
(巻の六)
・稚児のうわさ(稚児から聞いた内緒ばなし)
・若道知らず(男色のおかしさ)
・恋の道(夫婦間の笑い)
・吝気(やきもちばなし)
・詮無い秘密(くだらない秘密)
・推は違うた(推理がはずれてがっかりした話)
・うそつき(ほら話)
(巻の七)
・思いの色をほかにいう(心に思っていることは態度に出てしまうという笑い話)
・言い損ないはなおらぬ(失言を何とか取り繕うとするおかしさ)
・似合うたのぞみ(たかのぞみは失敗するという話)
・廃忘(失敗するとあわてるという話、蒙昧すること)
・うたい(謡曲の文句に題材をとった笑い話)
・舞(舞の台本を聞きかじった無知な人の話)
(巻の八)
・頓作(即席頓智話)
・平家(平家物語を詠う琵琶法師にまつわる滑稽談)
・かすり(語呂合わせや駄洒落)
・秀句(秀でた詩文をもとにした言葉遊び)
・茶の湯(茶道の心得が無いために起こすしくじり話)
・祝い済まいた(めでたし、めでたしで終わる話)

〇『醒睡笑』(序)

ころはいつ、元和(げんな)九癸亥(みづのとのゐ)の稔(とし)、天下泰平、人民豊楽の折から、策伝某、小僧の時より耳にふれて、おもしろくをかしかりつる事を、反故(ほうご)の端にとめ置きたり。
是(こ)の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵と云ふ、柴の扉の明暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかたしるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)をさましてわらふ。
さるまゝにや是を醒睡笑と名付け、かたはらいたき草紙を八巻となして残すのみ。

☆安楽庵策伝関係略年表

・1554年(天文23年) 金森定近(土岐可頼)の子として、現在の岐阜市山県で生まれる
・1560年(永禄3年) 7歳の時、美濃国淨音寺の策堂文叔上人について出家する
・1567年(永禄7年) 11歳の時、京都・東山禅林寺(永観堂)において修行する
・1578年(天正6年) 25歳の時、山陽・近畿地方へと布教の旅にでる
・1592年(文禄元年) 39歳の時、和楽に入る
・1594年(文禄3年) 41歳の時、安芸国正法寺の13世住職となる
・1596年(慶長元年) 43歳の時、美濃国浄音寺に戻り、25世住職となる
・1609年(慶長14年) 56歳時、美濃国立政寺(りゅうしょうじ)を預かる
・1613年(慶長18年) 60歳の時、京都新京極大本山誓願寺55世法主となる
・1615年(慶長20年) 京都所司代板倉重宗の依頼によって『醒睡笑』の執筆を始める
・1623年(元和9年) 『醒睡笑』(全8巻)が完成、紫衣の勅許を得て、誓願寺塔頭竹林院を創立して隠居する
・1624年(寛永元年) 茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を始める
・1628年(寛永5年3月17日) 京都所司代板倉重宗に『醒睡笑』を献呈する
・1630年(寛永7年) 77歳の時、『百椿集』1巻を上梓する
・1642年(寛永19年1月8日) 京都において、数え年89歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1920年(大正9)医師・生化学者・分子生物学者早石修の誕生日詳細
1917年(大正6)農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1615年(慶長20)に、武将・大名・茶人・織部流茶道の祖古田重然(織部)が豊臣方内通の罪に問われ自刃した日ですが、新暦では7月6日となります。
 古田重然(ふるた しげなり)は、1544年(天文13年)に、美濃国(現在の岐阜県)において、古田勘阿弥(重定)の子として生まれたとされますが、通称は左介と言いました。後に伯父・重安の養子となったといわれ、守護大名土岐氏に属していたものの、1567年(永禄9)の織田信長の美濃進駐時までに織田氏の家臣として仕えたとされます。
 1568年(永禄10)の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加、翌年には摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚しました。1576年(天正4)に山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となり、1578年(天正6)には、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てます。
 1578年(天正6)に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の中川清秀を織田方に引き戻すのに成功、1582年(天正10)頃から千利休と親交を始めて茶を学び、利休七哲の一人とされました。本能寺の変で信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたと言われ、翌年の伊勢亀山城の滝川一益攻め、続く賤ヶ岳の戦いで軍功をあげ、中川清秀戦死に際し、子の秀政の後見を委ねられます。
 1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いに出陣、翌年の紀州征伐、四国平定にも中川秀政と共に出陣しました。1585年(天正13)に、秀吉が関白になると、従五位下織部正に叙任され、京都西岡に3万5千石をを与えられ、中川秀政の後見を免ぜられます。
 1587年(天正15)の九州征伐に参加、1590年(天正18)の小田原征伐にも従い、1591年(天正19)に千利休が堺に蟄居を命ぜられたとき、これを細川三斎(忠興)と淀の舟本で見送りました。1592年(文禄元)の文禄の役には肥前(現在の佐賀県)名護屋に下りましたが、1598年(慶長3)の秀吉没後は徳川家康に仕えます。
 1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦には徳川方(東軍)に属して活躍し、その恩賞として1万石の大名となりました。1603年(慶長8)から8年間、小堀遠州に茶の湯を伝授(慶長伝授)、1610年(慶長15)には、江戸城で将軍秀忠に茶の湯指南にあたります。
 大名茶を確立し織部流茶道の祖とされ、陶芸の面では織部陶の名を後世に伝えましたが、1615年(慶長20)の大坂夏の陣で、大坂方に通じたとされて罪に問われ、同年6月11日に、伏見木幡の屋敷において、数え年73歳で自刃しました。

〇古田重然(織部)関係略年表(日付は旧暦です)

・1544年(天文13年) 美濃国(現在の岐阜県)において、古田勘阿弥(重定)の子として生まれる
・1567年(永禄9年) 織田信長の美濃進駐時に織田氏の家臣として仕えたとされる
・1568年(永禄10年) 信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加する
・1569年(永禄11年) 摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚する
・1576年(天正4年) 山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となる
・1578年(天正6年7月) 織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てる
・1578年(天正6年11月) 荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の中川清秀を織田方に引き戻すのに成功する
・1582年(天正10年) 千利休と親交を始める
・1583年(天正11年1月) 伊勢亀山城の滝川一益を攻める
・1583年(天正11年4月) 賤ヶ岳の戦いで軍功をあげる
・1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いに出陣する
・1585年(天正13年) 紀州征伐、四国平定にも中川秀政と共に出陣する
・1585年(天正13年7月) 従五位下織部正に叙任され、京都西岡に3万5千石をを与えられる
・1585年(天正13年9月) 中川秀政の後見を免ぜられる
・1587年(天正15年) 九州征伐に参加する
・1590年(天正18年) 小田原征伐に従う
・1591年(天正19年2月) 千利休が堺に蟄居を命ぜられたとき、これを細川三斎(忠興)と淀の舟本で見送る
・1592年(文禄元年) 文禄の役には肥前(佐賀県)名護屋に下る
・1598年(慶長3年) 秀吉没後は徳川家康に仕える
・1600年(慶長5年9月) 関ヶ原の合戦には徳川方に属して活躍し、その恩賞として1万石の大名となる
・1603年(慶長8年) 以後8年間、小堀遠州に茶の湯を伝授する(慶長伝授)
・1610年(慶長15年) 江戸城で将軍秀忠に茶の湯指南にあたる
・1615年(慶長20年6月11日) 大坂夏の陣に大坂方に通じたとされて罪に問われ、伏見木幡の屋敷において、数え年73歳で自刃する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1951年(昭和26)産業教育振興法」が公布される詳細
1969年(昭和44)東京国立近代美術館」(現在の本館)が開館する詳細
1975年(昭和50)考古学者宮坂英弌の命日詳細


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 今日は、安土桃山時代の1591年(天正19)に、豊臣秀吉により茶人千利休が自刃させらけた日ですが、新暦では4月21日となります。
 千利休(せん の りきゅう)は、戦国時代の1522年(大永2)に、和泉国堺(現在の大阪府堺市)の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれた(1521年生誕説あり)とされますが、幼名は田中与四郎と言いました。
 初め茶の湯を北向道陳に学び、10歳代で武野紹鴎に師事しましたが、19歳で父を失い、それと前後して祖父も失います。1544年(天文13)に、松屋久政らを招いて茶会を開いた記録が残され、茶人としての才能をあらわしました。
 1568年(永禄11)に織田信長が上洛し、翌年以降堺を直轄地としていく過程で、関わりをもつようになります。1574年(天正2)には、織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれ、翌年には、越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受けました。
 1582年(天正10)の本能寺の変で信長が横死すると、山崎の戦いで勝利した豊臣秀吉に仕えるようになります。翌年には、秀吉の依頼て茶室待庵を完成させ、近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めました。
 1585年(天正13)に、秀吉が禁中茶会を催した際に、正親町天皇に茶を献じて、利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立、同年に黄金の茶室を設計、1587年(天正15)には、北野大茶湯を主管します。その中で、村田珠光以来の侘び茶を大成、茶会の形式、点前作法などに創意工夫を施し、織田有楽斎、細川忠興など数多くの弟子を育てました。
 1590年(天正18)には秀吉の小田原攻略に従軍しますが、翌年に利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受けて堺に蟄居させられます。そして、1591年(天正19年2月28日)に京都の聚楽屋敷内において、数え年70歳で切腹させられました。
 その後、利休の茶道の流れは3世宗旦から分かれた表千家、裏千家、武者小路千家の3千家として今日に伝えられています。

〇千利休関係略年表(日付は旧暦です)

・1522年(大永2年) 堺の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれる
・1544年(天文13年) 奈良の塗師松屋久政らを招いて茶会を開く
・1574年(天正2年3月) 織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受ける
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変及び山崎の戦いの後は豊臣秀吉に仕える
・1582年(天正10年8月) 秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられる
・1583年(天正11年3月) 茶室待庵(現存する利休作の唯一の茶室)を完成させる
・1583年(天正11年5月) 秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤める
・1584年(天正12年) 秀吉が築城した大坂城内に二畳の茶室を作る
・1585年(天正13年) 秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立
・1587年(天正15年) 北野大茶湯を主管する
・1590年(天正18年) 秀吉の小田原攻略に従軍する
・1591年(天正19) 利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受け堺に蟄居させられる
・1591年(天正19年2月28日) 秀吉により自刃させられる
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 今日は、江戸時代前期の1647年(正保4)に、武将、茶人、作庭家小堀政一(遠州)の亡くなった日ですが、新暦では3月12日となります。
 小堀政一は、一般には小堀遠州と呼ばれ、1579年(天正7)、近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の武将小堀正次の長男として生まれ、幼名は作助でした。
 豊臣秀長の小姓を勤めた後、1595年(文禄4)に豊臣秀吉直参となって伏見に移り、そこで、古田織部に茶道を学ぶことになります。
 秀吉死後は、徳川家康に仕え、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、父政次と共に軍功をあげ、備中松山藩1万2000石余に封ぜられました。1604年(慶長9)の父の死後、藩主となりましたが、1619年(元和5)に近江小室藩に移封されたのです。
 その前後に、作事奉行として手腕を発揮し、駿府城、名古屋城、仙洞御所、伏見城本丸、二条城などの建築、造園の造作にあたりました。1624年(寛永元)伏見奉行に任じられ、1647年(正保4)に、69歳で没するまで在職したのです。
 茶道は、小堀遠州流の祖として知られ、和歌・書・茶器鑑定にもすぐれ、作庭では、以下のものが有名です。

〇小堀遠州の作庭による主要な庭園

・二条城二之丸庭園(京都府京都市中京区)
・南禅寺方丈庭園(京都府京都市左京区)
・金地院庭園(京都府京都市左京区)
・大徳寺孤蓬庵庭園(京都府京都市北区)
・頼久寺庭園(岡山県高梁市)
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