ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:茅誠司

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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、下中弥三郎・植村環・茅誠司・上代たの・平塚らいてう・前田多門・湯川秀樹によって、世界平和アピール七人委員会が結成された日です。
 世界平和アピール七人委員会(せかいへいわあぴーるしちにんいいんかい)は、知識人による平和問題に関する意識表明の会でした。1955年(昭和30)11月11日に、世界連邦建設同盟理事長で平凡社社長の下中弥三郎の提唱によって結成されましたが、最初のメンバーは、下中弥三郎、植村環、茅誠司、上代たの、平塚らいてう、前田多門、湯川秀樹で、当日に「国連第十回総会にむけてのアピール」を発表します。
 その後、メンバーの死去などによる委員の交代で、川端康成、朝永振一郎、井上靖、平山郁夫、井上ひさし、小柴昌俊などが名を連ねたものの、1996年(平成8)から活動を停止し、8年後の2004年(平成16)に再開しました。メンバーの条件は、実際の政治にタッチしていない人(政治家でないこと)、自由人で民主主義陣営の人、世界的に平和運動を行い得る人のの3つとされています。
 現在の委員は、武者小路公秀、大石芳野、小沼通二、池内了、池辺晋一郎、髙村薫、島薗進の7名となりました。近年は、ホームページ上で「今月のことば」を発表、年に数回アッピールを出したり、講演会を開催するなどしています。
 以下に、結成時の「国連第十回総会にむけてのアピール」を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇最近出したアピール

<2019年(平成31・令和元)>
・2月26日「朝鮮半島・アジア・全世界の平和と安定を求め、第2回米朝会談に期待する」
・4月26日「日米地位協定の根本的改定を沖縄県とともに求める」
・7月1日「不誠実な外交・内政との決別を―参議院選挙を前にして―」
・11月30日「ローマ教皇の長崎・広島でのメッセージに賛同する」
・12月12日「自衛隊の海外派遣を常態化してはいけない」

<2020年(令和2)>
・1月6日「米国によるイラン革命防衛隊司令官殺害を非難し、すべての関係者がこの危機を悪化させないよう求める」
・2月10日「米国原子力潜水艦への低出力核弾頭の初めての実戦配備に反対する」
・4月13日「ウイルス禍とのグローバルな闘いを通じて平和を」
・8月1日「核兵器と戦争の廃絶に向けて今こそ行動を ―広島・長崎被爆75周年―」
・10月7日「日本学術会議会員の任命拒否は許容できない」

<2021年(令和3)>
・1月20日「核兵器禁止条約批准50か国達成を祝す」
・2月8日「ミャンマーのクーデタ―に抗議し、原状回復・民主化促進を求める」
・4月20日「今夏の東京オリンピック・パラリンピックは開催すべきでない」
・6月8日「人権尊重を! 出入国管理政策の抜本的改革を求める」
・8月28日「人命尊重のコロナ政策最優先への根本的転換を」を発表
・10月18日「『民主主義の危機』を克服するために」
・12月27日「2022年を日本政府が核兵器廃絶に踏み出す年に!」

<2022年(令和4)>
・2月28日「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻即時中止を求める」
・5月2日「今こそ核戦争回避に向けて結束した行動を」
・6月24日「平和国家として歩む――軍事力増強とは異なる道を――」
・8月3日「搾取・収奪常習を問われる集団に寄生する政治家の即退場を求める」

☆「国連第十回総会にむけてのアピール」世界平和アピール七人委員会 1955年11月11日

 1946年11月3日、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を希求して、戦争を放棄した。それは平和を愛する諸国民の公正と、正義に信頼したからである。しかるに世界は、依然として戦争の脅威にさらされ、原子力戦争は破滅を予想させつつある。
 本年になってAA会議、四国巨頭会議を契機として冷たい対立は一層雪どけの春をおもわせているにもかかわらず日本は再軍備が迫りつつある。
 われわれはここに、あくまでも日本の平和憲法を擁護するとともに、世界の諸国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、皮膚の色にかかわりなく人類各員の基本人権を尊重し、人類協同の平和のうちに生存する権利を有することを確認し、国家の存在するかぎり戦争の脅威を避け得ない現実にかんがみ、戦争を絶滅し真の恒久平和を実現するためには今日の国家単位の国連を、世界連邦にまで発展せしめるほかないことを確信し原爆の被害者として世界人類の平和を希う日本民族の悲願を表明して、茲に、現に開催中の国連第十回総会に対し次の三項の早期実現を勧告する。

一、未加盟国を残りなく国連に加盟させること

(註)未加盟国のうちスイスを除く他の二十数カ国はすべて加盟を望んでいる。平和機構の世界性を願うわれらはこの際未加盟国全部の加盟を求める。
一、1956年9月に国連憲章再審議会議を開き、それを世界憲章起草会議とすること

(註)世界憲章の内容については、世界連邦世界運動及び世界連邦国会委員会にて研究された素案を討議題とすればよい。
一、1957年に国連総会と併行して第1回世界人民会議を招集すること

(註)世界人民会議に於ては、次の諸問題が議せられるべきであろう。
   Ⅰ 軍備を如何に撤廃すべきか
   Ⅱ 資源と人口を如何に調節すべきか
   Ⅲ 経済交流を如何に自由にすべきか
   Ⅳ 人類平等、人権尊重を如何に実行すべきか
   Ⅴ 世界諸国民の出入国管理等如何にあるべきか
右方式により平和を護持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に排除し得る世界社会の建設を要望する。
右勧告する。

 1955年11月11日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(貞和4)第95代の天皇とされる花園天皇(持明院統)の命日(新暦12月2日)詳細
1477年(文明9)大内軍が京から撤収し、応仁の乱が終結する(新暦12月16日)詳細
1890年(明治23)浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初の電動式エレベーターが一般公開される詳細
1911年(明治44)新派俳優・興行師川上音二郎の命日詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争末期の本土決戦に備えて、松代大本営が着工される 詳細
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 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、物理学者・第17代東京大学総長茅誠司の亡くなった日です。
 茅誠司(かや せいじ)は、明治時代後期の1898年(明治31)12月21日に、神奈川県愛甲郡愛川町において、大きな農家の二男として生まれました。旧制厚木中学校(現在の神奈川県立厚木高等学校)を経て、1920年(大正9)には、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)電気科を卒業します。
 その後、東北帝国大学理学部物理学科へ進み、1923年(大正12)に卒業、金属材料研究所助手となり、本多光太郎に師事して磁性体を研究しました。1926年(大正15)に、本多と共に単結晶の結晶方向の磁化曲線を発見、東北帝国大学助教授となり、1928年(昭和3)には、欧米に留学します。
 1929年(昭和4)に論文「強磁性結晶体の磁化」により、東北帝国大学より理学博士を得、1930年(昭和5)には、北海道帝国大学助教授となりました。1931年(昭和6)に教授に昇任され、1935年(昭和10)に報公賞を受賞、1942年(昭和17)には、「強磁性結晶体の磁気的研究」で帝国学士院賞を受賞します。
 1943年(昭和18)に東京帝国大学教授となり、太平洋戦争後の1948年(昭和23)に文部省科学教育局長を務め、日本学術会議設立に尽力、翌年の設立時には、同会議第4部長となりました。1954年(昭和29)に日本学術会議会長、社団法人日本アイソトープ協会会長となり、1955年(昭和30)には、世界平和アピール七人委員会の結成に参加します。
 1957年(昭和32)に東京大学総長、1959年(昭和34)に科学技術会議議員、1960年(昭和35)に本多記念賞を受賞、1961年(昭和36)には、日本学士院会員となりました。1963年(昭和38)に卒業式告辞で「小さな親切」の重要性について言及、社団法人小さな親切運動の本部設立に伴い初代代表になります。
 1964年(昭和39)に、東京大学名誉教授となり、文化勲章を受章しました。その後も、1965年(昭和40)に第10回日本金属学会賞、1967年(昭和42)に日本学術振興会会長、1969年(昭和44)に勲一等瑞宝章、1970年(昭和45)にNHK放送文化賞、1975年(昭和50)に勲一等旭日大綬章と数々の栄誉に輝きます。
 1985年(昭和60)に“緑の文明学会”会長に就任したものの、1986年(昭和61)には、小さな親切運動本部代表を退任、1988年(昭和63)11月9日に、東京において、満89歳で亡くなり、従二位、賜銀杯一組を追贈されました。

〇茅誠司の主要な著作

『強磁性結晶体論』(1936年)
『金属の物理』(1948年)
『強磁性』(1952年)
『科学技術の進歩と原子力の利用』(1958年)
『青少年とともに 茅誠司講演集』(1968年)
『雪椿』(1969年)
『続雪椿』(1969年)
『現代社会を考える』(1972年)

☆茅誠司関係略年表

・1898年(明治31)12月21日 神奈川県愛甲郡愛川町において、大きな農家の二男として生まれる
・1920年(大正9) 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)電気科を卒業する
・1923年(大正12) 東北帝国大学理学部物理学科卒業、金属材料研究所助手となり、本多光太郎に師事する
・1926年(大正15) 本多とともに単結晶の結晶方向の磁化曲線を発見、東北帝国大学助教授となる
・1928年(昭和3) 欧米に留学する
・1929年(昭和4) 論文「強磁性結晶体の磁化」により、東北帝国大学より理学博士を得る
・1930年(昭和5) 北海道帝国大学助教授となる
・1931年(昭和6) 北海道帝国大学教授となる
・1935年(昭和10) 報公賞を受賞する
・1942年(昭和17) 「強磁性結晶体の磁気的研究」で帝国学士院賞を受賞する
・1943年(昭和18) 東京帝国大学教授となる
・1948年(昭和23) 文部省科学教育局長を務め、日本学術会議設立に尽力する
・1949年(昭和24) 日本学術会議設立時に同会議第4部長となる
・1954年(昭和29) 日本学術会議会長、社団法人日本アイソトープ協会会長となる
・1955年(昭和30) 世界平和アピール七人委員会の結成に参加する
・1956年(昭和31) 産業計画会議委員となる
・1957年(昭和32) 東京大学総長となる
・1959年(昭和34) 科学技術会議議員となる
・1960年(昭和35) 本多記念賞を受賞する
・1961年(昭和36) 日本学士院会員となる
・1963年(昭和38) 東大総長退任をひかえた最後の卒業式告辞で「小さな親切」の重要性について言及、社団法人小さな親切運動の本部設立に伴い初代代表になる
・1964年(昭和39) 東京大学名誉教授となり、文化勲章を受章する
・1965年(昭和40) 第10回日本金属学会賞を受賞する
・1966年(昭和41) 1967年東京都知事選挙への立候補を大久保留次郎らに推薦されるが、健康を理由に辞退する
・1967年(昭和42) 日本学術振興会会長となる
・1969年(昭和44) 春の叙勲で勲一等瑞宝章を受章する
・1970年(昭和45) NHK放送文化賞を受賞する
・1975年(昭和50) 春の叙勲で勲一等旭日大綬章を受章する
・1980年(昭和55) 放送文化基金理事長となる
・1982年(昭和57) 東京工業大学学百年記念事業資金募金名誉顧問となる
・1983年(昭和58) 復旦大学より名誉博士号授与(中国の学術機関から日本人に対して初)される
・1985年(昭和60) “緑の文明学会”会長に就任する
・1986年(昭和61) 小さな親切運動本部代表を退任する
・1988年(昭和63)11月9日 東京において、満89歳で亡くなり、従二位、賜銀杯一組を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1872年(明治5)太陽暦導入のため、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)が布告される(新暦12月9日)詳細
1876年(明治9)医師・細菌学者野口英世の誕生日詳細
1945年(昭和20)GHQが「農業計画に関する覚書」(SCAPIN-257)を出す詳細
1963年(昭和38)三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人を出す詳細
鶴見事故で列車の三重衝突が起こり、死者161人・負傷者120人を出す詳細
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