ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:芸術院賞

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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、建築家吉村順三が生まれた日です。
 吉村順三(よしむら じゅんぞう)は、東京市本所区緑町において、呉服商の家に生まれましたが、東京府立三中(現在の都立両国高校)在学中の1921年(大正10)に建築雑誌「住宅」誌主催「小住宅設計懸賞」に2案応募して入選、選外佳作となりました。東京府立三中卒業後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)建築科で学び、実測と観察を通して日本の古建築に触れます。
 1931年(昭和6)に同校を卒業後、アントニン・レーモンドに師事し、レイモンド建築設計事務所に勤め、モダニズム建築を体得、一方でレーモンドに日本建築を教授しました。1931年(昭和6)に帰米したアントニン・レーモンドに呼ばれ、アメリカに渡り、1940年(昭和15)に帰国、翌年には、吉村順三設計事務所を開設します。
 1945年(昭和20)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の助教授となり、1949年(昭和24)の学制改革後、東京芸術大学建築科助教授となりました。1956年(昭和31)に国際文化会館(共同設計)で建築学会賞、ニューヨークの一連の作品でパーソン賞を受賞、1960年(昭和35)には、皇居新宮殿の設計者に選定され、基本設計を任されます。
 1962年(昭和37)に東京芸術大学建築科教授に昇任し、和風と近代様式を折衷したモダニズム住宅を多く手掛け、多くの建築家を育てたものの、1970年(昭和45)には、東京芸術大学を退官し名誉教授となりました。1972年(昭和47)にジャパンハウスで、ニューヨーク建築家協会デザイン優秀賞、1975年(昭和50)に奈良国立博物館で、芸術院賞を受賞、1982年(昭和57)には、勲三等旭日中綬章を受章します。
 1989年(平成元)に八ケ岳高原音楽教室で、第30回毎日芸術賞を受賞、1990年(平成2)に日本芸術院会員となりました。1994年(平成6)には、文化功労者ともなりましたが、1997年(平成9)4月11日に、東京都杉並区において、88歳で亡くなり、勲二等瑞宝章を追贈されています。

〇吉村順三の主要な建築設計作品

・佐倉厚生園サナトリウム(1953年)
・国際文化会館住宅(1955年)
・自邸〈南台町の家〉(1957年)
・軽井沢の山荘(1962年)
・東京のNCRビル(1963年)
・「浜田山の家」(1964年)
・愛知県立芸術大学(1971年)
・ニューヨークのジャパン・ハウス(1972年)
・奈良国立博物館新館(1973年)
・ポカンティコヒルの家(1974年)
・八ヶ岳高原音楽堂(1988年)

☆吉村順三関係略年表

・1908年(明治41)9月7日 東京市本所区緑町において、呉服商の家に生まれる
・1921年(大正10) 建築雑誌「住宅」誌主催「小住宅設計懸賞」に2案応募して入選、選外佳作となる
・1923年(大正12) 東京府立第3中学校を卒業、関東大震災で本所付近が全壊する
・1926年(昭和元) 東京美術学校建築科を卒業後、アントニン・レーモンドに師事し、レイモンド建築設計事務所に勤める
・1931年(昭和6) 帰米したアントニン・レーモンドに呼ばれ、アメリカに渡る
・1940年(昭和15) アメリカから帰国する
・1941年(昭和16) 吉村順三設計事務所を開設する
・1945年(昭和20) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)の助教授となる
・1949年(昭和24) 東京芸術大学建築科助教授となる
・1956年(昭和31) 国際文化会館(共同設計)で建築学会賞、ニューヨークの一連の作品でパーソン賞を受賞する
・1960年(昭和35) 皇居新宮殿の設計者に選定され、基本設計を任される
・1962年(昭和37) 東京芸術大学建築科教授となる
・1963年(昭和38) 皇居新宮殿の建築にあたる
・1970年(昭和45) 東京芸術大学を退官し名誉教授となる
・1972年(昭和47) ジャパンハウスで、ニューヨーク建築家協会デザイン優秀賞を受賞する
・1975年(昭和50) 奈良国立博物館で、芸術院賞を受賞する
・1982年(昭和57) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1989年(平成元) 八ケ岳高原音楽教室で、第30回毎日芸術賞を受賞する
・1990年(平成2) 日本芸術院会員となる
・1994年(平成6) 文化功労者となる
・1997年(平成9)4月11日 東京都杉並区において、88歳で亡くなり、勲二等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1858年(安政5)尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まる(新暦10月13日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、小説家・児童文学作家小川未明が生まれた日です。
 小川未明(おがわ みめい)は、新潟県中頸城郡高田町五分一(現在の上越市)において、旧士族だった父・小川澄晴、母・千代のひとり息子として生れましたが、本名は健作(けんさく)と言いました。旧制高田中学校(現在の県立高田高等学校)に進んだものの3回落第し、1901年(明治34)に上京、早稲田大学予備校に入学、専門部英文哲学科より転じて大学部英文科で修学します。
 坪内逍遙の指導を受け、在学中に『合歓の花』を「スケッチ」に、『帰想』、『故郷』を「読売新聞」、『漂浪児』を「新小説」に発表しました。1905年(明治38)に早稲田大学英文科卒業(卒業論文「ラフカディオ・ハーンを論ず」)、『鬼子母神』を「読売新聞」、『霞に霙』を「新小説」に発表、好評を得て作家的地位を確立します。
 1906年(明治39)に早稲田文学社に入り、島村抱月氏指導のもとに「少年文庫」を編集、翌年には、第一短編集『愁人』を出版、正宗白鳥氏の紹介で読売新聞社に入社、社会部の夜勤記者となりました。1908年(明治41)に新ロマンチシズムの文学研究会「青鳥会」をつくり、「秀才文壇」の記者となりましたが、翌年には、雑誌記者その他全ての勤めをやめて文筆で起とうと決心します。
 生活は貧困をきわめたものの、1910年(明治43)には、日本最初の創作童話集とされる第一童話集『赤い船』を出しました。1911年(明治44)に代表作とされる小説『物言はぬ顔』、『薔薇と巫女』を発表して名声を上げ、翌年には、唯一の長編小説『魯鈍な猫』を「読売新聞」に連載、「北方文学」を創刊、主幹となったものの4号で終刊となります。
 大正時代に入ってからは、社会主義に近づき、短編集『路上の一人』(1915年)、『小作人の死』(1918年)などを発表、労働文学の雑誌「黒煙」を指導するかたわら、1920年(大正9)の日本社会主義同盟の創立にも参加しました。1921年(大正10)に代表作の一つとされる童話『赤い蝋燭と人魚』を「朝日新聞」に書いたりする中で、大正末期になると、生得のロマンチックな性向と社会主義的な文学理論との違和が決定的となり、「日本童話作家協会」創立に参加、小説を断念して、昭和時代に入ってからは童話執筆に専念するようになります。
 1933年(昭和8)に長篇童話「雪原の少年」を「国民新聞」に連載、1937年(昭和12)には、子供研究社より児童文学雑誌「お話の木」を主宰(翌年2月発刊)するなど児童文学の世界で活躍しました。1941年(昭和16)に日本少国民文化協会の発足に参加、1944年(昭和19)には、少国民文化功労賞を受けています。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に第5回野間文芸賞を受賞、児童文学者協会を創立して、初代会長になり、児童文学の再建に尽力しました。1951年(昭和26)に児童文学における功績によって、芸術院賞を受賞、1953年(昭和28)には、日本芸術院会員、文化功労者ともなります。
 1954年(昭和29)から「小川未明作品集」(全5巻)、1958年(昭和33)から新版「小川未明童話全集」(全12巻)が刊行されたりしたものの、1961年(昭和36)5月11日に、東京において、79歳で亡くなりました。

〇小川未明の代表的な著作

・小説『霰(あられ)に霙(みぞれ)』(1905年)
・処女短編集『愁人(しゅうじん)』(1907年)
・処女童話集『赤い船』(1910年)
・小説『薔薇 (ばら) と巫女 (みこ) 』(1911年)
・小説『物言はぬ顔』(1911年)
・長編小説『魯鈍(ろどん)な猫』(1912年)
・詩集『あの山越えて』(1914年)
・短編集『路上の一人』(1915年)
・短編集『小作人の死』(1918年)
・童話『金の輪』(1919年)
・童話『牛女』(1919年)
・童話集『赤い蝋燭(ろうそく)と人魚』(1921年)
・童話『野薔薇』(1922年)
・長篇童話『雪原の少年』(1933年)
・童話『考えこじき』(1946年)

☆小川未明関係略年表

・1882年(明治15)4月7日 新潟県中頸城郡高田町五分一(現在の上越市)において、旧士族だった父・小川澄晴、母・千代のひとり息子として生れる
・1988年(明治21) 岡島小学校(現在の大手前)に入学する
・1892年(明治25) 高田尋常小学校に転入学する
・1895年(明治28) 旧制高田中学校(現在の県立高田高等学校)に入学する
・1897年(明治30) 一家で春日山に移る
・1898年(明治31) 佐久間象山の高弟、北沢乾堂先生、高田中学に赴任、漢文を学ぶ
・1900年(明治33) 学校の空気にあきたらず、文芸雑誌、政治雑誌を濫読。数学ができず落第する
・1901年(明治34) 4月6日に上京、早稲田大学予備校に入学、専門部英文哲学科より転じて大学部英文科に修学する
・1903年(明治36) 「合歓の花」を「スケッチ」に発表する
・1904年(明治37) 「帰想」、「故郷」を「読売新聞」、「漂浪児」を「新小説」に発表する
・1905年(明治38) 早稲田大学英文科卒業(卒業論文「ラフカディオ・ハーンを論ず」)、「鬼子母神」を「読売新聞」、「霞に霙」を「新小説」に発表、好評を得て作家的地位を確立する
・1906年(明治39) 越後長岡市山田藤次郎長女キチと結婚、早稲田文学社に入り、島村抱月氏指導のもとに「少年文庫」を編集する
・1907年(明治40) 第一短編集『愁人』が坪内逍遥序文、竹久夢二装丁、中沢弘光口絵で降文館より出版される、正宗白鳥氏の紹介で読売新聞社に入社、社会部の夜勤記者となる
・1908年(明治41) 新ロマンチシズムの文学研究会「青鳥会」をつくる、「秀才文壇」の記者となる
・1909年(明治42) 雑誌記者その他全ての勤めをやめて文筆で起とうと決心する
・1910年(明治43) 生活貧困をきわめ、ラフカディオ・ハーンやメーテルリンクなどの本を売りはらい、日本最初の創作童話集とされる第一童話集「赤い船」を出す
・1911年(明治44) 代表作のひとつ「物言はぬ顔」を「新小説」に、「薔薇と巫女」を「早稲田文学」に発表する
・1912年(明治45) 唯一の長編小説「魯鈍な猫」を「読売新聞」に連載、5月「北方文学」を創刊、主幹となったが4号で終刊となる
・1916年(大正5) 文化学会員となり、嶋中雄三氏らを知る
・1919年(大正8) 著作家組合会員となり、大庭柯公、堺利彦、長谷川如是閑、有島武郎氏らと知り合う。新しく創刊された児童雑誌「おとぎの世界」をしばらく主宰し、「牛女」、「金の輪」、「北海の白鳥」などを書く
・1920年(大正9) 一家親子4人流感にかかり、重体におちいり、病後伊豆山で静養、日本社会主義同盟の発起に参加する
・1921年(大正10) 代表作の一つとされる「赤い蝋燭と人魚」を「朝日新聞」にかく。また「火を点ず」を「種蒔く人」に、「港についた黒んぼ」を「童話」に発表する
・1922年(大正11) 出版社従業員組合員としてメーデーに参加する
・1923年(大正12) 有島武郎、片上伸、嶋中雄三氏ほか「種蒔き社」などの発起で「三人の会」(中村吉蔵、秋田雨雀、小川未明)が開かれ、未明の「野薔薇」が朗読される
・1924年(大正13) 日本フェビアン協会に入り、「社会主義研究」にも寄稿する
・1925年(大正14) 日本小説家協会員となる、「小川未明選集」(小説4巻、童話2巻、未明選集刊行会)の予約出版始まる
・1926年(大正15) 「未明選集」完結とともに小説の筆を絶ち、専心童話にいく決心をし、同志と日本無産派芸術聯盟を組織、「日本童話作家協会」創立に参加する
・1927年(昭和2) 「未明童話集」全5巻が出版される
・1928年(昭和3) 左翼文芸家聯合編の「戦争に対する戦争」に「野薔薇」を寄稿、「新興童話作家聯盟」の結成に参加する
・1929年(昭和4) 自由芸術家聯盟を結成、機関紙「童話の社会」に童話と童謡の革新を期し寄稿する
・1930年(昭和5) 東京市杉並区高円寺の新宅に移る
・1931年(昭和6) 中国にて張暁天氏訳「未明童話集」全4巻が出版される
・1933年(昭和8) 長篇童話「雪原の少年」を「国民新聞」に連載する
・1937年(昭和12) 子供研究社より児童文学雑誌「お話の木」を主宰(翌年2月発刊)する
・1941年(昭和16) 日本少国民文化協会の発足に参加する
・1944年(昭和19) 少国民文化功労賞を受ける
・1946年(昭和21) 第5回野間文芸賞を受賞、児童文学者協会創立、初代会長になり、児童文学の再建につくす
・1950年(昭和25) 「小川未明童話集」(講談社)刊行される
・1951年(昭和26) 児童文学における功績によって、芸術院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 日本芸術院会員、文化功労者となる
・1954年(昭和29) 「小川未明作品集」(全5巻)講談社より刊行開始(翌年1月完結)
・1958年(昭和33) 新版「小川未明童話全集」全12巻(講談社)の刊行開始(翌年4月完結)
・1961年(昭和36)5月11日 東京において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

772年(宝亀3)法相宗の僧道鏡の命日(新暦5月13日)詳細
1133年(長承2)浄土宗の開祖法然の誕生日(新暦5月13日)詳細
1526年(大永6)第104代の天皇とされる後柏原天皇の命日(新暦5月18日)詳細
1947年(昭和22)「労働基準法」が公布される詳細
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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、小説家・随筆家宇野千代の生まれた日です。
 宇野千代(うの ちよ)は、山口県玖珂郡横山村(現在の岩国市)で、酒造業を営む父・宇野俊次の子として生まれましたが、幼い頃に母を亡くし、義母に育てられました。1911年(明治44)の14歳の時、義母の姉の子藤村亮一に嫁入りしましたが、10日ほどで帰宅、1913年(大正2)には、父・俊次が57歳で亡くなります。
 1914年(大正3)に岩国高等女学校を卒業し、川上村小学校の代用教員となり、翌年には鑓田研一らと回覧雑誌を作り、同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡りました。1916年(大正5)に帰国し、第三高等学校学生だった亮一の弟忠を頼って京都へ行き同棲、翌年に忠が東京帝国大学に入学、ともに上京し、各種職業を転々とし、燕楽軒で働きます。
 1919年(大正8)に忠と正式に結婚し藤村姓となり、翌年に忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務すると、北海道で暮しました。1921年(大正10)に『脂粉の顔』が「時事新報」の懸賞小説一等に当選、翌年に上京、「中央公論」に『墓を暴く』が掲載されたことを知り、郷里岩国へ帰り、再び上京、尾崎士郎と同棲を始めます。
 1923年(大正12)に尾崎とともに馬込に住み小説を発表、短編集『脂粉の顔』を上梓、翌年に忠と協議離婚、筆名を宇野千代に改め、1926年(大正15)には尾崎士郎と正式結婚しました。1928年(昭和3)に梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居、1930年(昭和5)には、東郷青児と知り合い同棲、尾崎と正式に離婚しています。
 1933年(昭和8)に「中央公論「に『色ざんげ』を発表、1934年(昭和9)に東郷青児と別れ、1936年(昭和11)には『スタイル』誌を創刊しました。1939年(昭和14)に北原武夫と結婚、1947年(昭和22)にスタイル社の「文体」誌に『おはん』の連載を開始、これが、第10回野間文芸賞・第9回女流文学者賞を受賞します。
 その後も1971年(昭和46)に『幸福』で第10回女流文学賞、1972年(昭和47)に芸術院賞、1974年(昭和49)に勲三等瑞宝章、1982年(昭和57)に菊池寛賞など数々の栄誉に輝きました。女性的な情感にあふれた作風で知られ、1990年(平成2)には文化功労者ともなりましたが、1996年(平成8)6月10日に、東京都港区の虎の門病院において、急性肺炎のため98歳で亡くなっています。

〇宇野千代の主要な著作

・『脂粉の顔』(1921年)「時事新報」懸賞小説一等当選
・『色ざんげ』(1933~35年)
・『別れも愉(たの)し』(1935年)
・『未練』(1936年)
・『人形師天狗(てんぐ)屋久吉』(1942年)
・『おはん』(1947~57年)第10回野間文芸賞、第9回女流文学者賞受賞
・『刺す』(1963~66年)
・『風の音』(1969年)
・『幸福』(1970年)第10回女流文学賞受賞
・『或る一人の女の話』(1982年)
・『生きて行く私』(1982~83年)

☆宇野千代関係略年表

・1897年(明治30)11月28日 山口県玖珂郡横山村(現在の岩国市)で、酒造業を営む父・宇野俊次の子として生まれる
・1911年(明治44) 14歳の時、義母の姉の子藤村亮一に嫁入りするが十日ほどで帰宅する
・1913年(大正2) 父・俊次が57歳で没。
・1914年(大正3) 岩国高等女学校を卒業し、川上村小学校の代用教員となる
・1915年(大正4) 鑓田研一らと回覧雑誌を作り、同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡る。
・1916年(大正5) 帰国し、亮一の弟忠が第三高等学校学生だったので頼って京都へ行き同棲生活をする
・1917年(大正6) 忠が東京帝国大学に入学、ともに上京し、各種職業を転々とし、燕楽軒に働く
・1919年(大正8) 忠と正式に結婚し藤村姓となる
・1920年(大正9) 忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務、北海道に暮す
・1921年(大正10) 『脂粉の顔』が「時事新報」の懸賞小説一等に当選する
・1922年(大正11) 滝田樗陰に送った原稿の返事がないので上京、『墓を暴く』が「中央公論」に掲載されたことを知り、郷里岩国へ帰り、再上京して尾崎士郎と同棲を始める
・1923年(大正12) 尾崎とともに馬込に住み小説を発表、短編集『脂粉の顔』を上梓する
・1924年(大正13) 忠と協議離婚、筆名を宇野千代に改め、吉屋信子と親しくなる
・1926年(大正15) 尾崎士郎と正式に結婚する
・1928年(昭和3) 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居する
・1930年(昭和5) 東郷青児と知り合い同棲、尾崎と正式に離婚する
・1933年(昭和8)  「中央公論」に『色ざんげ』を発表する
・1934年(昭和9) 東郷青児と別れる
・1936年(昭和11) 「スタイル」誌を創刊する
・1939年(昭和14) 北原武夫と結婚、媒酌人は、吉屋信子と藤田嗣治が勤める
・1947年(昭和22) スタイル社の「文体」誌に『おはん』の連載を開始する
・1949年(昭和24) 井上友一郎の『絶壁』が宇野夫妻をモデルとしたものと言われ紛糾する
・1951年(昭和26)  フランス旅行をする
・1957年(昭和32) 『おはん』を上梓、第10回野間文芸賞を受賞する
・1959年(昭和34) スタイル社が倒産する
・1964年(昭和39)  北原と離婚する
・1966年(昭和41) 『刺す』を上梓する
・1971年(昭和46)  『幸福』で第10回女流文学賞を受賞する
・1972年(昭和47) 芸術院賞を受賞、芸術院会員てなる
・1974年(昭和49)  勲三等瑞宝章を受章する
・1977年(昭和52) 『宇野千代全集』の刊行が始まる
・1982年(昭和57)  菊池寛賞を受賞する
・1983年(昭和58) 自伝『生きて行く私』を刊行する
・1990年(平成2) 文化功労者となる
・1996年(平成8)6月10日 東京都港区の虎の門病院において、急性肺炎のため98歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1872年(明治5)徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細


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