ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:芸術院会員

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 今日は、昭和時代中期の1961年(昭和36)に、小説家宇野浩二の亡くなった日です。
 宇野浩二(うの こうじ)は、明治時代中頃の1891年(明治24)7月26日に、福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区)において、福岡県師範学校の教員であった父・宇野六三郎、母・京の次男として生まれましたが、本名は格次郎と言いました。1894年(明治27)に父の急死で一家は神戸市転居、1895年(明治28)には、大阪市に転居しています。
 1904年(明治37)に天王寺中学校に入学、文学を志し、交友会誌にもたびたび投稿、1909年(明治42)に卒業して、代用教員として中河内郡の小学校に赴任したものの、脚気のため辞し奈良県高市郡へ行きました。1910年(明治43)に上京し、早稲田大学英文科予科入学、1913年(大正2)には、在学中に処女著作集『清二郎 夢見る子』を刊行しています。
 1915年(大正4)に早稲田大学を中退し、初めての童話『揺籃の唄の思ひ出』を発表、1916年(大正5)には、『苦の世界』のモデルとなる伊沢きみ子と同棲したものの、翌年別れました。1919年(大正8)には、終世の友広津和郎の紹介で、『蔵の中』、『苦の世界』を発表して文壇デビュー、伊沢きみ子が自殺しています。
 『山恋ひ』(1922年)、『子を貸し屋』(1923年)などにより大正文学の中心作家となりました。しかし、1927年(昭和2)の『軍港行進曲』発表後、神経衰弱が昂じて入院しています。
 1933年(昭和8)に、『枯木のある風景』、『枯野の夢』、『子の来歴』で復活し、『夢の通ひ路』 (1937年) ,『器用貧乏』 (1938年) などの代表作を発表、1938年(昭和13)には、芥川賞選考委員ともなりました。1940年(昭和15)に第2回菊池寛賞を受賞しましたが、1945年(昭和20)に空襲の激化により、長野県へ疎開しています。
 戦後の1946年(昭和21)に上京して下宿、1948年(昭和23)には、東京の文京区に家を買って移転しました。1949年(昭和24)に芸術院会員となり、1951年(昭和26)には、『思ひ川』で第2回読売文学賞を受賞しています。
 1953年(昭和28)頃から肺結核に冒されるが、広津和郎とともに松川事件控訴審を聴き、『世にも不思議な物語』を発表します。1956年(昭和31)の孫文の九十周年生誕祭に日本代表として参加するため中国旅行しましたが、1961年(昭和36)9月21日に、東京都文京区の自宅において、肺結核のため70歳で亡くなりました。

〇宇野浩二の主要な著作

・『清二郎 夢見る子』(1913年)
・『蔵の中』(1919年)
・『苦の世界』(1919~20年)
・『山恋ひ』(1922年)
・『子を貸し屋』(1923年)
・『軍港行進曲』(1927年)
・『枯木のある風景』(1933年)
・『枯野の夢』(1933年)
・『子の来歴』(1933年)
・『夢の通ひ路』(1937年) 
・『器用貧乏』(1938年)
・『うつりかはり』(1949年)
・『思ひ川』(1951年)第2回読売文学賞受賞
・文芸評論『芥川龍之介』(1953年)
・『世にも不思議な物語』(1953年)

☆宇野浩二関係略年表

・1891年(明治24)7月26日 福岡県福岡市南湊町において、福岡県師範学校の教員であった父・宇野六三郎、母・京の次男として生まれる
・1894年(明治27) 父の急死で一家は神戸市転居する
・1895年(明治28) 大阪市に転居する
・1897年(明治30) 陸軍偕行社尋常高等小学校入学する
・1901年(明治34) 育英高等小学校に転校する
・1904年(明治37) 天王寺中学校に入学する
・1909年(明治42) 天王寺中学を卒業、代用教員として中河内郡の小学校に赴任したが脚気のため辞し奈良県高市郡へ行く
・1910年(明治43) 上京、早稲田大学英文科予科入学する
・1913年(大正2) 処女著作集『清二郎 夢見る子』を刊行する
・1914年(大正3) 永瀬義郎、鍋井克之らのはじめた美術劇場にも協力する
・1915年(大正4) 早稲田大学を中退し、初めての童話『揺籃の唄の思ひ出』発表する
・1916年(大正5) 『苦の世界』のモデルとなる伊沢きみ子と同棲する
・1917年(大正6) 芥川龍之介と知り合い、伊沢きみ子と別れる
・1919年(大正8) 広津和郎の紹介で、『蔵の中』、『苦の世界』を発表して文壇デビュー、伊沢きみ子が自殺する
・1920年(大正9) 下諏訪で知り合った芸妓村田キヌと結婚する
・1922年(大正11) 『山恋ひ』を刊行する
・1923年(大正12) 『子を貸し屋』を刊行する
・1927年(昭和2) 『軍港行進曲』発表後、神経衰弱が昂じて入院する
・1933年(昭和8) 復活第1作『枯れ木のある風景』を「改造」に発表、「日曜会」の集まりが始まる
・1938年(昭和13) 芥川賞選考委員となる
・1940年(昭和15) 第2回菊池寛賞を受賞する
・1945年(昭和20) 長野県へ疎開する
・1946年(昭和21) 妻キヌ死去し、上京して下宿する
・1948年(昭和23) 東京の文京区に家を買って移転する
・1949年(昭和24) 芸術院会員になる
・1951年(昭和26) 『思ひ川』で第2回読売文学賞を受賞、星野玉子と結婚する
・1953年(昭和28) この頃から肺結核に冒されるが、広津和郎とともに松川事件控訴審を聴き、『世にも不思議な物語』を発表する
・1956年(昭和31) 孫文の九十周年生誕祭に日本代表として参加するため中国旅行する
・1961年(昭和36)9月21日 東京都文京区の自宅において、肺結核のため70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家菱田春草の誕生日詳細
1919年(大正8)法学者・憲法学者・最高裁判所判事伊藤正己の誕生日詳細
1934年(昭和9)室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る詳細
1943年(昭和18)東条英機内閣において、「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」が閣議決定される詳細
1950年(昭和25)シャウプ使節団(第二次)の正式報告書全文(第二次シャウプ勧告)が出される詳細
1954年(昭和29)実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日詳細
1968年(昭和43)小説家・評論家広津和郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、洋画家小磯良平の亡くなった日です。
 小磯良平(こいそ りょうへい)は、明治時代後期の1903年(明治36)7月25日に、兵庫県神戸市神戸(現在の中央区)において、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれました。兵庫県立第二神戸中学校を経て、1922年(大正11)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学し、藤島武二に学びます。
 在学中の1925年(大正15)に、『兄妹』が帝展に入選、1927年(昭和2)には「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校を卒業しました。1928年(昭和3)にフランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学び、サロン・ドートンヌにも出品、1930年(昭和5)には帰国し、光風会会員となります。
 1932年(昭和7)に裁縫女』が帝展特選となったものの、1936年(昭和11)には、官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成しました。1938年(昭和13)に陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡り、戦争画を描き、1940年(昭和15)には、『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞します。
 1941年(昭和16)新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をしました。太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけ、1953年(昭和28)からは東京芸術大学教授となって後進の指導にあたります。
 1958年(昭和33)に『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞、1971年(昭和46)には、東京芸術大学教授を辞めました。1973年(昭和48)に勲三等旭日中綬章、1974年(昭和49)に赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作、1979年(昭和54)に文化功労者、1982年(昭和57)に芸術院会員と数々の栄誉に輝きます。
 卓抜した描写と近代的感覚で、女性像に独自の画境を展開、1983年(昭和58)には文化勲章を受章、神戸市名誉市民ともなったものの、1988年(昭和63)12月16日に兵庫県神戸市において、85歳で亡くなりました。尚、1992年(平成4)に「神戸市立小磯記念館」がオープン、「小磯良平大賞展」も創設されます。

〇小磯良平の主要な作品

・『兄妹』(1925年)帝展入選
・『T嬢の像』(1926年)帝展特選受賞 兵庫県立美術館蔵
・『裁縫女』(1932年)帝展特選受賞
・『日本髪の娘』(1935年)
・『踊り子』 (1938年) 
・『南京中華門戦闘図』(1939年)朝日文化賞受賞
・『斉唱』 (1941年)
・『娘子関を征く』(1941年)第1回帝国芸術院賞受賞
・『家族』(1958年)第3回現代日本美術展の大衆賞受賞

☆小磯良平関係略年表

・1903年(明治36)7月25日 兵庫県神戸市神戸(現在の中央区)において、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれる
・1922年(大正11) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する
・1925年(大正15) 在学中『兄妹』が帝展に入選する
・1927年(昭和2) 「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業する
・1928年(昭和3) フランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学ぶ
・1930年(昭和5) フランスから帰国し、光風会会員となる
・1932年(昭和7) 『裁縫女』が帝展特選となる
・1936年(昭和11) 官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成する
・1938年(昭和13) 陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡る
・1940年(昭和15) 『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞する
・1941年(昭和16) 新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をする
・1947年(昭和22) 「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がける
・1953年(昭和28) 東京芸術大学教授となる
・1958年(昭和33) 『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞する
・1971年(昭和46) 東京芸術大学教授を辞める
・1973年(昭和48) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1974年(昭和49) 赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作する
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1982年(昭和57) 芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章、神戸市名誉市民となる
・1988年(昭和63)12月16日 兵庫県神戸市において、85歳で亡くなる
・1992年(平成4) 「神戸市立小磯記念館」がオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、映画監督・脚本家小津安二郎の亡くなった日(誕生日でもある)です。
 小津安二郎(おづ やすじろう)は、明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。
 1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。
 その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。
 1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。
 1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。
 さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

〇小津安二郎監督作品一覧

・「懺悔の刃」(1927年)
・「若人の夢」(1928年)
・「女房紛失」(1928年)
・「カボチャ」(1928年)
・「引越し夫婦」(1928年)
・「肉体美」(1928年)
・「宝の山」(1929年)
・「学生ロマンス」 若き日(1929年)
・「和製喧嘩友達」(1929年)
・「大学は出たけれど」(1929年)
・「会社員生活」(1929年)
・「突貫小僧」(1929年)
・「結婚学入門」(1930年)
・「朗らかに歩め」(1930年)
・「落第はしたけれど」(1930年)
・「その夜の妻」(1930年)
・「エロ神の怨霊」(1930年)
・「足に触った幸運」(1930年)
・「お嬢さん」(1930年)
・「淑女と髭」(1931年)
・「美人哀愁」(1931年)
・「東京の合唱(コーラス)」(1931年)
・「春は御婦人から」(1932年)
・「大人の見る絵本 生れてはみたけれど」(1932年)
・「青春の夢いまいづこ」(1932年)
・「また逢ふ日まで」(1932年)
・「東京の女」(1933年)
・「非常線の女」(1933年)
・「出来ごころ」(1933年)
・「母を恋はずや」(1934年)
・「浮草物語」(1934年)
・「箱入娘」(1935年)
・「菊五郎の鏡獅子」(1935年)
・「東京の宿」(1935年)
・「大学よいとこ」(1936年)
・「一人息子」(1936年)
・「淑女は何を忘れたか」(1937年)
・「戸田家の兄妹」(1941年)
・「父ありき」(1942年)
・「長屋紳士録」(1947年)
・「風の中の牝鶏(めんどり)」(1948年)
・「晩春」(1949年)
・「宗方姉妹」(1950年)
・「麦秋」(1951年)
・「お茶漬の味」(1952年)
・「東京物語」(1953年)
・「早春」(1956年)
・「東京暮色」(1957年)
・「彼岸花」(1958年)
・「お早よう」(1959年)
・「浮草」(1959年)
・「秋日和」(1960年)
・「小早川家の秋」(1961年)
・「秋刀魚の味」(1962年)

☆小津安二郎関係略年表

・1903年(明治36)12月12日 東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれる
・1910年(明治43) 深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学する
・1913年(大正2)3月 一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住する
・1916年(大正5) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送る
・1921年(大正10) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)を卒業する
・1922年(大正11) 三重県師範学校受験に失敗し、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となる
・1923年(大正12) 松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所する
・1924年(大正13)12月 東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営する
・1925年(大正14)11月 伍長で除隊となる
・1927年(昭和2) 時代劇「懴悔の刃」で監督デビューする
・1929年(昭和4) 「大学は出たけれど」を監督する
・1930年(昭和5) 「落第はしたけれど」を監督する
・1931年(昭和6) 「東京の合唱」を監督する
・1932年(昭和7) 「生まれてはみたけれど」を監督する
・1934年(昭和9)4月 父・寅之助が亡くなる
・1936年(昭和11) トーキー「一人息子」を監督する
・1937年(昭和12)9月10日 召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊する
・1939年(昭和14)7月16日 召集解除となる
・1943年(昭和18)6月 軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在する
・1945年(昭和20)8月 シンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送くる
・1946年(昭和21)2月 日本へ帰還する
・1947年(昭和22) 戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督する
・1949年(昭和24) 「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞を受賞する
・1949年(昭和24) 「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞する
・1953年(昭和28) 「東京物語」を監督する
・1958年(昭和33) 紫綬褒章を受章する
・1959年(昭和34)2月 日本芸術院賞を受賞する
・1961年(昭和36) 芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞を受賞する
・1962年(昭和37) 「秋刀魚の味」を監督する
・1962年(昭和37)11月 映画人として初めて芸術院会員となる
・1963年(昭和38) ブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞する
・1963年(昭和38)12月12日 東京において、60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、日本画家堅山南風の生まれた日です。
 堅山南風(かたやま なんぷう)は、熊本県熊本市で、父・武次郎、母・シゲの三男として生まれましたが、本名は熊次(くまじ)と言いました。1888年(明治21)に母、1893年(明治26)に父を亡くし、以後祖父によって養育されます。
 1904年(明治37)に破産により代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓、9月に祖父武八が亡くなりました。1906年(明治39)頃に地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事、1909年(明治42)に上京し「南風」の号を自ら選び、歴史画家高橋広湖の門に入ります。
 翌年に巽画会に絵巻物「風の往来」を出品して三等褒賞を受けましたが、文展には4年連続して落選しました。1913年(大正2)に巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞、「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受けます。
 翌年に横山大観に師事、「日和つづき」を第1回院展に出品し入選しました。1916年(大正5)から荒井寛方のインド旅行にでかけ、翌年に帰国、1921年(大正10)に織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成、1924年(大正13)には、日本美術院同人に推挙されます。
 1926年(大正15)に東京府美術院評議員に任命され、「魚楽図連作」(1926年)、「夏題十趣」(1927年)、「銷夏帖連作」(1929年)、「射翠帖連作」(1934年)などを発表しました。1940年(昭和15)に前年度院展出品作「千里壮心」が第1回西日本文化賞に選ばれましたが、太平洋戦争末期に空襲が激しくなると、1945年(昭和20)6月には、横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開します。
 太平洋戦争後は、日展にも出品するようになり、1946年(昭和21)に日展審査員、1955年(昭和30)には日展運営会参事ともなりました。1958年(昭和33)に芸術院会員、1963年(昭和38)に文化功労者、1964年(昭和39)に勲三等旭日中綬章、1968年(昭和43)には文化勲章と数々の栄誉にも輝きます。
 鯉をはじめとする花鳥画などにすぐれ、晩年になっても、日光山輪王寺薬師堂の鳴竜の天井画を復原したり、1975年(昭和50)にタヒチへ写生旅行に行ったりしていたものの、1980年(昭和55)12月30日に静岡県田方郡の別荘において、93歳で亡くなりました。

〇堅山南風の主要な作品

・『霜月頃』(1913年)第7回文展二等賞
・『魚楽図連作』(1926年)
・『夏題十趣』(1927年)
・『銷夏帖連作』(1929年)
・『O氏像(奥村土牛)』(1929年)
・『M先生(武者小路実篤)』(1932年)
・『大観先生』(1932年)
・『射翠帖連作』(1934年)
・『白雨』(1951年)東京国立近代美術館蔵
・『応接間の人』(1958年)東京国立近代美術館蔵
・『静子夫人』(1960年)
・『K先生』(1964年)
・日光山輪王寺薬師堂天井画『鳴竜』(1968年)
・『新涼の客(汀女(ていじょ)さん)』(1969年)

☆堅山南風関係略年表

・1887年(明治20)9月12日 熊本県熊本市で、父・武次郎、母・シゲの三男として生まれる
・1888年(明治21)8月1日 母・シゲが落雷のため不慮の死をとげる
・1893年(明治26)5月21日 父・武次郎が病没、以後祖父に養育される
・1894年(明治27)4月 熊本市立壷川小学校に入学する
・1898年(明治31)3月 壷川小学校を卒業、4月に高木高等小学校に入学する
・1903年(明治36) 熊本市物産館で開催された橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら20数人出品の日本美術院巡回展を見、朦朧派の新しい画風に心酔する
・1904年(明治37) 破産し、代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓する、9月に祖父武八が亡くなる
・1906年(明治39)頃 地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事する
・1909年(明治42)5月3日 上京し「南風」の号を自ら選び、神風の紹介で、熊本山鹿出身の歴史画家高橋広湖の門に入る
・1910年(明治43)3月 第11回巽画会に「往来」を出品し三等褒賞を受ける
・1911年(明治44) 生活の窮状を見かねた師広湖が、『報知新聞』連載小説「徳川栄華物語」の挿絵を代筆させ、月30円の手当てを与える
・1912年(明治45) 巽画会出品の「路辺」が一等褒状を受賞する
・1913年(大正2) 巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞、「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受ける
・1914年(大正3) 横山大観に師事、「日和つづき」を第1回院展に出品し入選する
・1915年(大正4)3月 佐藤光(のち、三栄と改名)と結婚、第2回院展に労働者の群像を描いた「作業」を出品し、入選する
・1916年(大正5)11月25日 荒井寛方のインド旅行に便乗して海路カルカッタに向かう
・1917年(大正6)4月 帰国する
・1920年(大正9) 健康恢復と気分転換を図るため、弓道を始める
・1921年(大正10)10月 織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成する
・1924年(大正13)3月 日本美術院同人に推挙される
・1926年(大正15) 東京府美術院評議員に任命される
・1936年(昭和11)頃 俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社する
・1940年(昭和15)4月 前年度院展出品作「千里壮心」が第1回西日本文化賞に選ばれる
・1945年(昭和20)6月 横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開する
・1946年(昭和21) 日展審査員となる
・1955年(昭和30) 日展運営会参事となる
・1956年(昭和31) 熊本県文化功労者に推挙される
・1958年(昭和33) 芸術院会員となる
・1963年(昭和38) 文化功労者となる
・1964年(昭和39) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1968年(昭和43) 文化勲章を受章、日光山輪王寺薬師堂の鳴竜の天井画を復原する
・1969年(昭和44) 熊本市名誉市民となる
・1975年(昭和50) タヒチへ写生旅行する
・1980年(昭和55)12月30日 静岡県田方郡の別荘において、93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細


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hirotsukazuo01

 今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、小説家・評論家広津和郎の亡くなった日です。
 広津和郎(ひろつ かずお)は、1891年(明治24)12月5日に、東京牛込矢来町で、硯友社の作家だった父・広津柳浪と母・須美(旧姓・蒲池)の次男として生まれました。年少の頃より文学に親しみ、1904年(明治37)に麻布中学校に入学後、「女子文壇」や「萬朝報」に投書し、時々賞金をもらっています。
 1909年(明治42)に中学校卒業後、早稲田大学文科予科に入学、翌年には英文科に進み、葛西善蔵らと共に、同人雑誌『奇蹟』を創刊、短編、翻訳などを発表しました。1913年(大正2)に卒業後、半年ほどして「毎夕新聞」に勤め、退社後、1916年(大正5)に雑誌『洪水以後』の文芸時評を担当し、最初は批評家として認められます。
 翌年に雑誌「中央公論」に小説『神経病時代』を発表、新進作家として登場、以後、『二人の不幸者』(1918年)、『やもり』(1919年)などを発表しました。また、「怒れるトルストイ」、「志賀直哉論」などを収めた評論集『作者の感想』(1920年)を刊行、評論家としての評価も高まります。
 その頃勃興してきたプロレタリア文学には、その政治万能主義を警戒しつつ自由な知識人の立場から接近し、同伴者作家と称され、小説『風雨強かるべし』(1933~34年)はその代表作とされました。昭和時代前期の軍国主義の流れには、「散文精神について」(1936年)、「心臓の問題」(1937年)などを書いて、抵抗の姿勢を示しています。
 太平洋戦争が激化すると、静岡県熱海に疎開し、戦後の1949年(昭和24)には芸術院会員となり、後に文芸家協会会長も務めました。晩年は、松川事件に関心を抱き、松川事件対策協議会の会長となると共に、その政治性と正面から取組んだ評論『松川裁判』(1954~58年)で知られましたが、1968年(昭和43)9月21日に、心臓発作をおこして熱海国立病院において、数え年77歳で亡くなっています。

〇広津和郎の主要な著作

・小説『神経病時代』(1917年)
・小説『二人の不幸者』(1918年)
・小説『師崎行』(1918年)
・小説『やもり』(1919年)
・小説『波の上』(1919年)
・評論集『作者の感想』(1920年)
・小説『わが心を語る』(1929年)
・小説『風雨強かるべし』(1933~34年)
・小説『青麦』(1936年)
・小説『巷の歴史』(1940年)
・評論集『わが文学論』(1953年)
・小説『泉への道』(1953年)
・小説『誘蛾燈』(1953年)
・評論『松川裁判』(1958年)
・回想録『年月のあしおと』正続(1963、67年)

☆広津和郎関係略年表

・1891年(明治24)12月5日 東京牛込矢来町で、広津柳浪と須美(旧姓・蒲池)の次男として生まれる
・1898年(明治31) 7歳の時、東京市立赤城小学校に入学、母・須美が結核で病死する
・1900年(明治33) 9歳の時、東京牛込弁天町に転居する
・1902年(明治35) 11歳の時、父が再婚し継母・潔子を迎える
・1904年(明治37) 13歳の時、麻布中学校に入学、東京麻布霞町、笄町に転居する
・1905年(明治38) 14歳の時、東京麻布霞町に転居、雑誌『女子文壇』に短文「不眠の夜」を投稿、特別賞を得る
・1907年(明治40) 16歳の時、正宗白鳥の『妖怪画』を読み小説に関心をもった。
・1908年(明治41) 17歳の時、『微笑』が「万朝報」の懸賞小説に当選、賞金10円を得る
・1909年(明治42) 18歳の時、麻布中学校を卒業、早稲田大学文科予科に入学する
・1910年(明治43) 19歳の時、早稲田大学英文科に進学する
・1912年(明治45) 21歳の時、葛西善蔵・光用穆・相馬泰三・峯岸幸作らとともに、同人雑誌『奇蹟』を創刊する
・1913年(大正2) 22歳の時、早稲田大学を卒業、麻布本村町に転居、モーパッサンの『女の一生』を翻訳して植竹書院から出版する
・1914年(大正3) 23歳の時、補充兵教育召集で3ヶ月召集されたが、結核の疑いで世田谷の衛戍病院入院、父の紹介で毎夕新聞に入社する
・1915年(大正4) 24歳の時、毎夕新聞を退社し、相馬泰三の紹介で植竹書院翻訳部に入社、トルストイの『戦争と平和』を翻訳する
・1916年(大正5) 25歳の時、予備召集で3週間召集される、神奈川県鎌倉坂の下に転居する
・1917年(大正6) 26歳の時、雑誌『トルストイ研究』に「怒れるトルストイ」を発表、雑誌『中央公論』に「神経病時代」を発表、文壇的処女作となる
・1918年(大正7) 27歳の時、長女・桃子が生まれる
・1919年(大正8) 28歳の時、雑誌『中央公論』に「死児を抱いて」を発表する
・1923年(大正12) 32歳の時、友人と出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版するが失敗し借金を抱える
・1924年(大正13) 33歳の時、「散文芸術の位置」を雑誌『新潮』に発表する
・1928年(昭和3) 37歳の時、父・広津柳浪が病死する
・1929年(昭和4) 38歳の時、芸術社の債務償還や兄夫婦の生活費のために大森書房を設立する
・1930年(昭和5) 39歳の時、婦人公論に『女給』を連載、東京世田谷豪徳寺に家を新築し転居する
・1933年(昭和8) 42歳の時、報知新聞に『風雨強かるべし』を連載、宇野浩二とともに「文学界」同人となる
・1936年(昭和11) 45歳の時、人民文庫講演会で「散文精神について」と題して講演する
・1937年(昭和12) 46歳の時、「心臓の問題」「歴史を逆転させるもの」を雑誌『文芸春秋』に発表する
・1939年(昭和14) 48歳の時、長男・賢樹、継母・潔子が病死する
・1941年(昭和16) 50歳の時、朝鮮・満州を旅行する
・1942年(昭和17) 51歳の時、日本文学報国会結成の会議に参加する
・1944年(昭和19) 51歳の時、世田谷豪徳寺の家を売り世田谷四丁目の家を買い転居、静岡県熱海市清水町に疎開する
・1946年(昭和21) 55歳の時、国立熱海病院で診察の結果膀胱癌ではなくバンビロームと判り手術を受ける
・1949年(昭和24) 58歳の時、芸術院会員となる
・1950年(昭和25) 59歳の時、熱海の大火で清水町の家が焼失、下天神町の新居に移る
・1951年(昭和26) 60歳の時、松川事件の被告らが書いた「真実は壁を透して」を読み、松川事件に関心を抱く
・1953年(昭和28) 62歳の時、宇野浩二らとともに松川事件第二審公判傍聴のために仙台に行き、事件現場を視察、松川事件被告の無罪を訴える「真実を阻むもの」を雑誌『中央公論』に発表する
・1958年(昭和33) 67歳の時、松川事件対策協議会の会長となる
・1961年(昭和36) 70歳の時、松川事件の仙台高裁差し戻し公判で、被告全員に無罪判決が出る
・1963年(昭和38) 72歳の時、松川事件の最終判決がくだり、被告全員の無罪が確定する
・1968年(昭和43)9月21日 心臓発作をおこして熱海国立病院において、数え年77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家菱田春草の誕生日詳細
1934年(昭和9)室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る詳細
1954年(昭和29)実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日詳細





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