ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:芸術家

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 今日は、平成時代の2000年(平成12)に、芸術家・皮革工芸家大久保婦久子が亡くなった日です。
 大久保婦久子(おおくぼ ふくこ)は、大正時代の1919年(大正8)1月19日に、静岡県加茂郡下田町(現在の下田市)において生まれましたが、本名はふくと言いました。静岡県立下田高等女学校(現在の県立下田南高等学校)を経て、1935年(昭和10)に、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)師範科西洋画部に入学し、在学中に皮革染織を学びます。
 1939年(昭和14)に同校を卒業し、最初は画家を志ざしましたが、戦後は、本格的に皮革工芸に取り組みました。1950年(昭和25)に東京銀座資生堂で個展を開催し、翌年から山崎覚太郎に師事、1952年(昭和27)には、「逍遥」(3枚折りスクリーン)で、第8回日展に初入選します。
 1955年(昭和30)に「春昼」(キャビネット)で、第1回新日展北斗賞を受賞し、1958年(昭和33)には、単身で渡欧し、皮革工芸研究のためイタリアに滞在しました。1961年(昭和36)に「うたげ」で、第4回新日展特選および北斗賞を受賞、翌年には、日展無鑑査となり、第1回現代工芸美術協会展に「黒い太陽」を出品して初入選します。
 1964年(昭和39)に「まりも」で第7回日展菊華賞を受賞、1965年(昭和40)に日展工芸部審査員および現代工芸美術協会会員、1966年(昭和41)には、日展会員となりました。1969年(昭和44)に総合美術展「潮」を結成、1981年(昭和56)に「折」で、第20回日本現代工芸美術展内閣総理大臣賞、1983年(昭和58)に「神話」で、第39回日本芸術院賞を受賞しています。
 1985年(昭和60)に皮革工芸では初の日本芸術院会員となり、現代工芸美術家協会副会長、1986年(昭和61)に日展常務理事に就任、1987年(昭和62)には、皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し、その同人となりました。1989年(平成元)に勲三等瑞宝章を受章、郷里の静岡県立美術館で「大久保婦久子展」を開催、1995年(平成7)には、文化功労者となります。
 2000年(平成12)11月3日に文化勲章を受章したものの、翌日に東京都新宿区の病院において、心不全のため81歳で亡くなりました。同年12月に、郷里の下田市から名誉市民の称号を追贈され、2004年(平成16)には、大久保の作品の有効利用および皮革工芸技術の伝承を図ることを目的に、下田市が「大久保婦久子顕彰基金条例」を制定しています。

〇大久保婦久子関係略年表

・1919年(大正8)1月19日 静岡県加茂郡下田町(現在の下田市)において、生まれる
・1931年(昭和6) 下田尋常高等小学校を卒業し、静岡県立下田高等女学校(現在の県立下田南高等学校)に入学する
・1935年(昭和10) 静岡県立下田高等女学校を卒業し、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)師範科西洋画部に入学する
・1939年(昭和14) 女子美術専門学校師範科西洋画部を卒業する
・1950年(昭和25) 東京銀座資生堂で個展を開催する
・1951年(昭和26) 山崎覚太郎に師事する
・1952年(昭和27) 「逍遥」(3枚折りスクリーン)で、第8回日展に初入選する
・1953年(昭和28) 「四季」(4枚折りスクリーン)を第9回日展に出品、「向日葵」を第39回光風展に出品する
・1955年(昭和30) 「春昼」(キャビネット)で、第1回新日展北斗賞を受賞する
・1958年(昭和33) 単身で渡欧し、皮革工芸研究のためイタリアに滞在する
・1961年(昭和36) 「うたげ」で、第4回新日展特選および北斗賞を受賞する
・1962年(昭和37) 日展無鑑査となり、第1回現代工芸美術協会展に「黒い太陽」を出品して初入選する
・1964年(昭和39) 「まりも」で第7回日展菊華賞を受賞する
・1965年(昭和40) 日展工芸部審査員および現代工芸美術協会会員となる
・1966年(昭和41) 日展会員となる
・1969年(昭和44) 総合美術展「潮」を結成する
・1979年(昭和54) 中国へ旅行する
・1980年(昭和55) 現代女流美術展に招待出品、光風会を退会する
・1981年(昭和56) 「折」で、第20回日本現代工芸美術展内閣総理大臣賞を受賞する
・1982年(昭和57) 第14回日展に「神話」を出品する
・1983年(昭和58) 「神話」で、第39回日本芸術院賞を受賞する
・1985年(昭和60) 皮革工芸では初の日本芸術院会員となり、現代工芸美術家協会副会長に就任する
・1986年(昭和61) 日展常務理事に就任する
・1987年(昭和62) 皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し、その同人となる。
・1989年(平成元) 勲三等瑞宝章を受章、郷里の静岡県立美術館で「大久保婦久子展」を開催する
・1995年(平成7) 文化功労者となる
・2000年(平成12)11月3日 文化勲章を受章する
・2000年(平成12)11月4日 東京都新宿区の病院において、心不全のため81歳で亡くなり、郷里の下田市から名誉市民の称号を追贈される
・2004年(平成16) 大久保の作品の有効利用および皮革工芸技術の伝承を図ることを目的に、下田市が「大久保婦久子顕彰基金条例」を制定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)武将・戦国大名・後北条氏5代目当主北条氏直の命日(新暦12月19日)詳細
1854年(嘉永7)安政東海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月23日)詳細
1946年(昭和21)「国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)」が発効する詳細
1974年(昭和49)薬学者・薬化学者落合英二の命日詳細
1978年(昭和53)国鉄が「いい日 旅立ち」キャンペーンを開始する詳細
2000年(平成12)宮城県上高森遺蹟等で発見の前期旧石器が捏造と判明(旧石器捏造事件の発覚)詳細
2004年(平成16)医学者・生化学者西塚泰美の命日詳細
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okamototarou01
 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、芸術家岡本太郎が亡くなった日です。
 岡本太郎(おかもと たろう)は、明治時代後期の1911年(明治44)2月26日に、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子(現在の川崎市高津区二子)において、漫画家の父・岡本一平、歌人・小説家の母・かの子の長男として生まれました。1918年(大正7)に、2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学、1929年(昭和4)に慶應義塾普通部を卒業後、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科入学したものの、半年後に中退します。
 父のロンドン軍縮会議取材に伴い、渡欧、パリ大学ソルボンヌ校で哲学・美学・心理学・民族学を学び、1939年(昭和14)に卒業しました。1940年(昭和15)にパリ陥落の直前に帰国、1941年(昭和16)には、二科会に入り、二科展に「傷ましき腕」(油彩)、「コントルポアン」(シルクスクリーン)などを出品し、二科賞を受賞します。
 1942年(昭和17)に徴兵検査を受け、召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送りました。1945年(昭和20)に空襲により、自宅に焼夷弾が投下され、パリ時代の全作品が焼失、戦後の1946年(昭和21)に復員し、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構えます。
 1951年(昭和26)に東京国立博物館で縄文土器を見て、縄文文化への関心を高め、1952年(昭和27)には、「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表しました。1959年(昭和34)に初めて沖縄に旅行、フランスの国際建築絵画大賞受賞、1961年(昭和36)に、『忘れられた日本―沖縄文化論』が第15回毎日出版文化賞を受賞します。
 1967年(昭和42)に、大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任、1970年(昭和45)には、大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館「太陽の塔」完成しました。1981年(昭和56)に、ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が流行語大賞の語録賞を受賞、1984年(昭和59)には、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章します。
 1989年(平成元)に、アメリカの第29回国際放送広告賞受賞、フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章するなど国際的に評価されるようになりました。1993年(平成5)に全業績で第31回歴程賞を受賞、1994年(平成6)に、三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント「であい」制作しましたが、1996年(平成8)1月7日に、東京の慶應義塾大学病院において、急性呼吸不全のためて84歳で亡くなっています。

〇岡本太郎の主要な作品

<美術作品>
・「傷ましき腕」(1936年)二科賞受賞
・「太陽の塔」(1970年)
・「パリ国際センター会議場の大壁画」(1975年)
・「夜」

<著作>
・『アヴァンギャルド芸術』
・『日本の伝統』(1956年)
・『日本再発見』(1958年)
・『忘れられた日本―沖縄文化論』(1961年)第15回毎日出版文化賞受賞
・『美の呪力』(1971年)
・『美の世界旅行』(1982年)

☆岡本太郎関係略年表

・1911年(明治44)2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子(現在の川崎市高津区二子)において、父・岡本一平、母・かの子の長男として生まれる
・1917年(大正6) 東京・青山の青南小学校に入学する
・1918年(大正7) 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学する
・1929年(昭和4) 慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科入学、半年後中退。父のロンドン軍縮会議取材に伴い、渡欧し、パリ大学ソルボンヌ校で哲学・美学・心理学・民族学を学ぶ
・1933年(昭和8) 国際的な抽象芸術運動のアプストラクシオン・クレアシオン協会に参加する
・1936年(昭和11) 油彩「傷ましき腕」を制作、神秘主義と政治革命を目指す「社会学研究所」に加わる
・1937年(昭和12) アプストラクシオン・クレアシオン協会を脱退する
・1938年(昭和13) パリ国際超現実派展に参加して、シュルレアリストたちと交友を深める
・1939年(昭和14) パリ大学ソルボンヌ校民族学科を卒業する
・1940年(昭和15) パリ陥落の直前に帰国する
・1941年(昭和16) 二科会に入り、二科展に「傷ましき腕」(油彩)、「コントルポアン」(シルクスクリーン)などを出品し、二科賞を受賞する
・1942年(昭和17) 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格、召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る
・1945年(昭和20)5月 東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失する
・1946年(昭和21) 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える
・1947年(昭和22) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う
・1948年(昭和23) 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成する
・1949年(昭和24) 翌年の現代美術自選代表作十五人展のために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画「傷ましき腕」「露天」を再制作する
・1950年(昭和25) 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品する
・1951年(昭和26) 東京国立博物館で縄文土器を見る(11月7日)
・1952年(昭和27) 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く
・1954年(昭和29) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立、『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行する
・1955年(昭和30) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く
・1956年(昭和31) 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に「日の壁」「月の壁」など11の陶板レリーフを制作する
・1957年(昭和32) 46歳にしてスキーを始める
・1959年(昭和34) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める、フランスの国際建築絵画大賞を受賞する
・1961年(昭和36) 草津白根山でスキー中に骨折入院、療養中に油彩「遊ぶ」、彫刻「あし」を制作、『忘れられた日本―沖縄文化論』が第15回毎日出版文化賞を受賞する
・1964年(昭和39) 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザインする
・1965年(昭和40) 名古屋・久国寺の梵鐘「歓喜」制作する
・1967年(昭和42) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任する
・1968年(昭和43) 初めての建築作品「マミ会館」が竣工する
・1969年(昭和44) 1968年から制作が開始されていた「明日の神話」完成する
・1970年(昭和45) 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館「太陽の塔」完成する
・1973年(昭和48) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛ぶ
・1974年(昭和49) NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画「天に舞う」制作する
・1976年(昭和51) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として「顔のグラス」を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる
・1977年(昭和52) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される
・1978年(昭和53) 毎日放送のテレビ番組「もうひとつの旅」撮影のために訪れたマヨルカ島で、ショパンが使用したピアノを弾く
・1979年(昭和54) 慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作する
・1980年(昭和55) 新宿小田急グランドギャラリーで回顧展を開催する
・1981年(昭和56) 初めてコンピューターで絵を描く、日立マクセルのCMに出演、ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を受ける
・1982年(昭和57) 慶和幼稚園(名古屋市港区)の新園舎の竣工にあたり、遊戯室にモザイク壁画「あそび」を制作する
・1984年(昭和59) フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章する
・1985年(昭和60) つくば万博のシンボルモニュメント「未来を視る」を制作、こどもの城のシンボルモニュメント「こどもの樹」を制作する
・1986年(昭和61) 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ
・1988年(昭和63) ダスキンのCMに出演する
・1989年(平成元) アメリカの第29回国際放送広告賞受賞、フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章する
・1991年(平成3) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される、自作352点(500億円相当)を川崎市に寄贈する
・1992年(平成4) 油彩「疾走する眼」制作する
・1993年(平成5) 全業績で第31回歴程賞を受賞する
・1994年(平成6) 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント「であい」制作する
・1996年(平成8)1月7日 東京の慶應義塾大学病院において、急性呼吸不全のためて84歳で亡くなる
・1998年(平成10)5月 住居兼アトリエを公開する「岡本太郎記念館」が開館する
・1999年(平成11) 川崎市に「川崎市岡本太郎美術館」が開館する
・2020年(令和2) 万博記念公園にある「太陽の塔」が、国の登録有形文化財に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
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