ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:芥川賞

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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、小説家・ノーベル文学賞作家大江健三郎が生まれた日です。
 大江健三郎(おおえ けんざぶろう)は、愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれましたが、1944年(昭和19)に父が亡くなりました。1950年(昭和25)に愛媛県立内子高校に入学、1951年(昭和26)の二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合います。
 1953年(昭和28)に卒業後、1年浪人して、1954年(昭和29)に東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆し、1956年(昭和31)には、フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事しました。1957年(昭和32)に東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、1958年(昭和33)には、『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞します。
 1959年(昭和34)に卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行、1960年(昭和35)には、安保批判の会、若い日本の会に参加、『大江健三郎集』を刊行しました。1961年(昭和36)に東欧、西欧、ソビエトを旅行、翌年に紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行、1964年(昭和39)には、『個人的な体験』により、第11回新潮社文学賞を受賞します。
 1965年(昭和40)にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をし、1966年(昭和41)には、『大江健三郎全集』全6巻を刊行しました。1967年(昭和42)に『万延元年のフットボール』で、第3回谷崎潤一郎賞を受賞、1968年(昭和43)には、オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行します。
 1970年(昭和45)に『沖縄ノート』を刊行、1971年(昭和46)には、広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊しました。1973年(昭和48)に書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』で、第26回野間文芸賞を受賞、1975年(昭和50)には、韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをしています。
 1976年(昭和51)に芥川賞選考委員(~1984年)となり、1977年(昭和52)に、『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行、1978年(昭和53)には、朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)しました。1982年(昭和57)に連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』で第34回読売文学賞、1983年(昭和58)には、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞しています。
 1989年(平成元)にEC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞、1990年(平成2)には、芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』で第1回伊藤整文学賞を受賞しました。1993年(平成5)に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞、1994年(平成6)には、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退しています。
 1996年(平成8)に米プリンストン大学の客員講師となり、翌年には、米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国しました。2002年(平成14)に仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞、2003年(平成15)に仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判、2004年(平成16)には、加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加します。
 2005年(平成17)に「大江健三郎賞」創設を発表、2007年(平成19)に『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞、2009年(平成21)には、『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞しましたが、2023年〈令和5〉3月3日に、老衰のため88歳で亡くなりました。

〇大江健三郎の主要な著作

・『奇妙な仕事』(1957年)五月祭の懸賞小説入賞
・『死者の奢り』(1957年)
・『他人の足』(1957年)
・『飼育』(1958年)第39回芥川龍之介賞受賞
・『性的人間』(1963年)
・『個人的な体験』(1964年)第11回新潮社文学賞受賞
・ルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』(1964~65年)
・随筆集『厳粛な綱渡り』(1965年)
・『万延元年のフットボール』(1967年)第3回谷崎潤一郎賞受賞
・『沖縄ノート』(1970年)
・『洪水はわが魂に及び』(1973年)第26回野間文芸賞受賞
・『ピンチランナー調書』(1976年)
・『同時代ゲーム』(1978年)
・短編連作『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』(1982年)第34回読売文学賞受賞
・『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)第10回大佛次郎賞受賞
・『懐かしい年への手紙』(1987年)
・『人生の親戚』(1990年)第1回伊藤整文学賞受賞
・三部作『燃えあがる緑の樹』(1993~95年)

☆大江健三郎関係略年表

・1935年(昭和10)1月31日 愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれる
・1944年(昭和19) 父・好太郎が亡くなる
・1947年(昭和22) 大瀬中学に入学する
・1950年(昭和25) 愛媛県立内子高校に入学する
・1951年(昭和26) 二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合う。
・1953年(昭和28) 松山東高校を卒業、東京大学を受験するが、試験を途中で放棄し帰郷、神奈川県の藤沢に下宿し、浪人生活を送る
・1954年(昭和29) 東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆する
・1955年(昭和30) 「火山」を<学園>九月号に発表、脚本「夏の休暇」執筆する
・1956年(昭和31) フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事、脚本「死人に口なし」、「獣たちの声」執筆する
・1957年(昭和32) 東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」(「獣たちの声」を小説化したもの)が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、「死者の奢り」、「他人の足」、「石膏のマスク」、「偽証の時」、戯曲「動物倉庫」を発表する
・1958年(昭和33) 「飼育」、「人間の羊」、「運搬」を発表。『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞する
・1959年(昭和34) 卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行する
・1960年(昭和35) 安保批判の会、若い日本の会に参加、短編集『孤独な青年の休暇』、長編『青年の汚名』、『大江健三郎集』を刊行する
・1961年(昭和36) 東欧、西欧、ソビエト旅行をする
・1962年(昭和37) 長編『遅れてきた青年』、紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行する
・1963年(昭和38) 長編『叫び声』を刊行する
・1964年(昭和39) 長編『日常生活の冒険』、書き下ろし長編『個人的な体験』を刊行、『個人的な体験』により第11回新潮社文学賞を受賞する
・1965年(昭和40) エッセイ集『厳粛な綱渡り』、『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をする
・1966年(昭和41) 『大江健三郎全集』全6巻を刊行する
・1967年(昭和42) 『万延元年のフットボール』を刊行、第3回谷崎潤一郎賞を受賞する
・1968年(昭和43) オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行する
・1969年(昭和44) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を刊行する
・1970年(昭和45) 評論『壊れものとしての人間-活字のむこうの暗闇』、講演集『核時代の想像力』、『沖縄ノート』を刊行する
・1971年(昭和46) 広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊する
・1972年(昭和47) 全エッセイ集『鯨の死滅する日』を刊行する
・1973年(昭和48) 書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』を刊行、第26回野間文芸賞を受賞する
・1974年(昭和49) 評論集『状況へ』、『文学ノート 付=15篇』を刊行する
・1975年(昭和50) 韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをする
・1976年(昭和51) 評論集『言葉によって 状況・文学*』、長編『ピンチランナー調書』を刊行、芥川賞選考委員となる
・1977年(昭和52) 『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行する
・1978年(昭和53) 朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)、評論『小説の方法』、評論集『表現する者 状況・文学**』を刊行する
・1979年(昭和54) 書き下ろし『同時代ゲーム』を刊行する
・1980年(昭和55) 評論集『方法を読む=大江健三郎文芸時評』、中短編集『現代伝奇集』、『大江健三郎同時代論集』全十巻を刊行する
・1982年(昭和57) 講演集『核の大火と「人間」の声』、連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』を刊行、第34回読売文学賞を受賞する
・1983年(昭和58) カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞する
・1984年(昭和59) 芥川賞選考委員を辞任する
・1985年(昭和60) 『河馬に噛まれる』を刊行する
・1987年(昭和62) 書き下ろし長編『懐かしい年への手紙』を刊行する
・1988年(昭和63) 新潮5月号にて江藤淳、開高健、石原慎太郎の四人で座談会を開く
・1989年(平成元) EC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞する
・1990年(平成2) 芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』にて第1回伊藤整文学賞を受賞する
・1991年(平成3) 政府の湾岸戦争貢献策批判の声明を出す
・1992年(平成4) 『僕が本当に若かった頃』、『人生の習慣』を刊行する
・1993年(平成5) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞する
・1994年(平成6) 長男光の作曲家としての成功を期に小説執筆の終止を宣言、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退する
・1995年(平成7) 朝日賞を受賞、ノーベル賞記念講演『あいまいな日本の私』を刊行する
・1996年(平成8) 作曲家武満徹の告別式で作家復帰を宣言、エッセイ集『ゆるやかな絆』を刊行、米プリンストン大学の客員講師となる
・1997年(平成9) 米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国する
・1998年(平成10) 『私という小説家の作り方』を刊行する
・1999年(平成11) ベルリン自由大学で客員教授として「日本作家の現実」というテーマで講義する
・2000年(平成12) 有楽町朝日ホールにて朝日賞記念講演「『知』をめぐる私の意見」を行う
・2001年(平成13) 「新しい歴史教科書をつくる会」の検定不合格を求める声明を三木睦子氏らと発表する
・2002年(平成14) 仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞する
・2003年(平成15) 仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判する
・2004年(平成16) 加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加する
・2005年(平成17) 「大江健三郎賞」創設を発表する
・2007年(平成19) 『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞受賞する
・2009年(平成21) 『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞する
・2023年〈令和5〉3月3日 老衰のため88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1883年(明治16)病理学者緒方知三郎の誕生日詳細
1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、小説家中上健次が亡くなった日です。
 中上健次(なかがみ けんじ)は、昭和時代中期の1946年(昭和21)8月2日に、和歌山県新宮市に生まれました。複雑な家族関係の中で育ち、1962年(昭和37)には、和歌山県立新宮高校に入学して、文芸部に入ります。
 1965年(昭和40)に高校卒業後、上京して大学受験を名目に上京して、同人誌「文芸首都」に参加しながら、ジャズや映画、演劇に熱中し、羽田空港などで肉体労働に従事しながら小説を書きました。1974年(昭和49)に第一作品集『十九歳の地図』で注目を集め、翌年『岬』で第74回芥川賞を受賞します。
 続く、1977年(昭和52)の『枯木灘』では郷里熊野の風土と錯綜する血縁関係をもつ人々の愛憎を神話的スケールで描き、毎日出版文化賞,芸術選奨文部大臣新人賞を受賞しました。その後も『鳳仙花』 (1980年) 、『地の果て 至上の時』(1983年)など風土や伝統に根ざす独自の作品を発表、1986年(昭和61)の『火まつり』では、毎日新聞映画コンクール脚本賞を受賞しています。
 1990年(平成2)以来、新宮市で在野の市民講座・熊野大学を主宰、翌年の湾岸戦争への日本加担に反対する声明に参加するなど多彩な活動を展開したものの、1992年(平成4)に血尿をみて年初より入院し、8月12日に腎臓癌により、46歳で亡くなりました。

〇中上健次の主要な著作

・創作集『十九歳の地図』(1974年)
・『鳩(はと)どもの家』(1975年)
・『岬(みさき)』(1975年)第74回芥川賞受賞
・エッセイ集『鳥のように獣のように』(1976年)
・『枯木灘(なだ)』(1977年)第31回毎日出版文化賞、第28回芸術選奨文部大臣新人賞受賞
・エッセイ集『紀州木の国・根の国物語』(1978年)
・短編集『化粧』(1978年)
・短編集『水の女』(1979年)
・エッセイ集『夢の力』(1979年)
・エッセイ集『破壊せよ、とアイラーは言った』(1979年)
・『水の女』(1979年)
・『鳳仙花(ほうせんか)』(1980年)
・『千年の愉楽』(1982年)
・『地の果て 至上の時』(1983年)
・『熊野集』(1984年)
・『日輪の翼』(1984年)
・『火まつり』(1986年)毎日新聞映画コンクール脚本賞受賞
・『奇蹟』(1989年)
・『讃歌』(1990年)

☆中上健次関係略年表

・1946年(昭和21)8月2日  和歌山県新宮市に生まれる 
・1953年(昭和28) 新宮市立千穂小学校に入学する 
・1959年(昭和34) 異父兄、木下行平が自殺、新宮市立緑丘中学校に入学、中上姓を名乗る
・1962年(昭和37) 和歌山県立新宮高校に入学、文芸部に入る 
・1965年(昭和40) 和歌山県立新宮高校を卒業、上京して、高田馬場、代々木、沼袋、練馬と移り住む、同人誌「文藝首都」に入会する 
・1966年(昭和41) 処女作『俺十八歳』が「文藝首都」に掲載される。 
・1967年(昭和42) 羽田闘争に参加するなど新左翼運動に関わる 
・1968年(昭和43) 「三田文学」を通じて柄谷行人と知り合う 
・1969年(昭和44) 『一番はじめの出来事』が「文藝」に掲載され商業誌デビューする 
・1970年(昭和45) 山口かすみ(紀和鏡)と結婚する
・1971年(昭和46) 長女・紀が誕生する 
・1973年(昭和48) 創作集『十九歳の地図』が芥川賞候補作となる
・1974年(昭和49) 羽田での仕事を辞め、文筆のかたわら築地魚河岸の軽子などで生計をたてる
・1975年(昭和50) 「鳩どもの家」、「浄徳寺ツアー」が続けて芥川賞候補作となる。 創作「鳩どもの家」 
・1976年(昭和51) 『岬』で第74回芥川賞を受賞する
・1977年(昭和52) 『枯木灘』で第31回毎日出版文化賞を受賞する
・1978年(昭和53) 『枯木灘』で第28回芸術選奨新人賞を受賞、韓国ソウルから全羅北道全州にかけて民俗芸能の取材旅行をおこなう
・1979年(昭和54) 野外劇「かなかぬち」が初演される
・1980年(昭和55) アメリカ生活をきりあげ三重県熊野市新鹿町に転居する
・1981年(昭和56) 韓国のソウル特別市汝矣島のアパートで単身生活する、東京都八王子市谷野町に転居する 
・1982年(昭和57) インドからパキスタン、イラン、トルコ経由でロンドンまで「マジックバス」の旅行をおこないTV放映される
・1983年(昭和58) 『地の果て 至上の時』が谷崎賞候補となるも落選する
・1984年(昭和59) 『日輪の翼』で谷崎賞候補となるも落選する
・1985年(昭和60) 映画「火まつり」が公開されてカンヌ映画祭に出品される
・1986年(昭和61) 『火まつり』で毎日新聞映画コンクール脚本賞を受賞する
・1987年(昭和62) フィンランド、ラハティで国際作家会議に参加し、講演をおこなう
・1988年(昭和63) 三島由紀夫賞が創設され選考委員となる、東京都八王子市谷野町の自宅が火災で全焼する
・1989年(平成元) 新宮市で「熊野大学準備講座」を発足させる
・1990年(平成2) 永山則夫の日本文藝家協会入会拒否に抗議して同会を脱会する
・1991年(平成3) 「湾岸戦争に反対する文学者声明」を柄谷行人らと発表する
・1992年(平成4) 血尿をみて年初より入院し、8月12日に腎臓癌により、46歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1734年(享保19)儒学者室鳩巣の命日(新暦9月9日)詳細
1957年(昭和32)朝日訴訟が提訴される詳細
1978年(昭和53)日本と中国が「日中平和友好条約」に調印する詳細


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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、小説家河野多惠子の生まれた日です。
 河野多惠子(こうの たえこ)は、大阪府大阪市西区で椎茸問屋を営む父・河野為治、母・よねの二女として生まれました。大阪府立市岡高等女学校(現在の港高等学校)を経て、1944年(昭和19)に大阪府女子専門学校(現在の大阪女子大学)経済科に入学します。
 1945年(昭和20)の大阪大空襲で罹災、太平洋戦争後は1949年(昭和24)に肺結核を発病し、2年ほど療養生活をしました。その間、1950年(昭和25)に丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』の同人となり、翌年に小説『余燼』が「文学者」に初掲載されます。
 1952年(昭和27)に上京したものの、1957年(昭和32)に肺結核を再発、1961年(昭和36)には父・為治が亡くなるなど困難が続きました。1961年(昭和36)に『幼児狩り』を発表、翌年第8回新潮同人雑誌賞を受賞、同年の『雪』と翌年の『美少女』が芥川賞候補となります。
 1963年(昭和38)に、特異な感覚で意識内の世界をえがいた『蟹』で第49回芥川賞を受賞、1965年(昭和40)には、洋画家の市川泰と結婚しました。その後、『最後の時』(1966年)で第6回女流文学賞、『不意の声』(1968年)で第20回読売文学賞、評論『谷崎文学と肯定の欲望』(1975年)で第28回読売文学賞、『一年の牧歌』(1980年)で第16回谷崎潤一郎賞と数々の栄誉に輝きます。
 1984年(昭和59)に日本芸術院賞を受賞、1987年(昭和62)から作家の大庭みな子と共に女性として初めて芥川賞の選考委員を務め、読売文学賞や谷崎潤一郎賞の選考委員にもなり、1989年(平成元)には日本藝術院会員にも選ばれました。2002年(平成12)に文化功労者となり、2014年(平成24)に文化勲章を受章しもしたが、翌年1月29日に、東京都千代田区の病院において、88歳で亡くなっています。

〇河野多惠子の主要な著作

・『余燼(よじん)』(1951年)
・『幼児狩り』(1961年)新潮社同人雑誌賞受賞
・『雪』(1962年)芥川賞候補
・『美少女』(1963年)芥川賞候補
・『蟹(かに)』(1963年)第49回芥川賞受賞
・『最後の時』(1966年)第6回女流文学賞受賞
・『不意の声』(1968年)第20回読売文学賞受賞
・『回転扉』(1970年)
・『雙夢(そうむ)』(1972年)
・評論『谷崎文学と肯定の欲望』(1975年)第28回読売文学賞受賞
・『一年の牧歌』(1980年)第16回谷崎潤一郎賞受賞
・『みいら採り猟奇譚(きたん)』(1990年)野間文芸賞受賞
・『後日の話』(1999年)毎日芸術賞・伊藤整賞受賞
・『秘事』(2000年)
・『半所有者』(2002年)川端康成文学賞受賞

☆河野多惠子関係略年表

・1926年(大正15)4月30日 大阪府大阪市西区にある椎茸問屋の父為治、母よねの二女として生まれる
・1932年(昭和7)4月 大阪市日吉幼稚園に入園するが一学期で退園する
・1933年(昭和8)4月 大阪市日吉小学校に入学する
・1939年(昭和14)4月 大阪府立市岡高等女学校(現 港高等学校)に入学する
・1944年(昭和19)4月 大阪府女子専門学校(現 大阪女子大学)経済科に入学する
・1945年(昭和20)3月 大阪大空襲で罹災、阿倍野区昭和町へ仮寓する
・1949年(昭和24)3月 肺結核を発病する
・1950年(昭和25) 丹羽文雄主宰の同人誌「文学者」の同人となる
・1951年(昭和26) 小説『余燼(よじん)』が「文学者」に初掲載される
・1952年(昭和27)5月 上京する
・1957年(昭和32)10月 肺結核を再発する
・1961年(昭和36)2月 父・為治が亡くなる
・1961年(昭和36)9月 新宿区戸塚町の下宿に転居する
・1961年(昭和36)11月 『幼児狩り』を発表
・1962年(昭和37)1月 『幼児狩り』で第8回新潮同人雑誌賞受賞、戸塚町の知人の離れに移る
・1962年(昭和37)8月 『雪』が芥川賞候補となる
・1963年(昭和38)2月 『美少女』が芥川賞候補となる
・1963年(昭和38)8月 『蟹』で第49回芥川龍之介賞を受賞する
・1963年(昭和38)12月 新宿区早稲田町に転居する
・1965年(昭和40)4月 洋画家の市川泰と結婚する
・1967年(昭和42)4月 『最後の時』で第6回女流文学賞を受賞する
・1967年(昭和42)6月 中野区本町に転居する
・1969年(昭和44)2月 『骨の肉』を発表する
・1969年(昭和44)3月 『不意の声』で第20回読売文学賞を受賞する
・1971年(昭和46)4月 千代田区三番町へ転居する
・1974年(昭和49)10月 『血と貝殻』を発表する
・1977年(昭和52)2月 『谷崎文学と肯定の欲望』で第28回読売文学賞を受賞。この年『骨の肉』が英訳される
・1979年(昭和54)1月 『一年の牧歌』を発表する
・1979年(昭和54)4月 母・よねが亡くなる
・1980年(昭和55)10月 『一年の牧歌』で第16回谷崎潤一郎賞を受賞する
・1984年(昭和59) 日本芸術院賞を受賞する
・1987年(昭和62) 芥川賞選考委員を務める
・1989年(平成元) 日本藝術院会員となる
・1991年(平成3)11月 『みいら採り猟奇譚』で野間文芸賞を受賞する
・1994年(平成6) 『河野多恵子全集』の第一巻が刊行される
・2000年(平成10)1月 『後日の話』で毎日芸術賞を受賞する
・2002年(平成12)4月 『半所有者』で川端康成文学賞を受賞する
・2002年(平成12)11月 文化功労者となる
・2006年(平成16) 芥川賞の選考委員を辞任する
・2014年(平成24) 文化勲章を受章する
・2015年(平成27)1月29日 東京都千代田区の病院において、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1950年(昭和25)図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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