今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で、「船中八策」を著したとされる日ですが、新暦では7月13日となります。
船中八策(せんちゅうはっさく)は、1867年(慶応3)6月9日に土佐藩船夕顔丸で、長崎を出発して上京する途中の船中で、同乗の土佐藩士後藤象二郎に示した新国家構想(朝廷中心の政体実現の為の8ヶ条)でした。筆記者は海援隊書記の長岡謙吉で、大政奉還、公議政体、無窮の大典(憲法)制定、海軍拡張、親兵設置、幣制改革など、集権的な統一国家を構想するものです。
大政奉還は、土佐藩の建白によって実現し、その他は、「五箇条の誓文」および新政府の課題として受け継がれました。以下に、「船中八策」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇坂本竜馬とは?
江戸時代後期に活躍した幕末の志士です。1836年1月3日(天保6年11月15日)に、土佐の高知城下(現在の高知県高知市)で、町人郷士の父坂本直足と母幸の次男としてに生まれましたが、本名は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)でした。
1848年(嘉永元)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、1853年(嘉永6)には、1年間江戸に遊学し、北辰一刀流千葉道場の門人となります。帰国してから、1861年(文久元)に、武市瑞山らの土佐勤王党結成に参画しますが、あきたらず翌年に脱藩し、諸国を放浪したのち江戸に出て勝海舟の門に入りました。
その中で、神戸海軍操練所開設に尽力し、塾頭をつとめたものの挫折します。その後、紆余曲折を経て、1865年(慶応元)年に土佐脱藩の仲間を中軸に長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成しました。船を運用しての商業活動を進める一方、討幕のために対立する薩摩と長州を結びつける政治活動を行い、翌年1月には京都で薩長同盟を結ばせることに成功します。
後藤象二郎と共に練った「船中八策」により、前藩主山内容堂を説いて大政奉還建白を引き出し、1867年(慶応3)10月の徳川慶喜の大政奉還に結実しました。そして、「船中八策」を元に「新政府綱領八策」を起草し、新政府の構築を構想したものの、同年11月15日に京都近江屋で中岡慎太郎(2日後に死亡)と共に襲われ、33歳の若さで亡くなっています。
〇「船中八策」
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局[1]を設け、議員を置きて万機[2]を参賛せしめ、万機[2]宜しく公議[3]に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議[3]を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮[4]の大典[5]を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵[6]を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。
「坂本竜馬関係文書」より
【注釈】
[1]上下議政局:じょうげぎせいきょく=上院・下院、つまり二院制議会のこと。
[2]万機:ばんき=すべての政治。国家のまつりごと。
[3]公議:こうぎ=公平な議論。
[4]無窮:むきゅう=きわまりのないこと。永遠。無限。
[5]大典:たいてん=国の根本的法律。憲法。
[6]親兵:しんぺい=君主などの護衛として、その身近に置く兵。