ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:舎人親王

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 今日は、奈良時代の735年(天平7)に、皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王が亡くなった日ですが、新暦では12月2日となります。
 舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代の676年(天武天皇5)に、飛鳥(現在の奈良県)で、天武天皇の第3皇子(母は天智天皇の娘新田部皇女)として生まれました。695年(持統天皇9)に浄広弐に叙せられ、701年(大宝元年)には、大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品に叙せられます。
 718年(養老2)に一品に叙せられ、翌年には元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となり、内舎人2人・大舎人4人・衛士30人を賜与、封800戸を加えられ、計2,000戸となりました。720年(養老4)に、かねてから勅命を受けて太安万侶らとともに編修した『日本書紀』30巻、系図1巻を完成させて奏上しています。
 720年(養老4)に藤原不比等(ふひと)がなくなると、知太政官事となって政務を総覧し、724年(神亀元年)には、聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられました。729年(神亀6)の長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問して自害させ、また、藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べています。
 しかし、735年(天平7年11月14日)に奈良平城京において、数え年60歳で亡くなり、太政大臣を贈られました。歌人としても知られ、後に編纂された『万葉集』に短歌3首入集しています。
 尚、子の大炊王が淳仁天皇となったので、759年(天平宝字3)に崇道尽敬皇帝の称が追号されました。

<代表的な歌>

・「大夫(ますらを)や 片恋ひせむと 嘆けども 鬼(しこ)の大夫 なほ恋ひにけり」 (万葉集)
・「ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に たなびくまでに」 (万葉集)
・「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」 (万葉集)

〇舎人親王関係略年表(日付は旧暦です)

・676年(天武天皇5年) 飛鳥において、天武天皇の第3皇子(母は天智天皇の娘新田部皇女)として生まれる
・695年(持統天皇9年1月5日) 浄広弐に叙せられる
・701年(大宝元年) 大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品に叙せられる
・704年(大宝4年1月11日) 封200戸を加えられる
・714年(和銅7年1月3日) 封200戸を加えられる
・718年(養老2年1月5日) 一品に叙せられる
・719年(養老3年) 元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となる
・719年(養老3年) 内舎人2人・大舎人4人・衛士30人を賜与、封800戸を加えられる(計2,000戸となる)
・720年(養老4年5月) 勅命を受けて太安万侶らとともに編修した『日本書紀』30巻、系図1巻を完成させて奏上する
・720年(養老4年8月4日) 知太政官事となって政務を総覧する
・724年(神亀元年) 聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられる
・729年(神亀6年2月) 長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害させる
・729年(神亀6年8月) 藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べる
・735年(天平7年11月14日) 奈良平城京において、数え年60歳で亡くなり、太政大臣を贈られる
・759年(天平宝字3年6月16日) 淳仁天皇より、崇道尽敬皇帝を追号される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細


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 今日は、奈良時代の720年(養老4)に、舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上した日ですが、新暦では7月1日となります。
 これは、天武天皇の時に着手され、舎人親王が中心となって、完成した日本最初の国史でした。全30巻(1、2は神代、巻3~30は神武天皇から持統天皇まで)で、系図1巻を付すとされていますが現存していません。
 漢文の編年体で記述され、同時代に成立した『古事記』よりも詳細で、かつ異説や異伝までも掲載し、客観性がみられ、史書として整っているとされてきました。帝紀・旧辞のほか諸氏の記録、寺院の縁起、朝鮮側資料などを利用して書かれたと考えられますが、漢文による潤色が著しく、漢籍や仏典をほとんど直写した部分もあります。
 神代巻や古い時代の巻は多量の神話や伝説を含み、また歌謡128首も掲載されるなど、上代文学史上においても貴重なものとされてきました。
 以後、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』 、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と作成されて、これら6つの国史をあわせて、六国史と呼んでいます。

〇六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する

〇『日本書紀』卷第一の冒頭部分

<原文>

神代上

古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者薄靡而爲天・重濁者淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故、天先成而地後定。然後、神聖、生其中焉。故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物、狀如葦牙。便化爲神、號國常立尊。至貴曰尊、自餘曰命、並訓美舉等也。下皆效此。次國狹槌尊、次豐斟渟尊、凡三神矣。乾道獨化、所以、成此純男。

<読み下し文>

神代上(かみのよのかみのまき)

 古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟涬(ほのか)に牙(きざし)を含めり。其(そ)れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙(たえ)なるが合えるは摶(むらが)り易(やす)く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。 然して後に、神聖(かみ)其の中に生る。故、曰く、開闢の初めに洲壤(くにつち)浮き漂うこと譬(たと)えば游(あそ)ぶ魚の水の上に浮べるが猶(ごと)し。 時に、天地の中に一つ物生(な)れり。 状(かたち)葦牙(あしかび)の如(ごと)し。便(すなわ)ち神と化爲(な)る。 國常立尊(くにのとこたちのみこと)と號(もう)す。【至りて貴きを尊と曰い、それより餘(あまり)を命と曰う。並びに美(み)舉(こ)等(と)と訓(よ)む。下(しも)皆(みな)此(これ)に效(なら)え】
 次に國狹槌尊(くにのさづちのみこと)。次に豐斟渟尊(とよくむぬのみこと)。凡(およ)そ三はしらの神。 乾道(あめのみち)獨(ひと)り化(な)す。 所以(ゆえ)に此れ純(まじりなき)男(お)と成す。
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