ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:興亜奉公日

zeitakuwatekida01
 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、東京市内に「ぜいたくは敵だ」の戦時標語の立看板1,500本が配置された日です。
 「ぜいたくは敵だ」(ぜいたくはてきだ)は、日中戦争下の1940年(昭和15)に、国民精神総動員本部が、「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」のために作った戦時標語でした。の1939年(昭和14)1月5日につね近衛内閣に代わって組閣された平沼騏一郎内閣は、同年2月に国民精神総動員運動を「官民一体ノ挙国実践運動」として強化する方針を打ち出します。
 その中で、同年9月から毎月1日を「興亜奉公日」として、前線の労苦を想う耐乏生活をおしつけることとなります。翌年7月に、「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」が出されると、8月1日の「興亜奉公日」には、東京市内に「ぜい沢は敵だ」の戦時標語の立看板1,500本が配置され、街頭などでの宣伝が強化されました。国民生活での耐乏を呼びかけ、戦意高揚のために活用されていきます。

〇戦時標語(せんじひょうご)とは?

 戦時下において、国民向けに主張・信条や行動の目標、指示内容などをわかりやすく簡潔に言い表した語句(スローガン)のことです。日本では、日中戦争から太平洋戦争配線までにまで、戦意高揚・生活統制・精神動員のため盛んに作られました。
 1937年(昭和12)7月の日中戦争開始後、「国民精神総動員運動」が展開され、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の国策標語が掲げられました。1938年(昭和13)5月1日に、ガソリン切符制が実施されと、「ガソリン1滴は血の1滴」の標語が登場します。
 1940年(昭和15)に至り、日中戦争長期化による物資不足が深刻になってくると、国民精神総動員本部は、「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈だ!」「ぜいたくは敵だ!」「パーマネントはやめませう」などの標語をつくり、街頭に国民生活の在り方を規制する看板を立てました。同年11月10日には、紀元2600年祝賀行事が行われ、その前後に「祝へ元気に朗らかに」、「祝ひ終った、さあ働かう」のポスターが張り出されます。
 1941年(昭和16)になると、「人口政策要綱」が閣議決定され、「生めよ殖やせよ国のため」の標語も登場しました。同年12月8日に太平洋戦争が始まると、大政翼賛会による「進め一億火の玉だ」「屠れ!米英我等の敵だ」も掲げられます。
 1942年(昭和17)には、「大東亜戦争一周年記念」の企画として、大政翼賛会と各新聞社が「国民決意の標語」を懸賞募集し、32万以上の応募の中から、「欲しがりません勝つまでは」「頑張れ!敵も必死だ」など入選10点と佳作20点が選ばれ、町内・職場等に掲示されました。1943年(昭和18)2月23日には、陸軍省が「撃ちてし止まむ」の決戦標語ポスター5万枚を全国に配布し、同年4月に連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死すると「元帥の仇は増産で(討て)」がスローガンとなります。
 1944年(昭和19)には、アメリカ軍の反撃によって、戦局が厳しくなり、「本土決戦」、「鬼畜米英をうて」、「一億玉砕」、「神州不滅」などが叫ばれるようになり、敗戦へと向かうことになりました。

☆代表的な戦時標語一覧(日中戦争~太平洋戦争) 

<1937年(昭和12)> 
・「挙国一致」  
・「尽忠(じんちゅう)報国」  
・「堅忍(けんにん)持久(じきゅう)」  
・「銃執れ 鍬(くわ)執れ ハンマー執れ」 和歌山県 
・「黙って働き 笑って納税」 税務署による標語 

<1938年(昭和13)> 
・「ガソリン1滴は血の1滴」 5月1日、ガソリン切符制が実施 

<1939年(昭和14)> 
・「遂げよ聖戦 興せよ東亜」 大阪朝日新聞社 
・「子よ孫よ 続けよ建てよ 新東亜」 大阪朝日新聞社 
・「聖戦へ 民一億の体当たり」 読売新聞社 
・「聖戦だ 己殺して国生かせ」 読売新聞社 
・「飲んでて何が非常時だ」 日本国民禁酒同盟 

<1940年(昭和15)> 
・「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈だ!」 国民精神総動員本部 
・「ぜいたくは敵だ!」 国民精神総動員本部、「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」のために作られた 
・「パーマネントはやめませう」 国民精神総動員本部 
・「リつばな戦死とゑがほの老母」 名古屋市銃後奉公会 
・「一億が みんな興亜へ散る覚悟」 京都府 
・「贅沢品より代用品」 中央標語研究会 
・「身にはボロ着て心に錦」  中央標語研究会 
・「米が足りぬにまだ飲むか」 日本国民禁酒同盟 
・「赤い顔から赤字出る」  日本国民禁酒同盟 
・「祝へ元気に朗らかに」 大政翼賛会、紀元2600年祝賀行事前 
・「祝ひ終った、さあ働かう」 大政翼賛会、紀元2600年祝賀行事後 

<1941年(昭和16)> 
・「生めよ殖やせよ國のため」 9月2日、厚生省 
・「進め一億火の玉だ」 大政翼賛会 
・「屠れ!米英我等の敵だ」  
・「酒屋太れば妻子は痩せる」 日本国民禁酒同盟 
・「増える酒量に減る寿命」 日本国民禁酒同盟 
・「酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫」 日本国民禁酒同盟 
・「働いて 耐えて笑って 御奉公」 標語報国社 

<1942年(昭和17)> 
 「大東亜戦争一周年記念」の企画として、大政翼賛会と朝日新聞・東京日日新聞・読売新聞の3紙が「国民決意の標語」を懸賞募集(入選は賞状ならびに副賞金が100円(公債)、佳作は副賞金20円(公債))し、広告が11月15日の各紙面に出されました。その結果、4日間で32万以上の応募があり、その中から、以下の入選10点と佳作20点が選ばれ、11月27日付の紙面上に発表され、町内・職場等に掲示されました。
<入選10点>「欲しがりません勝つまでは」、「さあ2年目も勝ち抜くぞ」、「たつた今!笑って散った友もある」、「ここも戦場だ」、「頑張れ!適も必死だ」、「すべてを戦場へ」、「その手ゆるめば戦力にぶる」、「今日も決戦 明日も決戦」、「理窟言う間に一仕事」、「『足らぬ足らぬは』工夫が足らぬ」 
・「正しき血から 強い民族」 日本カレンダー株式会社 
・「よい児殖やして 興亜をリレー」 日本カレンダー株式会社 
・「産んで殖やして育てて皇楯」 中央標語研究会 
・「米英を消して明るい世界地図」 大政翼賛会神戸市支部 

<1943年(昭和18)> 
・「撃ちてし止まむ」 2月23日、陸軍省 
・「元帥の仇は増産で」 山本五十六戦死後 
・「アメリカ人をぶち殺せ!」 主婦之友 
・「嬉しいな僕の貯金が弾になる」 大日本婦人会朝鮮慶北支部 
・「初湯から 御楯と願う 国の母」 仙台市 
・「進め一億 火の玉だ」 大政翼賛会 
・「なにがなんでもやりぬくぞ」   
・「ぜいたくは敵だ!」 国民精神総動員本部 
・「頑張れ! 敵も必死だ」   
・「血の犠牲 汗で応えて 頑張らう」 大阪翼賛神戸支部 
・「一億抜刀 米英打倒」 北海道新聞社 
・「我が家から敵が討てるぞ経済戦」 大日本婦人会 

<1944年(昭和19)> 
・「本土決戦」  
・「鬼畜米英をうて」  
・「一億玉砕」  
・「神州不滅」  

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1810年(文化7)江戸幕府の老中・下総佐倉藩主堀田正睦の誕生日(新暦8月30日)詳細
1872年(明治5)東京・湯島の昌平黌講堂跡に日本初の公共図書館である書籍館が開設される(新暦9月3日)詳細
1885年(明治18)医師・詩人木下杢太郎の誕生日詳細
1894年(明治27)「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、日清戦争に対して正式に宣戦が布告される(日清戦争開戦)詳細
1907年(明治40)民俗学者・農村指導者・社会教育家宮本常一の誕生日詳細
1912年(大正元)日本初の労働組合である友愛会が結成される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1


 今日は、1939年(昭和9)に、閣議決定によって「興亜奉公日」が始まった日です。
 興亜奉公日(こうあほうこうび)は、国民精神総動員運動の一環として、国力増強・戦意高揚を意図して、1939年(昭和14)9月から1942年(昭和17)1月まで、毎月1日に実施された生活規制でした。近衛内閣に代わった平沼騏一郎内閣は、1939年(昭和14)2月に国民精神総動員運動を「官民一体ノ挙国実践運動」として強化する方針を打ち出し、同年8月8日の閣議決定により、11日に内閣告諭で定められ、「全國民ハ擧ツテ戰場ノ勞苦ヲ偲ビ自肅自省之ヲ實際生活ノ上ニ具現スルト共ニ興亞ノ大業ヲ翼贊シテ一億一心奉公ノ誠ヲ効シ強力日本建設ニ向ツテ邁進シ以テ恆久實踐ノ源泉タラシムル日トナスモノトス」という趣旨の下に実施されます。
 精動委員長荒木貞夫文相のもとで、この日は、国旗掲揚、宮城遥拝、神社参拝、勤労奉仕などが実施され、禁酒禁煙、一汁一菜、飲食・接客業休業等が義務づけられ、児童生徒の弁当は日の丸弁当とされました。生徒には、「戦地の兵隊さんに感謝し、其の労苦をしのびつゝ、自分で自分の心をうんと引きしめて、銃後の護りをますます固め、以て、大政に翼賛し、新東亜建設に力を尽くすことを一層強化する日である。」と説明されます。
 さらに、1940年(昭和15)に「奢侈品製造販売禁止令(七・七禁令)」が出されると、同年8月1日の「興亜奉公日」には、「ぜいたくは敵だ」の立看板をかかげて街頭に進出したように、国民に耐乏生活を強いるものとなりました。
 当初の閣議決定では、事変が続く間はこれを継続すると定められていましたが、1942年(昭和17)1月2日の閣議で、毎月8日が「大詔奉戴日」に設定されると、「興亜奉公日」はそれに発展的に統一され、廃止となります。

〇国民精神総動員運動とは?

 昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。
 8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。
 最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。
 同年8月には「興亜奉公日」(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。

〇「奢侈品(しやしひん)製造販売禁止令(七・七禁令)」とは?

 当時の商工省(現在の経済産業省)及び農林省(現在の農林水産省)が「国家総動員法」を根拠に、1940年(昭和15)7月6日に発布(昭和15年商工省・農林省令第2号)し、翌7月7日より施行した省令です。
 不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止するもので、一般には施行日をとって「七・七禁令」(しちしちきんれい)とも呼ばれました。戦時下に於いては、不要不急な生活用品よりも戦争必需品を優先に製造せよということで、例えば金銀を使う織物(西陣織り・友禅など)、宝石類、そして一定金額以上の娯楽関係品(人形・レコード)、カメラ、シャープペンシル、果物(メロン・イチゴ)などが対象となったのです。「ゼイタクは敵だ」がスローガンとして叫ばれ、製造・販売の面でも国民生活が統制されていくことになりました。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ