ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:自由民権運動

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 今日は、明治時代後期の1891年(明治24)に、川上音二郎が堺で、書生芝居を旗上げ公演をした日です。
 川上音二郎(かわかみ おとじろう)は、明治時代に活躍した新派俳優・興行師です。幕末の1864年2月8日(文久4年1月1日)に、筑前国博多中対馬小路町(現在の福岡市博多区)で、郷士及び豪商の父・川上専蔵の子として生まれましたが、本名は音吉と言いました。
 1878年(明治11)、14歳のときに故郷を出奔して上京し、給仕、巡査などの職を転々として、反政府の自由党の壮士となります。その後、郷里で玄洋社の結成に参加して、政治運動に投じ、1883年(明治16)頃から「自由童子」と名のって、大坂中心に演説や新聞発行等で過激な言動に走り、しばしば投獄されました。
 自由民権運動への弾圧が続く中、落語家桂文之助に入門し、浮世亭○○の芸名で寄席に出勤、自由民権論を鼓吹する時局風刺の「オッペケペー節」が評判となります。1891年(明治24)に、堺で書生芝居を旗揚げし、上京して中村座で「板垣君遭難実記」などを上演、幕間に演じた「オッペケペー節」が大人気となりました。
 1893年(明治26)に渡仏後の翌年に戦況報告劇「日清戦争」で大当たりをとって、新演劇の基盤を築き、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)とも結婚します。1896年(明治29)に東京神田に川上座を創設したものの、資金繰りに行き詰って、翌々年には人手に渡りました。
 1899年(明治32)には妻の貞奴と共に、一座を率いて欧米に公演して話題を集め、2年後に再度渡欧し、ほぼヨーロッパ全土を巡業します。1903年(明治36)に正劇と称し「オセロ」、「ハムレット」、「ヴェニスの商人」など西欧戯曲の翻案物を上演しましたが、1907年(明治40)には俳優を引退、以後、興行師に専念しました。
 1908年(明治41)には、大阪に洋風劇場「帝国座」を開場、また、帝国女優養成所も開設します。演劇近代化の先駆者として活躍し、「新派劇の父」とも称されましたが、1911年(明治44)11月11日に、大阪において48歳で亡くなりました。

〇川上音二郎関係略年表

・1864年2月8日(文久4年1月1日) 筑前国博多中対馬小路町(現在の福岡市博多区)で、郷士及び豪商の父・川上専蔵の子として生まれる
・1878年(明治11) 14歳のときに故郷を出奔して上京し、給仕、巡査などの職を転々として、反政府の自由党の壮士となる
・1883年(明治16)頃 「自由童子」と名のって、大阪中心に演説や新聞発行等で過激な言動に走り、しばしば投獄される
・1889年(明治22) 「オッペケペー節」を作詞する
・1891年(明治24) 堺で書生芝居を旗揚げし、上京して中村座で「板垣君遭難実記」などを上演、幕間に演じた「オッペケペー節」が大人気となる
・1893年(明治26) 渡仏後の翌年に戦況報告劇「日清戦争」で大当たりをとって、新演劇の基盤を築き、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)とも結婚する
・1896年(明治29) 東京神田に川上座を創設する、
・1898年(明治31) 川上が二度衆議院議員に立候補したものの、いずれも落選して、多額の借金を背負い、資金繰りに行き詰って、川上座が人手に渡る
・1899年(明治32) 妻の貞奴と共に、一座を率いて欧米に公演して話題を集める
・1901年(明治34) 再度渡欧し、ほぼヨーロッパ全土を巡業する
・1903年(明治36) 正劇と称し「オセロ」、「ハムレット」、「ヴェニスの商人」など西欧戯曲の翻案物を上演する
・1907年(明治40) 俳優を引退、以後、興行師に専念する
・1908年(明治41) 大阪に洋風劇場「帝国座」を開場、帝国女優養成所も開設する
・1911年(明治44)11月11日 大阪において48歳で亡くなる

☆オッペケペー節とは?

 明治時代中頃に流行した当時の政治、文明開化の世相を風刺する一種の流行歌です。1889年(明治22)に川上音二郎が作詞し、1891年(明治24)2月以降、鉢巻、陣羽織、軍扇といういで立ちで川上音二郎が寄席や自分の書生芝居の幕間に歌ったのが初めとされてきました。近代国家にふさわしい開明の思想を日常の卑近な例に託して歌に詠み込んだもので、とても人気となって一世を風靡し、その後歌詞は10数種類出来ています。 

☆オッペケペー節の歌詞

権利幸福きらいな人に。自由湯をば飲ましたい。オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー。
堅い上下角とれて「マンテル」「ヅボン」に人力車意気な束髪ポン子ツト。貴女に伸士のいでたちで。外部の飾はよいけれど政治の思想が欠乏だ。天地の真理が解らない。心に自由の種を蒔け。オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー
米價騰貴の今日に。細民困窮省らす目深に被ふた高帽子。金の指輪に金時計。権門貴顕に膝を曲け。藝者たいこに金を蒔き。内には米を倉に積み。同胞兄弟見殺か。幾等慈悲なき慾心も。餘り非道な薄情な但し冥土の御土産か。地獄でゑんまに面會し。わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
亭主の職業は知らないが。おつむは当世のそくはつで。ことばは開化のかんごで。みそかのことわりカメだいて。不似合だ。およしなさい。なんにも知らずに知た顔。むやみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食を。やたらに喰ふのもまけおしみ。ないしよでこうかでへどついて。ましめな顔してコーヒ飲む。おかしいね。ヱラペケペツポ。ペツポーポー
侭になるなら自由の水で。國のけがれを落したい。オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
むことり島田に当世髪。ねづみのかたきに違いない。かたまきゾロ/\引づらし。舶来もようでりつぱだね。買う時ァ大層おだしだらう。夏向ァあつくていらないよ。其時ァおつかが。すいりよして。おそでにかくして一トはしり。からくり細工にいてくるよ。ヲヤ大きなこゑでは。いわれない内證たよ。ぶたいはけつきやうだ御免なさい。オツペケペ。オツペケペツポ。ベツポゝ。
おめかけぜうさんごんさゐに。芝居を見せるは不開化だ。かんぜんてうあく分らない。いろけの所に目をとめて。だいぢの夫をそでにする。浮氣をすること必定だ。おためにならなゐ。およしなさい。國會開けたあかつきに。やくしやにのろけちやおられない。日本をだゐじに守りなさゐ。まゆげのないのがおすきなら。かつたいおいろに持なんせ。目玉むくのがおすきなら。たぬきとそいねをするがよゐ。オツペケ。オツペケベツポペツポーポー
親がひんすりやどんすのふとん。敷て娘は玉のこし。オツペケペ。オツベケペツポ。ベツポーポー
娘のかた掛りッぱだが。とつさんケツトを腰にまき。どちらも御客をのせたがる。娘のころぶを見ならふて。とつさんころんじやいけないよ。オツペケペ。オツペケペツポ。ペツポーポ
洋語をならふて開化ぶり。バンくふばかりが改良でねへ。自由の権利をこうてうし。國威をはるのが急務だよ。ちしきとちしきのくらべやゐ。キョロ/\いたしちや居られなゐ。窮理と発明のさきがけで。 異國におとらずやッつけろ。神國名義だ日本ポー

   小国政作『版画「川上音二郎書生演劇」』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)太政官に造幣局が設置される(新暦3月17日)詳細
1898年(明治31)小説家尾崎士郎の誕生日詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所の第一鎔鉱炉で火入れ式が行われ、操業開始する詳細
1913年(大正2) 第30帝国議会衆議院本会議において、尾崎行雄の桂首相弾劾演説が行われる詳細
1920年(大正8)八幡製鉄所で職工2万4千人がストライキに入る(八幡製鉄所争議)詳細
1936年(昭和11)日本職業野球聯盟が設立される(プロ野球の日)詳細
1943年(昭和18)東条英機内閣によって、「大東亜要員錬成要綱」が閣議決定される詳細
1981年(昭和56)恒久的輸送機関として初めての新交通システムとなる神戸新交通ポートアイランド線が開業する詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、福島事件により、自由党幹部河野広中ら同志連25人が府転覆容疑で逮捕された日です。
 福島事件(ふくしまじけん)は、自由民権運動の中で、福島県令三島通庸による福島自由党員・農民などが弾圧された事件です。1882年(明治15)2月に、福島県令に着任した三島通庸は、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の工事をさせるために、会津地方六郡下の15~60歳までの男女を、2年にわたり月一日人夫として働かせるか、一日につき男15銭、女10銭の人夫賃を出させると布告しました。
 同年4月に、三島県令は福島県会を召集したが出席せず、県会からの再三の出席要請を拒否しつつ、自由党の演説会等に対する弾圧を強化し、5月11日には、福島県会は23対22で全議案を総否決することを決議するに至ります。8月に、河野ら幹部は福島自由党の本拠地「無名館」(福島市)に集まり、そこで密かに「無名館血誓書」をつくり、9月末には、同盟者(訴訟委任状提出者)4,083人の代表70余人が会合「権利恢復規約書」と正副総理、訴訟委員を決定しました。
 10月に、同盟費提出者は7,000余人に達するに及んで、県当局は攻撃を本格化して、不服者を郡役所へ呼び出し、命令に従わない場合は土地を公売処分に付すると威嚇します。11月に、公売処分に抗議した原平蔵、三浦文治、訴訟委員宇田成一が逮捕されると、同月28日には、山刀・棍棒・熊手を手に千数百人の農民が弾正ヶ原に集まり、隊列を整え喜多方警察署におしかけ、警察官は抜刀し農民たちに切りかかり無理やり解散させられる喜多方事件が勃発しました。
 翌日から、東京都、福島県で自由党員と農民の一斉検挙が開始(2,000余人)され、12月1日には、無名館が巡査隊と福島監獄看守らにより包囲突入され、自由党幹部河野広中ら同志連25人が府転覆容疑で逮捕されます。翌年1月中旬に、「血誓書」が当局に発見され、「国家転覆」という目的が当局の機嫌を損ね、河野らは「国事犯」として裁かれることとなり、2月に指導者と目された57名が内乱陰謀の国事犯とされ、9月には、東京の高等法院の裁判に付され、河野に軽禁獄7年、他の5人に同6年の判決が出されました。

〇福島事件関係略年表

<1881年(明治14)>
・10月 自由党が結成されると、まもなく福島、会津にそれぞれ支部がつくられる

<1882年(明治15)>
・2月 福島県令に着任した三島通庸は、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の工事をさせるために、会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわたり月一日人夫として働かせるか、一日につき男15銭、女10銭の人夫賃を出させると布告する
・4月 三島は福島県会を召集したが出席せず、県会からの再三の出席要請を拒否。他方,自由党の演説会等に対する弾圧を強化する
・5月11日 福島県会は23対22で全議案を総否決することを決議するに至る
・6月末 三島健令は、三方道路の路線査定を指示し、同時に代夫賃の徴収を郡長に命じる
・7月 会津6郡の臨時連合会開催を要求する
・8月1日 夜に河野ら幹部は福島自由党の本拠地「無名館」(福島市)に集まり、そこで密かに「無名館血誓書」をつくる
・8月末 宇田成一、中島友八らは秘密裡に会合をかさねて訴訟運動を方針とすることを決める
・9月末 同盟者(訴訟委任状提出者)4,083人の代表70余人が会合「権利恢復規約書」と正副総理、訴訟委員を決定する
・10月 同盟費提出者は7,000余人に達する
・10月末 県当局は攻撃を本格化して、不服者を郡役所へ呼び出し、命令に従わない場合は土地を公売処分に付すると威嚇する
・11月19日 公売処分に抗議した原平蔵、三浦文治が逮捕される
・11月24日 訴訟委員宇田成一が逮捕される
・11月28日 山刀・棍棒・熊手を手に千数百人の農民が弾正ヶ原に集まり、隊列を整え喜多方警察署におしかけ、警察官は抜刀し農民たちに切りかかり無理やり解散させる(喜多方事件)
・11月29日 東京都、福島県で自由党員と農民の一斉検挙が開始される(2,000余人)
・12月1日 無名館が巡査隊と福島監獄看守らにより包囲突入され、自由党幹部河野広中ら同志連25人が府転覆容疑で逮捕される

<1883年(明治16)>
・1月中旬 「血誓書」が当局に発見され、「国家転覆」という目的が当局の機嫌を損ね、河野らは「国事犯」として裁かれることとなる
・2月 指導者と目された57名が内乱陰謀の国事犯として高等法院へ送られる
・9月 東京の高等法院の裁判に付され、河野に軽禁獄7年、他の5人に同6年の判決が出される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1267年(文永4)第91代の天皇とされる後宇多天皇の誕生日(新暦12月17日)詳細
1903年(明治36)小説家小林多喜二の誕生日詳細
1910年(明治43)石川啄木著の第一歌集『一握の砂』が東雲堂書店より刊行される詳細
1934年(昭和9)東海道本線の丹那トンネル(熱海~函南)が開通する詳細
1941年(昭和16)昭和天皇臨席の第8回御前会議で「対英米蘭開戦の件」を決定する詳細
1952年(昭和27)石橋正二郎より寄贈を受けて、国立近代美術館(現在の東京国立近代美術館)が中央区京橋に開館する詳細
1959年(昭和34)南極の非軍事利用を取り決めた「南極条約」に、日・英・米など12ヶ国が調印する詳細
1977年(昭和52)小説家海音寺潮五郎の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、自由党総理板垣退助が遊説先の岐阜県冨茂登村で斬りつけられ負傷する事件(岐阜事件)が起きた日です。
 岐阜事件(ぎふじけん)は、岐阜県冨茂登村において、自由党総理板垣退助が遊説先で、暴漢(相原尚褧)に襲われ負傷した事件で、板垣退助遭難事件とも呼ばれてきました。この日、板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し、2時間にわたる演説を行なった後、午後6時頃、会場から宿舎に向かおうとしたところ、入口を出た瞬間に短刀を持った暴漢(相原尚褧)に襲われて格闘となり、胸や手などを負傷しています。
 この時に、板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を発したと言われ、自由民権運動を象徴するものとして有名となりました。

〇板垣退助(いたがき たいすけ)とは?

 江戸時代後期の1837年(天保8)4月17日、高知城下中島町に生まれました。若い頃は、土佐藩における倒幕派の急先鋒となり、1865年(慶応元)3月京都において薩摩藩士小松帯刀、西郷隆盛らと薩土秘密倒幕同盟を結ぶ立て役者となります。
 戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、1874年(明治7)に愛国公党を結成し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣などと左院に民撰議院設立建白書を提出したものの、却下されます。
 また、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。
 1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。1884年(明治17)決断して自由党をいったん解党しましたが、1890年(明治23)の帝国議会開設後には、自由党を再結成して、党総理に就任することになります。
 1896年(明治29)第2次伊藤内閣の内務大臣となり、1898年(明治31)には、大隈重信と隈板内閣をつくり、内務大臣に就任しました。1900年(明治33)、立憲政友会の創立とともに政界を引退し、その後は社会改良運動につくしましたが、1919年(大正8)7月16日、83才で死去しています。
 尚、故郷の高知県に「高知市立自由民権記念館」が開設され、詳しい展示コーナーが設けられました。

〇自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは?

 明治時代前期に、藩閥政治に反対して、人民の自由と権利の伸長を要求した政治運動です。1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に始まりました。
 それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われます。しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきました。
 その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件が起きることになりましたが、政府の激しい弾圧の下で、沈滞して終息します。

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月16日 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・2月22日 板垣退助らが大阪で自由民権運動の政治団体愛国社を結成する
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される
・9月14日 大阪で愛国社再興大会が始まる
・9月20日 「愛国社再興合議書」を採択する

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
・このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
・このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月6日 板垣退助が遊説先の岐阜県冨茂登村で斬りつけられ負傷する事件(岐阜事件)が起きる
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3/延元元)第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)の命日(新暦5月17日)詳細
1722年(享保7)江戸幕府が「流地禁止令」を出す(新暦5月20日)詳細
1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
1823年(文政6)狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人大田南畝の命日(新暦5月16日)詳細
1921年(大正10)東京の大正浅草大火で、負傷者544名、全焼1,227戸、半焼73戸を出す詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、自由民権運動激化事件の一つである大阪事件が起きた日です。
 大阪事件(おおさかじけん)とは、自由党左派の大井憲太郎らが、朝鮮にクーデターを起こして独立党に政権を握らせようと企て、渡海直前に発覚し、139名が大阪や長崎で逮捕された事件でした。1882年(明治15)の壬午軍乱、1884年(明治17)の甲申政変などで、朝鮮における親日派の後退を見た、自由党左派の中心人物だった大井憲太郎は、小林樟雄、磯山清兵衛、新井章吾、稲垣示、景山(福田)英子らと、事大党を倒して独立党に政権を握らせ、朝鮮独立を支援することを計画します。これは、同時に日本人の愛国心をあおり、日本国内の改革を刺激することを目的としたものでした。
 しかし、磯山らの裏切りで、渡海直前に発覚し、大阪や長崎において、139名が逮捕されて頓挫します。中心人物である大井と朝鮮渡航部隊の責任者となった新井は重懲役9年、小林・磯山は外患罪で軽禁獄6年の刑に処せられ、天野政立などのその他多くの人にも刑罰があたえられました。
 大井ら指導者が逮捕された大阪で裁判が行われたことから大阪事件と呼ばれるようになります。

〇自由民権運動とは?

 明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に自由民権運動が始まります。それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。
 しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件が起きることになりました。

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
  このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
  このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する 

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、板垣退助らによって、日本最初の政党である愛国公党が結成された日です。
 愛国公党(あいこくこうとう)は、1873年(明治76)に征韓論に敗れ、明治六年政変によって下野した、下前参議の板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らがヨーロッパより帰国した由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古沢滋らと共に結成した、自由民権を主張する日本最初の政党でした。幸福安全社を基礎に、東京京橋区銀座の副島種臣邸に同志を集めて結成され、「愛国公党本誓」には、天賦人権、愛君愛国、君民融和、国威発揚などがうたわれて、基本的人権を保護することを誓います。
 そして、同月17日に板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を左院に提出、士族および豪農商の代表者からなる議会を設立せよと主張して、自由民権運動の口火を切りました。この建白書に対して加えられた加藤弘之らの批判に駁論するなど活発な行動を展開したものの、旧土佐藩士族による右大臣岩倉具視要撃事件、江藤による佐賀の乱、板垣らの帰郷などによってまもなく自然消滅しています。
 その後、大同団結運動分裂後の1890年(明治23)5月に、板垣退助らが同名の政党を組織し、同年9月には立憲自由党へ発展しました。
 以下に、「愛国公党本誓」の本文(現代語訳・注釈付)と草案を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「愛国公党本誓」

一 天ノ斯ノ人民ヲ生スルヤ、興ノ始貴賤尊卑[1]ノ別ナク皆之ヲ平等ノ人トス。而シテ之ニ付スルニ、一定不可動ザルノヲ以テス。故ニ斯ノ通義権理[2]ナル者ハ、天ノ均シク以テ人民ニ賜フ所ノ者ニシテ人力ノ以テ之ヲ移奪[3]スルヲ得ザル者ナリ。然ルニ、世運[4]ノ未タ全ク開ケサルヤ、人民動モスレバ、斯ノ本然[5]ノ通義権理[2]ヲ、保ツ能ハザル者アリ。況ヤ、我国数百年来封建[6]武断[7]ノ制、其ノ民ヲ奴隷[8]ニセシノ余弊[9]、未ダ全ク剗除[10]セズ、苟モ是ニ由リテ改メズ。我カ人民ノ支那印度ノ人民ト相去ル能ク幾クアル如、是ニシテ我国威[11]ノ揚リ、我カ国民ノ富ムヲ欲ス。豈ニ可得ンヤ。我輩一片至誠愛[12]国ノ心大イニ茲ニ発憤[13]スルアリ。乃チ同志ノ士ト相誓ヒ、以テ我人民ノ通義権理[2]ヲ主張シ、以テ其ノ天ノ賜ヲ保全セントス。亦タ、即チ其ノ君ヲ愛、愛国スルノ心深ク、且ツ大ナレバ也。

一 我輩既ニ已ニ愛国至誠[14]ノ上ヨリ発憤[13]シ、斯ノ人民ノ通義権理[2]ヲ保護主張セントス。然ルニ之ヲ為スノ道、即チ我天皇陛下御誓文[15]ヲ旨意[16]ニ体シ、造次顛沛[17]、徹頭徹下[18]、唯斯ノ公論[19]公議[20]ヲ以テシ、常ニ公党ノ旨意[16]ヲ遵守明了[21]シ、以テ光リヲ日月ニ争フ[22]可シ。

一 我輩ノ斯政府ヲ視ル、斯ノ人民ノ(為メ設ル所ノ)政府ト看做ス[23]ヨリ他ナカル可シ。而シテ吾党ノ目的ハ、唯斯人民ノ通義権理[2]ヲ保護主張シ、以テ斯人民オシテ自主自由、独立不羈[24]ノ人民タルヲ得セシムルニ在ル而已。是レ即チ其ノ君臣上下オシテ融然一体[25]ナラシメ、以テ其ノ禍福緩急[26]ヲ分チ、以テ相共ニ我日本帝国ヲ維持昌盛[27]ナラシムルノ道ナレバ也。

一 夫我輩斯通義権理[2]ヲ主張セントスル者、亜細亜洲中ノ首唱[28]ニシテ、而カモ天下ノ大業[29]ナリ。固ヨリ之ヲ期スルニ尋常歳月ノ功ヲ以テス可ラス、故ニ我社ノ士ハ常に宜シク其ノ忍耐力ヲ培養シ、譬ヒ艱難憂戚[30]百挫千折[31]スルモ、敢テ少シクモ屈撓[32]スルコト莫ク、至誠[14]ノ心、不抜ノ志[33]、我輩全党終生ノ力勉焉トシテ、唯斯ノ通義権理[2]ヲ保護主張スル者ニ竭尽[34]シ、死ニ之クモ他ナキヲ要ス可シ。

 於是イテ遂イニ調印相誓フ者如左。

   「立志社―その活動と憲法草案―」高知市立自由民権記念館発行より

 ※縦書き原文を横書きとし、句読点を付してあります。

【注釈】

[1]貴賤尊卑:きせんそんぴ=身分の高い人と低い人、尊い人と卑しい人。
[2]通義権理:つうぎけんり=基本的人権。普遍的人権。
[3]移奪:いだつ=横に引っぱって奪いとる。
[4]世運:せうん=世の中の動向。世の中の成り行き。
[5]本然:ほんぜん=人手を加えないで、自然のままであること。もとからそのままであること。また、もともと具有しているもの。
[6]封建:ほうけん=天子・皇帝・国王などが、直轄領以外の土地を諸侯に分け与え、領有・統治させること。また、そのような制度。
[7]武断:ぶだん=武力をもって民を処断すること。兵力を背景として政務を断行すること。
[8]奴隷:どれい=人間としての権利・自由を認められず、他人の私有財産として労働を強制され、また、売買・譲渡の対象ともされた人。
[9]余弊:よへい=後に残っている弊害。
[10]剗除:さんじょ=削って除く。
[11]国威:こくい=国の威力。その国が対外的に持つ威力。
[12]誠愛:せいあい=誠実な愛。
[13]発憤:はっぷん=これから大いに励もうと精神をふるいおこすこと。
[14]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[15]天皇陛下御誓文:てんのうへいかごせいもん=1868年(明治元)の「五箇条の御誓文」のこと。
[16]旨意:しい=主旨。意図。考え。
[17]造次顛沛:ぞうじてんぱい=とっさの場合やつまずき倒れるとき。転じて、わずかの時間のたとえ。つかのま。
[18]徹頭徹下:てっとうてっか=始めから終わりまで同じ方針・考えを貫くさまを表わす語。始終。どこまでも。あくまで。
[19]公論:こうろん=公平な議論。
[20]公議:こうぎ=おおやけに論議すること。また、多くの人が認めて支持する議論。
[21]明了:めいりょう=はっきりしていること。また、そのさま。
[22]光リヲ日月ニ争フ:ひかりをじつげつにあらそう=道徳や功績の高いことにたとえる。
[23]看做ス:みなす=仮にそうと見る。そうでないものをそうとする。仮定する。
[24]独立不羈:どくりつふき=他から制御されないで自己の所信で事に処すること。また、そのさま。
[25]融然一体:ゆうぜんいったい=様々なものが溶け合って、一丸となることなどを意味する語。
[26]禍福緩急:かふくかんきゅう=災いと幸せ、おそいのと早いのと。
[27]昌盛:しょうせい=さかんなこと。栄えること。繁盛。
[28]首唱:しゅしょう=いちばん先に言い出すこと。
[29]大業:たいぎょう=大きな事業。重大な事業。
[30]艱難憂戚:かんなんゆうせき=困難にあって苦しみ悩み、憂い悲しむこと。
[31]百挫千折:ひゃくざせんせつ=何度もくじけること。いくどもいくども挫折すること。
[32]屈撓:くっとう=かがみたわむこと。また、屈服すること。
[33]不抜ノ志:ふばつのこころざし=どうやっても抜くことができないという意味から、とても堅いことのたとえ。何があっても諦めないこと。
[34]竭尽:けつじん=尽きること。なくなること。また、力を尽くすこと。

<現代語訳>

一 天はその人民を生じさせた時に、誕生させた最初から身分の高い低いの区別なく、みなこれを平等の人とした。そしてこれに与えたものは、はっきりと動かしたりすることが出来ない普遍的人権なのである。従って、その普遍的人権というものは、天が平等に人民に与えたものであって、人の力でこれを奪ったりすることができないものである。ところが、未開の野蛮なところでは、人民はともすれば、そのもともと具有している普遍的人権を、保つことができない者がある。まして、我国のように数百年来封建的で武力をもって人民を処断する制度下にあり、その人民を奴隷のようにしてきた弊害が残り、いまだに全く除去されず、かりにもここに至って改めていない。わが人民の中国やインドの人民と異なっている点であり、ここにしてわが国威の発揚とか、わが国民の富だとかを欲しているが、どうして得ることが出来ようか、いやできない。我らはいくばくかの誠実で国を愛する心は大いにここに奮い起こされるのである。まさしく志を同じくする者と誓い合い、もってわが人民の普遍的人権を主張し、もってその天より賜ったものを保全するものである。また、まさしくその天皇を愛し、国を愛する心は深く、かつ大きいためである。

一 我らはすでに本当に国を愛する真心により奮い起こされて、その人民の普遍的人権を保護主張しようとしている。ところが、これを達成する道程は、まさしくわが天皇陛下の「五箇条の御誓文」の主旨に基づき、わずかな時間でも、どこまでも、ただその「公論公議」の考えに従って、常に公党の主旨を遵守して明瞭にし、よって道徳や功績の高いことである。

一 我らがその政府を注視するに、その人民のために設けられた政府とみなす他はない。そして、わが党の目的は、ただその人民の普遍的人権を保護主張し、そして、人民によって自主自由で、他からの束縛を全く受けない人民であるようにすることに尽きる。これはすなわち、その天皇と人民が一心同体となり、不幸と幸せ、平和と争いを分かち合い、そしてお互いにこの日本帝国を維持繁盛させていく道なのである。

一 それ我らがその普遍的人権を主張しようというのは、アジア州の中の最初の主張であって、しかも天下の大きな使命である。もとよりこれを成功させるには普通の日々の努力だけではできないであろう。従って、我らの結社の有志は常にほどよくその忍耐力を養い、たとえ大変な苦労にさいなまれ続け、いくどもいくども挫折しようとも、積極的に少しも屈服することなく、誠実な心と揺るがない志を保ち、我ら全党の一生涯を懸けた天命の仕事として、ただその普遍的人権を保護主張することに力を尽くし、そして死に就く他ないことを必至とするべきである。

 ここに於いて、ついに調印し、左のように誓い合うものである。

〇(参考)「愛国公党本誓草案」

本誓

一 天の欺人民を生するや、必らず之に付与するに一定動かすへからさるの通義権理を以てす。斯の通義権理なる者は、天の均く以て人民に賜ふ所の者にして、人力の以て移奪するを得さる者なり。然るに世運の未た全く開けさるや、人民動もすれは斯本然の通義権理を保つ能はさる者あり。而して〔抹消:況や我国数百年来封建〕武断の制、其の民を奴視〔抹消:隷に〕せしの餘弊、未た全く刻除せす。苟も是に由て改めす。我人民の支那、印度の人民と相厺る、能く幾くある如是にして、我国威の揚り、我国民の富を欲す。豈に可得〔抹消:や〕。我輩一片至誠愛国の心、大に此に発憤するあり。乃ち同志の士と相誓ひ、以て我人民の通義権理を主張し、以て其天の賜を保全せんとす。即其君を愛し国を愛するの心深く且大なれはなり〔併記:なる事は論する勿れ。遂に亜〕。

〔抹消:一 我輩既に已に愛国至誠の上より発憤し、斯人民の通義権理を保護主張せんとす。然るに之を為すの道、即我天皇陛下の御誓文の旨意に体し、造次顛沛、徹頭徹下、唯斯公論公議を以し、常に盟約の〔抹消:公党の〕旨意を遵守す可し〔抹消:明言し以て先つ明に争ふ可し〕。

一 我輩の斯政府を視る、斯人民の為め設る所の政府と看做すより他なかる可し。而して吾党の目的は、唯斯人民の通義権理を保護主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民たるを得せしむるに在る而已。是即其君主人民の間〔抹消:主上下をして〕融然一体〔抹消:ならしめ〕、以て其禍福緩急を分ち、〔末梢:以て〕相共に我日本帝国を維持昌盛ならしむるの道なれはなり。

一 夫我輩斯通義権理を主張せんと〔抹消:する者は、亜細亜洲中の首唱にして〕而かも天下の大業なり。〔抹消:固より之を期する、尋常歳月の功を以てすへからす、故に我党の士は常に〕宜く常に其忍耐力を培養し、譬ひ艱難憂戚百挫千折するも、敢て少しても屈撓する事莫く、至誠の心、不抜の志、我輩〔抹消:全党〕終生の力勉焉として、唯た斯通義権理を保護主張する者に竭尽し、死に之くも他なきを要すへし。於之遂に調印相誓ふ者如左。

   「国立国会図書館デジタルコレクション」より

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