ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:自由民権運動

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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、自由党総理板垣退助が遊説先の岐阜県冨茂登村で斬りつけられ負傷する事件(岐阜事件)が起きた日です。
 岐阜事件(ぎふじけん)は、岐阜県冨茂登村において、自由党総理板垣退助が遊説先で、暴漢(相原尚褧)に襲われ負傷した事件で、板垣退助遭難事件とも呼ばれてきました。この日、板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し、2時間にわたる演説を行なった後、午後6時頃、会場から宿舎に向かおうとしたところ、入口を出た瞬間に短刀を持った暴漢(相原尚褧)に襲われて格闘となり、胸や手などを負傷しています。
 この時に、板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を発したと言われ、自由民権運動を象徴するものとして有名となりました。

〇板垣退助(いたがき たいすけ)とは?

 江戸時代後期の1837年(天保8)4月17日、高知城下中島町に生まれました。若い頃は、土佐藩における倒幕派の急先鋒となり、1865年(慶応元)3月京都において薩摩藩士小松帯刀、西郷隆盛らと薩土秘密倒幕同盟を結ぶ立て役者となります。
 戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、1874年(明治7)に愛国公党を結成し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣などと左院に民撰議院設立建白書を提出したものの、却下されます。
 また、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。
 1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。1884年(明治17)決断して自由党をいったん解党しましたが、1890年(明治23)の帝国議会開設後には、自由党を再結成して、党総理に就任することになります。
 1896年(明治29)第2次伊藤内閣の内務大臣となり、1898年(明治31)には、大隈重信と隈板内閣をつくり、内務大臣に就任しました。1900年(明治33)、立憲政友会の創立とともに政界を引退し、その後は社会改良運動につくしましたが、1919年(大正8)7月16日、83才で死去しています。
 尚、故郷の高知県に「高知市立自由民権記念館」が開設され、詳しい展示コーナーが設けられました。

〇自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは?

 明治時代前期に、藩閥政治に反対して、人民の自由と権利の伸長を要求した政治運動です。1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に始まりました。
 それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われます。しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきました。
 その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件が起きることになりましたが、政府の激しい弾圧の下で、沈滞して終息します。

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月16日 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・2月22日 板垣退助らが大阪で自由民権運動の政治団体愛国社を結成する
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される
・9月14日 大阪で愛国社再興大会が始まる
・9月20日 「愛国社再興合議書」を採択する

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
・このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
・このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月6日 板垣退助が遊説先の岐阜県冨茂登村で斬りつけられ負傷する事件(岐阜事件)が起きる
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3/延元元)第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)の命日(新暦5月17日)詳細
1722年(享保7)江戸幕府が「流地禁止令」を出す(新暦5月20日)詳細
1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
1823年(文政6)狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人大田南畝の命日(新暦5月16日)詳細
1921年(大正10)東京の大正浅草大火で、負傷者544名、全焼1,227戸、半焼73戸を出す詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、自由民権運動激化事件の一つである大阪事件が起きた日です。
 大阪事件(おおさかじけん)とは、自由党左派の大井憲太郎らが、朝鮮にクーデターを起こして独立党に政権を握らせようと企て、渡海直前に発覚し、139名が大阪や長崎で逮捕された事件でした。1882年(明治15)の壬午軍乱、1884年(明治17)の甲申政変などで、朝鮮における親日派の後退を見た、自由党左派の中心人物だった大井憲太郎は、小林樟雄、磯山清兵衛、新井章吾、稲垣示、景山(福田)英子らと、事大党を倒して独立党に政権を握らせ、朝鮮独立を支援することを計画します。これは、同時に日本人の愛国心をあおり、日本国内の改革を刺激することを目的としたものでした。
 しかし、磯山らの裏切りで、渡海直前に発覚し、大阪や長崎において、139名が逮捕されて頓挫します。中心人物である大井と朝鮮渡航部隊の責任者となった新井は重懲役9年、小林・磯山は外患罪で軽禁獄6年の刑に処せられ、天野政立などのその他多くの人にも刑罰があたえられました。
 大井ら指導者が逮捕された大阪で裁判が行われたことから大阪事件と呼ばれるようになります。

〇自由民権運動とは?

 明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に自由民権運動が始まります。それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。
 しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件が起きることになりました。

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
  このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
  このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する 

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1703年(元禄16)房総半島沖を震源とする元禄地震がおきる(新暦12月31日)詳細
1707年(宝永4) 富士山宝永噴火が始まる(新暦12月16日)詳細
1896年(明治29)小説家樋口一葉の命日(一葉忌)詳細
1940年(昭和15)産業報国会の全国連合組織として大日本産業報国会が結成される詳細
2004年(平成16)洋画家吉井淳二の命日詳細
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aikokukoutou01
 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、板垣退助らによって、日本最初の政党である愛国公党が結成された日です。
 愛国公党(あいこくこうとう)は、1873年(明治76)に征韓論に敗れ、明治六年政変によって下野した、下前参議の板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らがヨーロッパより帰国した由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古沢滋らと共に結成した、自由民権を主張する日本最初の政党でした。幸福安全社を基礎に、東京京橋区銀座の副島種臣邸に同志を集めて結成され、「愛国公党本誓」には、天賦人権、愛君愛国、君民融和、国威発揚などがうたわれて、基本的人権を保護することを誓います。
 そして、同月17日に板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を左院に提出、士族および豪農商の代表者からなる議会を設立せよと主張して、自由民権運動の口火を切りました。この建白書に対して加えられた加藤弘之らの批判に駁論するなど活発な行動を展開したものの、旧土佐藩士族による右大臣岩倉具視要撃事件、江藤による佐賀の乱、板垣らの帰郷などによってまもなく自然消滅しています。
 その後、大同団結運動分裂後の1890年(明治23)5月に、板垣退助らが同名の政党を組織し、同年9月には立憲自由党へ発展しました。
 以下に、「愛国公党本誓」の本文(現代語訳・注釈付)と草案を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「愛国公党本誓」

一 天ノ斯ノ人民ヲ生スルヤ、興ノ始貴賤尊卑[1]ノ別ナク皆之ヲ平等ノ人トス。而シテ之ニ付スルニ、一定不可動ザルノヲ以テス。故ニ斯ノ通義権理[2]ナル者ハ、天ノ均シク以テ人民ニ賜フ所ノ者ニシテ人力ノ以テ之ヲ移奪[3]スルヲ得ザル者ナリ。然ルニ、世運[4]ノ未タ全ク開ケサルヤ、人民動モスレバ、斯ノ本然[5]ノ通義権理[2]ヲ、保ツ能ハザル者アリ。況ヤ、我国数百年来封建[6]武断[7]ノ制、其ノ民ヲ奴隷[8]ニセシノ余弊[9]、未ダ全ク剗除[10]セズ、苟モ是ニ由リテ改メズ。我カ人民ノ支那印度ノ人民ト相去ル能ク幾クアル如、是ニシテ我国威[11]ノ揚リ、我カ国民ノ富ムヲ欲ス。豈ニ可得ンヤ。我輩一片至誠愛[12]国ノ心大イニ茲ニ発憤[13]スルアリ。乃チ同志ノ士ト相誓ヒ、以テ我人民ノ通義権理[2]ヲ主張シ、以テ其ノ天ノ賜ヲ保全セントス。亦タ、即チ其ノ君ヲ愛、愛国スルノ心深ク、且ツ大ナレバ也。

一 我輩既ニ已ニ愛国至誠[14]ノ上ヨリ発憤[13]シ、斯ノ人民ノ通義権理[2]ヲ保護主張セントス。然ルニ之ヲ為スノ道、即チ我天皇陛下御誓文[15]ヲ旨意[16]ニ体シ、造次顛沛[17]、徹頭徹下[18]、唯斯ノ公論[19]公議[20]ヲ以テシ、常ニ公党ノ旨意[16]ヲ遵守明了[21]シ、以テ光リヲ日月ニ争フ[22]可シ。

一 我輩ノ斯政府ヲ視ル、斯ノ人民ノ(為メ設ル所ノ)政府ト看做ス[23]ヨリ他ナカル可シ。而シテ吾党ノ目的ハ、唯斯人民ノ通義権理[2]ヲ保護主張シ、以テ斯人民オシテ自主自由、独立不羈[24]ノ人民タルヲ得セシムルニ在ル而已。是レ即チ其ノ君臣上下オシテ融然一体[25]ナラシメ、以テ其ノ禍福緩急[26]ヲ分チ、以テ相共ニ我日本帝国ヲ維持昌盛[27]ナラシムルノ道ナレバ也。

一 夫我輩斯通義権理[2]ヲ主張セントスル者、亜細亜洲中ノ首唱[28]ニシテ、而カモ天下ノ大業[29]ナリ。固ヨリ之ヲ期スルニ尋常歳月ノ功ヲ以テス可ラス、故ニ我社ノ士ハ常に宜シク其ノ忍耐力ヲ培養シ、譬ヒ艱難憂戚[30]百挫千折[31]スルモ、敢テ少シクモ屈撓[32]スルコト莫ク、至誠[14]ノ心、不抜ノ志[33]、我輩全党終生ノ力勉焉トシテ、唯斯ノ通義権理[2]ヲ保護主張スル者ニ竭尽[34]シ、死ニ之クモ他ナキヲ要ス可シ。

 於是イテ遂イニ調印相誓フ者如左。

   「立志社―その活動と憲法草案―」高知市立自由民権記念館発行より

 ※縦書き原文を横書きとし、句読点を付してあります。

【注釈】

[1]貴賤尊卑:きせんそんぴ=身分の高い人と低い人、尊い人と卑しい人。
[2]通義権理:つうぎけんり=基本的人権。普遍的人権。
[3]移奪:いだつ=横に引っぱって奪いとる。
[4]世運:せうん=世の中の動向。世の中の成り行き。
[5]本然:ほんぜん=人手を加えないで、自然のままであること。もとからそのままであること。また、もともと具有しているもの。
[6]封建:ほうけん=天子・皇帝・国王などが、直轄領以外の土地を諸侯に分け与え、領有・統治させること。また、そのような制度。
[7]武断:ぶだん=武力をもって民を処断すること。兵力を背景として政務を断行すること。
[8]奴隷:どれい=人間としての権利・自由を認められず、他人の私有財産として労働を強制され、また、売買・譲渡の対象ともされた人。
[9]余弊:よへい=後に残っている弊害。
[10]剗除:さんじょ=削って除く。
[11]国威:こくい=国の威力。その国が対外的に持つ威力。
[12]誠愛:せいあい=誠実な愛。
[13]発憤:はっぷん=これから大いに励もうと精神をふるいおこすこと。
[14]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[15]天皇陛下御誓文:てんのうへいかごせいもん=1868年(明治元)の「五箇条の御誓文」のこと。
[16]旨意:しい=主旨。意図。考え。
[17]造次顛沛:ぞうじてんぱい=とっさの場合やつまずき倒れるとき。転じて、わずかの時間のたとえ。つかのま。
[18]徹頭徹下:てっとうてっか=始めから終わりまで同じ方針・考えを貫くさまを表わす語。始終。どこまでも。あくまで。
[19]公論:こうろん=公平な議論。
[20]公議:こうぎ=おおやけに論議すること。また、多くの人が認めて支持する議論。
[21]明了:めいりょう=はっきりしていること。また、そのさま。
[22]光リヲ日月ニ争フ:ひかりをじつげつにあらそう=道徳や功績の高いことにたとえる。
[23]看做ス:みなす=仮にそうと見る。そうでないものをそうとする。仮定する。
[24]独立不羈:どくりつふき=他から制御されないで自己の所信で事に処すること。また、そのさま。
[25]融然一体:ゆうぜんいったい=様々なものが溶け合って、一丸となることなどを意味する語。
[26]禍福緩急:かふくかんきゅう=災いと幸せ、おそいのと早いのと。
[27]昌盛:しょうせい=さかんなこと。栄えること。繁盛。
[28]首唱:しゅしょう=いちばん先に言い出すこと。
[29]大業:たいぎょう=大きな事業。重大な事業。
[30]艱難憂戚:かんなんゆうせき=困難にあって苦しみ悩み、憂い悲しむこと。
[31]百挫千折:ひゃくざせんせつ=何度もくじけること。いくどもいくども挫折すること。
[32]屈撓:くっとう=かがみたわむこと。また、屈服すること。
[33]不抜ノ志:ふばつのこころざし=どうやっても抜くことができないという意味から、とても堅いことのたとえ。何があっても諦めないこと。
[34]竭尽:けつじん=尽きること。なくなること。また、力を尽くすこと。

<現代語訳>

一 天はその人民を生じさせた時に、誕生させた最初から身分の高い低いの区別なく、みなこれを平等の人とした。そしてこれに与えたものは、はっきりと動かしたりすることが出来ない普遍的人権なのである。従って、その普遍的人権というものは、天が平等に人民に与えたものであって、人の力でこれを奪ったりすることができないものである。ところが、未開の野蛮なところでは、人民はともすれば、そのもともと具有している普遍的人権を、保つことができない者がある。まして、我国のように数百年来封建的で武力をもって人民を処断する制度下にあり、その人民を奴隷のようにしてきた弊害が残り、いまだに全く除去されず、かりにもここに至って改めていない。わが人民の中国やインドの人民と異なっている点であり、ここにしてわが国威の発揚とか、わが国民の富だとかを欲しているが、どうして得ることが出来ようか、いやできない。我らはいくばくかの誠実で国を愛する心は大いにここに奮い起こされるのである。まさしく志を同じくする者と誓い合い、もってわが人民の普遍的人権を主張し、もってその天より賜ったものを保全するものである。また、まさしくその天皇を愛し、国を愛する心は深く、かつ大きいためである。

一 我らはすでに本当に国を愛する真心により奮い起こされて、その人民の普遍的人権を保護主張しようとしている。ところが、これを達成する道程は、まさしくわが天皇陛下の「五箇条の御誓文」の主旨に基づき、わずかな時間でも、どこまでも、ただその「公論公議」の考えに従って、常に公党の主旨を遵守して明瞭にし、よって道徳や功績の高いことである。

一 我らがその政府を注視するに、その人民のために設けられた政府とみなす他はない。そして、わが党の目的は、ただその人民の普遍的人権を保護主張し、そして、人民によって自主自由で、他からの束縛を全く受けない人民であるようにすることに尽きる。これはすなわち、その天皇と人民が一心同体となり、不幸と幸せ、平和と争いを分かち合い、そしてお互いにこの日本帝国を維持繁盛させていく道なのである。

一 それ我らがその普遍的人権を主張しようというのは、アジア州の中の最初の主張であって、しかも天下の大きな使命である。もとよりこれを成功させるには普通の日々の努力だけではできないであろう。従って、我らの結社の有志は常にほどよくその忍耐力を養い、たとえ大変な苦労にさいなまれ続け、いくどもいくども挫折しようとも、積極的に少しも屈服することなく、誠実な心と揺るがない志を保ち、我ら全党の一生涯を懸けた天命の仕事として、ただその普遍的人権を保護主張することに力を尽くし、そして死に就く他ないことを必至とするべきである。

 ここに於いて、ついに調印し、左のように誓い合うものである。

〇(参考)「愛国公党本誓草案」

本誓

一 天の欺人民を生するや、必らず之に付与するに一定動かすへからさるの通義権理を以てす。斯の通義権理なる者は、天の均く以て人民に賜ふ所の者にして、人力の以て移奪するを得さる者なり。然るに世運の未た全く開けさるや、人民動もすれは斯本然の通義権理を保つ能はさる者あり。而して〔抹消:況や我国数百年来封建〕武断の制、其の民を奴視〔抹消:隷に〕せしの餘弊、未た全く刻除せす。苟も是に由て改めす。我人民の支那、印度の人民と相厺る、能く幾くある如是にして、我国威の揚り、我国民の富を欲す。豈に可得〔抹消:や〕。我輩一片至誠愛国の心、大に此に発憤するあり。乃ち同志の士と相誓ひ、以て我人民の通義権理を主張し、以て其天の賜を保全せんとす。即其君を愛し国を愛するの心深く且大なれはなり〔併記:なる事は論する勿れ。遂に亜〕。

〔抹消:一 我輩既に已に愛国至誠の上より発憤し、斯人民の通義権理を保護主張せんとす。然るに之を為すの道、即我天皇陛下の御誓文の旨意に体し、造次顛沛、徹頭徹下、唯斯公論公議を以し、常に盟約の〔抹消:公党の〕旨意を遵守す可し〔抹消:明言し以て先つ明に争ふ可し〕。

一 我輩の斯政府を視る、斯人民の為め設る所の政府と看做すより他なかる可し。而して吾党の目的は、唯斯人民の通義権理を保護主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民たるを得せしむるに在る而已。是即其君主人民の間〔抹消:主上下をして〕融然一体〔抹消:ならしめ〕、以て其禍福緩急を分ち、〔末梢:以て〕相共に我日本帝国を維持昌盛ならしむるの道なれはなり。

一 夫我輩斯通義権理を主張せんと〔抹消:する者は、亜細亜洲中の首唱にして〕而かも天下の大業なり。〔抹消:固より之を期する、尋常歳月の功を以てすへからす、故に我党の士は常に〕宜く常に其忍耐力を培養し、譬ひ艱難憂戚百挫千折するも、敢て少しても屈撓する事莫く、至誠の心、不抜の志、我輩〔抹消:全党〕終生の力勉焉として、唯た斯通義権理を保護主張する者に竭尽し、死に之くも他なきを要すへし。於之遂に調印相誓ふ者如左。

   「国立国会図書館デジタルコレクション」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1903年(明治36)日本画家岩橋英遠の誕生日詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
2019年(平成31)哲学者梅原猛の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、日本で最初の全国的政党である自由党が結成された日です。
 自由党(じゆうとう)は、自由民権運動隆盛の頃に、国会期成同盟の中から板垣退助、中島信行、後藤象二郎、末広重恭、馬場辰猪らが結成した日本で最初の全国的政党でした。
 国会開設運動が全国的に高揚する中、全国に拡大した運動の組織強化のため、国会期成同盟を改組して自由主義を標榜する政党を組織する機運が高まります。一方で、国会論,財政論の対立の中、1881年(明治14)7月に「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こり、10月11日に明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免され、翌日に「国会開設の勅諭」が出されました。
 これによって、国会開設の目的が達成されたと考え、自由党結成へと向かい、10月18日に、浅草井生村楼で地方出身者と反沼間派の都市出身者によって創立大会を開催します。同月29日には、自由党盟約、自由党規約、人事などを定め、初代総理(党首)は板垣退助、副総理に中島信行、常議員に馬場辰猪・末広重恭・後藤象二郎・竹内綱、幹事に林包明・山際七司・内藤魯一・大石正巳・林正明が就任しました。
 盟約には、自由拡充、権利保全、幸福増進、社会改良、立憲政体の確立などを掲げ、自由民権運動の中核として活動します。中央機関紙『自由新聞』を発行、薩長両藩出身者が支配する藩閥政府と対決、自由民権の伸長、地租軽減、条約改正などを要求して、各地で急速に勢力を伸ばしました。
 しかし、1882年(明治15)6月に、突然の「集会条例」改正による地方部の解体や12月の福島事件、翌年3月の高田事件などの政府の激しい弾圧、不況による資金不足、板垣の外遊をめぐる党内抗争などが起こります。そして、1884年(明治17)9月の加波山事件によって解党論が高まり、10月29日ついに大阪での解党大会に追込まれました。
 以下に、自由党結成時の「自由党盟約」、「自由党規約」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「自由党盟約」 1881年(明治14)10月

  自由党盟約

第一章 吾党は自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を 図るべし。
第二章 吾党は善良なる立憲政体を確立することに尽力すへし。
第三章 吾党は日本国に於て吾党と主義を共にし、目的を同くする者と一致 協力して、以て吾党の目的を達すべし。

  自由党規則

第一章 東京に中央本部を設け地方に地方部を置く、其地方部は各自地方の名称により自由党何部何某と称すべし。
第二章 党中に於て総理(一名)副総理(一名)常議員(若干名)幹事(五名)を公選し、自由党全体に係る事務を管理せしむ其任期は各一年とす。
第三章 正副総理は通常会并に臨時会に於て決定せし事件を実行す。
第四章 常議員は党中の利害に関する重要なる事件を評議す。
第五章 幹事は会計及び党員の出入、文書の往復、所有品の監護等の諸事を分掌す。
第六章 常備委員は本部の議事に参し、及び本部の事業を翼賛し、各地方を巡回す。
第七章 総理并に常議員は、給料なし幹事以下の役員には定むる所の手当金を与ふ。
第八章 凡そ役員は再三の選に当るを得。
第九章 地方部は中央本部に対する部理一名を置く。其他の役員は潭て地方の便宜に任す。
第十章 地方部に於ては毎年六月十二月両度其地方党衆の名簿を調査し、其加除増減を明にして中央本部に送達すぺし。
第十一章 吾党と主義を同くし、新に党衆たらんとする者は、其住所若くは寄留地なる地方部に於て、其人の族籍・姓名・身分を査察し、然る後之を容す可し。
第十二章 党中を脱せんとする者は其理由を詳記したる書面を以て本人の住所・寄留地なる地方部に届出つ可し。
第十三章 毎年十月地方部より代議員を出して、大会議を東京に開く、其議会に列る議員は一小圑結に付五名以下とす。
第十四章 大会議に於ては、党中一般に係り創起すべき事件施行す可き事件を議定す。
     大会議に於ては、本部役員の改選を為す。
     大会議に於ては、総理并に幹事より前年度に在て施行したる事件及び会計の決算報告を受け、翌年度の会計予算を議決す。
第十五章 緊要なる事件の通常会議の期を待ち難き者ある時は、総理は臨時に各地方部の代議人を招集して会議を開く事ある可し。

  国立国会図書館デジタルコレコレクション「自由党盟約」より

  ※縦書きの原文を横書き、旧字を新字、片仮名を平仮名とし、句読点を付してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らが社会主義研究会(後の社会主義協会)を結成する詳細
1939年(昭和14)価格等統制令」が公布され、物価などの価格が統制される詳細
1945年(昭和20)小説家葉山嘉樹の命日詳細
1955年(昭和30)長崎県大村湾口に当時日本一長さ(支間長:216m)の西海橋が開通する詳細


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shyuttpanjyourei01

 今日は、幕末明治維新期の1869年(明治2)に、「出版条例」が制定され、出版の許可制と出版取調所を設置した日ですが、新暦では6月22日となります。
 「出版条例(しゅっぱんじょうれい)」は、明治新政府によって、行政官達444号として公布された出版取り締まりの法令でした。出版の事前検閲・納本、風俗取締り、政府誹謗の禁止、違反者処罰などのほか出版官許制による出版権保護を規定しています。
 1872年(明治5年1月13日)の改正後、自由民権運動の高まりを抑圧するため、1875年(明治8)6月28日に「讒謗律」、「新聞紙条例」が公布されると、それに対応して9月3日の太政官布告135号により改正され、許可制を届出制にしました。1883年(明治16)と1884年(明治17)にも一部改正され、さらに、1987年(明治20)12月26日の「保安条例」公布により、同月28日に勅令(明治20年勅令76号) により全部改正され、取締規程を精密にしています。
 しかし、1893年(明治26)4月の「出版法」の制定により、内容は受け継がれた上で廃止されました。以下に、最初の「出版条例」(行政官達444号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「出版条例」(行政官達444号) 1869年(明治2年5月13日)

五月十三日(行政官)
書籍出版モノ是迄議政官ニ於テ改方相成候処今度学校ニ於テ出版取調所被設候間向後書籍出版致度者ハ昌平開成両学校之内ヘ願出官許ヲ可受候依而出版条例書相達候間堅可相守事
但従来蔵版之図書題号及著述者姓名官許年月等行政官ヘ可届出旨相達置候処未タ届出サル向ハ東京ハ来ル六月中遠国ハ十月迄之内両学校ヘ可差出事
(別紙)
 出版条例及出版願書雛形

出版条例

一出版ノ書ハ必ス著述者出版人売弘所ノ姓名住所等ヲ記載ス可シ〔縱令ヒ一枚摺ノ品ト雖ドモ亦然リ〕此法ヲ犯ス者ハ罰金ヲ出ス可シ

一妄ニ教法ヲ説キ人罪ヲ誣告シ政務ノ機密ヲ洩シ或ハ誹謗シ及ヒ淫蕩ヲ導クコトヲ記載スル者軽重ニ隨テ罪ヲ科ス

一図書ヲ出版スル者ハ官ヨリ之ヲ保護シテ専売ノ利ヲ収メシム
 保護ノ年限ハ率ネ著述者ノ生涯中ニ限ルト雖ドモ其親属之ヲ保続セント欲スル者ハ聴ス

一図書ヲ出版スルニ先タチテ書名著述者出版人ノ姓名住所書中ノ大意等ヲ具ヘ学校ヘ出シ学校ニテ検印ヲ押シテ彼ニ付ス此レ即チ免許状ナリ此免許ノ月日ヲ併セ刻スヘシ

一出版ヲ願フ者ハ書面中幾月後刻成ヲ待テ其書ヲ納ム可キコトヲ記シ若シ刻成サレハ別ニ期ヲ延フルヲ請フ
一刻成ルノ後五部ヲ学校ニ納ムヘシ
 此レ各所ノ書庫ニ頒ツ為メナリ

一官ニ告ケスシテ書ヲ出版スル者并ニ之ヲ売弘スル者アレハ版木及ヒ製本ヲ没入ス
 但シ之ヲ売テ得ル所ノ金モ亦官ニ入ル

一官許ヲ受ケスシテ偽テ官許ノ名ヲ冐ス者ハ罰金ヲ出サシム
 但シ未タ発兌セサル者ト雖ドモ亦然リ

一重版ノ図書ハ版木製本盡ク官ニ没入シ且罰金ヲ出サシム〔是ヲ売弘ムルモノ亦同シ〕罰金ノ多少ハ著述者出版人ノ損害ノ多少ニ準ス
 但罰金ハ即チ著述出版ノ本人ヘ付与スル償金トス

一凡ソ新タニ舶来ノ図書ヲ翻刻スル者ハ亦専売ノ利ヲ収メシム旧版漫滅スルヲ見テ再刻ヲ願フ者ハ摩滅ノ度ニ従テ聴ス

一凡ソ著述及翻刻ノ図書雙方ヨリシテ願ヒ出ルニ於テハ譲リ渡シヲ得テ出版自在ナル可シ

一翻訳練兵書類ハ専ラ新式ヲ崇フヲ以テ歳月ノ限アル可カラス且ツ大図ヲ縮小シ小図ヲ拓大ニシ或ハ旧本ニ標註ヲ加フル等ノ如キ臨時ニ議シテ本人ニ害ナキ者ハ聴ス

一凡ソ活字ニテ出版スル者亦此例ニ同シ

一凡ソ図書肖像戯作等モ亦之ニ準ス
 出版願書雛形今一例ヲ挙ク
 二通差出シ一通ハ検印ヲ押シテ願人ニ与フ

  覚

一表題 冊数及ヒ製本ノ大小
 何月迄ニ出版或ハ全部ノ内幾冊出版
右何々ノ事ヲ記載〔書中ノ大意ヲ記シ之カ提要ヲ示ス明白ナルヲ要ス〕
仕候書ニテ一切御条例ニ背キ候箇条更ニ無之候間私蔵版ニ仕出版仕度此段奉願候若発兌ノ上御尋ノ儀ハ私共引受可申奉存候以上
月 日
       著述者或ハ翻訳者 身分 姓名 印
                 住居
       出版願人或社中ナレハ連名ス 同 姓名 印
                 同
若シ翻訳書ナレハ其原書ノ年代人名国名ヲ記スヘシ著述者没後ナレハ其姓名等ヲ本文ノ中ニ記ス翻刻ノ書ナレハ詳ニ其原本ノ次第及類本有無等ヲ記スヘシ其他大図ヲ小図ニ為シ旧本ヲ改正増補スル等ノ如キ皆条例ニ照シ其要ヲ記シテ願出ヘシ

  附録

一学校中出版取調局ヲ設ケ両黌ノ官員相集ツテ免許ヲ与フ可キ哉否ヲ議決ス

一儻シ願書ニテモ議決シ難キ者アレハ時トシテ草稿ヲ出サシム

一学校知官事ノ許ニ一箇ノ印ヲ蔵シテ免許ノ検印トス

一学校中ニ於テ願済ノ書目ヲ印行シテ書肆ニ付シ毎月或ハ隔月嗣出シテ著述者ノ参照ニ便シ剽襲ヲ防ク

一三都三都書肆中ノ人ヲ撰ヒ年行司ヲ置テ互ニ相視察セシム

一出版ノ法ヲ犯ス者ハ所在裁判局ニ於テ科断ス

 旧例出版検査ノ法必ス共稿ヲ呈シテ閲ヲ受ク副本ヲ作リ遠地ニ送リ時日ヲ曠フシ事機ニ後ルルノ思アリテ文化ヲ傷スルコト少キニ非ス本局命ヲ蒙ツテ出版ヲ監スルヲ以テ議シテ此ノ法ヲ変シ以テ此思を除ク然リト雖モ厳ニ約束ヲ為サスシテ妄ニ書ヲ刊行シテ世人ヲ惑ハサハ其害更ニ甚シカラシ故ニ条例ヲ頒シテ遵守スル所ロヲ知ラシム若シ条例ヲ犯ス者ハ固ヨリ人ヲ得テ責ル所ロノ罪アリ

 明治己巳ノ夏四月       学校権判事附議

    「法令全書」より
  ※縦書きの本文を横書きに改め、旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1829年(文政12)江戸時代の大名・老中で寛政の改革の主導者松平定信の命日(新暦6月14日)詳細
1866年(慶応2)英・米・仏・蘭の4ヶ国と「改税約書」(別名:江戸条約)が結ばれる(新暦6月25日)詳細
1930年(昭和2)小説家田山花袋の命日(花袋忌)

詳細

1972年(昭和47)日本のビル火災史上最悪の惨事である千日デパート火災が起き、死者118名、負傷者81名を出す詳細
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