この時に、板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を発したと言われ、自由民権運動を象徴するものとして有名となりました。
戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、1874年(明治7)に愛国公党を結成し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣などと左院に民撰議院設立建白書を提出したものの、却下されます。
また、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。
1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。1884年(明治17)決断して自由党をいったん解党しましたが、1890年(明治23)の帝国議会開設後には、自由党を再結成して、党総理に就任することになります。
1896年(明治29)第2次伊藤内閣の内務大臣となり、1898年(明治31)には、大隈重信と隈板内閣をつくり、内務大臣に就任しました。1900年(明治33)、立憲政友会の創立とともに政界を引退し、その後は社会改良運動につくしましたが、1919年(大正8)7月16日、83才で死去しています。
尚、故郷の高知県に「高知市立自由民権記念館」が開設され、詳しい展示コーナーが設けられました。
それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われます。しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきました。
その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件が起きることになりましたが、政府の激しい弾圧の下で、沈滞して終息します。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1336年(建武3/延元元) | 第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)の命日(新暦5月17日) | 詳細 |
1722年(享保7) | 江戸幕府が「流地禁止令」を出す(新暦5月20日) | 詳細 |
1742年(寛保2) | 江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日) | 詳細 |
1823年(文政6) | 狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人大田南畝の命日(新暦5月16日) | 詳細 |
1921年(大正10) | 東京の大正浅草大火で、負傷者544名、全焼1,227戸、半焼73戸を出す | 詳細 |
2017年(平成29) | 「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される | 詳細 |