ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:自然主義文学

shimazakitousonhakai01
 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、島崎藤村が長篇小説『破戒』を「緑陰叢書」第1篇として自費出版し、自然主義文学の出発点となった日です。
 『破戒』(はかい)は、島崎藤村著の日本の自然主義文学を代表する長編小説の一つで、明治時代後期の1905年(明治38)の小諸在住時代の最後に起稿し、翌年3月25日に、緑陰叢書の第1編として自費出版されました。被差別部落出身の青年教師瀬川丑松が、社会の偏見と差別に苦悩しながら、父の戒めを破って、自分の素性を告白し、新生活を求めて町を離れて行くまでの心理的過程を描写しています。
 家族制度の抑圧からの解放を願う藤村の内的欲求と、被差別部落への差別に対しての抗議という社会正義の問題とが結合したリアリズム小説として、大きな反響をよびました。これによって、藤村の作家的地歩が確立し、日本自然主義文学運動の出発点となった記念碑的作品です。

〇『破戒』の冒頭部分

 蓮華寺では下宿を兼ねた。瀬川丑松が急に転宿を思ひ立つて、借りることにした部屋といふのは、其蔵裏つゞきにある二階の角のところ。寺は信州下水内郡飯山町二十何ヶ寺の一つ、真宗に附属する古刹で、丁度其二階の窓に倚凭つて眺めると、銀杏の大木を経てゝ飯山の町の一部分も見える。さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前に見るやうな小都会、奇異な北国風の屋造、板葺の屋根、または冬期の雪除として使用する特別の軒庇から、ところ/″\に高く顕あらはれた寺院と樹木の梢まで――すべて旧めかしい町の光景が香の烟の中に包まれて見える。たゞ一際目立つて此窓から望まれるものと言へば、現に丑松が奉職して居る其小学校の白く塗つた建築物であつた。
 丑松が転宿を思ひ立つたのは、実は甚だ不快に感ずることが今の下宿に起つたからで、尤も賄でも安くなければ、誰も斯様な部屋に満足するものは無からう。壁は壁紙で張りつめて、それが煤て茶色になつて居た。粗造な床の間、紙表具の軸、外には古びた火鉢が置いてあるばかりで、何となく世離れた、静寂な僧坊であつた。それがまた小学教師といふ丑松の今の境遇に映つて、妙に佗しい感想を起させもする。
  (後略)

☆島崎藤村(しまざき とうそん)とは?

 明治時代後期から昭和時代前期にかけて活躍した詩人・小説家で、本名は島崎春樹といいます。明治時代前期の1872年(明治5)筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治学院普通部本科に学びました。
 卒業後、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となり、翌年、雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表しました。1896年(明治29)、東北学院教師となり、仙台に赴任、ロマン主義詩人として第一詩集『若菜集』を発表して文壇に登場することになります。
 1899年(明治32)、小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間過ごす中で、随筆「千曲川のスケッチ」を書きました。その後上京し、小説『破戒』を出版、文壇からは本格的な自然主義小説として評価されることになります。
 以後、『春』、『家』、『新生』、『夜明け前』などの小説を発表、1935年(昭和10)には、日本ペンクラブを結成し、初代会長に就任しましたが、1943年(昭和18)8月22日に、神奈川県大磯町において、71歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

850年(嘉祥3)第56代の天皇とされる清和天皇(源氏の祖)の誕生日(新暦5月10日)詳細
1919年(大正8)建築家・工学博士で、「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の命日詳細
1928年(昭和3)全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成される詳細
1939年(昭和14)「軍用資源秘密保護法」が公布(施行は同年6月26日)される詳細
2005年(平成17)愛知県において、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)が開幕する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

masamunehakuchyou01

 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の亡くなった日です。
 正宗白鳥(まさむね はくちょう)は、明治時代前期の1879年(明治12)3月3日に、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)で、豪農の旧家だった父・正宗浦二、母・美禰の長男として生まれましたが、本名は忠夫(ただお)と言いました。旧藩校閑谷黌を卒業し、1896年(明治29)に上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)英語専修科に入学します。
 在学中にキリスト教夏期学校で内村鑑三に学び、キリスト教の洗礼を受けました。1901年(明治34)に卒業後、母校の出版部を経て、1903年(明治36)に読売新聞社に入社して、文芸・美術・演劇を担当します。
 翌年『寂寞』を発表して小説を書きはじめ、1907年(明治40)には最初の短編集『紅塵』を刊行し、新進作家として認められました。1908年(明治41)に「早稲田文学」へ発表した『何処へ』などで、自然主義文学運動の中心作家の一人となります。
 『安土の春』、『光秀と紹巴』(ともに1926年)などの戯曲も手掛け、1928年(昭和3)から翌年にかけての外遊後は、『文壇人物評論』などの評論分野でも活躍しました。1935年(昭和10)に島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立、1943年(昭和18)から会長に就任します。
 太平洋戦争後は、1950年(昭和25)に文化勲章受章、翌年文化功労者となったのをはじめ、1957年(昭和32)に批評活動で第5回菊池寛賞、1959年(昭和34)に小説『今年の秋』で第11回読売文学賞・小説賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。しかし、1962年(昭和37)10月28日に、東京において、83歳で亡くなっています。

〇正宗白鳥の主要な著作

・小説『寂寞』(1904年)
・小説『塵埃』(1907年)
・小説『何処へ』(1908年)
・小説『微光』(1910年)
・小説『泥人形』(1911年)
・小説『入江のほとり』(1915年)
・小説『牛部屋の臭ひ』(1916年)
・小説『死者生者』(1916年)
・小説『牛部屋の臭ひ』(1916年)
・小説『毒婦のやうな女』(1920年)
・戯曲『人生の幸福』(1924年)
・戯曲『安土 (あづち) の春』(1926年)
・戯曲『光秀と紹巴』(1926年)
・評論『文壇人物評論』(1932年)
・評論『文壇的自叙伝』(1938年)
・評論『自然主義盛衰史』(1948年)
・小説『日本脱出』(1949年)
・評論『内村鑑三』(1950年)
・自伝『文壇五十年』(1954年)
・小説『今年の秋』(1959年)読売文学賞受賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ