
腰越状(こしごえじょう)は、1185年(文治元)に、源義経が、平家討滅後に、兄・頼朝の不興を蒙り、鎌倉入りを止められて腰越に留まって、頼朝の誤解を解くために、鎌倉幕府公文所別当の大江広元に宛ててその心中を記述した書状です。頼朝がこの措置に出たのは、義経が鎌倉政権の承認を経ないで朝廷の任官を受けたためであり、本書状によっても義経が鎌倉に入ることは実現しませんでした。
仕方なく、義経は京都に引き返し、頼朝追討を決意するにいたったとされます。全文は、『吾妻鏡』に掲載されていますが、真偽については疑問がもたれてきました。
室町時代には、『義経記』に記載され、幸若舞の素材(腰越)となり、義経の悲劇として語られています。また、江戸時代には、『古状揃』に収録され、読本の教科書として広く読まれ、明治時代初期まで、手習いの教科書として用いられました。
以下に、『吾妻鏡』巻四に掲載されている「腰越状」を載せておきますので、ご参照下さい。
仕方なく、義経は京都に引き返し、頼朝追討を決意するにいたったとされます。全文は、『吾妻鏡』に掲載されていますが、真偽については疑問がもたれてきました。
室町時代には、『義経記』に記載され、幸若舞の素材(腰越)となり、義経の悲劇として語られています。また、江戸時代には、『古状揃』に収録され、読本の教科書として広く読まれ、明治時代初期まで、手習いの教科書として用いられました。
以下に、『吾妻鏡』巻四に掲載されている「腰越状」を載せておきますので、ご参照下さい。
〇『吾妻鏡』巻四より
<原文>
元暦二年(1185)五月小廿四日戊午。源廷尉〔義經〕如思平 朝敵訖。剩相具前内府參上。其賞兼不疑之處。日來依有不儀之聞。忽蒙御気色。不被入鎌倉中。於腰越驛徒渉日之間。愁欝之餘。付因幡前司廣元。奉一通款状。廣元雖披覧之。敢無分明仰。追可有左右之由云々。彼書云。
左衛門少尉源義經乍恐申上候。意趣者。被撰御代官其一。爲 勅宣之御使。傾 朝敵。顯累代弓箭之藝。雪會稽耻辱。可被抽賞之處。思外依虎口讒言。被黙止莫大之勳功。義經無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘氣之間。空沈紅涙。倩案事意。良藥苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者實否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送數日。當于此時。永不奉拝恩顏。骨肉同胞之儀既似空。宿運之極處歟。將又感先世之業因歟。悲哉。此倏。故亡父尊靈不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懷。義經受身躰髪膚於父母。不經幾時節。故頭殿御他界之間。成無實之子。被抱母之懷中。赴大和國宇多郡龍門牧之以來。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命許。京都之經廻難治之間。令流行諸國。隱身於在々所々。爲栖邊土遠國。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。爲責傾平氏。或時峨々巖石策駿馬。不顧爲敵亡命。或時漫々大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之爲甲冑於枕。爲弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年來宿望之外無他事。剩義經補任五位尉之條。當家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非佛神御助之外者。爭達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王寳印之裏。全不挿野心之旨。奉 驚日本國中大少神祇冥道。雖書進數通起請文。猶以無御宥免。其我國神國也。神不可禀非礼。所憑非于他。偏仰貴殿廣大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之餘慶於家門。永傳榮花於子孫。仍開年來之愁眉。得一期之安寧。不書盡詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義經恐惶謹言。
元暦二年五月日 左衛門少尉源義經
進上 因幡前司殿
<読み下し文>
元暦二年(1185)五月小廿四日戊午。源廷尉〔義經〕思いの如く朝敵を平げ訖。 剩へ前内府を相具し參上す。其の賞兼て不疑之處、日來不儀之聞へ有るに依て、忽ち御気色を蒙り、鎌倉中へ入被不、腰越驛[1]に於て 徒に日を渉る之間、愁欝之餘り、因幡前司廣元に付し、一通の款状[2]を奉る。廣元之を披覧す[3]と雖も、敢て分明の仰せ無く、追て左右有る可し[4]之由と云々。
彼の書に云はく。
左衛門少尉源義經[5] 恐れ乍ら申し上げ候う意趣者、御代官の其一に撰被、勅宣之御使と爲し、朝敵を傾け、累代の弓箭之藝を顯し、會稽の耻辱を雪ぐ[6]。抽賞被る可き之處、思の外に虎口の讒言に依て、莫大之勳功を黙止被る。義經犯無くし而咎を蒙り、功有ると雖も誤り無くて、御勘氣を蒙る之間、空しく紅涙に沈む。倩、事の意を案ずるに。良藥は口に苦く、忠言は耳を逆るの、先言也。茲に因て、讒者の實否を糺被不、鎌倉中へ入被不之間、素の意を述るに不能、徒に數日を送る。此の時于當り、永く恩顏を拝し奉不。 骨肉同胞之儀既に空しきに似り。宿運之極まる處歟。將又、先世之業因を感ずる歟。悲き哉。此の倏、故亡父の尊靈再誕し給不者、誰人が愚意之悲歎を申披き、何輩が哀憐を垂ん哉。事新たに申すの状述懷に似りと雖も、義經身躰髪膚於父母に受け、幾時節を不經、故頭殿御他界之間、無實之子と成し、母之懷中に抱被[7]、大和國宇多郡龍門牧[8]へ赴く之以來、一日片時と安堵之思いに住不。甲斐無き之命許りを存ずと雖も、京都之經廻難治之間、諸國に流行令め、身於在々所々に隱す。邊土遠國を栖と爲し、土民百姓等に服仕被る[9]。然而、幸慶忽ちに純熟し而平家一族追討の爲、之を上洛令むの手合に木曾義仲を誅戮之後、平氏を責め傾けん爲、或時は峨々たる巖石を駿馬に策ち、敵を亡さん爲命を不顧。或時は漫々たる大海に風波之難を凌ぎ、身於海底に沈め、骸於 鯨鯢[10]之鰓に懸くるを不痛。之に加へ甲冑於枕と爲し、弓箭於業と爲す。本意は併ら[11]亡魂の憤りを休んじ奉り、年來の宿望を遂んと欲する之外他事無し。剩へ義經五位尉に補任之條、當家之面目、希代之重職、何事を之に加へん哉。然りと雖も[12]、今愁い深き歎き切なし。佛神の御助に非る自り之外者、爭か愁訴を達せん。茲に因て、諸神諸社牛王寳印之裏を以て、全く野心を挿不之旨、日本國中の大少の神祇冥道を請け驚かし奉る。數通の起請文を書き進めると雖も、猶以て御宥免無し。其我國は神國也。神は非礼を禀ける不可。憑む所他于非。偏に貴殿の廣大之御慈悲を仰ぎ、便宜を伺い高聞に達さ令め、秘計を廻被、誤無之旨に優ぜ被、芳免に預ら者、積善之餘慶於家門に及ばし、永く榮花於子孫に傳へん。仍て年來之愁眉を開き、一期之安寧を得んと、詞を書き盡不。 併ら 省略 令め候ひ畢。賢察を垂被んと欲す。義經恐惶謹言。
元暦二年五月日 左衛門少尉源義經
進上 因幡前司殿
【注釈】
[1]腰越驛:こしごえのうまや=神奈川県鎌倉市腰越三丁目の江ノ電が取っている当たりに宿があったと推定されている。
[2]款状:かんじょう=官位を望む旨や、訴訟の趣を記した嘆願書。一般に手柄を箇条書きにして褒美を請求する手紙。
[3]廣元之を披覧す:ひろもとこれをひらんす=廣元宛の手紙を頼朝に見せた。
[4]追て左右有る可し:おつてそうあるべし=後で処置を出そう。
[5]左衛門少尉源義經:さえもんのしょうじょうみなもとのよしつね=自由任官した官職と同属待遇の「源」の文字を使っていることが、頼朝にとっては不満。
[6]會稽の耻辱を雪ぐ:かいけいのちじょくをすすぐ=中国の史記に春秋時代、呉越同舟の越王勾践は呉王夫差に破れ、会稽山に逃げたが、夫差の下僕になるという屈辱的な条件によって和睦し、助命された。後にこの恥を忘れぬために肝を舐めて頑張り、やっつけ返した話から諺になっている。
[7]母之懷中に抱被、大和國宇多郡龍門牧へ赴く:ははのふところにいだかれ、やまとのくにうたぐんりゅうもんのまきへおもむく=このシーンを昔の絵本は常盤御前が牛若を懐に抱き今若と乙若の手を引きいて雪道を歩く絵。
[8]大和國宇多郡龍門牧:やまとのくにうたぐんりゅうもんのまき=旧奈良県吉野郡吉野町龍門だが、現在の吉野町佐々羅に竜門幼稚園と竜門郵便局があるあたりらしい。興福寺領。
[9]土民百姓等に服仕被る:どみんひゃくしょうらにふくじされる=道中の糧食を得るために身分を隠し、百姓のところで使われたと言ってる。服して仕える。
[10]鯨鯢:けいげい=鯨が雄鯨で鯢が雌鯨をさし、あわせて鯨を意味する。大きな口で小さな蝦や魚を飲み込む様から多数の弱者に被害を与える極悪人またはその首謀者をさし、大きな刑罰や罪人を意味する。他に大局将棋の銀兎が成になると鯨鯢になる。
[11]本意は併ら:ほんいはしかしながら=本当のところは。
[12]然りと雖も:しかりといへども=そうは云っても。
<現代語訳>
元暦二年(1185)五月小二十四日戊午。源廷尉義経は、思い通りに平家を討伐し終わりました。そればかりか、平家の総大将の前内大臣宗盛を捕虜にして帰還しました。当然その手柄を表彰されると信じていましたが、九州での日々に命令違反が多かったので、頼朝様のお怒りをかって、鎌倉へは、入ることを許可されず、腰越宿で無意味に日を過ごしておりましたが、切なく悲しく思いましたので、前因幡守広元に託して嘆願書を捧げました。大江広元はこれを頼朝様に見ていただきましたが、特にはっきりとした回答は無く、後日決めるようにするからとの事でした。その手紙に書いてあることは、
左衛門少尉源義経が、恐縮ではありますが申し上げたいことは、頼朝様の代官の一番に選ばれ、天皇家の使いとして、政府にたてつく平家を滅ぼし、先祖代々伝えられる弓矢を扱う武士の家の腕を奮い、父の敵討ちをしました。当然褒められるだろうと確信していましたが、思わぬ伏兵の告げ口によって、莫大なる手柄を無視されました。しかも、義經には何の罪も無いのに罰を受けて、手柄はあっても間違いはしていないのに、お怒りを受けて悲しみの血の涙にふけっております。色々と考えてみると、よく効く薬は口当たりが苦いものだし、正しい忠告は耳を逆なですると昔のことわざにもあります。今ここで、告げ口をした奴の是非を正さないで、私を鎌倉へ入れないのでは、その心を話し様も無く、虚しく日数を費やしております。今に至るまで長い間お会いしていないのでは、兄弟の情は無いのと同じじゃないですか。私の運もここまででしょうか。或いは、よほど前世で悪いことをしたので、その報いを受けているのでしょうか。悲しいことです。このようなことでは、亡き父が生き返りでもしない限り、誰が愚かな私の悲しい境遇を申し開いてくれましょうか。誰が私を哀れんで救ってくれるでしょうか。今始めて話すことは、思い出話の様ではありますが、義經はこの体を父母から授かり、幾らも経たずに父の左典厩義朝様は死んでしまい、孤児となってしまい、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡龍門牧へ向かって以来、一日たりとも安心な日々はありませんでした。どうしようもないとは思いながらも、京都では平家の目が光っており、思うように行動も出来ないので、諸国を流浪してあちこちに隠れ住んでいました。また、目だ立たない地方の田舎に隠れ住み、土地の人達や百姓に使われてやっと凌いできました。しかし、待っていたかいがあって、時は熟し平家一族を追討するために京都へ上ったら、丁度出っくわした木曾義仲を攻め滅ぼしました。その後は、平家をやっつけるために、或る時は険しい岩だらけの山へ馬で登り、敵を滅ぼすためには自分の命を顧みませんでした。又或る時は、大きな海原を風波に翻弄され、その体は鯨の餌になってしまうかも知れないと思っても、これを気にかけませんでした。そればかりか、甲冑を枕とし、弓矢を仕事とする立派な武士魂であります。私の本音は、父の敵討ちをして殺された父の恨みを鎮めることです。その望みを遂げたいと思っていた以外には何もありません。しかも義経は、五位の検非違使に任命されたことは、源氏の家の面目を立てたまれに見る出世です。何よりも勝っていることじゃないですか。そうはいっても、今となれば情けの無い悲しいことです。神や仏の助けを借りる以外には、どうしたらこの悲しい訴えを届けることが出来ましょう。そう云う訳で、全ての神様、全ての神社、誓を守らないとばちが当たるといわれる牛王宝印の押してある紙の裏面に、全く野心を持っていない事を、日本国中の大小の神様達に約束を破ったら罰を受けても良いと誓います。何枚か誓の文書の起請文を書いてお出ししているのに、未だに許してはもらえていません。そもそも、わが国は神様の国なので、その神様に誓った起請文が通用しないのなら、他に手立てがありません。ここは貴方の寛大な哀れみの心に訴えて、機会を捉えて、頼朝様のお耳に届くように策略を練って、間違いではなかったと気付かせてもらって、私が許可をされたならば、積み重ねて余りあるほどの気配りを貴方の一族に与え、子々孫々まで大事にさせましょう。そう云う訳で、今までの悲しいことを解決し、この世の安心を与えて欲しいと思いますが、思うように書き切れませんので、簡単な文章になってしまいました。そのあたりを賢い頭で、旨く察して戴きたいとお願いします。義経拱手しながら謹んで申します。
元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿
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