ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:脚本家

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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、小説家・脚本家生田直親が生まれた日です。
 生田直親(いくた なおちか)は、東京府に生まれましたが、本名は生田直近と書きました。1945年(昭和20)に福島県立川俣工業学校(現在の福島県立川俣高等学校)を中退し、1956年(昭和31)に近代映画社の雑誌『映画の友』の懸賞付き公募シナリオ応募作「凡馬の暦」の入賞を機に上京し、テレビの脚本家となります。
 1958年(昭和33)に童門冬二と共に同人誌「さえら」を出版し、1962年(昭和37)に東芝日曜劇場(TBS)の1作として『煙の王様』を手掛けましたが、翌年にこの作品で、第17回芸術祭文部大臣賞受賞しました。テレビの脚本家として「判決」、「火曜日の女」など多くのシナリオを執筆したものの、1974年(昭和49)に『誘拐197X年』を刊行して、推理作家に転身します。
 1980年(昭和55)に『ソ連侵略198X年』、『東京大地震M8』、1981年(昭和56)に『殺意の大滑降』を刊行し、1982年(昭和57)には、「問題小説」に発表した『赤馬からくり』が日本文藝家協会の「代表作時代小説 昭和58年度」に収録されました。1985年(昭和60)に『金沢怨霊殺人事件』、1986年(昭和61)に『コンピュータ完全犯罪』、1987年(昭和62)に『京都怨霊殺人事件』を刊行するなど、書下ろし長編に作家生命を賭け、パニック小説、伝奇ミステリー、山岳サスペンス、時代小説などを精力的に作品を発表します。
 スキー三昧の傍らの創作活動でしたが、1993年(平成5)3月18日に、肝硬変による静脈瘤破裂のため、63歳で亡くなりました。

〇生田直親の主要な著作

・『誘拐197X年』(1974年)
・『ソ連侵略198X年』(1980年)
・『東京大地震M8』(1980年)
・『殺意の大滑降』(1981年)
・『金沢怨霊殺人事件』(1985年)
・『コンピュータ完全犯罪』(1986年)
・『京都怨霊殺人事件』(1987年)

☆生田直親関係略年表

・1929年(昭和4)12月31日 東京府に生まれる
・1945年(昭和20) 福島県立川俣工業学校(現在の福島県立川俣高等学校)を中退する
・1956年(昭和31) 近代映画社の雑誌『映画の友』の懸賞付き公募シナリオの応募作「凡馬の暦」の入賞を機に上京し、テレビの脚本家となる
・1958年(昭和33) 童門冬二と共に同人誌「さえら」を出版する
・1962年(昭和37) 東芝日曜劇場(TBS)の1作として『煙の王様』を手掛ける
・1963年(昭和38) テレビドラマ「煙の王様」で第17回芸術祭文部大臣賞受賞する
・1974年(昭和49) 『誘拐197X年』を刊行して、推理作家となる
・1980年(昭和55) 『ソ連侵略198X年』、『東京大地震M8』を刊行する
・1981年(昭和56) 『殺意の大滑降』を刊行する
・1982年(昭和57) 「問題小説」に発表した『赤馬からくり』は日本文藝家協会の「代表作時代小説 昭和58年度」に収録される
・1985年(昭和60) 『金沢怨霊殺人事件』を刊行する
・1986年(昭和61) 『コンピュータ完全犯罪』を刊行する
・1987年(昭和62) 『京都怨霊殺人事件』を刊行する
・1993年(平成5)3月18日 肝硬変による静脈瘤破裂のため、63歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)文人画家・儒学者富岡鉄斎の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)を指令する詳細
1946年(昭和21)俳人中塚一碧楼の命日詳細
1953年(昭和28)NHK紅白歌合戦が初の公開放送となり、この年から大晦日の放送となる詳細
1963年(昭和38)NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%を記録する詳細
1994年(平成6)小説家・推理作家多岐川恭の命日詳細
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yamanakasadao01
 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、映画監督・脚本家山中貞雄の生まれた日です。
 山中貞雄(やまなか さだお)は、京都府京都市下京区高倉通松原下ル樋ノ下町において、扇子の製造販売を行う「山中白扇堂」を営む、父・山中喜三右衛門、母・ヨソの6男1女の末子として生まれました。1916年(大正5)に京都市立貞教尋常小学校に入学し、1922年(大正11)には、京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校・附属中学校)に進学します。
 1927年(昭和2)に卒業後、上級生だったマキノ雅広の紹介で映画界へ入り、翌年にマキノ正博の組につき、『蹴合鶏』『浪人街 第一話 美しき獲物』などでサード助監督を務め、嵐寛寿郎プロダクション(第一次寛プロ)にシナリオライター兼助監督として移籍しました。1929年(昭和4)に東亜キネマにシナリオライター兼助監督として入社後、1年志願の幹部候補生として福知山市の歩兵第20連隊に入隊し、翌年には、陸軍歩兵伍長で満期除隊します。
 1931年(昭和6)に新興キネマとの提携による嵐寛寿郎プロダクション(第二次寛プロ)へ移り、翌年には、「磯の源太 抱寝の長脇差」で監督デビューし、年内に5本監督した後、日活へ移りました。1933年(昭和8)は「薩摩飛脚 剣光愛欲篇」、「盤嶽の一生」、「鼠小僧治郎吉 江戸の巻、道中の巻、再び江戸の巻」を監督します。
 1934年(昭和9)に東京へ行き映画人と親交を深め、京都市右京区鳴滝へ転居し、親交を結んだ同地在住の映画人とシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成しました。1935年(昭和10)に「国定忠治」、「丹下左膳餘話 百萬両の壺」、「関の弥太ッぺ」、「街の入墨者」、「大菩薩峠 第1篇 甲賀一刀流の巻」、「怪盗白頭巾 前篇」を監督します。
 1936年(昭和11)に日本映画監督協会を結成、「怪盗白頭巾 後篇」、「河内山宗俊」、「海鳴り街道」を監督しました。1937年(昭和12)に「森の石松」を監督、「人情紙風船」完成直後に日中戦争に召集され、伏見の第16師団歩兵第9連隊に陸軍歩兵伍長として入隊し中国へ出征しましたが、翌年9月17日に、中国北東部の開封市にて、28歳の若さで戦病死し、陸軍歩兵曹長に昇進します。
 テンポがあって、小市民の哀歓を反映した時代劇を世に出し、新しい感覚とスタイルをスクリーンに造形した特異な時代劇監督だっただけに、そのあまりにも早い死が惜しまれました。

〇山中貞雄監督作品一覧

・「磯の源太 抱寝の長脇差」(1932年)
・「小判しぐれ」(1932年)
・「小笠原隠岐守」(1932年)
・「口笛を吹く武士」(1932年)
・「右門捕物帖三十番手柄 帯解け仏法」(1932年)
・「天狗廻状 前篇」(1932年)
・「薩摩飛脚 剣光愛欲篇」(1933年)
・「盤嶽の一生」(1933年)
・「鼠小僧治郎吉 江戸の巻、道中の巻、再び江戸の巻」(1933年)
・「風流活人剣」(1934年)
・「足軽出世譚」(1934年)
・「勝鬨(かちどき)」(1934年)
・「雁太郎街道」(1934年)
・「国定忠治」(1935年)
・「丹下左膳餘話 百萬両の壺」(1935年)
・「関の弥太ッぺ」(1935年)
・「街の入墨者」(1935年)
・「大菩薩峠 第1篇 甲賀一刀流の巻」(1935年)
・「怪盗白頭巾 前篇」(1935年)
・「怪盗白頭巾 後篇」(1936年)
・「河内山宗俊」(1936年)
・「海鳴り街道」(1936年)
・「森の石松」(1937年)
・「人情紙風船」(1937年)

☆山中貞雄関係略年表

・1909年(明治42)11月7日 京都府京都市下京区高倉通松原下ル樋ノ下町において、父・山中喜三右衛門、母・ヨソの6男1女の末子として生まれる
・1916年(大正5) 京都市立貞教尋常小学校に入学する
・1922年(大正11) 京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校・附属中学校)に進学する
・1927年(昭和2) 京都市立第一商業学校卒業後、上級生だったマキノ雅広の紹介で映画界へ入る
・1928年(昭和3) マキノ正博の組につき、『蹴合鶏』『浪人街 第一話 美しき獲物』などでサード助監督を務め、嵐寛寿郎プロダクション(第一次寛プロ)にシナリオライター兼助監督として移籍する
・1929年(昭和4) 東亜キネマにシナリオライター兼助監督として入社後、1年志願の幹部候補生として福知山市の歩兵第20連隊に入隊する
・1930年(昭和5) 陸軍歩兵伍長で満期除隊する
・1931年(昭和6) 新興キネマとの提携による嵐寛寿郎プロダクション(第二次寛プロ)へ移る
・1932年(昭和7) 「磯の源太 抱寝の長脇差」で監督デビューし、年内に5本監督した後、日活へ移る
・1933年(昭和8) 「薩摩飛脚 剣光愛欲篇」、「盤嶽の一生」、「鼠小僧治郎吉 江戸の巻、道中の巻、再び江戸の巻」を監督する
・1934年(昭和9) 東京へ行き映画人と親交を深め、京都市右京区鳴滝へ転居し、親交を結んだ同地在住の映画人とシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成する
・1935年(昭和10) 「国定忠治」、「丹下左膳餘話 百萬両の壺」、「関の弥太ッぺ」、「街の入墨者」、「大菩薩峠 第1篇 甲賀一刀流の巻」、「怪盗白頭巾 前篇」を監督する
・1936年(昭和11) 日本映画監督協会を結成、「怪盗白頭巾 後篇」、「河内山宗俊」、「海鳴り街道」を監督する
・1937年(昭和12) 「森の石松」を監督、「人情紙風船」完成直後に日中戦争に召集され、伏見の第16師団歩兵第9連隊に陸軍歩兵伍長として入隊し中国へ出征する
・1938年(昭和13)9月17日 中国北東部の開封市にて、28歳の若さで戦病死し、陸軍歩兵曹長に昇進する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3)足利尊氏が室町幕府の基本的な政治方針「建武式目」を制定(新暦12月10日)詳細
1889年(明治22)劇作家・演出家・小説家・俳人久保田万太郎の誕生日詳細
1922年(大正11)学生連合会(社会科学研究会の連合組織)が結成される詳細
1944年(昭和19)小磯国昭内閣により、「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱」が閣議決定される詳細
1983年(昭和58)奈良県高市郡明日香村のキトラ古墳で玄武の壁画が発見される詳細
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ozuyasujirou01
 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、映画監督・脚本家小津安二郎の亡くなった日(誕生日でもある)です。
 小津安二郎(おづ やすじろう)は、明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。
 1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。
 その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。
 1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。
 1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。
 さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

〇小津安二郎監督作品一覧

・「懺悔の刃」(1927年)
・「若人の夢」(1928年)
・「女房紛失」(1928年)
・「カボチャ」(1928年)
・「引越し夫婦」(1928年)
・「肉体美」(1928年)
・「宝の山」(1929年)
・「学生ロマンス」 若き日(1929年)
・「和製喧嘩友達」(1929年)
・「大学は出たけれど」(1929年)
・「会社員生活」(1929年)
・「突貫小僧」(1929年)
・「結婚学入門」(1930年)
・「朗らかに歩め」(1930年)
・「落第はしたけれど」(1930年)
・「その夜の妻」(1930年)
・「エロ神の怨霊」(1930年)
・「足に触った幸運」(1930年)
・「お嬢さん」(1930年)
・「淑女と髭」(1931年)
・「美人哀愁」(1931年)
・「東京の合唱(コーラス)」(1931年)
・「春は御婦人から」(1932年)
・「大人の見る絵本 生れてはみたけれど」(1932年)
・「青春の夢いまいづこ」(1932年)
・「また逢ふ日まで」(1932年)
・「東京の女」(1933年)
・「非常線の女」(1933年)
・「出来ごころ」(1933年)
・「母を恋はずや」(1934年)
・「浮草物語」(1934年)
・「箱入娘」(1935年)
・「菊五郎の鏡獅子」(1935年)
・「東京の宿」(1935年)
・「大学よいとこ」(1936年)
・「一人息子」(1936年)
・「淑女は何を忘れたか」(1937年)
・「戸田家の兄妹」(1941年)
・「父ありき」(1942年)
・「長屋紳士録」(1947年)
・「風の中の牝鶏(めんどり)」(1948年)
・「晩春」(1949年)
・「宗方姉妹」(1950年)
・「麦秋」(1951年)
・「お茶漬の味」(1952年)
・「東京物語」(1953年)
・「早春」(1956年)
・「東京暮色」(1957年)
・「彼岸花」(1958年)
・「お早よう」(1959年)
・「浮草」(1959年)
・「秋日和」(1960年)
・「小早川家の秋」(1961年)
・「秋刀魚の味」(1962年)

☆小津安二郎関係略年表

・1903年(明治36)12月12日 東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれる
・1910年(明治43) 深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学する
・1913年(大正2)3月 一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住する
・1916年(大正5) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送る
・1921年(大正10) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)を卒業する
・1922年(大正11) 三重県師範学校受験に失敗し、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となる
・1923年(大正12) 松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所する
・1924年(大正13)12月 東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営する
・1925年(大正14)11月 伍長で除隊となる
・1927年(昭和2) 時代劇「懴悔の刃」で監督デビューする
・1929年(昭和4) 「大学は出たけれど」を監督する
・1930年(昭和5) 「落第はしたけれど」を監督する
・1931年(昭和6) 「東京の合唱」を監督する
・1932年(昭和7) 「生まれてはみたけれど」を監督する
・1934年(昭和9)4月 父・寅之助が亡くなる
・1936年(昭和11) トーキー「一人息子」を監督する
・1937年(昭和12)9月10日 召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊する
・1939年(昭和14)7月16日 召集解除となる
・1943年(昭和18)6月 軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在する
・1945年(昭和20)8月 シンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送くる
・1946年(昭和21)2月 日本へ帰還する
・1947年(昭和22) 戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督する
・1949年(昭和24) 「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞を受賞する
・1949年(昭和24) 「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞する
・1953年(昭和28) 「東京物語」を監督する
・1958年(昭和33) 紫綬褒章を受章する
・1959年(昭和34)2月 日本芸術院賞を受賞する
・1961年(昭和36) 芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞を受賞する
・1962年(昭和37) 「秋刀魚の味」を監督する
・1962年(昭和37)11月 映画人として初めて芸術院会員となる
・1963年(昭和38) ブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞する
・1963年(昭和38)12月12日 東京において、60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、昭和時代から平成時代に活躍した映画監督・脚本家新藤兼人が生まれた日です。
 新藤兼人(しんどう かねと)は、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町)の豪農の家で、4人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が借金の連帯保証人になったことで没落し、貧窮生活を送ることとなりました。1927年(昭和2)に石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられ、16歳の時には尾道の長兄宅に居候することになります。
 映画を志すようになり、1934年(昭和9年)の22歳の時、京都へ行って新興キネマに入りました。下働きから始まり、美術部門へ移り、脚本も書き始め、1943年(昭和18)には、情報局の国民映画脚本の公募に『強風』が当選します。
 1944年(昭和19)に所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍したものの、同年4月には、日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)秋に、脚本『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され、1947年(昭和22)には、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表します。
 1950年(昭和25)に松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立、翌年の39歳の時、近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たしました。1952年(昭和27)に原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表、翌年にはチェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞などを受賞します。
 1959年(昭和34)に『第五福竜丸』を発表、翌年の瀬戸内海を舞台にしたせりふのない作品『裸の島』で、モスクワ映画祭グランプリを獲得しました。その後も、『母』(1963年)、『裸の十九才』(1970年)、『ある映画監督の生涯・溝口健二の記録』(1975年)、『竹山ひとり旅』(1977年)、『北斎漫画』(1981年)、『午後の遺言状』(1995年)等を発表、1997年(平成9)には、文化功労者に選ばれています。
 1999年(平成11)の『生きたい』でモスクワ国際映画祭のグランプリを獲得、翌年には、文化勲章を授与されました。晩年の2010年(平成22)に『一枚のハガキ』で第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位となり、翌年には、菊池寛賞も受賞しましたが、2012年(平成24)5月29日に、東京都港区の自宅で、老衰のため100歳で亡くなっています。
 尚、脚本家としても、『けんかえれじい』、『ハチ公物語』、『完全なる飼育』始め、230本を超える作品を手がけました。

〇新藤兼人の主要な監督映画

・「愛妻物語」(1951年)
・「雪崩」(1952年)
・「原爆の子」(1952年)チェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞
・「縮図」(1953年)
・「女の一生」(1953年)
・「どぶ」(1954年)
・「狼」(1955年)
・「銀心中」(1956年)
・「流離の岸」(1956年)
・「女優」(1956年)
・「海の野郎ども」(1957年)
・「悲しみは女だけに」(1958年)
・「第五福竜丸」(1959年)
・「花嫁さんは世界一」(1959年)
・「らくがき黒板」(1959年)
・「裸の島」(1960年)モスクワ国際映画祭のグランプリ獲得
・「人間」(1962年)文部省芸術祭文部大臣賞
・「母」(1963年)毎日芸術賞
・「鬼婆」(1964年)
・「悪党」(1965年)
・「本能」(1966年)
・「尖石遺跡」(1966年)
・「蓼科の四季」(1966年)
・「性の起原」(1967年)
・「薮の中の黒猫」(1968年)
・「強虫女と弱虫男」(1968年)
・「かげろう」(1969年)文化庁芸術祭優秀賞
・「触角」(1970年)
・「裸の十九才」(1970年) モスクワ国際映画祭金賞
・「鉄輪(かなわ)」(1972年)
・「讃歌」(1972年)
・「心」(1973年)
・「わが道」(1974年)
・「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975年)キネマ旬報ベストテン1位・監督賞
・「竹山ひとり旅」(1977年) モスクワ国際映画祭監督賞・ソ連美術家同盟賞
・「絞殺」(1979年)
・「三本足のアロー」(1980年)
・「北斎漫画」(1981年)
・「地平線」(1984年)
・「ブラックボード」(1986年)
・「落葉樹」(1986年)
・「さくら隊散る」(1988年)
・「東綺譚(ぼくとうきだん)」(1992年)
・「午後の遺言状」(1995年)日本アカデミー最優秀作品賞、モスクワ国際映画祭ロシア批評家賞、キネマ旬報ベストテン1位
・「生きたい」(1999年)モスクワ国際映画祭のグランプリ獲得
・「三文役者」(2000年)モントリオール映画祭特別グランプリ
・「ふくろう」(2003年)モスクワ映画祭功労賞
・「石内尋常高等小学校 花は散れども」(2008年)
・「一枚のハガキ」(2010年)第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位

〇新藤兼人の主要な著書

・『ある映画監督 - 溝口健二と日本映画』(岩波新書)
・『ある映画監督の生涯 -溝口健二の記録-』(映人社) 
・『「断腸亭日乗」を読む』(岩波現代文庫)
・『小説 田中絹代』(読売新聞社、のち文春文庫)
・『ながい二人の道 乙羽信子とともに』(東京新聞出版局)
・『ひとり歩きの朝』(毎日新聞社)
・『歳月は風の吹くままに』(朝日新聞社)
・『シナリオ人生』(岩波新書)
・『老人読書日記』(岩波新書)
・『弔辞』(岩波新書)
・『午後の遺言状』(岩波同時代ライブラリー)
・『女の一生―杉村春子の生涯』(岩波書店)
・『三文役者の死―正伝殿山泰司』(岩波現代文庫)
・『追放者たち 映画のレッドパージ』(岩波書店)
・『作劇術』(岩波書店)
・『祭りの声 あるアメリカ移民の足跡』(岩波新書)
・『愛妻記』(岩波現代文庫)
・『新藤兼人の足跡』(著作集全6巻、岩波書店)
・『ふくろう90歳の挑戦』(岩波アクティブ新書)
・『日本シナリオ史』(上・下、岩波書店)
・『いのちのレッスン』(青草書房)

☆新藤兼人関係略年表

・1912年(明治45)4月22日 広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町)で生まれる
・1927年(昭和2) 石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられる
・1933年(昭和8) 徴兵検査が終わる
・1934年(昭和9) 22歳の時に新興キネマに入る
・1941年(昭和16) 溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都興亜映画に出向する
・1942年(昭和17) 情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる
・1943年(昭和18) 情報局の国民映画脚本の公募に『強風』が当選する
・1944年(昭和19) 所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍する
・1944年(昭和19)4月 日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団する
・1945年(昭和20) 宝塚海軍航空隊所属にて第二次世界大戦終戦を迎える
・1945年(昭和20)秋 脚本『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化される
・1946年(昭和21) 34歳の時、美代と結婚する
・1947年(昭和22) 吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表する
・1950年(昭和25) 松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立する
・1951年(昭和26) 39歳の時、近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たす
・1952年(昭和27) 近代映画協会初の自主制作作品として、原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表する
・1953年(昭和28) 映画『原爆の子』でチェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など受賞する
・1959年(昭和34) 『第五福竜丸』を発表する
・1960年(昭和35) 瀬戸内海を舞台にしたせりふのない作品『裸の島』を発表し、モスクワ映画祭グランプリを獲得する
・1970年(昭和45) 連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』を発表する
・1972年(昭和47) 60歳の時、美代と正式に離婚する
・1978年(昭和53) 乙羽信子と再婚する
・1995年(平成7) 『午後の遺言状』で日本アカデミー最優秀作品賞となる
・1997年(平成9) 文化功労者に選ばれる
・1999年(平成11) 『生きたい』でモスクワ国際映画祭のグランプリを獲得する
・2002年(平成14) 文化勲章を授与される
・2005年(平成17) 谷本清平和賞を受賞する
・2010年(平成22) 『一枚のハガキ』で第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位となる
・2010年(平成23) 菊池寛賞を受賞する
・2012年(平成24)5月29日 東京都港区の自宅で、老衰のため100歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1910年(明治43)彫刻家荻原守衛(碌山)の命日詳細
1993年(平成5)全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される詳細
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kurosawaakira01

 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、昭和時代から平成時代に活躍した日本を代表する映画監督・脚本家黒澤明の亡くなった日です。
 黒澤明(くろさわ あきら)は、明治時代後期の1910年(明治43)3月23日に、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)で、荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に勤めていた父・黒澤勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれました。1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。
 同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。
 1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。
 1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。
 1990年(平成)には,アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。

〇黒澤明の監督作品一覧

・『姿三四郎』(1943年)
・『一番美しく』(1944年)
・『続姿三四郎』(1945年)
・『虎の尾を踏む男達』(1945年)
・『明日を創る人々』(1946年)[山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督]
・『わが青春に悔なし』(1946年)
・『素晴らしき日曜日』(1947年)
・『酔いどれ天使』(1948年)
・『静かなる決闘』(1949年)
・『野良犬』(1949年)
・『醜聞(スキャンダル)』(1950年)
・『羅生門』(1950年)
・『白痴』(1951年)
・『生きる』(1952年)
・『七人の侍』(1954年)
・『生きものの記録』(1955年)
・『蜘蛛巣城』(1957年)
・『どん底』(1957年)
・『隠し砦の三悪人』(1958年)
・『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)
・『用心棒』(1961年)
・『椿三十郎』(1962年)
・『天国と地獄』(1963年)
・『赤ひげ』(1965年)
・『どですかでん』(1970年)
・『デルス・ウザーラ』(1975年)
・『影武者』(1980年)
・『乱』(1985年)
・『夢』(1990年)
・『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(1991年)
・『まあだだよ』(1993年)

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