ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:能書家

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 今日は、江戸時代後期の1828年(文政11)に、政治家・伯爵副島種臣が生まれた日ですが、新暦では10月17日となります。
 副島種臣(そえじま たねおみ)は、佐賀藩士で藩校弘道館教授だった枝吉南濠の二男(母は喜勢子)として生まれましたが、名は二郎と言いました。1848年(嘉永元)に弘道館内寮生の首班となり、1850年(嘉永3)には、楠木正成戦没日をトして、梅林庵で兄・神陽の主唱する「義祭同盟」に大木喬任、江藤新平らと共に参加、尊王論に傾倒します。
 1852年(嘉永5)に京都に留学して、国学者矢野玄道らと交流して皇学を研究、「日本一君論」を説き、1855年(安政2)には、藩命により再び京都に留学しました。1859年(安政6)に父が死去し、佐賀藩士副島和忠の養子となり、副島二郎種臣と名乗ります。
 1864年(元治元)に長崎に行き致遠館学監となり、米国人宣教師フルベッキに師事、英学・米国憲法を学びました。1867年(慶応3)に大隈重信とともに脱藩して上京、「大政奉還」を説きましたが、藩より謹慎処分を受けます。
 1868年(明治元)に新政府にて参与となり、制度取調局判事に任ぜられて政体書の起草に従事、翌年には参議に任ぜられ、西郷隆盛とともに東北諸藩の処置をしました。1871年(明治4)に樺太の国境問題について露国領事と談判、外務卿となり、翌年にマリア・ルス号事件を担当、1873年(明治6)には清国におもむき「日清修好条約」の批准を交換、清国皇帝に謁見したものの、征韓論に敗れて辞職します。
 1874年(明治7)に板垣退助、江藤新平らと愛国公党を設立、「民撰議院設立建白書」を提出しましたが、自由民権運動には参加しませんでした。1876年(明治9)に霞ヶ関の自宅を売り、清国歴遊の旅に出て、2年後に帰国し、1879年(明治12)には、宮内庁御用掛一等侍講に任ぜられます。
 1884年(明治17)に伯爵に叙せられ、1886年(明治19)に宮中顧問官、1891年(明治24)には、枢密院副議長に任ぜられました。1892年(明治25)3月に、松方正義内閣の内務大臣に任ぜられたものの6月に辞任、再び枢密顧問官となります。
 蒼海と号し、書を能くしましたが、1905年(明治38)1月31日に、東京において、数え年78歳で亡くなりました。

〇副島種臣関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1828年(文政11年9月9日) 佐賀藩士枝吉南濠の二男として生まれる
・1848年(嘉永元年) 21歳、弘道館内寮生の首班となる
・1850年(嘉永3年) 23歳、楠木正成戦没日をトして、梅林庵で兄・神陽の主唱する「義祭同盟」に参加する
・1852年(嘉永5年) 25歳、京都に留学して、皇学を研究、「日本一君論」を説く
・1855年(安政2年) 28歳、藩命により再び京都に留学する
・1859年(安政6年) 32歳、父が死去し、佐賀藩士副島和忠の養子となり、副島二郎種臣と名乗る
・1864年(元治元年) 37歳、長崎に行き致遠館学監となり、米国人宣教師フルベッキに師事、英学・米国憲法を学ぶ
・1867年(慶応3年) 40歳、大隈重信とともに脱藩して上京、「大政奉還」を説きましたが、藩より謹慎処分を受ける
・1868年(明治元年) 41歳、新政府にて参与となり、制度取調局判事に任ぜられ、政体書の起草に従事する
・1869年(明治2年) 42歳、参議に任ぜられ、西郷隆盛とともに東北諸藩の処置をする
・1871年(明治4年) 44歳、樺太の国境問題について露国領事と談判、外務卿となる
・1872年(明治5年) 45歳、マリア・ルス号事件が起きる
・1873年(明治6年) 46歳、清国におもむき「日清修好条約」の批准を交換、清国皇帝に謁見、征韓論に敗れて辞職する
・1874年(明治7年) 47歳、板垣退助、江藤新平らと愛国公党を設立、「民撰議院設立建白書」を提出する
・1876年(明治9年) 49歳、霞ヶ関の自宅を売り、清国歴遊の旅に出る
・1878年(明治11年) 51歳、清国歴遊の旅から帰国する
・1879年(明治12年) 52歳、宮内庁御用掛一等侍講に任ぜられる
・1884年(明治17年) 57歳、伯爵に叙せられる
・1886年(明治19年) 59歳、宮中顧問官となる
・1891年(明治24年) 64歳、枢密院副議長に任ぜられる
・1892年(明治25年) 65歳、3月、内務大臣に任ぜられるも6月辞任、再び枢密顧問官となる
・1905年(明治38年)1月31日 東京において、数え年78歳で亡くなる

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 今日は、鎌倉時代の1265年(文永2)に、第92代の天皇とされる伏見天皇の生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
 伏見天皇(ふしみてんのう)は、京都において、持明院統の後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれましたが、名は熈仁(ひろひと)と言いました。1275年(建治元)に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下され、1287年(弘安10)の23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚、翌年に第92代とされる天皇として即位、両統が交互に皇位に就く例(両統迭立)を開きます。
 1289年(正応2)に自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まったものの、翌年には院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政をとり、院評定衆の代わりに宮中に議定衆をおくなど公家政治振興に努めました。1290年(正応3)に宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起き、1298年(永仁6)には、胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して、院政を執り行ないます。
 しかし、1301年(正安3)に、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移りました。1303年(正応5)に十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめ、1308年(徳治3)には、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷きます。
 1311年(応長元)に以前頓挫した勅撰集編纂を再企画し、京極為兼に単独撰進を命じ、翌年には、14番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧されました。自身も歌を能くし、歌集『伏見院御集』を成し、以後の勅撰集にも多く掲載されます。また、当代随一の能書家として知られ、宸翰の多くが後に国指定重要文化財となりました。
 1313年(正和2)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだものの、1317年(文保元年9月3日)に京都において、数え年53歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区)とされます。

<代表的な歌>

・「更(ふ)けぬるか 過ぎ行く宿も しづまりて 月の夜道に あふ人もなし」(玉葉和歌集)
・「立ちかへる 月日やいつを まつら船 行方もなみの 千重に隔てて」(玉葉和歌集)
・「春をうくる 時のこころは ひとしきを 柳桜の おのがいろいろ」(伏見院御集)
・「秋風は 遠き草葉を わたるなり 夕日の影は 野辺はるかにて」(風雅和歌集)
・「星うたふ 声や雲ゐに すみぬらん 空にもやがて 影のさやけき」(新拾遺和歌集)

〇伏見天皇の主要な著作

・日記『伏見院御記』
・歌集『伏見院御集』

☆伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1265年(文永2年4月23日) 京都において、後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれる
・1275年(建治元年) 大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下される
・1287年(弘安10年10月21日) 23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚する
・1288年(正応元年3月3日) 藤原経子の腹に胤仁親王(のちの後伏見天皇)が生まれる
・1288年(正応元年3月15日) 第92代とされる天皇として即位する
・1288年(正応元年8月20日) 西園寺実兼の長女(のちの永福門院)を中宮とする
・1289年(正応2年4月) 自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる
・1290年(正応3年2月) 院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政となる
・1290年(正応3年3月9日) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1294年(永仁2年) 勅撰集の編纂を企図し、京極為兼・飛鳥井雅有・二条為世・九条隆博に撰進を命じるものの中断する
・1298年(永仁6年7月22日) 胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を執り行なう
・1301年(正安3年1月21日) 大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移る
・1303年(正応5年) 十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめる
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷く
・1311年(応長元年) 再び勅撰集編纂を企画し、京極為兼に単独撰進を命ずる
・1312年(正和元年3月28日) 十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧される
・1313年(正和2年) 出家し、後伏見上皇が院政を引き継ぐ
・1317年(文保元年9月3日) 京都において、数え年53歳で亡くなる

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 今日は、南北朝時代の1336年(建武3年/延元元)に、第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)が亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
 後伏見天皇(ごふしみてんのう)は、鎌倉時代の1288年(弘安11年3月3日)に、伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれましたが、名は胤仁(たねひと)と言いました。同年8月に親王宣下され、翌年に立太子し、永福門院の猶子となります。
 1298年(永仁6)の11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷き、両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立て、第93代の天皇として即位しました。1300年(正安2)の13歳の時、元服しましたが、翌年には、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位させられます。
 1308年(徳治3)に後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位し、1313年(正和2)には、院政を敷いていた伏見上皇が出家したので、これを引き継いで院政を敷きました。1318年(文保2)に花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わり、1326年(嘉暦元)には後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立ちます。
 1331年(元弘元)に後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられ、鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行ないました。しかし、1333年(元弘3)に幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れたものの、捕らえられて京都に連れ戻されます。
 同年5月17日に光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わり、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となりましたが、1336年(建武3年/延元元年4月6日)に京都において、数え年49歳で亡くなりました。一方歌を能くし、仙洞五十番歌合(1303年)、十五夜五首会(1312年)などに出詠、歌集『後伏見院御集』(107首所収)を成し、『新後撰和歌集』以下の勅撰集へ計94首が入集、また、能書家としても知られています。

<代表的な歌>

・「夕山や ふもとの檜 原色さめて 残る日影ぞ みねにすくなき」(風雅和歌集)
・「雨しほる やよひの山の 木がくれに のこるともなき 花の色かな」(風雅和歌集)
・「夜すがらの 野分の風の 跡みれば 末ふす萩に 花ぞまれなる」(玉葉和歌集)
・「今更に その世もよほす 雲の色 よわすれてただに 過ぎし夕べを」(玉葉和歌集)
・「都には あらしばかりの さゆる日も 外山をみれば 雪ふりにけり」(続千載和歌集)

〇後伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1288年(弘安11年3月3日) 伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれる
・1288年(弘安11年8月10日) 親王宣下される
・1289年(正応2年4月25日) 2歳の時、立太子し、永福門院の猶子となる
・1298年(永仁6年7月22日) 11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷く
・1298年(永仁6年8月) 両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立てる
・1298年(永仁6年10月13日) 第93代とされる天皇として即位する
・1300年(正安2年1月3日) 13歳の時、元服する
・1301年(正安3年1月21日) 14歳の時、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位する
・1303年(乾元2年閏4月) 仙洞五十番歌合に出詠する
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位する
・1312年(正和元年8月) 十五夜五首会に出詠する
・1313年(正和2年) 伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで院政を敷く
・1313年(正和2年7月9日) 母を女御寧子として、第三皇子(量仁親王)が生まれる
・1318年(文保2年2月26日) 花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わる
・1326年(嘉暦元年) 後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立つ
・1331年(元弘元年) 後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられる
・1331年(元弘元年9月20日) 鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行なう
・1333年(元弘3年5月) 鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れるが、捕らえられて京都に連れ戻される
・1333年(元弘3年5月17日) 光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わる
・1333年(元弘3年6月26日) 46歳の時、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となる
・1336年(建武3年/延元元年4月6日) 京都において、数え年49歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
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 今日は、平安時代中期の康保3年に、三蹟の一人とされる能書家・歌人小野道風の亡くなった日ですが、新暦では967年2月9日となります。
 小野道風(おの の みちかぜ/とうふう)は、894年(寛平6)に大宰大弐の父・小野葛絃の子(参議・小野篁の孫)として、尾張国(現在の愛知県春日井市)において生まれたと伝承されてきました。905年(延喜5)に初めて醍醐天皇に拝謁、920年(延喜20)には、能書により非蔵人として昇殿を許されます。
 921年(延喜21)に右兵衛少尉となり、925年(延長3)には醍醐天皇宸筆法華経供養の願文を清書、同年に少内記となりました。928年(延長6)に『屏風土代』を書き、939年(天慶2年)に内蔵権助、942年(天慶5)に宇佐使、947年(天暦元年)には次侍従となります。
 958年(天徳2)に従四位下・木工頭となり、翌年に天徳詩合の清書をして「能書之絶妙也,羲之再生」と称賛され、960年(天徳4)には正四位下・内蔵権頭となりました。また、『源氏物語』でも、道風の書を高く評していますが、この頃は和風の書道が発達し、藤原佐理、藤原行成と共に三蹟と言われています。
 歌人としても有名で、「後撰和歌集」に5首載っていますが、967年(康保3)に73歳で亡くなりました。真跡とされるものに『三体白氏詩巻』(国宝)、『智証大師諡号勅書』(国宝)、『屏風土代』、『玉泉帖(ぎょくせんじょう)』などが残されています。
 尚、道風の生誕地と伝わる春日井市には、1981年(昭和56)に全国的にも数少ない書専門の美術館として「春日井市道風記念館」が建てられました。

<代表的な歌>

・「ほにはいてぬ いかにかせまし 花すすき 身を秋風に すてやはててん」(後撰和歌集)
・「限なく 思ひいり日の ともにのみ 西の山へを なかめやるかな」(後撰和歌集)

〇小野道風の真跡

・『三体白氏詩巻』 -  正木美術館蔵[国宝]
・『智証大師諡号勅書』(927年)  - 東京国立博物館蔵[国宝]
・『屏風土代』(928年) - 三の丸尚蔵館蔵
・『玉泉帖(ぎょくせんじょう)』 - 三の丸尚蔵館蔵
・『絹地切』 - 東京国立博物館ほか分蔵

☆小野道風関係略年表(日付は旧暦です)

・894年(寛平6年) 大宰大弐・小野葛絃の三男として尾張国?で生まれる
・905年(延喜5年) 初めて醍醐天皇に拝謁
・920年(延喜20年5月5日) 能書により非蔵人として昇殿を許される
・921年(延喜21年3月13日) 右兵衛少尉となる
・925年(延長3年) 醍醐天皇宸筆法華経供養の願文を清書する
・925年(延長3年8月) 少内記となる
・926年(延長4年) 入唐する僧寛建に中国に流布させるため道風の行書・草書2巻が下賜される
・927年(延長5年) 小野則忠とともに薬師経・金剛寿命経・般若心経を書写する
・928年(延長6年) 『屏風土代』を書く
・929年(延長7年) 先年書いた賢聖障子を書き直す
・932年(承平2年) 大嘗会の屏風を書く
・933年(承平3年) 康子内親王裳著の屏風を書く
・939年(天慶2年) 内蔵権助となる
・942年(天慶5年4月27日) 宇佐使となる
・946年(天慶9年) 贖銅2斤
・947年(天暦元年) 次侍従となる
・949年(天暦3年) 坤元録屏風を書く
・953年(天暦7年) 一切経の目録および経26巻を書写する
・954年(天暦8年) 橘直幹の申文を書く
・956年(天暦10年) 内裏の屏風を書く
・957年(天徳元年) 藤原師輔任右大臣大饗料の屏風を書く
・958年(天徳2年1月) 山城守に任じ、もしくは近江の権守を兼任させて欲しいという奏状を村上天皇に奉じる
・958年(天徳2年) 従四位下、木工頭となる
・959年(天徳3年) 藻壁門の額字、藤原師輔の家の障子の色紙形を書く、天徳詩合の清書をして「能書之絶妙也,羲之再生」と称賛される
・960年(天徳4年) 正四位下となる
・960年(天徳4年10月9日) 内蔵権頭となる
・961年(応和元年) 内裏の殿舎・門の額字を書く
・966年(康保3年12月27日) 数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1980年(昭和55)経済学者山田盛太郎の命日詳細
1987年(昭和62)小説家・児童文学者椋鳩十の命日詳細


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 今日は、1554年(天文23)に、禅僧・連歌師・俳人山崎宗鑑が亡くなった日ですが、新暦では10月28日となります。
 山崎宗鑑(やまざき そうかん)は、1465年(寛正6)に近江国で生まれたとされますが、出自については諸説あってはっきりしません。年少の頃より室町幕府第9代将軍足利義尚に仕え、近江守護佐々木高頼を攻めましたが、1489年(延徳元)に義尚が陣中で没したため剃髪し、摂津の尼崎に隠遁したと言われています。
 1488年(長享2)に摂津の能勢頼則興行の千句にその名がみえ、連歌を得意とし、一休宗純とも親しく、淀川河畔の山城国山崎に庵「對月庵」を結んだので、山崎姓で呼ばれるようになりました。また、能書家でその書は宗鑑流とも言われ、人々の依頼を受けて数々の古典を書写しています。
 連歌師宗長と俳諧の腕を競ったことは、『宗長手記』よって知られ、俳諧選集『犬筑波集』(古くは『俳諧連歌抄』と呼ばれた)を編纂したことは著名で、俳諧を独立した芸術とし、庶民世界を面白く詠みあげていて、近世俳諧の先駆をなすものでした。1523年(大永3)頃に山崎の地を去り、1528年(享禄元)に讃岐国(現在の香川県観音寺市)の興昌寺に「一夜庵」を結んだとされます。
 この地において、1554年(天文23年10月2日)に、89歳で亡くなったとされますが、後世には、荒木田守武とともに俳諧の祖とされるようになりました。尚、辞世は「宗鑑は いづくへと人の 問うならば ちとよう(ヨウ)がありて あの世へといへ」です。

<代表的な句>

・「かしましや 此の里過ぎよ 時鳥 都のうつけ 如何に聞くらむ」
・「うづきゝて ねぶとに鳴くや 郭公(ほととぎす)」

〇『犬筑波集』抜粋

・下句「大長刀に 春風ぞ吹く」
 上句「弁慶も 今日や火花を 散らすらん」
・下句「月日の下に 我は寝にけり」
 上句「暦にて 破れをつづる 古衾」
・下句「上にかたかた 下にかたかた」
 上句「三日月の 水にうつろふ 影見えて」
・下句「きりたくもあり きりたくもなし」
 上句「盗人を とらへてみれば 我子なり」
・下句「霞の衣 裾はぬれけり」
 上句「佐保姫の 春立ちながら 尿をして」

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