ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:考古学者

aboshiyoshinori01
 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、考古学者網干善教の亡くなった日です。
 網干善教(あぼし よしのり)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)9月29日に、奈良県高市郡飛鳥村(現在の明日香村)において、父・網干順三の子として生まれましたが、3歳の時、父の網干順三が唯称寺の住職・順誠となり、一家で移り住みました。1933年(昭和8)に、第一次石舞台発掘調査に身近に接して考古学に関心を持つようになり、1940年(昭和15) には、奈良県立畝傍中学校(現在の畝傍尚等学校)へ入学します。
 1948年(昭和23)に、龍谷大学文学部国史学科へ入学し、1951年(昭和26) には、龍谷大学文学部史学科国史学専攻 (旧制)を卒業後、奈良県高市郡飛烏村立飛島中学校教諭となり、1952年(昭和27)には、奈良県大和高田市立尚田中学校教諭となりました。1954年(昭和29)に龍谷大学大学院文学研究科修士謀程修了、末永博士の指示で実家近くの石舞台復元工事の現場責任者となり、1954年(昭和29)には、龍谷大学大学院文学研究科修士謀程を修了、末永博士の指示で実家近くの石舞台復元工事の現場責任者となります。
 1955年(昭和30)に橿原(かしはら)考古学研究所所員となり、1957年(昭和32) に龍谷大学副手、1962年(昭和37)には、奈良県立奈良商工高等学校教諭となりました。1967年(昭和42)に関西大学文学部専任講師、1969年(昭和44)に同大学文学部助教授となり、1972年(昭和47)には、高松塚古墳の調査に参加し彩色壁画を発見します。
 1973年(昭和48)に関西大学文学部教授、1975年(昭和50)に平城・飛鳥藤原京跡調究整備委員会委員となり、1979年(昭和54)には、学位論文「終末期古墳の研究」を関西大学に提出して文学博士号を取得しました。1985年(昭和60)に関西大学日・印共同学術調査派逍調査隊長となり、インドのサヘート遺跡を調査、1988年(昭和63)にマルコ山古瑣現境賂備委員会委員となり、1994年(平成6)には、関西大学博物館長となります。
 1996年(平成8)にキトラ古瑣調査委員会顧問となり、1997年(平成9)に「大和における寺院跡の研究」で竜谷賞を受賞、1998年(平成10) には、関西大学を定年退官して名誉教授となり、奈良新聞文化賞を受賞しました。1999年(平成11)に奈良県文化財保存評議会委員、2000年(平成12)に関西大学評議員となり、2002年(平成14)には、大阪文化賞、明日香村自治功労賞を受賞、2003年(平成15)には、飛鳥古京を守る会委員長となります。
 2005年 (平成17)に宮内庁掛陵部委員となり、明日香村名誉村民となったものの、2006年(平成18)7月29日に、胆管癌により78歳で亡くなり、従五位・瑞宝中授章を追贈されました。

〇網干善教の主要な著作

・『高松塚論批判』(1974年)
・『飛鳥の遺蹟』(1978年)
・『日本にきた韓国文化』(1982年)
・『飛鳥の発掘』(1985年)
・『飛鳥発掘:成果と展望』(1988年)
・『飛鳥の風土と歴史:あすかとともに』(1996年)
・『アジア史紀行:一考古学徒の遊学記』(1996年)
・『古墳と古代史』(1996年)
・『日本古代史稿』(1998年)
・『高松塚古墳の研究』(1999年)
・『仏教考古学研究』(2000年)
・『古都・飛鳥の発掘』(2003年)
・『終末期古墳の研究』(2003年)
・『壁画古墳の研究』(2006年)
・『大和の古代寺院跡をめぐる』(2006年)
・『高松塚への道』(2007年)

☆網干善教関係略年表

・1927年(昭和2)9月29日 奈良県高市郡飛鳥村(現在の明日香村)において、父・網干順三の子として生まれる
・1930年(昭和5) 父の網干順三が唯称寺の住職・順誠となり、一家で移り住む
・1933年(昭和8) 第一次石舞台発掘調査に身近に接して考古学に関心を持つようになる
・1940年(昭和15)  奈良県立畝傍中学校(現在の畝傍尚等学校)へ入学する
・1948年(昭和23)  龍谷大学文学部国史学科へ入学する
・1951年(昭和26)  龍谷大学文学部史学科国史学専攻 (旧制)を卒業後、奈良県高市郡飛烏村立飛島中学校教諭となる
・1952年(昭和27)  奈良県大和高田市立尚田中学校教諭となる
・1954年(昭和29) 龍谷大学大学院文学研究科修士謀程修了、末永博士の指示で実家近くの石舞台復元工事の現場責任者となる
・1955年(昭和30) 橿原(かしはら)考古学研究所所員となる
・1957年(昭和32)  龍谷大学副手となる
・1962年(昭和37) 奈良県立奈良商工高等学校教諭となる
・1967年(昭和42) 関西大学文学部専任講師となる
・1969年(昭和44) 関西大学文学部助教授となる
・1970年(昭和45) 高松塚のそばで生姜用の穴を掘っていくと切石が見えたという話を聞き、自転車で現場に急行する
・1972年(昭和47) 高松塚古墳の調査に参加し彩色壁画を発見する
・1973年(昭和48) 関西大学文学部教授となる
・1975年(昭和50) 平城・飛鳥藤原京跡調究整備委員会委員となる
・1979年(昭和54) 学位論文「終末期古墳の研究」を関西大学に提出して文学博士号を取得する
・1982年(昭和57) 全国大学拇物館学講座協議会委員長となる
・1985年(昭和60) 関西大学日・印共同学術調査派逍調査隊長となり、インドのサヘート遺跡を調査する
・1988年(昭和63) マルコ山古瑣現境賂備委員会委員となる
・1994年(平成6)  関西大学博物館長となる
・1996年(平成8) キトラ古瑣調査委員会顧問となる
・1997年(平成9) 「大和における寺院跡の研究」で竜谷賞を受賞する
・1998年(平成10)  関西大学を定年退官して名誉教授となり、奈良新聞文化賞を受賞する
・1999年(平成11) 奈良県文化財保存評議会委員となる
・2000年(平成12) 関西大学評識貝となる
・2002年(平成14) 大阪文化賞、明日香村自治功労賞を受賞する
・2003年(平成15) 飛鳥古京を守る会委員長となる
・2005年 (平成17) 宮内庁掛陵部委員となり、明日香村名誉村民となる
・2006年(平成18)7月29日 胆管癌により78歳で亡くなり、従五位・瑞宝中授章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)矢田堀景蔵、勝海舟らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる(新暦9月10日)詳細
1871年(明治4)「日清修好条規」が調印される(新暦9月13日)詳細
1899年(明治32)第1回万国平和会議(於:オランダ・ハーグ)が終了し、「ハーグ陸戦条約」が締結される詳細
1905年(明治38)「桂・タフト協定」が締結される詳細
1957年(昭和32)「国際原子力機関憲章(IAEA憲章)」が発効し、国際原子力機関(略称:IAEA)が設立される詳細
1969年(昭和44)冶金学者・化学者村上武次郎の命日詳細
1989年(平成元)小説家森敦の命日詳細
1999年(平成11)小説家・フランス文学者辻邦生の命日詳細
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egaminamio01
 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫が生まれた日です。
 江上波夫(えがみ なみお)は、山口県下関市において生まれましたが、東京で育ち、東京師範学校付属小学校、旧制東京府立第五中学校を経て、1924年(大正13)に旧制浦和高等学校に入学しました。1927年(昭和2)に同校卒業後、東京帝国大学文学部東洋史学科で学びます。
 1930年(昭和5)に卒業後、東亜考古学会の留学生として中国の北京に渡り、水野清一らと共に長城地帯をはじめ各地の調査研究を行ない、1931年(昭和6)には、東方文化学院 (後の東京大学東洋文化研究所) 研究員となりました。1935年(昭和10)に内蒙古(内モンゴル)の横断踏査に出発、1937年(昭和12)に『蒙古高原横断記』を発表、1941年(昭和16)には、横断踏査を終えています。
 1942年(昭和17)に文部省の民族研究所設立準備委員会幹事となり、1945年(昭和20)には、民族研究所の第二部長となりました。太平洋戦争後、1947年(昭和22)に東京大学文学部講師となり、翌年には、東京大学東洋文化研究所教授となり、日本の国家形成について「騎馬民族征服説」を発表します。
 1956年(昭和31)に東京大学イラン・イラク遺跡調査団長を務め、1958年(昭和33)に共著『日本民族の起源』を刊行、1962年(昭和37)には、東京大学東洋文化研究所所長となりました。1964年(昭和39)に『日本における民族の形成と国家の起源』をまとめ、1967年(昭和42)には、東京大学を退官し、名誉教授となり、『騎馬民族国家』を発表、翌年にはその著作で、毎日出版文化賞を受賞します。
 1969年(昭和44)に紫綬褒章を受章、1971年(昭和46)に上智大学教授となり、1972年(昭和47)には、市民との連合による「東アジアの古代文化を考える会」会長となりました。1973年(昭和48)に多摩美術大学講師、多摩美術大学文様研究所研究所員として勤め、1974年(昭和47)に日本学術会議会員、1977年(昭和52)には、勲三等旭日中綬章を受章、古代オリエント博物館長となるります。
 1980年(昭和55)に水中考古学を提唱、水中文化財の発見・所在の確認を行い、1982年(昭和57)に日本オリエント学会会長、1983年(昭和58)に文化功労者、1984年(昭和59)には、日本水中考古学会会長となりました。1990年(平成2)にアジア史学会設立に参加し、会長となり、内モンゴルのオロンスム遺跡を再訪、1991年(平成3)に文化勲章、1992年(平成4)には、モンゴル政府より、モンゴル北極星勲章を受章しましたが、2002年(平成14)11月11日に、神奈川県において、96歳で亡くなっています。
 尚、2003年(平成15)には、横浜市に寄贈した考古・歴史・美術・民族資料約2,500点、文献資料約25,000点の整理と準備が終わり、「横浜ユーラシア文化館」が開館しました。

〇江上波夫の主要な著作

・『蒙古高原横断記』(1937年) 
・『蒙古高原──錫林郭爾、烏蘭察布に於ける地質・古生物、人類の調査』(1943年)
・『ユウラシア古代北方文化』(1948年)
・共著『日本民族の起源』(1958年)
・『日本における民族の形成と国家の起源』(1964年)
・『騎馬民族国家』(1967年)
・詩集『幻人詩抄』(1975年)

☆江上波夫関係略年表

・1906年(明治39)11月6日 山口県下関市において、生まれる
・1919年(大正8) 東京師範学校付属小学校を卒業する
・1924年(大正13) 旧制東京府立第五中学校を卒業する
・1927年(昭和2) 旧制浦和高校を卒業する
・1930年(昭和5) 東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業、東亜考古学会の留学生として中国の北京に渡る
・1931年(昭和6) 東方文化学院 (後の東京大学東洋文化研究所) 研究員となる
・1935年(昭和10) 内蒙古(内モンゴル)の横断踏査に出発する
・1937年(昭和12) 『蒙古高原横断記』を発表する
・1941年(昭和16) 内蒙古(内モンゴル)の横断踏査を終える
・1942年(昭和17) 文部省の民族研究所設立準備委員会幹事となる
・1945年(昭和20) 民族研究所の第二部長となります
・1947年(昭和22) 東京大学文学部講師となる
・1948年(昭和23) 東京大学東洋文化研究所教授となり、日本の国家形成について「騎馬民族征服説」を発表する
・1956年(昭和31) 東京大学イラン・イラク遺跡調査団長を務める
・1958年(昭和33) 共著『日本民族の起源』を刊行する
・1962年(昭和37) 東京大学東洋文化研究所所長となる
・1964年(昭和39) 『日本における民族の形成と国家の起源』をまとめる
・1967年(昭和42) 東京大学を退官し、名誉教授となり、『騎馬民族国家』を発表する
・1968年(昭和43) 「騎馬民族国家」で、毎日出版文化賞を受賞する
・1969年(昭和44) 紫綬褒章を受章する
・1971年(昭和46) 上智大学教授となる
・1972年(昭和47) 市民との連合による「東アジアの古代文化を考える会」会長となる
・1973年(昭和48) 多摩美術大学講師、多摩美術大学文様研究所研究所員として勤める
・1974年(昭和47) 日本学術会議会員となる
・1977年(昭和52) 勲三等旭日中綬章を受章、古代オリエント博物館長となる
・1980年(昭和55) 水中考古学を提唱、水中文化財の発見・所在の確認を行う
・1982年(昭和57) 日本オリエント学会会長となる
・1983年(昭和58) 文化功労者となる
・1984年(昭和59) 日本水中考古学会会長となる
・1990年(平成2) アジア史学会設立に参加し、会長となり、内モンゴルのオロンスム遺跡を再訪する
・1991年(平成3) 文化勲章を受章する
・1992年(平成4) モンゴル政府より、モンゴル北極星勲章を受章する
・2002年(平成14)11月11日  神奈川県において、96歳で亡くなる
・2003年(平成15) 横浜市に寄贈した考古・歴史・美術・民族資料約2,500点、文献資料約25,000点の整理と準備が終わり、「横浜ユーラシア文化館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1717年(享保2)地理学者・儒学者長久保赤水の誕生日(新暦12月8日)詳細
1937年(昭和12)「日独伊防共協定」が調印される詳細
1938年(昭和13)北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出す詳細
1943年(昭和18)大東亜会議において「大東亜共同宣言」が出される詳細
1945年(昭和20)GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する詳細
1975年(昭和50)俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌)詳細
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suenagamasao01
 今日は、平成時代の1991年(平成3)に、考古学者末永雅雄の亡くなった日です。
 末永雅雄(すえなが まさお)は、明治時代後期の1897年(明治30)6月23日に、大阪府南河内郡狭山村(現在の大阪狭山市)において、河内狭山の旧家で地主だった、父・末永勝三郎、母・こまの長男(一人っ子)として生まれました。狭山尋常小学校卒業後、水戸学の学統をひく高瀬真卿に師事し、1909年(明治42)には、親の反対を押し切って家を飛び出し、高瀬の書生となって刀剣鑑定術や歴史を学びます。
 1917年(大正6)に許嫁と結婚後、大阪の騎兵第四連隊第三中隊に入隊、1920年(大正9)には、関保之助に師事し、有職故実、考古学の指導を受けました。1926年(大正15)に、京都帝国大学文学部考古学教室で「日本考古学の父」とされる浜田耕作の指導を受けるようになり、翌年には、奈良県史蹟名勝天然記念物調査会嘱託・考古学担当として発掘・研究を行うようになります。
 1933年(昭和8)に石舞台古墳の調査を行い、1934年(昭和9)に『日本上代の甲冑』を上梓し、1936年(昭和11)には、これによって、帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞しました。1938年(昭和13)に奈良県の橿原遺跡の調査を担当、自分で橿原考古学研究所を創立し、1941年(昭和16)には、『日本上代の武器』刊行により、東アジア文化史の視点に立ち、出土品の実証的研究にもとづく独自の方法論を確立します。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に龍谷大学より、文学博士を取得し、1950年(昭和25)に関西大学文学部講師に就任、1951年(昭和26)には、橿原考古学研究所が奈良県に移管され、同所所長を務めることになりました。1952年(昭和27)に関西大学文学部教授となり、考古学の講義をはじめ、1969年(昭和44)には、勲三等瑞宝章を受章、奈良県文化賞、大阪市民文化賞、大阪府民なにわ賞を受賞します。
 1970年(昭和45)に関西大学教授を辞め、名誉教授となり、1972年(昭和47)に高松塚古墳の発掘を指導、1974年(昭和49)には、第44回朝日文化賞を受賞しました。1979年(昭和54)に勲二等瑞宝章を受章、1980年(昭和55)に文化功労者となり、1985年(昭和60)に藤ノ木古墳の調査を指導、1986年(昭和61)には、日本学士院会員となります。
 多数の遺跡発掘に関わり、精緻で実証的な研究を行い、1988年(昭和63)に、考古学界で初めての文化勲章受章者となったものの、1991年(平成3)5月7日に、大阪府大阪狭山市において、93歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されました。

〇末永雅雄の主要な著作

・『日本上代の甲冑』(1934年)
・『日本上代の武器』(1941年)
・『日本の古墳』(1961年)
・『考古学の窓』(1968年)
・『古墳の航空大観』(1975年)
・『近畿古文化の研究』(1984年)

☆末永雅雄関係略年表

・1897年(明治30)6月23日 大阪府南河内郡狭山村(現在の大阪狭山市)において、河内狭山の旧家で地主だった、父・末永勝三郎、母・こまの長男(一人っ子)として生まれる
・1904年(明治37) 狭山尋常小学校へ入学する
・1909年(明治42) 親の反対を押し切って家を飛び出し、高瀬の書生となって刀剣鑑定術や歴史を学ぶ
・1917年(大正6) 許嫁と結婚後、大阪の騎兵第四連隊第三中隊に入隊する
・1920年(大正9) 関保之助に師事し、有職故実、考古学の指導を受ける
・1926年(大正15) 京都帝国大学文学部考古学教室で「日本考古学の父」とされる浜田耕作の指導を受ける
・1927年(昭和2) 奈良県史蹟名勝天然記念物調査会嘱託・考古学担当として発掘・研究を行う
・1933年(昭和8) 石舞台古墳の調査を行う
・1934年(昭和9) 『日本上代の甲冑』を上梓する
・1936年(昭和11) 『日本上代の甲冑』で、帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞する
・1938年(昭和13) 奈良県の橿原遺跡の調査を担当、自分で橿原考古学研究所を創立する
・1941年(昭和16) 『日本上代の武器』刊行により、東アジア文化史の視点に立ち、出土品の実証的研究にもとづく独自の方法論を確立する
・1948年(昭和23) 龍谷大学より、文学博士を得る
・1950年(昭和25) 関西大学文学部講師に就任する
・1951年(昭和26) 橿原考古学研究所が奈良県に移管され、同所所長を務める
・1952年(昭和27) 関西大学文学部教授となり、考古学の講義をはじめる
・1953年(昭和28) 故本山彦一元毎日新聞社長の考古資料コレクションを関西大学が譲り受ける際、本山家と大学側の調整役を務め、本学の考古資料充実の基礎を築く
・1969年(昭和44) 勲三等瑞宝章を受章、奈良県文化賞、大阪市民文化賞、大阪府民なにわ賞を受賞する
・1970年(昭和45) 関西大学教授を辞め、名誉教授となる
・1972年(昭和47) 高松塚古墳の発掘を指導する
・1974年(昭和49) 第44回朝日文化賞を受賞する
・1979年(昭和54) 勲二等瑞宝章を受章する
・1980年(昭和55) 文化功労者となる
・1985年(昭和60) 藤ノ木古墳の調査を指導する
・1986年(昭和61) 日本学士院会員となる
・1988年(昭和63) 文化勲章を受章する
・1991年(平成3)5月7日  大阪府大阪狭山市において、93歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1073年(延久5)第71代天皇とされる後三条天皇の命日(新暦6月15日)詳細
1858年(安政5)伊東玄朴ら蘭医83名の醸金で、江戸の上野にお玉ヶ池種痘所が設立される(新暦6月17日)詳細
1875年(明治8)日露が「樺太・千島交換条約」に調印する詳細
1936年(昭和11)第69帝国議会の衆議院で斎藤隆夫議員が軍部革正(粛軍)を要請する質問演説(粛軍演説)をする詳細
1988年(昭和63)文芸評論家山本健吉の命日詳細
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